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正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現
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森喜朗が福田康夫の外相と谷垣禎一と古賀誠の要職起用を希望・よりによって自民党屈指の国賊3人を外相などの要職に起用したがる理由が理解できない

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070812-00000043-jij-pol


福田外相「一つの考え」=谷垣、古賀両氏、要職で処遇を-自民・森氏
8月12日17時1分配信 時事通信

 自民党の森喜朗元首相は12日、フジテレビとテレビ朝日の番組に相次いで出演し、27日に予定される内閣改造・党役員人事について、有力となっている麻生太郎外相の幹事長就任を容認する考えを示した上で、福田康夫元官房長官の外相への起用が望ましいとの見解を表明した。また、谷垣禎一前財務相や古賀誠元幹事長の重要ポストでの処遇も求めた。
 森氏は、麻生氏の幹事長起用について「政策の思い切った転換が必要だとの(麻生氏の)考えはわたしと一致している」と指摘。福田氏に関しては「本当は官房長官が一番いい」と述べる一方、「(外相起用も)一つの考え方だ。(麻生氏から)代えるなら、諸外国が安心する人を持ってくるのは国益にかなう」と語った。 
――――――





私は既に安倍政権や自民党を見限っているが、それにしても酷い。

よりによって自民党屈指の国賊3人を外相などの要職に起用したがる理由が理解できない。

念のため、森喜朗が要職で処遇するように求めている福田康夫と谷垣禎一と古賀誠の3人について簡単に紹介しておきたい。





●福田康夫

台湾の李登輝前総統が病気治療目的で来日を希望した際に、支那への配慮から、河野洋平外相と共にビザ発給に反対

2001年12月、福田康夫官房長官の私的懇談会「追悼・平和祈念碑等施設の在り方を考える懇談会」を発足させ、靖国神社に替る国立追悼施設の建設に乗り出す

北朝鮮による日本人拉致問題では、家族会に対し終始冷淡な態度

支那の対日政策責任者が「七人のサムライ」と呼んで頼りにしている現役の自民党議員の順位は河野洋平に次いで第2位(2006/04/02, 産経新聞)

平成17年11月9日、靖国神社とは別に国立の無宗教の戦没者追悼施設建設を目指す超党派の議員連盟「国立追悼施設を考える会」(会長・山崎拓)の中心人物として設立総会を開く



●谷垣禎一

2000年の「加藤の乱」が挫折すると、山崎拓と2人だけで不信任票を投じに行こうとする加藤紘一に、「大将なんだから、行っちゃダメですよ!」と大声で言い聞かせ踏みとどまらせた

2006年の自民党総裁選では、特ア外交の再建を提唱し、靖国神社参拝を控え、支那や韓国首脳と常時対話をとれる「アジアホットライン」の構築を主張

今年の6者協議では、山崎拓や加藤紘一や鳩山由紀夫などと共に、「日本が北朝鮮を支援をしなければ日本は孤立する」と延べ、拉致問題の進展がなくても北朝鮮に援助をするよう主張



●古賀誠

靖国神社から元A級戦犯の分祀を推進している

2000年には野中広務の指名で自民党幹事長に就任した野中の子分だった

小泉政権時代、道路公団民営化反対派の中心となり、野中広務らと共に「抵抗勢力」側の代表的な政治家となる

与党人権問題懇話会の座長となり、人権擁護法を推進している

日本遺族会会長でありながら2005年6月11日には「近隣諸国への配慮が必要」などと発言して批判が殺到すると「私見として述べた」などと釈明

2005年の郵政民営化関連法案に反対していたが、土壇場の衆議院本会議採決直前に退席して棄権し、綿貫民輔や亀井静香らを裏切った。

「第二次上海事変」(上海戦)・8月9日大山中尉惨殺事件→8月13日支那大軍が国際租界日本人居留区包囲攻撃→8月14日支那軍機がホテル爆撃→日本が「暴支膺懲」宣言→日本海軍が『渡洋爆撃』


写真(上)
当時の上海バンド(埠頭近く中心街)。上海は人口300万人で米、英、日などの共同租界とフランス租界があった。
1937年8月、支那軍は、共同租界(国際租界)の日本人居留区を包囲攻撃し、更にホテルやデパートを爆撃した。

写真(下)
日本海軍航空隊の九六式陸上攻撃機
1937年8月、台湾や九州から、南京や上海や杭州へ、世界初の長距離「渡洋爆撃」を敢行した。



蒋介石は、西安事件でソ連に降伏して対日戦に合意し、上海郊外の非武装地帯に多数のトーチカを建設し始めた。

これは盧溝橋事件よりも、かなり以前から始めていたことだ。

盧溝橋事件が起こると、蒋介石は戦争準備を本格化させ、ドイツ軍将校指導の下、7万のトーチカからなる巨大要塞を建設し、上海から南京に至る途中にはヒンデンブルクラインなる防御線を完成させた。

その上で、上海の外側に、遠巻きに保安隊を配置し、徐々に包囲網を狭めていった。

その頃、保安隊の進出で戦争を察知した住民は外国租界へと避難を始めていた。

これを裏付ける物として、毎日新聞社刊『大日本帝国の戦争2太平洋戦争』に8月6日の日付けで"住民が外国租界へ避難している"写真がある。



一方、そんな事とは知らない日本は、通州で日本人居留民約260人が大虐殺されてから10日も経っていないのに、支那へ和平を持ちかけた。

しかも、その条件は信じられないほど大幅に譲歩したものだった。


この時の日本側の和平案は以下のとおり。

――――――――
(日本の和平案)
・塘沽協定の解消
・梅津-何應欽協定の解消
・土肥原-秦徳純協定の解消
・冀察政権の解消
・冀東特殊貿易の廃止
・非武装地帯海面の中国側密輸取締りの恢復
・華北における自由飛行の廃止
・支那側が要求すれば上海停戦協定をも解消
――――――――


日本が如何に戦争をやめたがっていたかは、この大幅に譲歩した和平案を見れば明白である。


ところが、8月9日に予定されていた和平会談は、当日、支那が海軍陸戦隊の大山中尉を上海の虹橋飛行場近くで惨殺してぶち壊した。



実は、この日は、揚子江の奥地から居留民が陸戦隊ともども上海に引揚げて来ていた日だった。

大山中尉は、周辺地区の巡回に行き、虹橋飛行場近くで、進出中の保安隊に遭遇して殺された。

日本側は支那に抗議したが、日本に責任をなすりつけて取り合わなかった。


支那いわく「大山中尉が支那兵が止めるのも聞かず、衛兵を拳銃で撃ち殺して飛行場に押し入ったので射殺した」。

大山中尉は拳銃を持っておらず、運転手の斉藤水兵は持ってはいたがホルスターに入ったままで殺されていたのに。

大山中尉と運転手の斉藤水兵の車は機関銃で蜂の巣にされ、中尉は車から引きずり出され、銃剣で胸を刺され、かつ大刀で頭を割られていた。

大山中尉惨殺事件と、その後の支那側の態度に危険を感じた海軍は、警備のために陸軍の応援を要請したが、不拡大方針を頑なに貫こうとする参謀本部の石原完爾少将は「上海に陸軍を出すと戦火が拡大するので出せない」と断った。



仕方がないので海軍は、陸戦隊を1,200名程増派したが、追加の陸戦隊が上海に着いた8月11日には、既に国際租界の日本人居留区は支那の保安隊に包囲されていた。

その夜のうちに支那軍は上海付近の鉄道の民間使用を禁じて軍用に切り換えて国際租界に向けて12万の大軍を送り込んだ。

8月12日、上海に送り込まれた支那の大軍は、日本人居留区を包囲していた保安隊に取って代わった。

当時、上海にいたのは海軍陸戦隊4,000名のみで、とても支那の大軍を相手に出来なかったため、海軍は改めて陸軍の派遣を要請した。


緊迫した情勢の中、8月13日、日本政府はやっと陸軍の派遣を決めたが、これから準備するために到着するのに約20日は掛かる。

したがって、海軍陸戦隊には、「絶対に先に手を出すな」と指令したが、この日に支那軍は上海への攻撃を開始した。


翌14日には支那軍が上海市街を爆撃し、キャセイホテルやパレスホテルにも落ち、支那人や外国人に大量の死傷者を出した。



あまりの暴虐さに日本政府は「暴支膺懲」を宣言し、海軍は台風の中、日本から直接爆撃機を飛ばして南京などにある支那軍の飛行場や前線基地を叩き、上海などに居た日本人の命を永らえさせた。

これが世に言う『渡洋爆撃』






8月9日、和平会談の予定だったが、海軍陸戦隊の大山中尉が惨殺される。
8月12日、蒋介石軍が上海の国際租界の日本人居留地区を包囲
8月13日、蒋介石軍が攻撃開始
8月14日、支那軍が上海市街のホテルなどを爆撃。この爆撃を日本軍の仕業と世界中に宣伝
8月23日、支那軍が上海のデパートを爆撃。この爆撃も日本軍の仕業と世界中に宣伝

8月~11月、【上海戦】(支那事変最大の激戦)




これが「第二次上海事変」と言われる上海戦の始まりであり、その後も長く長く続く戦争の始まりだった。







8月13日追加

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070813-00000001-scn-cn

【中国】【今日は何の日】1937年:第二次上海事変が起きる
8月13日8時16分配信 サーチナ・中国情報局

 1937年8月13日、第二次上海事変が始まった。

 同年7月7日に起きた盧溝橋事件をきっかけに、華北では日本軍と中国軍(国民政府軍)が衝突。上海でも緊張が続いていた。

 8月9日、日本海軍上海特別陸戦隊中隊長の大山勇夫中尉と、運転手の斉藤要蔵一等水兵が車に乗って中国の軍用空港だった上海虹橋飛行場に向かったところ、共同租界用の自由通行路上で中国保安隊隊員との間で銃撃戦が発生。日本側は大山中隊長と斉藤一等水兵が死亡、中国側は保安隊の隊員1一人が死亡した。

 これを受け、日本総領事は上海市長に対し、国際租界とフランス特権区域の隣接区域からの中国保安軍の一時撤退を提案。しかし12日、中国正規軍が上海国際共同租界の日本人居住区域を包囲した。

 英米仏政府は上海での戦闘を避けるため、日中政府に対して直接交渉を勧め、事態の打開策を提案した。しかし13日、現地上海で国民党軍と日本軍の衝突が発生。黄埔江の日本艦隊は中国軍を砲撃した。

 15日、日本側は正式に松井石根大将を司令官とする上海派遣軍を編成。これにより、日中戦争は本格的に華中にまで拡大した。

 以降、日中両軍は3カ月にわたり激戦を展開。兵力は中国側が上回っていたが、日本側が制空権、制海権を握り、10月26日、上海近郊の要所である大場鎮が陥落。国民党軍は南京方面に撤退し、11月、上海は日本軍によって占領された。

 なお、「第二次上海事変」とは、1932年に上海で起きた日本人僧侶襲撃事件を発端とする日中の衝突を「第一次上海事変」と呼ぶのに対し、区別して「第二次」と呼ぶ。9日に虹橋飛行場で発生した銃撃戦をもって「第二次上海事変」の始まりとする場合もある。
(編集担当:梅本可奈子・如月隼人)







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