●日韓併合への過程の概要
1876年の日朝修好条規によって日本は、「朝鮮国は自主の邦にして日本と平等の権を保有せり」と表現し、李氏朝鮮を諸外国に先駆けて「独立国」として承認、清朝の宗主権を否認した。
それでも、朝鮮を属藩としか考えていなかった清朝は1894年に日清戦争を起こしたが、日本に敗れて下関条約を締結し、朝鮮が独立国であることをついに認めた。
その後、朝鮮は大韓帝国となったが、事実上の財政破綻などで独立維持が困難となり、更に日露戦争の最中に日本を裏切ってロシア側に付いたことなどもあって日露戦争後の1905年に第2次日韓協約によって日本の保護国となった。
それでも大韓帝国の財政再建などは失敗に終わり、1910年8月22日に日本に併合してもらうことによって国家の破綻と滅亡を回避した。
朝鮮人や反日左翼は、「大韓帝国から外交権を奪って軍隊を解散させた1905年の第二次日韓協約こそが日帝による侵略の始まりだった。第二次日韓協約は日帝が武力で脅迫して締結させたのだから不当で無効だ。」などと言う。
果たして事実なのだろうか?
●第二次日韓協約への経緯の概要
日露戦争直前に大韓帝国は「中立宣言」したにも拘わらず、大韓帝国皇帝の高宗はロシアと内応協定の交渉を進めていた。
日本は日本の自存自衛と、韓国の国家破綻を防ぐために第一次日韓協約の締結をした。
ところが、日露戦争の真っ最中に高宗は第一次日韓協約に違反し、またしてもロシアと密通していた。
本来なら、日本は大韓帝国に宣戦布告して植民地にしても正当化できた。
日本は日本の自存自衛と、韓国の国家破綻を防ぐために第二次日韓協約の締結を目指した。
第二次日韓協約締結に至る過程において、学部大臣だった李完用も閣議で、『わが国の外交は変幻きわまりなく、その結果日本は2回の大戦争に従事し、多大の犠牲を出して、ようやく今日における韓国の地位を保全したのだから、これ以上わが国の外交が原因で東洋の平和を乱し、再び危地に瀬するような事は、その耐えざる所~』と言った。
最後は大韓帝国皇帝の高宗も大満足して締結した。
これが、第二次日韓協約(韓国保護条約、乙巳保護条約などとも呼ばれる)だ。
大韓帝国は『国家として自主自立が保障される』ような行動をしていなかった。
宣戦布告をして植民地にしても正当化できたのに、ここまで大韓帝国皇帝陛下のご機嫌を取りながら締結したのだから第2次日韓協約を「不当」とか「違法」とか言うのは御門違い。
「第二次日韓協約は日帝が武力で脅迫して締結させたから不当で無効だ。」という朝鮮人や反日勢力の主張は事実無根だ。
それについては、↓このサイトが貴重な資料を用いて詳しく分かり易く説明している。
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第二次日韓協約について;条約と強制(5);武力的脅迫
http://www.interq.or.jp/sheep/clarex/krjp/krjp17.html
(一部抜粋)
当時はもとよりそれ以前から、韓国では儒者等による騒擾が日常茶飯事と化していたからである。
伊藤も、11月15日の高宗との内謁見で、「昨今儒生輩を扇動して上疏献白を為し秘密に反対運動を為さしめつつありとの事は、疾く我軍隊の探知したる所なり」と述べているのは拙稿『日本外交文書』で紹介したとおりである。
これら儒者等による外国排撃の騒擾は以前よりかなり盛んで、事あるごとに運動や暴動を起こして日本側を悩ませていたのであったが、ここでこの儒者等についてみてみよう。
「儒生の一派にして目下失意の地に在る連中、日本の対韓国政策は専ら利益壟断主義にありとの事を論議し鉄道、漁業、銀行券、及鬱陵島伐木等凡そ数条目を掲け日本排斥的檄文を作り内々配布せんとするやに承知せり。勿論是等の連中は其人格に於て一般に重きを措かれさるものなるに付深く顧慮するに足らすと雖も、現に此事当地新聞に掲載せられ多少物議を来す恐れあるを以て、本官は外部大臣に照会し其注意を促すと同時に法部大臣警務使に対し之か捜査処分を勧告し置けり」
(『日本外交文書』、電信549号、儒生一派の排日檄文に関する件、明治37年6月18日)
「第五四九号電報の儒生派の内容を探くりたるに、檄文を十三道に発せんとする外、同意味の通告文を当地駐在各国公使に送付する準備中にあり、且つ鉄道電線の破壊を企んとする等頗る不穏の意味を含み居れるに付、本官は本日韓帝に謁見の序を以て右儒生等の行動に対し厳重の取締方を奏請する心得なり。
玄界灘に於ける我輸送船の撃沈せられたる悲報は、宮中に出入りする雑輩にして我勢力の増加の為め失意の境遇に陥り居れる一派の利用する所となり、昨今宮中に於て諸般の政事改善に関する日本の忠告は内密に仏国公使に協議する必要を唱へ居れりとの報道あり。」
(『日本外交文書』、電信第551号、儒生派の排日行動に関する件、明治37年6月20日)
日露戦争中、日本軍は、これら儒者等による破壊活動に対しては軍律でもって厳しく対処している。特に電線は軍の死命を制しえるものでもあったので、破壊の実行者で処刑された者も少なくなかったようだ。
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第二次日韓協約について;条約と強制(3)日本外交文書
http://www.interq.or.jp/sheep/clarex/krjp/krjp15.html
(一部抜粋)
暫くあつて李内相、李宮相出来り、陛下は該修正案を満足に思召し裁可を与えらるるへきの処、今一箇条陛下の御希望として、韓国か富強を致し其独立を維持するに足るの実力を蓄ふるに至らは此条約を撤回する旨の字句を挿入せんことを特に大使に懇望せらるるとの御沙汰に基き、大使は聖意を満足ならしむる為め自ら執つて協約書の前文中に『韓国の富強の実を認むる時に至る迄』の文字を加へ、再ひ李内相、李宮相をして聖覧に供せしめたるに、陛下は特に満足の旨仰せあり。
ここに於て朴外相は其官印を外部主任者に持来るへき旨電話を以て命し、別室に在て協約案の浄書に取掛りたり。
即ち日本文は塩川、前間両通訳官、韓文は内閣主事二人担当浄寫す。
(此時大使は別室に韓参政を見て慰諭する所あり。宋の末路文天祥の故事を援き、国家柱石の臣たるものの国事に処するの困難を説き、慰籍懇に到る。韓参政深く之を徳とす)
右にて一切円満の妥協を見たるを以て酒菓等の響応あり。
大使は調印の為め林公使を其席に留むることとし、各大臣に別を告け宮中を退出せられんとするに当り、皇帝陛下は特に李宮相をして左の勅語を伝へしめらる。
今、新協約の成立を見る。
両国の為め賀すへし。
朕、病体を以て稍〃疲労を覚ゆ。
是れより寝に就くへし。
卿、亦老体の体を以て深更に及ふ。
嘸ぞ疲労を感せしならん。
還つて速に寝に就かれよ。
大使宮中を退出せられたるは十八日午前零時壹拾分、林公使、朴外相と協約に調印を了したるは同午前一時なり。
「伊藤特派大使日韓新協約調印始末」(日本外交文書)
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このように、大韓帝国皇帝の高宗が儒者によるテロを策謀していたため、日本は軍隊を警戒にあてさせていただけのことなのだ。
「第二次日韓協約は日帝(伊藤博文)が武力で脅迫して締結させたから不当で無効だ。」という朝鮮人や反日勢力の主張は事実無根なのだ。
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