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正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現
嘘の歴史に騙されるな!日本最優先政治、日本国民の生命と財産と自由を守る核武装、日韓断交を実現しよう!マスゴミの嘘や洗脳工作を許すな!がんばれ!日本国民党!
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支那製毛布に高濃度の化学物質ホルムアルデヒド・ニュージーランドで回収・癌や皮膚炎や呼吸困難の恐れ・新作 You Tube
支那毒のオンパレ


中国製毛布を回収=皮膚炎や呼吸困難の恐れ-NZ
8月22日14時0分配信 時事通信

 【シドニー22日時事】ニュージーランドで販売されている中国製毛布に高濃度の化学物質ホルムアルデヒドが含まれていたことが判明したため、この毛布を輸入しているオーストラリア系の衣料品会社チャールズ・パーソンズは22日、製品の回収を始めた。皮膚炎や呼吸困難を引き起こす恐れがあるという。
 ホルムアルデヒドは、衣料などにシワや汚れが付きにくくするため、繊維に処理加工されることが多い。低濃度では通常問題ないが、高濃度であると皮膚炎など健康に害を及ぼすことから、残留量を制限している国もある。


8月20日の新作

( `ハ´)中国では動物も大喜びで繁殖 +毒食品 +爆発製品


高級ホテルのプール小便汚染

スパのスリッパ・シーツ・布団カバーは洗濯しない

ゴミ詰めの布団

ヤケドして指を切断するオモチャ

爆発して死亡する電池

感電死する冷蔵庫

発火する扇風機

毒食品のオンパレード



直近の関連記事

NZ、中国製衣料品を緊急調査=有害物質「900倍」、パジャマ引火も
2007/08/21
 【シドニー21日時事】ニュージーランド政府は21日までに、中国製衣料品の安全性について緊急調査に着手した。中国製品をめぐっては、子供服の一部で世界保健機関(WHO)の安全基準の900倍の有害物質が検出されたほか、パジャマがストーブから引火し、子供2人が大やけどを負った。安全が確認できない商品は輸入を禁止する方針だ。
(以下略)

今度は子供服、NZで中国製から大量の発がん物質
8月20日22時57分配信 読売新聞
 【シドニー=新居益】ニュージーランドで販売されている中国製の子供服から、発がん性が確認されている化学物質ホルムアルデヒドが大量に検出されていたことが分かり、ニュージーランド政府は20日、緊急調査に乗り出した。
 同国の民間テレビ局TV3の消費者番組に依頼された政府系機関の研究員が、一般の小売店で販売されている羊毛や木綿製の子供服から、安全とされる量の900倍に相当する濃度のホルムアルデヒドを検出したという。
 同テレビによると、この量のホルムアルデヒドは、がんのほか、皮膚炎や呼吸障害を引き起こす可能性がある。
(以下略)

中国製よだれ掛けの販売中止=基準超える鉛検出で-米トイザラス
2007/08/18
 【ニューヨーク17日時事】米玩具小売り大手トイザラスは17日、全店舗で中国製よだれ掛けの販売を中止し、店頭から製品を撤去したと発表した。同社の基準を上回る鉛が検出されたため、「予防的措置」として回収を決めたとしている。
日韓併合への過程3・1910年8月22日「韓国併合ニ関スル条約」(日韓併合条約)調印・朝鮮人自らの意思で日韓併合を最善策と判断し決定・日韓双方に反対派は居たが最後は日韓双方の賛成派が優勢となって合意


(上)日本統治前
(下)日本統治中


日韓併合について正しい歴史認識を持つには、まず、日韓併合は日本によって行われたという誤った先入観を捨て、日韓双方の合意によって行われたという真実を認識しなければならない。

日韓併合論というのは、ずっと以前から日韓双方で議論されていたことだった。

日本側にも賛成派と反対派がいたし、同じように韓国側にも賛成派と反対派がいた。

日本側においては、陸奥宗光、曾禰荒助、竹越興三郎などは明確に反対していたし、伊藤博文もかなり消極的だったことは有名だし、井上馨や原敬も伊藤と同じだったようだ。

一方、長州閥の桂太郎、山縣有朋、寺内正毅などは、併合推進派だった。

対する韓国側においても、賛成派と反対派は割れていた。

李容九や宋秉?などが率いる文明開化派の最大政治組織「一進会」が強く併合を推進したし、総理大臣の李完用を始めとする閣僚の約半数が「推進~容認」派だった。

一方、それまで朝鮮民衆に塗炭の苦しみを与え、私利私欲を貪っていた皇帝高宗や両班や儒者たちは反対していた。


1907年のハーグ密使事件後、日本国内に「我が国上下與論(よろん)沸然として鼎(かなえ)の湧くが如く、或いは新聞に、演説に併合を論じ、合邦を説くこと盛(さかん)なり」といった日韓併合・合邦論が急速に台頭してきた。

また、樽井藤吉(1849-1922)の『大東合邦論』の「日韓併合によって新合邦国家『大東国』を建設し、次に大東国と清国が合邦して南方植民地(東南アジア地域)を解放し、『大東亜連邦』を実現する」と言った構想が内外に影響を及ぼし、遂には韓国国内にも「日韓併合」論が公然と主張されだした。


1909年に日本で併合が閣議決定したものの、併合の時期について、曾禰荒助は「就任時伊藤、桂と三者会談にて、5、6年様子を見て」と合意していた。

ところが、その1年以内に韓国側のほうで大きな変化があった。

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本音を隠したままの日本側に対し、まず合邦を打診したのは朝鮮側だった。総理大臣の李完用(イ・ワンヨン)の側近である、新小説『血の涙』で知られる李人稙(イ・インジック) が密使として動いたのだ。
2001.08.27 中央日報
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また、一進会は1909年12月4日、「韓日合邦を要求する声明書」を作成し、上奏文と請願書をそれぞれ李完用総理、皇帝純宗、曾禰荒助統監に提出した。

しかし、日本側の併合反対派であった曾禰荒助統監は、この合邦案を時期尚早との理由で却下すると共に、新聞社、通信社に働きかけ、反対の論調をとらせた。

それでも、韓国側の併合推進派である一進会は上奏書を却下されてもまた提出し、これを繰り返すこと4回目に桂首相の指示により遂に受け取られた。

ただし、明治天皇の意向もあり、曾禰荒助の更迭はならず、従って併合の正式決定はならなかった。

その間韓国では次第に併合に賛成する者が増え、西北学会も賛成に転じ、大韓協会も賛成派と反対派に分裂する事となった。

1910年3月末に至るも曾禰に辞職の意思無く、このまま放置もままならないので、遂に寺内を後任に内定し、寺内を病気見舞いに行かせ、因果を含め辞表を出させることになった。

曾禰が辞表を出したのは5月30日で、直ちに後任には寺内が任命された。

寺内は、日本国内での意見調整、列強各国に併合についての合意を取り、7月15日ようやく東京を発ち、7月23日ソウル入りした。

ソウルに入ったものの寺内は黙ったまま何ら方針を示さず、半月余りたった。

8月16日、李完用首相は日本の水害見舞いと称し、趙農相を伴い、寺内の居る統監邸を訪れた。

ここで山県副統監を交えた会談3時間に及び、若干の修正にて日韓併合は合意に達した。

この結果にもとづき李完用首相は8月18日に閣議を開いたがまとまらず、8月21日李完用が皇帝に内奏し、皇帝の了承を取り付けた。

これにより1910年8月22日の御前会議で韓国は正式に日韓併合を決定したのである。







●資料

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併合前の朝鮮は地獄だったといってよい。
玄永燮

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朝鮮時代、全権大使としてアメリカに渡った李成玉は多くの民族に接した。
朝鮮人はインディアンやその他メキシコ、インドなどの民族より劣っていることを知り、衝撃を受け、次のように述べた。


 「現在の朝鮮民族の力量をもってすれば、とても独立国家としての体面をもつことはできない。
亡国は必死である。亡国を救う道は併合しかない。
 そして併合相手は日本しかない。
欧米人は朝鮮人を犬か豚のように思っているが、日本は違う。
日本は日本流の道徳を振り回して小言を言うのは気に入らないが、これは朝鮮人を同類視しているからである。
そして、日本人は朝鮮人を導き、世界人類の文明に参加させてくれる唯一の適任者である。
それ以外に我が朝鮮民族が豚の境涯から脱して、人間としての幸福が受けられる道はない。
 日韓併合が問題になるのは、変な話だ。
我輩の併合観は欧米人の朝鮮人観を基に考察したのだ。」

朝鮮全権大使 李成玉 「李完用侯の心事と日韓和合」

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韓国は日本の保護によって新生命、新光明に浴している。
高い政治道徳を重んずる進歩的であり、円満である伊藤総監によって、韓国人は暗黒時代から光明世界に導かれ、未開時代から文明時代に進むべく手をとられて進みつつあり、旧来の久しい悪政から免れ、彼らの生命財産は確実に保護されつつあって、あらゆる面において、三年間に二倍の進歩を遂げた。
宣教師 ラッド博士

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「韓日合邦を要求する声明書」

 日本は日清戦争を通じて韓国を独立させ、日露戦争でロシアに食われかけていた韓国を救ってくれた。
それでも韓国はこれをありがたく思うどころか、あの国にくっつき、この国にくっつきし、結局は外交権を奪われることになったが、これは我々が自ら招いたことである。
丁未条約を締結することになったのも、やはりハーグ事件をおこした我々に責任がある。 
 伊藤博文公が韓国国民を見守ってくれ、太子を導いて我々韓国のためにご苦労されたことは忘れられない。
にもかかわらずハルピンの事件がおきてしまった以上、こんごいかなる危険が到来するのかわからない。
これもまた韓国人自らそうしてしまったのである。
(中略)
 それゆえ劣等国民として保護されるよりは、いっそ日本と合邦し大帝国をつくって世界の1等国民として日本人とまったくおなじ待遇をうけながら暮らしてみよう。

1909年 12月4日  一進会(百万の朝鮮人会員)

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【コラム】民族と親日
(一部抜粋)
日帝が朝鮮を併合した際、朝鮮にはこの併合を恥じる主体の民族意識がなかった。民族は民族意識と同じだ。したがって朝鮮には「民族」がなかった。
姜偉錫(月刊エマージ編集人)
2002.03.07 中央日報

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当初、一進会は「韓日合邦」として連邦制を目指した。

しかし、リーダーの1人である宋秉?は、
【日韓双方の国力の差・文明の程度の差から「日韓対等合邦」は事実上不可能であり、「連邦制」では欧米列強に対抗する様な強固な国家は建設できない。従って、日韓が一体となり列強に伍す強固な国家を建設するには、大韓帝国皇帝の全権を大日本帝国天皇陛下に委譲するのが、最も現実的である】
と主張。

そして、結果的に宋秉?が唱えた通り、「日韓併合」がなされた。








●日韓併合への過程の概要(まとめ)

1876年の日朝修好条規によって日本は、「朝鮮国は自主の邦にして日本と平等の権を保有せり」と表現し、李氏朝鮮を諸外国に先駆けて「独立国」として承認、清朝の宗主権を否認した。

それでも、朝鮮を属藩としか考えていなかった清朝は1894年に日清戦争を起こしたが、日本に敗れて下関条約を締結し、朝鮮が独立国であることをついに認めた。

その後、朝鮮は大韓帝国となったが、事実上の財政破綻(国家破綻)などで独立維持が困難となり、更に日露戦争の最中に日本を裏切ってロシア側に付いたことなどもあって日露戦争後の1905年に第2次日韓協約によって日本の保護国となった。

それでも大韓帝国の財政再建などは失敗に終わり、1910年8月22日に日本に併合してもらうことによって国家の破綻と滅亡を回避した。








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