http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070810-00000106-yom-pol
全閣僚が終戦記念日に靖国参拝せず、首相も行わない方向
8月10日13時46分配信 読売新聞
安倍内閣の全閣僚が8月15日の終戦記念日に靖国神社を参拝しないことが、10日の閣議後の記者会見などで明らかになった。
安倍首相は参拝について「するともしないとも言わない」として明言を避けているが、終戦記念日の参拝は行わない方向だ。
終戦記念日に閣僚が一人も靖国神社を参拝しなかった年は少なくとも過去20年間例がなく、極めて異例だ。
塩崎官房長官は10日午前の閣議後の記者会見で、参拝しない理由について「私の信条だ」と述べた。
小泉前首相の靖国神社参拝を積極的に支持してきた高市沖縄相は「安倍首相が参拝をこらえていると思うので、閣僚として(参拝を)控えようと思う」と説明した。
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実に情けない。
塩崎恭久などは最初から馬鹿だと思っていたから今更どうでも良いが、小泉前首相の靖国神社参拝を積極的に支持してきた高市早苗って何なんだ?!
結局、上司の行動に合わせているだけじゃないのか?!
いったい、何のための靖国神社参拝なのか今までも全く理解せずに参拝を行なっていたのではないか?!
靖国神社は国が作った慰霊施設。
国が戦争に送り出し、死なせてしまった兵士を祀るために作った施設。
大東亜戦争は日本での戦いも含めた総力戦となったために、合祀する対象を「戦争による公務死者」と拡大したが、基本的には同じこと。
トンネル工事で落盤事故などが起こり、多くの坑夫が死んだりすると、その人達の霊を慰めるために慰霊碑を立て法要したりする。
それと同じ事で、国家が戦没兵士を慰霊する施設を作って参拝する。
これは当たり前のことであり、日本国の首相をはじめとする国会議員が慰霊のために参拝しなければ英霊は堪ったものではない。
これを「するな」という奴は余程性格が悪いか頭が悪いかのどっちかだし、しない奴らも国会議員の資格はない。
1期目議員の稲田朋美の方が首相や閣僚などより余ほどマトモだ。
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【正論】衆議院議員・弁護士 稲田朋美
首相の靖国参拝は安全保障問題
■本質見極め矮小化した議論排せ
2006/06/03, 産経新聞
≪侵略に屈せずの意思表明≫
首相の靖国参拝について、その是非がしばしば論じられるが、何のためかという視点を欠いている。国の代表が、国難に殉じた人々に感謝と敬意の祈りを捧げなければならないことは今更議論するまでもない。重要なのは、この問題がわが国の安全保障、ひいては国としての存立にかかわる問題だという点である。国益を論ずるのであれば、まず「国」でなければならない。
昔も今も国際紛争を最終的に解決する手段は、不幸なことではあるが物理力である。平和憲法を有するわが国についても例外ではない。もし仮に、他国がわが国に攻め入ってきたら、武力を行使して自国を防衛することは憲法第9条の下でも当然に許されている。
この厳然たる事実を受け入れることが首相の靖国参拝を論ずる前提である。
国のために命を捧げた人々が感謝も敬意も払われず、まるで犬死にのように扱われ、または忘れ去られるようでは、一体誰が国のために血を流して戦うのかという問題なのである。
靖国参拝に反対する政治家、財界人はもっともらしい理屈をさまざま挙げてはいるが、要は、たとえ他国に攻め込まれても血を流してまで国を守る覚悟はないし、ともかく中国を刺激してはならないと主張しているに等しい。
小泉首相は就任以来、毎年欠かさず靖国神社に参拝してきた。これは総理個人の内心がどうであれ、他国の侵略に対してわが国は、血を流してでも守る覚悟であることを内外に表明することである。
首相が靖国に参拝することの意味は「不戦の誓い」だけではない。
「他国の侵略には屈しない」「祖国が危機に直面すれば後に続く」という意思の表明であり、日本が本当の意味での国であることの表明なのである。この点に触れずに、靖国問題を政教分離や対アジア外交の問題に矮小化することは、戦後体制の歪みそのものである。
(以下略)
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首相をはじめとする閣僚が誰一人として8月15日に参拝しないというなら、安倍内閣の掲げる「戦後レジームからの脱却」は嘘っぱちの詐欺口上だ。
閣僚ではないが、自民党政調会長の中川昭一氏はどうするんだろう?
中川政調会長まで参拝をしないとなると、マジで自民党はお終いだ。
はっきり言って民主党や公明党と同じだ。
俺は明確な反自民党となる。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070810-00000403-yom-int
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ウランを一般ゴミに!?韓国の研究所が2・7キロ紛失
8月10日11時28分配信 読売新聞
【ソウル=中村勇一郎】韓国原子力研究所(大田市)が今年5月中旬、研究用ウラン約2・7キロを紛失し、国際原子力機関(IAEA)に報告していたことが10日、明らかになった。ゴミと間違って捨てた可能性が高いとみられ、ずさんな管理の実態が浮き彫りとなった。
同研究所によると、紛失したのは、天然ウラン1・9キロ、劣化ウラン0・8キロと濃縮ウラン0・2グラム。今月6日、IAEAの定期査察の受け入れ準備中に、紛失が判明した。
対策班による調査の結果、今年5月中旬ごろ、研究所の工事のために資料などを移動した際、工事業者の作業員が一般ゴミと間違えてウランが入った箱を捨てていたことがわかった。問題の箱は5月17日に焼却場に運ばれ、すでに燃やされた可能性が高いという。
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これは、もしかすると韓国がまたまた核開発を始めたか、あるいは北朝鮮に秘密裏に供給した可能性があるのではないか?!
韓国から昔から長年に亘り核開発をしてきただけに紛失した量やその他の調査結果は信用できない。
2004年秋、韓国が1980年代などに核開発を行なっていたことが判明し、国際原子力機関(IAEA)などで問題とされた。
韓国は核武装したくてしたくてしょうがないのだ。
韓国では複数の歴代大統領が核開発に関与してきたし、大多数の国民も核武装を願っている。
また、韓国人は北朝鮮の核兵器は日本向けだから心配していないし、むしろ北朝鮮の核兵器は自分たちの核兵器だと考える傾向がある。
南北首脳会談が平壌で8月28日から7年ぶりに開催されると一昨日報じれたが、南北首脳会談のみかえりに盧武鉉が金正日にウランを供給したのかもしれない。
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ついに韓国も核武装?
【緯度経度】黒田勝弘
2007/03/17, 産経新聞
先ごろ外出していて久しぶりに「民防衛訓練」に出くわした。昔は毎月15日にやっていたが、最近は年数回のようだ。午後2時を期してサイレンが鳴り、交通はすべてストップし人びとは建物の中に待避する。
15分ほどの短いものだが、一部では救急隊なども出て脱出、救助訓練なども行われる。全市で交通ストップなどという異様な風景を目撃すると、外国人たちは「北に備えて韓国人たちはがんばっているのだなあ」と感心したり、安心したりする。
しかし実際は韓国社会にはもはや北の脅威感はない。人びとの反応も「まだあんなことをやっているの?」であったり、防災訓練程度の受け止め方だ。
この「民防衛訓練」に昔は必ず「ファセンバン訓練」というのが入っていた。「ファセンバン」というのは「ファ(化)セン(生)バン(放)」のことで、化学兵器・生物兵器・放射線(核)兵器の略である。つまり毒ガスや細菌兵器、核兵器に備える訓練というわけだ。
これは昔は大学生の入隊訓練や部隊での新兵の訓練でも必ず行われた。訓練帰りの学生から「ガス室に入れられゴホン、ゴホンで大変だった」などという話をよく聞かされたものだ。それでももっぱら「ファ」の話ばかりで「バン」の話は聞かなかった。
北朝鮮が核兵器を持った現在、新兵訓練での「バン訓練」はしっかり行われているのだろうか。また「民防衛訓練」で「バン訓練」はやらないのだろうか。
しかし韓国では、北朝鮮が核武装したというのに関心は“北の脅威”より“日本の核”なのだ。とくに日本への警戒や非難が好きなマスコミはそうだ。
ということで先ごろも2大テレビ局のひとつ、MBCが特集番組で「日本が核燃料として大量蓄積しているプルトニウムに疑惑あり」というのをやっていた。
番組には日本大使館も協力したという。「日本の実情をできるだけ客観的に紹介したい」というので、再処理施設のある六カ所村をはじめ日本現地での取材やインタビューなどで大いに便宜を図ったという。
しかし番組を見た大使館の担当者は「日本であれだけ見てもらい話を聞いてもらってもまだ相変わらず“疑惑”なんですねえ」と失望していた。実は筆者も番組の中でコメントを求められ、北朝鮮とは比較にならないほどの「日本の徹底した透明性と国際的信用」それに「再処理施設における韓国を含む国際利用の可能性」まで指摘しておいたのだが…。
ところで韓国では北朝鮮の核問題をめぐる“六カ国合意”の後、保守派を中心に米国に対する不信が起きている。
たとえば韓国言論界で最も影響力のある人物とされる金大中・朝鮮日報顧問(あの金大中氏とは別人)は最近のコラムで「ブッシュは北の核に事実上、屈服した」「(米国は韓国から去りつつあるが)その最近の態度は無責任に見えるほどだ」「米国が韓国の将来や安保にいかなる責任感を感じているのか疑わしい」…などと強い不満を表明している。
金大中顧問は保守派の論客で知米派として知られる。
米国の“韓国離れ”は盧武鉉政権のいわゆる“対米自主外交”のせいであり、自業自得ではあるのだが、だからといって北朝鮮を甘やかし韓国無視、軽視となっては困る。これまで自由民主主義の韓国を守り続け、今後とも守り通したいと思っている親米・保守派としては立つ瀬がないというわけだ。
ではどうするか。コラムは話を次のように展開している。
「核を持った北朝鮮は米国と渡り合うほどに大きくなった。(略)われわれはわれわれの力で自分を守るほかなくなった。(略)何よりも北の核に備える対等な安全装置を持つことが重要だ。それは核についてのわれわれの既存の立場や固定的な考えを再考する必要があるということを意味する」 「北の核を容認する限り米国は、生き残りのためといってもがいているいかなる国の核計画も阻止する名分はなくなった」
金大中顧問は韓国の核武装を主張しているわけでは必ずしもないだろう。ただ、米韓同盟重視の親米・保守派として、米国が北の核を容認しながら韓国の安全には知らん顔というのは困ると、米国に不満をぶつけているのだ。
日本でも北の核実験の後、戦後的タブーを超えた“日本自体の核”論議の必要性がいわれたが、すぐしぼんでしまった。対米同盟重視の保守派なら当然出てくるべき議論だ。対米同盟重視の保守派・金大中顧問の“気概”は参考になる。
――――――
北核影響か…「韓国も核兵器持つべき」67% (中央日報)・世論調査
(一部抜粋)
核兵器を保有しなければならないという回答者も 66.5%にのぼった。1年前の調査では50.7%だった(中央日報 2004年9月30日付)核兵器を保有すべきだという主張が今回大きく増えたのは、今年の初め、北朝鮮の核保有宣言に影響を受けたものと分析される。
2005.10.14
韓国政権内の核武装容認論に懸念
2003/03/07,産経新聞
(一部抜粋)
韓国の盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領が大統領選当選後に米国に派遣した特使について、「『北朝鮮の核武装は日本向けだから心配ない』と(米政府関係者に)明確に言っている。
金泳三・韓国元大統領に聞く
2003/06/10, 産経新聞
(一部抜粋)
北が核兵器を持てば韓国は非常に困るが、それ以上に日本が困る。
北の核は日本に向けられているからだ。
相手は対話が通じない国だ。
紛争あったら米より北支持 韓国"新世代"意識調査
2005/08/16, 産経新聞
(一部抜粋)
米朝間の紛争でどちらを支持するかでは、「北朝鮮」が65・9%で「米国」の28・1%よりはるかに多かった。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070805-00000009-cnc-l23
旧満州引き揚げ苦難の歴史を知って 豊橋で資料展示
8月5日11時34分配信 中日新聞
【愛知県】1945(昭和20)年8月の日本敗戦後、中国東北部の旧満州から引き揚げた人々の足跡をたどる豊橋市中央図書館の資料展「平和を求めて」が4日、同市羽根井町の同館で始まった。31日まで。旧満州からの引き揚げ者は120万人を超え、大部分は民間人だった。旧ソ連軍の略奪や人狩りの恐怖におびえ、感染症も流行。空き缶を便器や食器として使い、ボウフラがわく水を飲んだ、という。
(以下略)
―――――
1945年8月9日、ソ連は日本から日米の終戦交渉を依頼されていたにもかかわらず、日ソ中立条約を一方的に破棄し、原爆によって虫の息ほどになった日本に対し、宣戦を布告した。
その頃手薄になっていた満州や樺太にはソ連軍が上陸し、略奪・強姦・殺戮の限りを尽くした。
[読者手記 53編] 文藝春秋・特別号 '83・9掲載
昭和20年8月20日頃であったろうと思う。・・・(中略)・・・ぶきみという程静かな日が続いていたので、新京の街で何が起こっていたのか解らなかった。
そんな日病院の玄関で大声で騒ぐ声にびっくりして、私は板でくくりつけた足をひきずりながら玄関に出て見て驚いた。12、3の少女から20ぐらいの娘が10名程タンカに乗せられて運ばれていた。それは、まともに上から見ることの出来る姿ではなかった。その全員が裸で、まだ恥毛もそろわない幼い子供の恥部は紫に腫れ上がって、その原形はなかった。大腿部は血がいっぱいついている。顔をゆがめつつ声を出しているようだが、聞き取れない。
次の女性はモンペだけをはぎとられて下(しも)の部分は前者と同じだが、下腹部を刺されて腸が切口から血と一緒にはみ出していた。次の少女は乳房を切られて、片眼を開けたままであったから死んでいるのかも知れない。次もその次も、ほとんど同じ姿である。
「ああ女とはこんな姿でいじめられるのか・・・」。次々に病室に運ばれて行く少女を眼のあたりに見て、その非情なソ連兵の動物的行動に憤りを感じると同時に、道徳も、教養も平和な中にのみあるのであって一つ歯車が狂ってしまったら、そんなものは何の役にもたたないのだ。
・・・(中略)・・・1週間私はこの病院にいて毎日毎日この光景を見て、その無残、残酷さに敗戦のみじめさを知った。
銃でうたれて死ぬのは苦痛が一瞬であるが、自分の体重の3倍以上もある毛むくじゃら男数名になぶられた少女や娘等はどんな苦しみであったろうか。
・・・(中略)・・・また女医さんに聞いたことだが、「10名に2、3名は舌を噛んで死んでいるんです。また何名かの方は胸を圧縮されて息絶えている人がありました」と語られたことを想い出す。
ベール脱ぐ引き上げ史
福岡の旧二日市保養所、看護婦が体験を証言
終戦直後、中国大陸から引き揚げ途中に旧ソ連軍兵士らから暴行を受け妊娠した女性の堕胎処置が行われた福岡県筑紫野市武蔵の「旧二日市保養所」跡地で十二日、供養が行われた。当時、看護婦として同保養所で働いた村石正子さん(71)が初めて参列し、自らの体験を涙ながらに語り、隠れた引き揚げ史を証言した。
「博多引揚援護局史」などによると、旧二日市保養所は一九四六年三月に開設。患者総数は三百八十人、閉鎖までの治療日数は延べ七千九百八十一日を数えた。堕胎は、当時非合法だったこともあり、保養所の歴史はあまり語られず、引き揚げ史の中でも実態は詳しく分かっていない。
日赤看護婦だった村石さんは、四六年、同保養所で約三カ月勤務。「堕胎は違法と知っていたが、心ならず妊娠した女性は故郷にも帰れなかった。ただ救いたい、という一心だった」と当時の様子を証言した。
処置後、「悔しい」という言葉を残して亡くなった十七歳の師範学校女生徒のことなどを思いだすにつけ、村石さんは自分の過去に苦しめられたが、五十年余りがたち「歴史の一ページとして証言しなければならない」と思ったという。
現在特別養護老人ホームがある同保養所跡には八一年、福岡市の医師が石碑を建立。以来、ホーム側が毎年、供養を続けている。証言を聞いた住民グループ「戦後五十年筑紫野語ろう会」の田辺幸子代表は「万感迫るものを感じた。ほかの引き揚げ地でも同じことがあったはず」と指摘。
供養を主催した一人の済生会二日市病院の水田耕二院長らは「悲惨な歴史を明らかにすることが、生まれてこなかった子供たちのためにもなる」として、旧二日市保養所の実態解明を続けることにしている。
【双方向プラザ】看護婦22人眠る「慈蔵尊」参りたい
2003/07/27, 産経新聞
■“ソ連軍暴行より死”悲劇忘れてはならぬ
【読者から】
【読者から】七日付の「談話室」に載った『長春で果てた22人の看護婦』を読みました。こんな悲惨な事件があったことを初めて知りましたが、日本人としては決して忘れてはならないことだと思います。また、看護婦さんたちのために、(青葉慈蔵尊に)お参りを続けている方がいらっしゃることもうれしいことです。私もぜひ、お参りをして昭和史を学びたいと思っています。中野晋而(しんじ)さん(六七)=東京都板橋区
≪命日に有志、靖国の提灯供える≫
「事件」は終戦後の昭和二十一年六月に起きました。その年の春、ソ連軍(当時)の支配下にあった満州・新京(長春)の長春第八病院で、三十四人の従軍看護婦が仕事を続けていました。
そこへ、数キロ離れたソ連陸軍病院から「三人の看護婦を派遣せよ」という命令が届きます。約一カ月後にはもう三人、そしてさらに三人と、看護婦の派遣命令が続きますが、誰一人として帰ってきません。
しばらくたって、瀕死(ひんし)の重傷を負った看護婦の一人が長春の病院のドアをたたきました。ソ連軍の病院に派遣された一人が、決死の思いで逃げ帰ってきたのです。
「わたしたちは看護婦の仕事ではなく、ソ連軍将校の慰みものにされているのです。もう、人を送ってはいけません…」。その看護婦が息もたえだえに語ったのは衝撃的な事実でした。
そしてその二日後の六月二十一日、悲劇が起きました。長春の病院に残っていた二十二人の看護婦が青酸カリを飲んで自ら命を絶ったのです。遺書には、「ソ連軍に暴行されるよりは死を選びます」という内容のことが書かれていました。看護婦たちは、ソ連軍の非道ぶりに“死の抗議”をしたのでしょう。
看護婦たちの遺骨は当時の婦長さんの手によって、日本へ帰りました。
そして昭和三十一年、財団法人「青葉園」の初代理事長、吉田亀治氏らの厚意によって、同園公園墓地に「青葉慈蔵尊」(さいたま市西区三橋五丁目。JR大宮駅から佐知川原行きバスで、青葉園下車)が建てられ、そこに眠っています。
お地蔵さまは、高さが約一・五メートル。左手に赤十字のマークが入った看護婦の帽子を持っていらっしゃいます。碑には、遺書の文字が刻まれています。
ところで、看護婦たちは靖国神社本殿には、まつられていません。それは、残されていた資料がほとんどなかったので、身元の確認などが十分にできなかったため、とされています。
そこで、有志がお金を出し合って、昨年の同神社の「みたままつり」に青葉慈蔵尊名で永代献灯をし、今年六月の命日に、その提灯(ちょうちん)を慈蔵尊に供えました。
「談話室」に載ったのは有志の一人、千葉県市原市の会社員、小澤英夫さん(七〇)からの投書です。小澤さんは、「(看護婦たちが)靖国神社に入れないのは、しのびない。『あなた方の御霊も毎年、掲げられていますよ』という思いを込めて提灯を供えました」と話し、写真も送っていただきました。
青葉園によると、慈蔵尊建立に尽力した初代理事長の吉田氏や、遺骨を持ち帰った元婦長さんも、ここ数年の間に亡くなったそうです。
でも、「読者」の中野さんのいうように「日本人としては決して忘れてはならないこと」に違いありません。われわれも、次代に語り継ぐ努力を続けたいと思っています。
樺太の真岡はもともと人口2万の町であった。
16日夕から本土への引き揚げが開始され、19日夕刻までに6千人が出航していたが、乗船を待つ避難民がまだ1万5千~8千人いた。
真岡への攻撃は20日早朝に始まった。
数隻の大型軍艦が町中に艦砲射撃を行い、その後、上陸したソ連兵は山へ逃がれる人々を背後から機関銃や自動小銃で掃射し、手榴弾を投げつけた。
引き揚げ船へ向かう女子供たちの上にも、容赦なく砲弾が降り注いだ。
厚生省資料ではこの時の民間人犠牲者は約千名としている。
樺太の真岡電話局には電話交換手の9人の若い女性たちが、引揚げの指示を断ってまで、市街の惨状を報告し続けるために現地に残留していたが、そこにもついにソ連軍が侵入。
9人は引き揚げの指示を断って、ソ連軍の砲撃開始後一時間半に渡って、市街の惨状を報告し続けた。
だが、そこにもついにソ連軍が侵入・・・
今も詩吟「氷雪の門」で伝えられる最後の放送は次のようであった。
「内地の皆さん、稚内電話局のお友だちに申し上げます。
只今ソ連軍がわが真岡電話局に侵入いたしました。
これが樺太から日本に送る最後の通話となるでありましょう。
私たち9人は最後まで、この交換台を守りました。
そして間もなく、9人そろってあの世に旅立ちます。
ソ連軍が近づいております。足音が近づいております。
稚内の皆さん、さようなら、これが最後です。
内地の皆さん、さようなら、さようなら」
9人の乙女は青酸カリを飲んで自決した。戦後建てられた稚内市の「乙女の碑」を昭和43年に訪れられた昭和天皇と香淳皇后は深く頭を垂れて、冥福を祈られ、次の御製、お歌を残された。
樺太に
命をすてし
をたやめの
心を思えば
むねせまりくる
からふとに
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