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正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現
嘘の歴史に騙されるな!日本最優先政治、日本国民の生命と財産と自由を守る核武装、日韓断交を実現しよう!マスゴミの嘘や洗脳工作を許すな!がんばれ!日本国民党!
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安倍「韓国、台湾、中国などの成長を日本が支えた」米議会演説・韓国「謝罪も慰安婦もないニダ!」
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「日本が、韓国 台湾 中国などの成長を支えた」日本の首相として初めて米議会の上下両院合同会議で演説する安倍首相
「日本が、韓国 台湾 中国などの成長を支えた」
日本の首相として初めて米議会の上下両院合同会議で演説する安倍首相


http://www.nikkei.com/article/DGXLASFS29H1E_Z20C15A4M10600/
首相の米議会演説の全文
2015/4/30 1:33、日経新聞

■はじめに

 議長、副大統領、上院議員、下院議員の皆様、ゲストと、すべての皆様、1957年6月、日本の首相としてこの演台に立った私の祖父、岸信介は、次のように述べて演説を始めました。

 「日本が、世界の自由主義国と提携しているのも、民主主義の原則と理想を確信しているからであります」。以来58年、このたびは上下両院合同会議に日本国首相として初めてお話する機会を与えられましたことを、光栄に存じます。お招きに、感謝申し上げます。


日本の首相として初めて米議会の上下両院合同会議で演説する安倍首相(29日、ワシントン)=共同
日本の首相として初めて米議会の上下両院合同会議で演説する安倍首相(29日、ワシントン)=共同

 申し上げたいことはたくさんあります。でも「フィリバスター」(長時間演説による議事妨害)をする意図、能力ともに、ありません。皆様を前にして胸中を去来しますのは、日本が大使としてお迎えした偉大な議会人のお名前です。

 マイク・マンスフィールド、ウォルター・モンデール、トム・フォーリー、そしてハワード・ベーカー。民主主義の輝くチャンピオンを大使として送って下さいましたことを、日本国民を代表して、感謝申し上げます。

 キャロライン・ケネディ大使も、米国民主主義の伝統を体現する方です。大使の活躍に、感謝申し上げます。私ども、残念に思いますのは、ダニエル・イノウエ上院議員がこの場においでにならないことです。日系アメリカ人の栄誉とその達成を、一身に象徴された方でした。

■アメリカと私

 私個人とアメリカとの出会いは、カリフォルニアで過ごした学生時代にさかのぼります。家に住まわせてくれたのは、キャサリン・デル・フランシア夫人。寡婦でした。亡くした夫のことを、いつもこう言いました、「ゲイリー・クーパーより男前だったのよ」と。心から信じていたようです。

 ギャラリーに、私の妻、昭恵がいます。彼女が日ごろ、私のことをどう言っているのかはあえて聞かないことにします。デル・フランシア夫人のイタリア料理は、世界一。彼女の明るさと親切は、たくさんの人をひきつけました。その人たちがなんと多様なこと。「アメリカは、すごい国だ」。驚いたものです。

 のち、鉄鋼メーカーに就職した私は、ニューヨーク勤務の機会を与えられました。

 上下関係にとらわれない実力主義。地位や長幼の差に関わりなく意見を戦わせ、正しい見方ならちゅうちょなく採用する。

 この文化に毒されたのか、やがて政治家になったら、先輩大物議員たちに、アベは生意気だと随分言われました。

■アメリカ民主主義と日本

 私の名字ですが、「エイブ」ではありません。アメリカの方に時たまそう呼ばれると、悪い気はしません。民主政治の基礎を、日本人は、近代化を始めてこのかた、ゲティズバーグ演説の有名な一節に求めてきたからです。

 農民大工の息子が大統領になれる――、そういう国があることは、19世紀後半の日本を、民主主義に開眼させました。日本にとって、アメリカとの出会いとは、すなわち民主主義との遭遇でした。出会いは150年以上前にさかのぼり、年季を経ています。

■第2次大戦メモリアル

 先刻私は、第2次大戦メモリアルを訪れました。神殿を思わせる、静謐(せいひつ)な場所でした。耳朶(じだ)を打つのは、噴水の、水の砕ける音ばかり。一角にフリーダム・ウォールというものがあって、壁面には金色の、4000個を超す星が埋め込まれている。その星一つ、ひとつが、斃(たお)れた兵士100人分の命を表すと聞いたとき、私を戦慄が襲いました。

 金色(こんじき)の星は、自由を守った代償として、誇りのシンボルに違いありません。しかしそこには、さもなければ幸福な人生を送っただろうアメリカの若者の、痛み、悲しみが宿っている。家族への愛も。

 真珠湾、バターン・コレヒドール、珊瑚海……、メモリアルに刻まれた戦場の名が心をよぎり、私はアメリカの若者の、失われた夢、未来を思いました。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。私は深い悔悟を胸に、しばしその場に立って、黙とうをささげました。

 親愛なる、友人の皆さん、日本国と、日本国民を代表し、先の戦争に斃れた米国の人々の魂に、深い一礼をささげます。とこしえの、哀悼をささげます。

■かつての敵、今日の友

 みなさま、いまギャラリーに、ローレンス・スノーデン海兵隊中将がお座りです。70年前の2月、23歳の海兵隊大尉として中隊を率い、硫黄島に上陸した方です。近年、中将は、硫黄島で開く日米合同の慰霊祭にしばしば参加してこられました。こう、おっしゃっています。

 「硫黄島には、勝利を祝うため行ったのではない、行っているのでもない。その厳かなる目的は、双方の戦死者を追悼し、栄誉をたたえることだ」

 もうおひとかた、中将の隣にいるのは、新藤義孝国会議員。かつて私の内閣で閣僚を務めた方ですが、この方のおじいさんこそ、勇猛がいまに伝わる栗林忠道大将・硫黄島守備隊司令官でした。これを歴史の奇跡と呼ばずして、何をそう呼ぶべきでしょう。

 熾烈(しれつ)に戦い合った敵は、心の紐帯(ちゅうたい)が結ぶ友になりました。スノーデン中将、和解の努力を尊く思います。ほんとうに、ありがとうございました。


■アメリカと戦後日本

 戦後の日本は、先の大戦に対する痛切な反省を胸に、歩みを刻みました。自らの行いが、アジア諸国民に苦しみを与えた事実から目をそむけてはならない。これらの点についての思いは、歴代首相と全く変わるものではありません。

 アジアの発展にどこまでも寄与し、地域の平和と、繁栄のため、力を惜しんではならない。自らに言い聞かせ、歩んできました。この歩みを、私は、誇りに思います。焦土と化した日本に、子ども達の飲むミルク、身につけるセーターが、毎月毎月、米国の市民から届きました。山羊も、2036頭、やってきました。


米議会で演説する安倍首相=ロイター
米議会で演説する安倍首相=ロイター

 米国が自らの市場を開け放ち、世界経済に自由を求めて育てた戦後経済システムによって、最も早くから、最大の便益を得たのは、日本です。下って1980年代以降、韓国が、台湾が、東南アジア諸国連合(ASEAN)諸国が、やがて中国が勃興します。今度は日本も、資本と、技術を献身的に注ぎ、彼らの成長を支えました。一方米国で、日本は外国勢として2位、英国に次ぐ数の雇用を作り出しました。

■環太平洋経済連携協定(TPP)

 こうして米国が、次いで日本が育てたものは、繁栄です。そして繁栄こそは、平和の苗床です。日本と米国がリードし、生い立ちの異なるアジア太平洋諸国に、いかなる国の恣意的な思惑にも左右されない、フェアで、ダイナミックで、持続可能な市場をつくりあげなければなりません。

 太平洋の市場では、知的財産がフリーライドされてはなりません。過酷な労働や、環境への負荷も見逃すわけにはいかない。許さずしてこそ、自由、民主主義、法の支配、私たちが奉じる共通の価値を、世界に広め、根づかせていくことができます。

 その営為こそが、TPPにほかなりません。しかもTPPには、単なる経済的利益を超えた、長期的な、安全保障上の大きな意義があることを、忘れてはなりません。

 経済規模で、世界の4割、貿易量で、世界の3分の1を占める一円に、私たちの子や、孫のために、永続的な「平和と繁栄の地域」をつくりあげていかなければなりません。日米間の交渉は、出口がすぐそこに見えています。米国と、日本のリーダーシップで、TPPを一緒に成し遂げましょう。


■強い日本へ、改革あるのみ

 実は……、いまだから言えることがあります。20年以上前、関税貿易一般協定(GATT)農業分野交渉の頃です。血気盛んな若手議員だった私は、農業の開放に反対の立場をとり、農家の代表と一緒に、国会前で抗議活動をしました。

 ところがこの20年、日本の農業は衰えました。農民の平均年齢は10歳上がり、いまや66歳を超えました。

 日本の農業は、岐路にある。生き残るには、いま、変わらなければなりません。私たちは、長年続いた農業政策の大改革に立ち向かっています。60年も変わらずにきた農業協同組合の仕組みを、抜本的に改めます。

 世界標準にのっとって、コーポレート・ガバナンスを強めました。医療・エネルギーなどの分野で、岩盤のように固い規制を、私自身が槍(やり)の穂先となりこじあけてきました。人口減少を反転させるには、何でもやるつもりです。女性に力をつけ、もっと活躍してもらうため、古くからの慣習を改めようとしています。

 日本はいま、「クォンタム・リープ(量子的飛躍)」のさなかにあります。親愛なる、上院、下院議員の皆様、どうぞ、日本へ来て、改革の精神と速度を取り戻した新しい日本を見てください。日本は、どんな改革からも逃げません。ただ前だけを見て構造改革を進める。この道のほか、道なし。確信しています。

■戦後世界の平和と、日本の選択

 親愛なる、同僚の皆様、戦後世界の平和と安全は、アメリカのリーダーシップなくして、ありえませんでした。省みて私が心から良かったと思うのは、かつての日本が、明確な道を選んだことです。その道こそは、冒頭、祖父の言葉にあったとおり、米国と組み、西側世界の一員となる選択にほかなりませんでした。

 日本は、米国、そして志を共にする民主主義諸国とともに、最後には冷戦に勝利しました。この道が、日本を成長させ、繁栄させました。そして今も、この道しかありません。

■地域における同盟のミッション

 私たちは、アジア太平洋地域の平和と安全のため、米国の「リバランス」(再均衡)を支持します。徹頭徹尾支持するということを、ここに明言します。

 日本はオーストラリア、インドと、戦略的な関係を深めました。ASEANの国々や韓国と、多面にわたる協力を深めていきます。日米同盟を基軸とし、これらの仲間が加わると、私たちの地域は格段に安定します。日本は、将来における戦略的拠点の一つとして期待されるグアム基地整備事業に、28億ドルまで資金協力を実施します。

 アジアの海について、私がいう3つの原則をここで強調させてください。第1に、国家が何か主張をするときは、国際法にもとづいてなすこと。第2に、武力や威嚇は、自己の主張のため用いないこと。そして第3に、紛争の解決は、あくまで平和的手段によること。

 太平洋から、インド洋にかけての広い海を、自由で、法の支配が貫徹する平和の海にしなければなりません。そのためにこそ、日米同盟を強くしなくてはなりません。私たちには、その責任があります。


 日本はいま、安保法制の充実に取り組んでいます。実現のあかつき、日本は、危機の程度に応じ、切れ目のない対応が、はるかによくできるようになります。この法整備によって、自衛隊と米軍の協力関係は強化され、日米同盟は、より一層堅固になります。それは地域の平和のため、確かな抑止力をもたらすでしょう。

 戦後、初めての大改革です。この夏までに、成就させます。ここで皆様にご報告したいことがあります。一昨日、ケリー国務長官、カーター国防長官は、私たちの岸田外相、中谷防衛相と会って、協議をしました。いま申し上げた法整備を前提として、日米がそのもてる力をよく合わせられるようにする仕組みができました。一層確実な平和を築くのに必要な枠組みです。

 それこそが、日米防衛協力の新しいガイドラインにほかなりません。昨日、オバマ大統領と私は、その意義について、互いに認め合いました。皆様、私たちは、真に歴史的な文書に、合意をしたのです。

■日本が掲げる新しい旗

 1990年代初め、日本の自衛隊は、ペルシャ湾で機雷の掃海に当たりました。後、インド洋では、テロリストや武器の流れを断つ洋上作戦を、10年にわたって支援しました。その間、5万人にのぼる自衛隊員が、人道支援や平和維持活動に従事しました。カンボジア、ゴラン高原、イラク、ハイチや南スーダンといった国や、地域においてです。

 これら実績をもとに、日本は、世界の平和と安定のため、これまで以上に責任を果たしていく。そう決意しています。そのために必要な法案の成立を、この夏までに、必ず実現します。

 国家安全保障に加え、人間の安全保障を確かにしなくてはならないというのが、日本の不動の信念です。人間一人ひとりに、教育の機会を保障し、医療を提供し、自立する機会を与えなければなりません。紛争下、常に傷ついたのは、女性でした。わたしたちの時代にこそ、女性の人権が侵されない世の中を実現しなくてはいけません。

 自衛隊員が積み重ねてきた実績と、援助関係者たちがたゆまず続けた努力と、その両方の蓄積は、いまやわたしたちに、新しい自己像を与えてくれました。いまや私たちが掲げるバナーは、「国際協調主義にもとづく、積極的平和主義」という旗です。繰り返しましょう、「国際協調主義にもとづく、積極的平和主義」こそは、日本の将来を導く旗印となります。

 テロリズム、感染症、自然災害や、気候変動――。日米同盟は、これら新たな問題に対し、ともに立ち向かう時代を迎えました。日米同盟は、米国史全体の、4分の1以上に及ぶ期間続いた堅牢(けんろう)さを備え、深い信頼と、友情に結ばれた同盟です。自由世界第一、第二の民主主義大国を結ぶ同盟に、この先とも、新たな理由付けは全く無用です。それは常に、法の支配、人権、そして自由を尊ぶ、価値観を共にする結びつきです。

■未来への希望

 まだ高校生だったとき、ラジオから流れてきたキャロル・キングの曲に、私は心を揺さぶられました。

 「落ち込んだ時、困った時、……目を閉じて、私を思って。私は行く。あなたのもとに。たとえそれが、あなたにとっていちばん暗い、そんな夜でも、明るくするために」

 2011年3月11日、日本に、いちばん暗い夜がきました。日本の東北地方を、地震と津波、原発の事故が襲ったのです。そして、そのときでした。米軍は、未曽有の規模で救難作戦を展開してくれました。本当にたくさんの米国人の皆さんが、東北の子供たちに、支援の手を差し伸べてくれました。

 私たちには、トモダチがいました。被災した人々と、一緒に涙を流してくれた。そしてなにものにもかえられない、大切なものを与えてくれた。希望、です。米国が世界に与える最良の資産、それは、昔も、今も、将来も、希望であった、希望である、希望でなくてはなりません。

 米国国民を代表する皆様。私たちの同盟を、「希望の同盟」と呼びましょう。アメリカと日本、力を合わせ、世界をもっとはるかに良い場所にしていこうではありませんか。希望の同盟――。一緒でなら、きっとできます。ありがとうございました。



>■かつての敵、今日の友
> みなさま、いまギャラリーに、ローレンス・スノーデン海兵隊中将がお座りです。70年前の2月、23歳の海兵隊大尉として中隊を率い、硫黄島に上陸した方です。近年、中将は、硫黄島で開く日米合同の慰霊祭にしばしば参加してこられました。こう、おっしゃっています。
> 「硫黄島には、勝利を祝うため行ったのではない、行っているのでもない。その厳かなる目的は、双方の戦死者を追悼し、栄誉をたたえることだ」
> もうおひとかた、中将の隣にいるのは、新藤義孝国会議員。かつて私の内閣で閣僚を務めた方ですが、この方のおじいさんこそ、勇猛がいまに伝わる栗林忠道大将・硫黄島守備隊司令官でした。これを歴史の奇跡と呼ばずして、何をそう呼ぶべきでしょう。
> 熾烈(しれつ)に戦い合った敵は、心の紐帯(ちゅうたい)が結ぶ友になりました。スノーデン中将、和解の努力を尊く思います。ほんとうに、ありがとうございました。



この部分は、米議会の上下両院合同会議の出席者にとって共通の関心事であり、「かつての敵、今日の友」を強調するために、非常に良い話だった。

日本のマスゴミは、支那や韓国が狂ったように主張する「侵略」、「植民地支配」、「慰安婦」、「謝罪」などに言及すべきなどと言っているが、米議会で日本の首相が行う演説で「侵略」、「植民地支配」、「慰安婦」、「謝罪」の言及は不適切だ。

米議会での日本国首相の演説としては、上記の硫黄島に関する演説は、非常に良かった。






>戦後の日本は、先の大戦に対する痛切な反省を胸に、歩みを刻みました。自らの行いが、アジア諸国民に苦しみを与えた事実から目をそむけてはならない。これらの点についての思いは、歴代首相と全く変わるものではありません。


「自らの行いが、アジア諸国民に苦しみを与えた事実から目をそむけてはならない。」という部分は漠然としているが、変な誤解を与える発言であり、要らなかった。

また、「これらの点についての思いは、歴代首相と全く変わるものではありません。」という部分は、村山談話を踏襲していることを表現したのだろう。

本来であれば村山談話など踏襲せずに破棄すべきだが、安倍政権は既に村山談話の踏襲を明確に表明している以上、歴史認識として必要最低限の文言にとどめるために挿入したと言えよう。






>焦土と化した日本に、子ども達の飲むミルク、身につけるセーターが、毎月毎月、米国の市民から届きました。山羊も、2036頭、やってきました。


戦後の米国による日本への食糧支援の話が出ると、どうしても4月29日付け当ブログ記事の先帝陛下(昭和天皇)とマッカーサーの逸話を思い起こしてしまう。





「日本が、韓国 台湾 中国などの成長を支えた」日本の首相として初めて米議会の上下両院合同会議で演説する安倍首相
>米国が自らの市場を開け放ち、世界経済に自由を求めて育てた戦後経済システムによって、最も早くから、最大の便益を得たのは、日本です。下って1980年代以降、韓国が、台湾が、東南アジア諸国連合(ASEAN)諸国が、やがて中国が勃興します。今度は日本も、資本と、技術を献身的に注ぎ、彼らの成長を支えました。


日本が韓国、台湾、東南アジア諸国、支那に対して、資本と技術を献身的に注ぎ、成長を支えたことは、紛れもない事実だ。

でも、韓国人は、いわゆる「漢江の奇跡」についても、日本のお蔭ではなく、自分たちの力で成し遂げたと思い込んでいるから火病を発症させる可能性が高い。

また、台湾のことを韓国や東南アジア諸国や支那と同等に並列に挙げたことについては、支那が怒る可能性が高い。






>こうして米国が、次いで日本が育てたものは、繁栄です。そして繁栄こそは、平和の苗床です。日本と米国がリードし、生い立ちの異なるアジア太平洋諸国に、いかなる国の恣意的な思惑にも左右されない、フェアで、ダイナミックで、持続可能な市場をつくりあげなければなりません。


前文から続いているので、「韓国、台湾、東南アジア諸国、支那は、日本が育てた」とも解釈できる。

実際には、韓国と支那については、資本と技術を献身的に注ぎ、彼らの成長を支え、育てたことは間違いだったわけだが。

また、「いかなる国の恣意的な思惑にも左右されない、フェアで、ダイナミックで、持続可能な市場をつくりあげなければなりません。」の部分については、アジアインフラ投資銀行(AIIB)を意識した言及と考えられる。






> その営為こそが、TPPにほかなりません。しかもTPPには、単なる経済的利益を超えた、長期的な、安全保障上の大きな意義があることを、忘れてはなりません。
> 経済規模で、世界の4割、貿易量で、世界の3分の1を占める一円に、私たちの子や、孫のために、永続的な「平和と繁栄の地域」をつくりあげていかなければなりません。日米間の交渉は、出口がすぐそこに見えています。米国と、日本のリーダーシップで、TPPを一緒に成し遂げましょう。



これは、軽率な発言としか言い様がない。

こんなことを言ったら、米国政府からTPP合意への言質とも捉えられてしまう。

そもそも米国の議員の中にもTPPの成立に反対している議員は多数存在しているのだから、このような米議会の上下両院合同会議での演説ではTPPについては一切言及すべきではなかった。






>日本はオーストラリア、インドと、戦略的な関係を深めました。ASEANの国々や韓国と、多面にわたる協力を深めていきます。日米同盟を基軸とし、これらの仲間が加わると、私たちの地域は格段に安定します。日本は、将来における戦略的拠点の一つとして期待されるグアム基地整備事業に、28億ドルまで資金協力を実施します。


韓国は要らない。

あの国のあの法則」(Kの法則)が発動してしまうから。






> アジアの海について、私がいう3つの原則をここで強調させてください。第1に、国家が何か主張をするときは、国際法にもとづいてなすこと。第2に、武力や威嚇は、自己の主張のため用いないこと。そして第3に、紛争の解決は、あくまで平和的手段によること。
> 太平洋から、インド洋にかけての広い海を、自由で、法の支配が貫徹する平和の海にしなければなりません。そのためにこそ、日米同盟を強くしなくてはなりません。私たちには、その責任があります。



この部分は、支那による海洋侵略を強く意識した発言であり、演説で言及しておくことは効果的だろう。


(参考)
5: エルボードロップ(チベット自治区)@\(^o^)/ 2015/04/30(木) 01:40:42.82 ID:jYcCG6dQ0.net
スタンディング・オベーションは何回あるかで評価が~って見たけど、何回あったの?

26: リバースネックブリーカー(東京都)@\(^o^)/ 2015/04/30(木) 01:49:31.58 ID:mMj4Kqx80.net
>>5
実況見て来たけど、スタンディングオベーションは14~15回位だったようだよ



49: ダブルニードロップ(家)@\(^o^)/ 2015/04/30(木) 02:00:59.51 ID:9hD0tVww0.net
NHKを久々に見た。今年初めてかも。

演説後のNHK解説

歴史認識ガー中国と韓国の反省ガー
先の大戦の反省ガー村山談話の継承ガー
マイク・ホンダと反日デモガー
集団的自衛権は共産党と民主党の反省ガー

興奮を隠しきれず、最後は放送ぶった切って終了。

これ、放送法違反だろ。NHK解体しろよ。
左巻きで発狂したオッサンの愚痴垂れ流しを「解説」と呼ぶなよ。


拍手促すわろたwwwww - コピー
ネット上で話題となっている安倍首相のカンペ
「(顔上げ拍手促す)」などの記載もある。






さて、この安倍首相の米議会の上下両院合同会議での演説について、韓国では「謝罪がないニダ!」、「慰安婦についての言及がないニダ!」などと、早くも火病が発症しまくっている!

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150430-00000005-jij-kr
「期待に届かず」と批判=謝罪、慰安婦言及なし―韓国通信社
時事通信 4月30日(木)1時7分配信

 【ソウル時事】韓国の聯合ニュースは30日、安倍晋三首相の米議会上下両院合同会議での演説について、「『植民地支配と侵略』などの表現や明確な謝罪の言葉がない上、慰安婦問題には全く言及しなかった」と指摘した。その上で、「歴史に対する謝罪と反省を求めた周辺国の期待に遠く届かなかった」と批判した。

 聯合は「第2次安倍政権が、第2次大戦に関して『アジア諸国民に苦しみを与えた』と言及したのは初めて」と指摘。一方で、慰安婦問題に言及しないまま「女性の人権が侵されない世の中を実現しなくてはいけない」と強調したと皮肉った。

 さらに、「韓国などアジアへの謝罪をせず、太平洋戦争と米国人には強い言葉で反省を示す矛盾した態度を見せた」と批判した。



>韓国の聯合ニュースは30日、安倍晋三首相の米議会上下両院合同会議での演説について、「『植民地支配と侵略』などの表現や明確な謝罪の言葉がない上、慰安婦問題には全く言及しなかった」と指摘した。


日本国首相が米議会で行う演説の内容に、慰安婦問題への言及があったら、それは余りにも的外れだ。

『植民地支配と侵略』については、「自らの行いが、アジア諸国民に苦しみを与えた事実から目をそむけてはならない。これらの点についての思いは、歴代首相と全く変わるものではありません。」と述べている。

実際には日本は『植民地支配と侵略』を行っておらず、本来は上記の部分も不要だが、安倍政権は既に村山談話の踏襲を表明しているために致し方ない。

今後の日本の課題だ。

それでも、特アや反日マスゴミが連日求めてきた『植民地支配と侵略』などの表現や明確な謝罪をしなかったことは、一歩前進と言えよう。


↓ ↓ ↓

http://www.news24.jp/articles/2015/04/30/10274099.html
首相演説 韓国は批判、中国は評価避ける
2015年4月30日 17:30
首相演説 韓国は批判、中国は評価避ける

 アメリカ議会での安倍首相の演説について、韓国政府は「誠意ある謝罪がなかったことは非常に遺憾だ」と批判している。

 韓国外務省の報道官は30日午後3時半から会見し、声明を発表した。安倍首相の演説が「周辺国との和解をもたらす転換点になり得たにもかかわらず、そのような認識も誠意ある謝罪もなかった。非常に遺憾だ」と批判している。

 そして、「日本は植民地支配や侵略、従軍慰安婦への人権蹂躙(じゅうりん)を直視し、正しい歴史認識を持って周辺国との和解と協力の道を歩むべきだ」と述べた。

 一方、東京の中国大使館の何報道官は「安倍首相の演説に注目していた」と述べたが、直接の評価は避け、「歴史問題について対外的にどのようなメッセージを発信するかは、日本が平和・発展の道を堅持していけるかの試金石になると思う」としている。



> 一方、東京の中国大使館の何報道官は「安倍首相の演説に注目していた」と述べたが、直接の評価は避け、「歴史問題について対外的にどのようなメッセージを発信するかは、日本が平和・発展の道を堅持していけるかの試金石になると思う」としている。


意外と支那は辛抱強かった。

支那は、日本に余ほどアジアインフラ投資銀行(AIIB)に参加してほしいのだろう。

でも、日本は絶対に最後までAIIBに参加してはいけない。



左:『21世紀の「脱亜論」――中国・韓国との訣別』 西村幸祐著 2015/4/2
右:『パラオはなぜ「世界一の親日国」なのか~ 天皇の島ペリリューでかくも勇敢に戦った日本軍将兵』井上和彦著 2015/3/12

「演説は一歩前進!韓国は狂ってる!」

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テーマ:国際政治 - ジャンル:政治・経済

李容洙「英語も分からないまま台湾にある神風部隊に連行された。電気拷問まで受けた」などと嘘証言
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23日、米ワシントンの下院議員会館内で、記者会見する韓国人元慰安婦の李容洙さん。
4月23日、米ワシントンの下院議員会館内で、記者会見する韓国人元慰安婦の李容洙

元従軍慰安婦の李容洙(イ・ヨンス)「満16歳の時に英語も分からないまま日本軍に連行されていったのが台湾にある日本軍の神風部隊だった。そこで、電気拷問まで受けた。」4月26日、ハーバード大学で証言

http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2015/04/28/2015042800704_2.html
安倍訪米:安倍首相、謝罪はせずに解決努力をアピール
記事入力 : 2015/04/28、朝鮮日報

謝罪なしで「胸が痛む」…元慰安婦「日本の謝罪受けるのが望み」
ハーバード大に立った安倍首相と元慰安婦


(一部抜粋)

■元慰安婦「安倍首相、何も変わっていない」

安倍講演前日に講壇に立つ

「歴史の生き証人がいるのに、日本はうそを言い続けている」

 「満16歳の時に英語も分からないまま日本軍に連行されていったのが台湾にある日本軍の神風部隊だった。そこで、日本軍兵士の部屋に入らないと言って殴られ、電気拷問まで受けた。拷問の後遺症で今も幻聴・幻覚に悩まされ、ろくに眠れない。このように歴史の生き証人がいるのにもかかわらず、日本の安倍首相はうそをつき続けている」

 訪米中の安倍首相が訪れた場所で、元従軍慰安婦の李容洙(イ・ヨンス)さん(86)がハーバード大学の学生や世界各国のメディアに対し日本の慰安婦犯罪を告発した。李容洙さんは安倍首相がハーバード大学で講演する前日の26日午後、同大学のフォン(Fong)講堂で同大学生70人と1時間半にわたり懇談し、自ら経験した慰安婦の惨状について証言した。

 李容洙さんが同大学を訪れ学生たちと会ったのはこれが2回目だ。李容洙さんは安倍首相が第1次安倍内閣だった2007年4月、ジョージ・W・ブッシュ米大統領と首脳会談をするために訪米した時も「慰安婦の実状」をテーマに同大学の学生たちの前で講演した。8年ぶりにハーバード大学を訪れた李容洙さんは「安倍首相は何一つ変わっていない。むしろ慰安婦が売春婦だったと罵倒(ばとう)する日本の極右勢力の歴史歪曲(わいきょく)を主導している」と言った。

李容洙さんがおぞましくつらい経験を淡々と語ると、懇談会場は静まり返った。「慰安所に連れて行かれる船の中で、日本軍兵士により強姦(ごうかん)されて処女を失った。ショックを受けて死にたいと思ったが、死ぬ勇気はとてもなかった。慰安所で拷問を受けた後は、殴られないようにされるがままにしなければならなかった」

 「自分がなぜ慰安婦と呼ばれなければならないのか」と言った時、李容洙さんの声は震えていた。「私には両親がつけた李容洙という名前がある。しかし、日本軍のせいで『李容洙』ではなく『慰安婦』として結婚もできないまま一生、一人で生きなければならなかった」と語った。



> 「満16歳の時に英語も分からないまま日本軍に連行されていったのが台湾にある日本軍の神風部隊だった。そこで、日本軍兵士の部屋に入らないと言って殴られ、電気拷問まで受けた。…」


この李容洙(イ・ヨンス)という嘘吐き婆は、「満16歳の時に英語も分からないまま日本軍に連行されていったのが台湾にある日本軍の神風部隊」などと言っているが、当時英語は敵性語として日本の内地でも朝鮮でも台湾でも禁止されていたし、台湾には神風部隊などなかった。

その上、慰安婦は17歳とか18歳以上しか募集されていなかった。

いったい、何を考えて、李容洙は「英語も分からないまま日本軍によって台湾にある神風部隊に連行された」とか嘘を吐いているのか?!

たったひと言の証言の中に、すぐにばれる嘘が3つも4つも含まれてるのに、朝鮮日報もそのまま報道するのだから、マヌケ過ぎる。






>李容洙さんが同大学を訪れ学生たちと会ったのはこれが2回目だ。李容洙さんは安倍首相が第1次安倍内閣だった2007年4月、ジョージ・W・ブッシュ米大統領と首脳会談をするために訪米した時も「慰安婦の実状」をテーマに同大学の学生たちの前で講演した。


李容洙は、2007年にはハーバード大学のみならず、米下院公聴会でも嘘出鱈目のオンパレードを披露している。





>李容洙さんがおぞましくつらい経験を淡々と語ると、懇談会場は静まり返った。


そりゃー、「満16歳の時に英語も分からないまま日本軍に連行されていったのが台湾にある日本軍の神風部隊だった。そこで電気拷問まで受けた。…」などと嘘出鱈目のオンパレードを語られたら、マトモな思考力がある聴衆は静まり返ってしまうだろう。





>「自分がなぜ慰安婦と呼ばれなければならないのか」と言った時、李容洙さんの声は震えていた。「私には両親がつけた李容洙という名前がある。しかし、日本軍のせいで『李容洙』ではなく『慰安婦』として結婚もできないまま一生、一人で生きなければならなかった」と語った。


『李容洙』という嘘吐き婆が結婚できない理由はいろいろありそうだが、虚言癖が酷いのが最大の原因かもしれない。




▼李容洙(2007年米下院公聴会での証言者)の嘘のオンパレ▼

李容洙の証言には一貫性がなく、話す度に連行された時の年齢や状況などが食い違っている。

また、売春婦をしていた期間についても、1945年に戦争が終わったにもかかわらず、「1944年から1947年までの3年間、日本軍の慰安婦を強制された」と嘘丸出しの証言をしていた。


1992/08/23, 朝日新聞
1992年に採録された韓国挺身隊問題協議会の証言記録
●1944年、満16歳の秋、友人に誘われて、日本人の男の人のところへ行き、即座について行った(他の4人の韓国人女性とともに台湾へ連れて行かれた)。
↑日本軍向け慰安婦は17歳とか18歳以上しか募集されていなかった。

1995/11/27, 中日新聞
1996/07/17, 朝日新聞
●14歳の時、中国の大連から台湾に軍隊と一緒に軍用船で強制連行され、17歳まで兵士の相手をさせられた。

1996/08/10, 中国新聞
●15歳の時に川で水遊びしていてら致され、途中さまざまなごう問を受けながら中国・大連を経て軍用船で台湾へ。

2002年6月26日(水)「しんぶん赤旗」
●14歳で銃剣をつき付けられて連れてこられた。

2004年12月4日全国同時証言集会・京都
2004/12/05, 朝日新聞
1944年、16歳の時に韓国・大邱から「軍服みたいな服を着た男」に連行され、台湾へ。…
日本軍「慰安婦」としての生活を3年間強制された

↑1945年に大東亜戦争が終わったのだから、1947年まで日本軍「慰安婦」を強制されたなんて絶対に有り得ない。

嘘吐き朝鮮人売春婦の李容洙

●2007年の証言
「1944年15歳の時に連行され1945年に解放とされた」と修正申告。

2004年の証言と2007年の証言が違うのではという指摘に対し、李自身は「私はどちらもそういう風に喋っていない、私が喋ったことが毎回違うと言う人がいるそうだが、集会で話すための持ち時間も違うし、なんにせよ私の体験全部は話せない。その時の選択で喋り方が変わった事をどうして嘘をついたというのか?」と意味不明な反論。

李容洙「英語も分からないまま台湾にある神風部隊に連行された。電気拷問まで受けた。」
2015/04/28、朝鮮日報
2015年の証言(4月26日、ハーバード大で)
●満16歳の時に英語も分からないまま日本軍に連行されていったのが台湾にある日本軍の神風部隊だった。そこで、電気拷問まで受けた。←NEW!!

↑当時英語は敵性語で日本の内地でも台湾でも禁止だった。
台湾に神風部隊はなかった!



左:『21世紀の「脱亜論」――中国・韓国との訣別』 西村幸祐著 2015/4/2
右:『パラオはなぜ「世界一の親日国」なのか~ 天皇の島ペリリューでかくも勇敢に戦った日本軍将兵』井上和彦著 2015/3/12

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昭和天皇とパラオのペリリュー島の戦い・昭和の日・日本国民を励ました先帝陛下のお言葉と全国ご巡幸
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先帝陛下(昭和天皇)昭和の日
先帝陛下(昭和天皇)

http://www.sankei.com/life/news/150416/lif1504160020-n1.html
両陛下、武蔵陵墓地ご参拝 パラオ慰霊訪問を報告される
2015.4.16 11:59、産経新聞

昭和天皇の武蔵野陵を参拝し、パラオ訪問について報告された天皇陛下=16日午前、東京都八王子市
昭和天皇の武蔵野陵を参拝し、パラオ訪問について報告された天皇陛下=16日午前、東京都八王子市

 天皇、皇后両陛下は16日午前、東京都八王子市の武蔵陵墓地にある昭和天皇の武蔵野陵(むさしののみささぎ)と香淳皇后の武蔵野東陵(むさしののひがしのみささぎ)を参拝し、パラオ共和国への慰霊訪問を終えたことを報告された。

 両陛下の2陵ご参拝は、外国訪問前後の慣例。陛下はモーニング姿、皇后さまはグレーの参拝服姿で、武蔵野陵、武蔵野東陵の順にお一人ずつ足を運び、深々と頭を下げられた。

 両陛下はともに3月下旬から風邪の症状がみられ、完全に回復しないまま4月8、9日の強行日程でパラオ訪問を果たされた。宮内庁幹部は「お疲れになったと思うが、帰国翌日から普段通りの生活に戻られている」としている。


両陛下、パラオ訪問を報告 昭和天皇の武蔵野陵を参拝
両陛下がパラオ慰霊訪問を報告されるため、昭和天皇の武蔵野陵をご参拝(4月16日)


【先帝陛下(昭和天皇)の心を動かしたペリリュー島の戦い】

米軍は、2~3日で、パラオのペリリュー島を攻略できると計画していた。

ところが、ペリリュー島の日本軍守備隊は、1944年9月15日早朝に米軍第一海兵師団28,400名がオレンジビーチよりペリリュー島上陸作戦を開始してから、73日間にわたって、ペリリュー島を死守した!

当時、既にサイパン、グァム等で敗北が相次いでいた日本にとって、パラオのペリリュー島の大奮戦は、先帝陛下(昭和天皇)や日本軍にとっては希望の光となった。

先帝陛下(昭和天皇)は、毎朝ペリリュー島の状況を気にされていたご様子であり、「いまペリリューはどうなっておるか」と御下問されることが日課となっていた。

そして、先帝陛下(昭和天皇)は、ペリリュー島の守備隊に対し、9月15日・17日・22日10月6日・18日・24日11月2日・7日・13日・14日・20日と11回もご嘉賞(お褒め)のお言葉を送られ、感状3回を与えられている。

11回のご嘉賞の言葉を得た部隊は、その前にも後にも例がなく、先帝陛下(昭和天皇)にとってペリリュー島の戦いが、どれだけ心を動かされたものだったかが分かる。

このようなこともあり、ペリリュー島は、米軍から「天皇の島」と呼ばれた。

米第81師団長ムラー少将は、長期にわたる大苦戦の末にペリリュー島をほぼ制圧すると、「今やペリリューは天皇の島から我々の島に移った」と宣言した。

ちなみに、アメリカは、パラオ、サイパン、硫黄島、そして東京を結ぶ線について、昭和天皇がいる帝都・東京を少しでも早く攻撃するための「裕仁(ヒロヒト)(昭和天皇)ハイウェイ」と呼んでいた。

パラオ、サイパン、硫黄島、そして東京を結ぶ線をアメリカは、昭和天皇がいる帝都・東京を少しでも早く攻撃するための「裕仁(昭和天皇)ハイウェイ」と呼んでいた。

(参考)
平成5年、天皇皇后両陛下は、先帝陛下(昭和天皇)が果たされなかった沖縄御巡幸を果たされた。

平成6年、天皇皇后両陛下は、慰霊のために硫黄島をご訪問。

平成17年、天皇皇后両陛下は、慰霊のためにサイパン島をご訪問。

平成27年、天皇皇后両陛下は、慰霊のためにパラオのペリリュー島をご訪問。



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パラオ

【日本とパラオの物語】
ペリリュー島の桜花


1919年、第一次世界大戦の戦後処理をする「パリ講和会議」において、パラオは日本の委任統治領となった。

日本国政府は、当時の首都である「コロール」に南洋庁及び南洋庁西部支庁(パラオ支庁)を置き、パラオは日本の南洋周辺諸島を統治する中核的な島となった。

日本委任統治時代のパラオには、多くの日本人が移住して、最盛期の1943年(昭和18年)には約2万5千人の日本人と、当時は日本国民だった朝鮮人も約2千人が居住していた。

日本の統治時代には、パラオで、ドイツの植民地時代にはほとんど行われなかった、学校、病院、道路などのインフラの整備も重点的に行われ、首都のコロールは近代的な都市へと変貌していった。
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日本は、パラオの住民に、疾病に係る予防接種を受けさせ、また、パラオの言語を顕すための文字を持たないパラオ住民のために、学校を建てて日本語の教科書を用いた日本語教育も行った。
パラオの言語を顕すための文字をもたないパラオの住民のために、学校を立てて日本語の教科書を用いた日本語教育もしました。

日本統治後のパラオでは、それまでの白人による植民地時代とは異なり、日本人の礼儀正しさや、節度、道徳心、他民族を思いやる心などが認められ、日本人はパラオの現地住民から愛された。

パラオには、太平洋上のパラオ諸島の中に「ペリリュー島」と言う南北9キロ・東西3キロ・高さ80メートル・全体で20平方キロの珊瑚礁からできた小島がある。
このペリリュー島では、大東亜戦争の末期に、日米両軍によって実に73日間にも亘る死闘が繰り返されました

このペリリュー島では、大東亜戦争の末期に、日米両軍によって実に73日間にも亘る死闘が繰り広げられた。

1941年(昭和16年)に大東亜戦争が始まると、日本軍は「ペリリュー島」に東洋最大といわれる飛行場(1200m滑走路2本)をつくっていた。

パラオは、日本軍にとってグアムやサイパンの後方支援基地として、日本の防衛上も重要な拠点だった。
パラオは、日本軍にとってグアムやサイパンの後方支援基地として、日本の防衛上も重要な拠点だった。

大東亜戦争で日本軍が劣勢となる中、ペリリュー島は日本軍にとってフィリピン防衛の防波堤だったが、フィリピン奪還に総力をあげる米軍にとってもペリリュー島の攻略が必要となった。

1944年、米陸軍を指揮するマッカーサーは、フィリピン攻略を有利に進めるため、「ペリリュー島」を奪取しなければならなかった。

米太平洋艦隊を指揮するニミッツ提督は、マッカーサーの作戦を助けるために、第一海兵師団にペリリュー島の占領を命令し、ハルゼー大将が指揮する第三艦隊約800隻の艦艇を海兵隊支援のために差し向けた。

これら米軍は、日本軍の兵力の約4倍、航空機200倍、戦車10倍、重火砲100倍以上の軍事力であり、航空機による爆撃、軍艦からの艦砲射撃なども考慮すると、米軍が数百倍の火力で日本軍を圧倒していた。

ペリリュー島を守備する日本軍は、関東軍最強と呼ばれた第十四師団、その座下の水戸歩兵第2連隊、高崎歩兵第15連隊を主力とした地区隊、約1万2000人だった。

すでに、数百倍の軍事力に加え、制海権も制空権も握っていた米軍は、2~3日の攻撃でペリリュー島を攻略できると予測をしていた。

9月12日に米軍は、ペリリュー島に艦砲射撃と高性能焼夷弾の集中砲火を浴びせた。

ペリリュー島には「オレンジビーチ」と呼ばれる海岸があるが、ここで多くの米軍兵が戦死して、海岸が血の色に染まったことから、こう呼ばれるようになったとも言われている。
ペリリュー島には「オレンジビーチ」と呼ばれる海岸がありますが、ここで多くの米軍兵が戦死して、海岸が血の色に染まった事から、こう呼ばれるようになったとも言われています。

9月15日早朝、米軍第一海兵師団28,400名が、オレンジビーチよりペリリュー島上陸作戦を開始した。

圧倒的勢力を持つ米軍は、この上陸作戦は短期間で終結すると考え、昼食をオレンジビーチで取る予定でいた。

ところが、日本軍守備隊は激しく抵抗して持久戦に持ち込み、米軍第一海兵師団は全体の50%もの損失を出したので一旦撤退し上陸戦は長期化した。

11月24日、生き残った日本軍将兵はわずか60人足らずとなり、司令部陣地の弾薬もほとんど底をついたところで、司令部はついに玉砕の決断を下した。

守備隊長の中川州男大佐、師団派遣参謀の村井権治郎少将、飯田義栄中佐の割腹自決の後、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文が送られて、翌朝にかけて根本甲子郎大尉を中心とした55名の残存兵による万歳突撃が行われた。

結局、米軍が上陸完了をしたのは11月27日だった。

日本軍は、実に73日間にわたって、ペリリュー島を死守したのだった!

日本本土に送られた「サクラサクラ」、この六文字の電文は、ペリリュー島守備隊全員が「桜花のごとく散った」ということを伝えるためのものだった。
日本本土に送られた「サクラサクラ」、この六文字の電文は、ペリリュー島守備隊全員が「桜花のごとく散った」、という事を伝えるためのものでした

ペリリュー島には現住民が住んでいたが、壮絶で長い戦闘が繰り広げられたにもかかわらず、ペリリュー島の民間人には、ただの1人の犠牲者もでなかった。

ペリリュー島民は、日本人を尊敬していたので大人も子供も日本軍と一緒に戦う決意をしていたが、日本軍が島民を戦火に巻き込んではならないとしたからだ。

戦局を予期していた日本軍司令部の命令により、ペリリュー島民のパラオ本島への移住をほぼ完了させ、一部残った島民も疎開させるために戦火の中をパラオ本島へと送り出していた。

――――――――――
「ペリリュー島の戦い」

日本軍
戦死者 10,695名
捕虜   202名
※戦闘終結後も生き残りの日本兵34人が洞窟を転々として生き延び、戦後も2年戦い続け、昭和22年に投降。

米軍
戦死者 2,336名
戦傷者 8,450名
※この他に精神に異常をきたした者が数千名。

住人
死者 0名
負傷者 0名

――――――――――


この当時の様子を知る、ペリリュー島民の老人のコラム(毎日新聞)が残っている。

遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。

「あそこでみんな死んでいったんだ・・・」

沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。

太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。老人は村の若者達と共にその作業に参加した。日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。

やがて戦況は日本に不利となり、いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。仲間達と話し合った彼は代表数人と共に日本の守備隊長のもとを訪れた。「自分達も一緒に戦わせて欲しい」と。

それを聞くなり隊長は激高し叫んだという。「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」

日本人は仲間だと思っていたのに・・・。みせかけだったのか。裏切られた想いで、みな悔し涙を流した・・・。

船に乗って島を去る日、日本兵は誰一人見送りに来ない。村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。

しかし、船が島を離れた瞬間に日本兵全員が浜に走り出てきた。そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。

その瞬間、彼は悟ったという。あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだと・・・。


守備隊長、中川州男大佐(11月24日戦死後、2階級特進し陸軍中将)
守備隊長、中川州男大佐(11月24日戦死後、2階級特進し陸軍中将)

近野滋之Blog『民族主義者の警鐘』「パラオ・ペリリュー島の桜花(1)、中川州男大佐、村井権治郎少将、飯田義栄中佐の割腹自決の後、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文、島民を戦火に巻き込んではならない、桜花のごとく散った日本軍の武士道精神」より、一部を修正し、抜粋
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●詳細記事
パラオのペリリュー島の桜花・天皇皇后両陛下ご訪問の地・パラオはなぜ「世界一の親日国」なのか?
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-5788.html
続★パラオのペリリュー島の桜花・両陛下ご訪問の地・パラオはなぜ「世界一の親日国」なのか?」
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-5789.html
フジが日本パラオ友好の橋を報道・「韓国が造った橋が突然崩落」・ペリリュー州が4月9日を祝日に
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-5790.html






【先帝陛下(昭和天皇)のお話】

●戦中
アッツ島の日本軍守備隊
アッツ島の守備隊

昭和18年(1943年)5月12日の米軍アッツ島上陸以来、先帝陛下(昭和天皇)は、同地の守備隊の模様をいたく気にかけられ、 毎日のように戦況を御下問されておられた。

5月29日夕刻、守備隊から最後の電報が発せられた。
「機密書類全部焼却。是レニテ無線機破壊処分ス」

陸軍大臣は、直ちに参内し、アッツ玉砕を天皇に奏上した。
陛下は、陸軍大臣大臣の報告を黙って聞くと、目を閉じしばし佇立された。

そして、ひと言、 「アッツ島守備隊は、まことに最後まで良く敢闘した。このことを伝えよ。」 とおっしゃった。
陸軍大臣は、陛下が自分の報告を聞き違えられたかと思い、言葉を返した。
「恐れながら陛下、彼らは無線機を既に破壊しており、お言葉をお伝えする手段がございません」 と申上げると、

陛下は、 厳しい声で、「構わぬ。それでも構わぬから、そういう電波を出しなさい!」とご命令された。

陸軍大臣は一礼して引き下がり、控えの間に至ると両手で顔を覆って男泣きに泣き崩れた。
直ちに北のアッツ守備隊に向け、電報が放たれ、陛下の御言葉が打電され続けた。

勿論、アッツから返事が来ることはなかったが。


1943年5月,アッツ島で玉砕した日本軍将兵の遺品がアンカレッジの博物館に展示されている。
アンカレッジの博物館には、昭和18年(1943年)5月に、アッツ島で玉砕した日本軍将兵の遺品が展示されている

『 凛として愛 』
■動画
『 凛として愛 』
http://www.youtube.com/watch?v=HBxaF0wps6U

57:17~
大東亜戦争最初の玉砕地となった北のアッツ島では、山崎保代大佐以下2,500の将兵が守備していたが、15,000のアメリカ軍相手に18日間善戦。
昭和18年5月29日、敵陣地の突撃して玉砕した。
アッツ島守備隊の最期が天皇陛下にご報告されると、
陛下は、「最後まで良く敢闘した。このことを伝えよ。」と言われたが、既に将兵は玉砕し、無線機も破壊されてない。
そのことを申し上げると、陛下は厳しい声で、「それでもよい!電波を出しなさい!」とご命令されたという。
雪と氷で閉ざされた北のアッツに向けて、陛下の御言葉が打電された。
諸国のために散華された2,500の将兵は、陛下の御言葉を耳にしたのであろうか。






●戦後

先帝陛下昭和天皇行幸
先帝陛下(昭和天皇)の戦後の全国ご巡幸

毎年「昭和の日」に、私は、先帝陛下(昭和天皇)の全国ご巡幸などについて紹介している。

日本が戦後、奇跡と呼ばれる復興をなしえた1つの要因は、全国ご巡幸で国民を励まされた先帝陛下を中心に、日本が結束を保ったことだった。

このことは、私たち日本人が永久に語り継いでいかなければならない。

まだ読んでいない方は勿論だが、既に読んだことがある方も、「昭和の日」を機会に改めて読んで頂ければ幸いだ。


昭和天皇(先帝陛下

●マッカーサーを感動させた昭和天皇の言葉

「…(終戦時において)陛下に対する占領軍としての料理の仕方は、四つありました。

一つは東京裁判に引き出し、これを絞首刑にする。
一つは共産党をおだてあげ、人民裁判の名においてこれを血祭りにあげる。
三番目は、中国へ亡命させて中国で殺す。そうでなければ、二〇個師団の兵力に相当するかと怯えた彼らです。
また第四番目は、闇から闇へ、一服もることによって陛下を葬り去ることでありました。


いずれにしても、陛下は殺される運命にあったのです。
天皇は馬鹿か、気狂いか、偉大なる聖者か、いつでもつかまえられる。
かつては一万八〇〇〇人の近衛師団に守られたかもしれないが、今や全くの護衛を持たずして、二重橋の向こうにいる。…


陛下の割腹自刃の計画は、三度ありました。
貞明(皇太后)様は、(侍従に、)陛下から目を離さんように命じました。
じつに一番悩まれたのは、陛下でありましたでしょう。


九月二七日、陛下がただ一人の通訳を連れて、マッカーサーの前に立たれたことは、皆様方もよくご承知の通りであります。
ついに天皇をつかまえるべき時が来た。
マッカーサーは、二個師団の兵力の待機を命じました。
マッカーサーは、陛下は命乞いに来られたものと勘違いし、傲慢不遜にもマドロスパイプを口にくわえて、ソファーから立とうともしなかった。

陛下は直立不動のままで、国際儀礼としてのご挨拶を終え、こう言われました。

『日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命においてすべてが行なわれました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されても、いつでも応ずるだけの覚悟はあります』

――弱ったのは通訳でした。その通り訳していいのか

――しかし陛下は続けました。

『しかしながら、罪なき八〇〇〇万の国民が、住むに家なく、着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えんものがあります。温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますように』


天皇は、やれ軍閥が悪い、やれ財界が悪いと言う中で、一切の責任はこの私にあります、絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処せられても…と淡々として申された。
このような態度を見せられたのは、われらが天皇ただ一人であったのです。
陛下は我々を裏切らなかった。

マッカーサーは驚いて、スクッと立ち上がり、今度は陛下を抱くようにして座らせました。
そして部下に、「陛下は興奮しておいでのようだから、おコーヒーをさしあげるように」と。

マッカーサーは今度は一臣下のごとく、直立不動で陛下の前に立ち、
「天皇とはこのようなものでありましたか!天皇とはこのようなものでありましたか!私も、日本人に生まれたかったです。陛下、ご不自由でございましょう。私に出来ますることがあれば、何なりとお申しつけ下さい」
と。

陛下は、再びスクッと立たれ、涙をポロポロと流し、
「命をかけて、閣下のお袖にすがっておりまする。この私に何の望みがありましょうか。重ねて国民の衣食住の点のみにご高配を賜りますように」
と。

そののちマッカーサーは、陛下を玄関(ホール)まで伴い、見送ったのです。


皆様方、日本は八〇〇〇万人と言いました。
どう計算しても八〇〇〇万はおらなかったでしょう。
いかがです?
一億の民から朝鮮半島と台湾、樺太をはじめ、すべてを差し引いて、どうして八千万でしょうか。
じつは六六〇〇万人しかいなかったのです。
それをあえて、マッカーサーは、八〇〇〇万として食糧をごまかして取ってくれました。
つまりマッカーサーは、いわゆる、陛下のご人徳にふれたのです。
米国大統領からは、日本に一〇〇〇万の餓死者を出すべしと、マッカーサーに命令が来ておったのです。

ただ一言、マッカーサーは、
『陛下は磁石だ。私の心を吸いつけた』
と言いました。

彼は陛下のために、食糧放出を八〇〇〇万人の計算で出してくれました。
それが後で、ばれてしまいます。
彼が解任された最大の理由はそれであったというのが、事の真相です。





【マッカーサーおよび侍従長の証言】

以上が、三上教授の講演の言葉である。
この講演にも出てきた一九四五年九月二七日の天皇とマッカーサーの会見については、辻井圭三氏(キリスト伝道会「活水の群」副理事長)も、こう書いている。
「この件については、第二回目の通訳をされた、内閣情報局総裁であり戦後外務次官も務められた奥村勝蔵氏を通じて、私は詳しく伺いました」
そして、三上教授の言っている通りであると述べている。
実際マッカーサー自身が、のちに回顧録の中で次のように書いたのである。

「天皇の話はこうだった。
 『私は、戦争を遂行するにあたって日本国民が政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対して、責任を負うべき唯一人の者です。あなたが代表する連合国の裁定に、私自身を委ねるためにここに来ました』
――大きな感動が私をゆさぶった。
死をともなう責任、それも私の知る限り、明らかに天皇に帰すべきでない責任を、進んで引き受けようとする態度に私は激しい感動をおぼえた。私は、すぐ前にいる天皇が、一人の人間としても日本で最高の紳士であると思った」
(マッカーサー回顧録一九六三年)

天皇とマッカーサーの会見は、はじめ一五分の予定だった。
しかし、マッカーサーは天皇の態度に深い感銘を受け、会見は三五分にも及んだのである。
会見がなされると、その会見の要旨は後ほど通訳の手で文書にまとめられ、侍従長に渡される習慣になっていた。
会見の翌日、藤田侍従長は、会見における天皇の発言の要旨を文書にまとめたものを、通訳から受け取った。
藤田氏は、いつものようにそれに目を通したうえで、天皇のもとに提出した。
藤田氏はこのとき、メモをとらなかった。

しかし彼はのちに、その内容について二つの点をはっきり憶えていると言って、次のように著書の中に書いている。

「…陛下は、次の意味のことをマッカーサー元帥に伝えられている。
『敗戦に至った戦争の、いろいろな責任が追求されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命する所だから、彼らには責任がない。
私の一身はどうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい』
一身を捨てて国民に殉ずるお覚悟を披瀝になると、この天真の流露は、マッカーサー元帥を強く感動させたようだ。
『かつて、戦い破れた国の元首で、このような言葉を述べられたことは、世界の歴史にも前例のないことと思う。私は陛下に感謝申したい。占領軍の進駐が事なく終わったのも、日本軍の復員が順調に進行しているのも、これすべて陛下のお力添えである。これからの占領政策の遂行にも、陛下のお力を乞わなければならぬことは多い。どうか、よろしくお願い致したい』」
とマッカーサーは言った(藤田尚徳『侍従長の回想』昭和三六年)。

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昭和天皇とマッカーサーの会見を通訳官が証言 The testimony of the interpreter
■動画
昭和天皇とマッカーサーの会見を通訳官が証言 The testimony of the interpreter
https://www.youtube.com/watch?v=inE1DSH0jrk






戦災者住宅で戦災者を激励される先帝陛下(昭和天皇)、昭和21年(1946年)2月19日 神奈川・横浜
戦災者住宅で戦災者を激励される先帝陛下(昭和天皇)、昭和21年(1946年)2月19日 神奈川・横浜

●貞明皇太后の前で泣いた昭和天皇

また、さらにご立派であったのは、貞明皇太后でした。

母君の貞明様は、亡くなるまで防空壕の中で生涯を送り、雨漏りのする、そして皆様方、貞明様は法華経の信者でしたから、戦死者のお名前を一〇人ずつ書きながら、法華経をあげて生涯を送られたのです。

その貞明様が、皇霊殿に陛下をお招きになりました。
皇霊殿は高いので、東京の市中が見えるのであります。
焼けただれ、一日千秋の思いでわが子の復員を待つ年寄りたちの姿も、見えるのであります。

貞明様は陛下にそれをお見せになり、
「陛下、国民は陛下のご不徳によって、このように苦しんでおります。この国を一日も早う復興しようと召されず、お腹をおめしになろう(切腹しよう)などとはご卑怯ではありませんか。退位は絶対になりません!」

陛下は、母君の前で頭を垂れて泣かれたそうです。
どうしたらいいのかと。

陛下の万歳を叫んで死んでいった護国の英霊の労苦を労いなさい、遺族の労苦を労いなさい、産業戦士の労苦を労いなさい――これが、後の陛下の行幸(外出)になったのでした。

原爆の地、広島に行幸された時でした。
共産党の腕利きが、今こそ「戦争の元凶である裕仁に対して恨みを報いようではないか」とビラをまき、宣伝カーで叫んでいました。
しかし、陛下は一兵の護衛をも持たず、ツギのあたった背広をお召しになり、中折れ帽をかぶって、広島の駅頭に立たれたことは、われらの記憶に新しいところであります。
むしろ陛下がおいたわしかった。
「万歳、万歳」の歓呼をもって迎えられました。

言えばやはり記録に残りましょうから、その県名と市名はもうしませんが、北陸のある所(福井市)においては共産党が、「朕はたらふく飯を食う。汝臣民飢えて死ね」とプラカードを仕立て、二〇〇〇名のデモ行進をやっていました。
「陛下、お逃げなさい」
しかし陛下は、「私に面会を申し込んでいる限り、私が会いましょう」 と言って、皆の前に頭を下げられました。
「皆様方が私を打擲することによって心が癒えるならば、ごずいにめされたがいい。でも日本の国を一日も早う復興し、次の子孫へこの国を送り得てこそ、はじめて護国の英霊に対し、我々が報いる道ではなかろうか」
と陛下は申されたのでした――はっきり言ったほうが良かったのかも知れませんが、場所を。

陛下に向かっての発砲もありました。
八二歳のある老婆が犠牲になったことも、中国地方の一角でありました(広島で、陛下をねらった弾がはずれて老婆に当たった事件)。
陛下の行幸は、そういう中に続いたのであります。…」

歩一〇四記念講演特集号より


釜石
釜石


昭和21年(1946年)から昭和29年(1954年)までの間に行われた御巡幸では、敗戦直後で宿舎がままならず、陛下が列車の中、学校の教室に泊まられた事もあった。

それでも陛下は、「戦災の国民のことを考へればなんでもない。十日間くらゐ風呂に入らなくともかまはぬ」とおっしゃり、御行幸を続けられた。





先帝陛下(昭和天皇)が硫黄島に行かれた時、硫黄島自体がお墓だからとおっしゃり、靴をお脱ぎになって上陸された。
因みに小沢一郎は普通に靴をはいていたそうだ。

遺骨収集が完了していない地下壕跡に入るときには、周りの案内役もそのまま足を踏み入れたのに、陛下だけは靴をお脱ぎになって裸足になられた。

硫黄島
硫黄島


先帝陛下(昭和天皇)
昭和63年9月、先帝陛下が病床につかれると、全国の御平癒祈願所に約9百万人が記帳に訪れた。
40数年間の御巡幸で陛下に励まされた人々も少なくなかった。

陛下は、病床で「もう、だめか」とおっしゃったことがあった。
医師たちは、陛下がご自分の命の事をおっしゃったのかと思ったが、実は「沖縄訪問はもうだめか」と問われたのだった。
御巡幸の最後の地、沖縄に寄せられた陛下の御心は、今上陛下によって平成5年に果たされた。

東京の空を台風が過ぎ去った翌日、侍従長は、陛下に「台風が去ってようございました。」と申し上げた。
すると、陛下は、次のとおりおっしゃった。

「… まだ、東北、北海道地方はこれからである。」



「陛下、ありがとうございました!」

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旭日幟がアジア・アフリカ会議(バンドン会議)で翻った!インドネシアGJ!韓国は大統領不参加
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ジャカルタの旭日旗 旭日幟がアジア・アフリカ会議(バンドン会議)で翻った!インドネシアGJ!不参加の韓国は発狂か
アジア・アフリカ会議(バンドン会議)のジャカルタ会場に翻っていた旭日幟(旭日旗)!(画像


4月19日から4月24日までインドネシアのジャカルタとバンドンで開催されたアジア・アフリカ会議(バンドン会議)で、旭日旗(縦長なので正しくは「旭日幟」というべきか)が掲揚されていた!

愛国画報 from LA」によると、その幟(のぼり)は、巾約50cmで長さ2.5m位の大きさで、上部は紅白のインドネシア国旗が描かれ、中央部分に旭日が描かれていた!

http://yohkan.seesaa.net/article/417988810.html
ジャカルタの旭日旗

(一部抜粋)

ジャカルタにお住まいの読者、Torpicassoさん
「その中で、何だかよくわからない旗もあります。戦国時代の巾約50cmで長さ2.5m位の縦長の旗なんです」
「上部は上が赤で、下が白字になっていて、これはインドネシア国旗を意味しているのだろうと思いますが、その下の縦長部分に何と「旭日旗」をクロップした様な旗の図柄なんですよ!」


うわ、何だか、面白そう。と云うことで、早速、写真を送って頂いた。

ジャカルタの旭日旗 旭日幟がアジア・アフリカ会議(バンドン会議)で翻った!インドネシアGJ!不参加の韓国は発狂か

おおお、コレってまさに戦国武将の旗差し物じゃないか。目にも鮮やかな旭日が、何とも勇ましい。

この旗、日本サッカー協会なら、スタジアムへの持ち込みを禁止するだろう。朝日新聞なら軍靴の音が聞こえ、朝鮮人は発狂する。

インドネシアの独立は、日本が欧米列強の植民地支配を打破したからこそ実現した。大東亜戦争終結後、一部の日本軍兵士は現地に残り、独立戦争に参加し活躍した。

そのあたりの歴史を、インドネシアの人々がしっかり認識してくれているからこそ、旭日旗が登場するのだ。

ジャカルタの旭日旗

素敵な旗を作り、首都に飾ってくれたインドネシアの人々に感謝したい。両国の友情をますます深めたい。そんな気持ちを込めて、上のイラストを描いた。



確かに、上部がインドネシア国旗で、中央部分には旭日が描かれている。
インドネシア国旗
インドネシア国旗

旭日旗
旭日旗

1945年から1949年までの4年5ヶ月に及んだオランダとのインドネシア独立戦争でも、インドネシア独立軍の旗には旭日が描かれていた!
インドネシア独立軍の旗
インドネシア独立軍の旗

記念すべき最初(第1回)のアジア・アフリカ会議は、60年前の1955年に、インドネシアのバンドンで開催され、インドネシア、インド、パキスタン、ビルマ、スリランカ、日本などの29カ国が参加して、反植民地主義と反帝国主義を訴えた。

それから、ちょうど60年の節目の今年、アジア・アフリカ会議発祥の国インドネシアのジャカルタとバンドンで盛大に開催されたのが、今回のアジア・アフリカ会議(バンドン会議)だった。

日本では、安倍晋三首相と習近平支那国家主席との会談ばかり報道されたが、60周年のアジア・アフリカ会議(バンドン会議)は、バンドン会議60周年記念の超大型国際イベントだった。

アジア・アフリカ会議(バンドン会議)日支首脳会談
4月22日の日支首脳会談

その会場に掲揚されていたのが、上部に開催国のインドネシア国旗が描かれ、その下の中央部に旭日が描かれた幟(のぼり)だった!

「インドネシア、GOOD JOB!」としか言い様がない。





では、旭日っぽい物を見ると何でも発狂して大騒ぎする韓国人は、なぜこの旭日幟≒旭日旗(韓国では「戦犯旗」)に発狂して大騒ぎしなかったのか?

実は韓国は、この記念すべき60周年のアジア・アフリカ会議(バンドン会議)を軽視し殆ど無関心だった。

大統領の朴槿恵は、早々とバンドン会議への不参加を決定し、南米4か国の旅に出て、バンドン会議に出席したのは韓国の政権ナンバー4のファン・ウヨ副首相だった。

バンドン会議の招待状を受け取った109カ国のうち32カ国の首脳が1週間前に出席を通知し、その他の77か国も副大統領などナンバー2クラスが率いる代表団を送り込んだ。

しかし、韓国だけは、東南アジア軽視のためか、外交音痴のためか、全く知られていないナンバー4の副首相をバンドン会議に送った。

109カ国最高位級代表団を一堂に集めたのは、記念すべき60周年のアジア・アフリカ会議(バンドン会議)ということもあるだろうが、2億5千万人という世界第4位の人口を持ち、経済的にも現在のGDP世界第16位からトップ10を目指している資源大国インドネシアを重要視しているからだ。

この国際的大イベントに、日本も支那も首脳が参加したというのに、アホ丸出し韓国は、誰も知らないナンバー4を送って茶を濁した。

その頃、韓国大統領の朴槿恵は、南米4か国を訪問して現地在住の韓国人の同胞たちと会うなどしていた。

韓国は、本当にずれている。

考えようによっては、そのお蔭で、記念すべき60周年のアジア・アフリカ会議(バンドン会議)の会場に翻る旭日幟≒旭日旗(韓国では「戦犯旗」)に気が付かなかったから幸せだったのかもしれない。

韓国は、今回のアジア・アフリカ会議(バンドン会議)について、安倍首相の演説に「謝罪がないニダ!」と火病を発症させ、安倍晋三首相と習近平支那国家主席との会談で「ウリナラ(韓国)が孤立の危機ニダ!アイゴー(哀号)!」と嘆いている。


安倍首相は、アジア・アフリカ会議(バンドン会議)の演説で、先の大戦の深い反省をのべたものの、「お詫び」には言及しなかった。

日本政府関係者は、「反省はし続けるものだが、お詫びは何度も必要ない」と説明した。

アジア・アフリカ会議(バンドン会議)の安倍首相演説。ただ、村山富市首相談話に記載されていた植民地支配や被害国への「お詫び」に関しては言及しませんでした。安倍首相は新しい戦後70周年談話から「侵略」と「

安倍首相はバンドン会議で演説「武力行使をしない原則を、日本は、先の大戦の深い反省とともに、いかなる時でも守り抜く国であろうと誓いました」。村山談話の植民地支配や被害国への「お詫び」に関しては言及せず。

安倍首相はバンドン会議で演説「武力行使をしない原則を、日本は、先の大戦の深い反省とともに、いかなる時でも守り抜く国であろうと誓いました」。村山談話の植民地支配や被害国への「お詫び」に関しては言及せず。
(画像等:真実を探すブログ
■動画
「大戦への深い反省」示した安倍総理の狙いとは・・・(15/04/22)
https://www.youtube.com/watch?v=o0_yez1oMMA

テロ朝ニュース
(一部抜粋)
安倍首相はバンドン会議で演説を行い、「(武力行使をしない)この原則を、日本は、先の大戦の深い反省とともに、いかなる時でも守り抜く国であろうと誓いました」と述べ、改めていかなる時でも守り抜く国であることを強調しています。

ただ、村山富市首相談話に記載されていた植民地支配や被害国への「お詫び」に関しては言及しませんでした。安倍首相は新しい戦後70周年談話から「侵略」と「お詫び」の言葉を削除する方針を打ち出しており、安倍首相に疑問や懸念の声が相次いでいます。


↓ ↓ ↓

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150424-00000018-rcdc-cn
安倍首相の「謝罪なし」演説に、韓国が遺憾の意を表明=米国ネットは「日本は国として存在する限り謝罪し続けなければいけないのか?」と批判の声多数
Record China 4月24日(金)8時13分配信
安倍首相の「謝罪なし」演説に、韓国が遺憾の意を表明=米国ネットは「日本は国として存在する限り謝罪し続けなければいけないのか?」と批判の声多数

2015年4月23日、AP通信は、安倍晋三首相が22日、アジア・アフリカ会議(バンドン会議)で行った演説で、第二次世界大戦における日本の侵略行為について謝罪の言葉を述べなかったことについて、韓国政府が遺憾の意を表明したと報じた。

安倍晋三首相は22日、アジア・アフリカ会議(バンドン会議)で行った演説で、第二次世界大戦における日本の侵略行為について、歴代の首相がこれまで使っていた表現のうち「深い反省」を述べたものの、「心からのおわび」という表現を使わなかった。これを受けて、韓国外交部は「安倍首相の演説には、謝罪と反省という重要な表現を省略したことは非常に遺憾である」との見解を示した。また、中国外交部の洪磊(ホン・レイ)報道官は、「日本が侵略の歴史を直視し、反省することで、アジアの近隣諸国と和解し、国際社会の信用を得ることを希望する」と述べた。

この報道に、米国のネットユーザーからは批判の声が多く上がっている。

「なぜ日本は謝罪し続けなければいけないんだ?とっくの昔に謝罪したじゃないか。日本は野蛮な国ではないし、侵略国家でもない。今の世代の日本人は70年前の第二次世界大戦の戦争の罪について謝罪する必要はない。そして中国は今、とても攻撃的で、日本を含む国々の領土を手に入れようとしている。中国こそ、近隣国への嫌がらせを辞めるべきだと思う。日本は他国を植民地支配することに興味を持っていないだろうし、戦争の恐ろしさを知っていると思う」

「中国は毛沢東の肖像画を高く掲げるのをやめたらどうだろう?彼は何千万人もの自国民を絶路に追いやった責任がある」

「習氏はチベットの人たちに謝罪すべきだと思う」

「中国は常に日本のあら探しをしたがっていて、謝罪を求めている。世界中の国々は第二次世界大戦後の日本の貢献に感謝している。中国の計略はうまくはいかないよ。日本は中国の領土拡大に十分注意してほしい。私たちは日本を大切に思っているよ」

「第二次世界大戦の恐ろしいできごとについて十分に謝罪できる人間はいない。記憶にとどめ、過去から学び、未来に向かって歩いて、世界をより良くしていくべきだ」

「今生きている日本人の99%が第二次世界大戦とは関係ない。現代の白人のアメリカ人に対して200年前の奴隷制度について黒人に謝罪するよう求めているようなものだ。過去の罪を関係のない人々に押し付けることはもうやめるべきだ」

「私はアメリカの奴隷制度について謝罪しないよ。なぜなら、奴隷に会ったこともなければ奴隷を家に置いていたこともないんだから。犠牲になった人たちの行為に対して責任を負うつもりはない」

「何百万年も謝罪し続けなければいけないのか?」

「では日本は、国として存在する限りずっと謝罪し続けなければいけないのか?ばかげている」
(翻訳・編集/蘆田)



そして、韓国人どもは、安倍晋三首相と習近平支那国家主席との会談については「ウリナラ(韓国)が孤立の危機ニダ!アイゴー(哀号)!」と嘆いている。
日中首脳会談を報じた23日付の韓国各紙(共同)
日中首脳会談を報じた23日付の韓国各紙(共同)

http://www.sankei.com/world/news/150426/wor1504260007-n1.html
朴槿恵大統領の外遊中に日中歩み寄り…韓国メディア衝撃 孤立に危機感
2015.4.26 06:00更新、産経新聞

 【ソウル=名村隆寛】韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領は12日間にわたる中南米歴訪を終え、27日に帰国する。大統領の外遊中、アジア・アフリカ会議(バンドン会議)首脳会議が開かれたインドネシア・ジャカルタでは、約5カ月ぶりに日中首脳会談が実現。日中が歩み寄る姿勢をみせ、“韓国の孤立化”が懸念される中での帰国に注目が集まりそうだ。

 朴大統領は今回、コロンビアに次いでペルー、チリ、ブラジルを訪れた。各国首脳とは貿易や投資拡大など経済協力を中心に協議したという。韓国政府は大統領の帰国後、歴訪の成果を強調する見通しだ。

 外遊中の22日には日中首脳が会談し、23日の韓国各紙は、会議での安倍晋三首相の演説に加え、日中首脳会談の様子を写真を添えて1面で報じた。昨年11月の首脳会談では、習主席がぶぜんとした表情で安倍首相とあいさつしており、韓国メディアはこのときと今回の写真を並べて紹介した。

 とりわけメディアが一様に衝撃を受けたのは、中国側、習主席の態度の変わりようだ。歴史認識をめぐり、韓国と対日共闘の姿勢を取っていた中国が融和的ともとれる姿勢に転じたことに、韓国では一種の焦燥感さえ感じられる。

 朝鮮日報は社説で、「日中が5カ月ぶりにまた首脳会談を行ったのに、韓国は孤立を避ける戦略があるのか」と、韓国の外交戦略を問題視した。同紙は他の記事でも、「中国をなだめ、韓国にはそっぽを向く日本」と“日本謀略論”を展開した。


 韓国外務省報道官は、「韓日中首脳会談の早期開催のために韓国は努力している。日中関係が改善するなら、韓国側の努力の助けになる」(23日の定例会見)と“韓国孤立論”を否定した。

 朴大統領は旅客船沈没事故から1年となる16日に出国。その後、側近の裏金疑惑で李完九(イ・ワング)首相が辞意を表明したこともあり、世論は冷めている。「国内が混乱し、日中が再接近しているときに地球の裏側にいるとは」(韓国メディア)と、中南米歴訪の意義さえ疑問視する向きもある。






(参考)
ムルデカ 17805 インドネシア独立と日本軍兵士
■動画
ムルデカ 17805 インドネシア独立と日本軍兵士
https://www.youtube.com/watch?v=3Q_4DuH1K08


ジョージ・S・カナヘレ(アメリカ、ハワイ日本経済協議会事務局長・政治学博士)
日本占領軍がインドネシア民族主義のために行った種々の仕事の中で、最も重要なものの一つは、正規軍及び准軍事組織を創設して、それに訓練を与えた事である。


▼インドネシア人の歴史認識▼

インドネシア・モハメッド・ナチール 元首相
アジアの希望は植民地体制の粉砕でした。
大東亜戦争は私たちアジア人の戦争を日本が代表して敢行したものです。


インドネシア・アラムシャ 元第3副首相
我々インドネシア人はオランダの鉄鎖を断ち切って独立すべく、350年間に亘り幾度か屍山血河の闘争を試みたがオランダの狡知なスパイ網と強靱な武力と苛酷な法律によって圧倒され壊滅されてしまった。
それを日本軍が到来するや、たちまちにしてオランダの鉄鎖を断ち切ってくれた。
インドネシア人が歓喜雀躍し感謝感激したのは当然である。


インドネシア・サンパス 元復員軍人省長官
特にインドネシアが感謝することは戦争が終わってから日本軍人約1000人が帰国せず、インドネシア国軍と共にオランダと戦い、独立に貢献してくれたことである。
日本の戦死者は国軍墓地に祀り、功績を讃えて殊勲章を贈っているが、それだけですむものではない。


日本の戦争目的は植民地主義の打倒であった。
その目的の大半は達成したが、南アフリカ、アジアにまだ残っている。
そんな時に行った村山演説は、植民地主義打倒の悲願を放棄したことになる。
村山さんは日本の果たしてきた歴史を踏まえ、A・A(アジア・アフリカ)の悲願を代表して、まだ残る植民地主義を攻撃すべきであった。
かつての日本は、スカルノ、ハッタ、バー・モウ(アウンサン)、ラウレル、アキノ、汪兆銘、チャンドラ・ボース等を応援したのに、たった一度の敗戦で大切な目的を忘れてしまったのは遺憾である。



プン・トモ=インドネシア人。元情報相。 昭和32年の来日の際の発言より
日本軍が米・英・蘭・仏をわれわれの面前で徹底的に打ちのめしてくれた。
われわれは白人の弱体と醜態ぶりをみて、アジア人全部が自信をもち、独立は近いと知った。
一度持った自信は決して崩壊しない。
…そもそも大東亜戦争はわれわれの戦争であり、われわれがやらねばならなかった。
そして実はわれわれの力でやりたかった。


アリフィン・ベイ=インドネシア人。政治学者。ナショナル大学日本研究センター所長。
日本が戦争に負けて日本の軍隊が引き上げた後、アジアに残っていたのは外ならぬ日本の精神的、技術的遺産であった。
この遺産が第二次大戦後に新しく起こった東南アジアの民族独立運動にとって、どれだけ多くの貢献をしたかを認めなければならない。
日本が敗戦国になったとはいえ、その精神的遺産は、アジア諸国に高く評価されているのである。
その一つに、東南アジアの教育に与えた影響があげられる。
日本は目標達成のためにどれほど必死にやらなければならないかということを我々に教えたのであった。
この必死の訓練が、後のインドネシア独立戦争の時に役立ったのである。


サイデマン・スリヨハデイブロジョ=インドネシア人。陸軍大学長、駐日大使、外務省上級大使などを歴任。
かつて日本は我々に自信と敢闘精神を教えてくれました。
日本軍政の最大の功績はベタを創設したことですが、インドネシア語を普及したことも多種多様なインドネシアの団結に偉大な役割を果たしました。
日本に学べというのは、日露戦争以降今日まで続いているアジアの伝統的な姿勢です。
独立運動の指導者、スカルノとハッタが演説のなかで繰り返し言ったことは、一九〇五年の日露戦争における日本の勝利についてでした。
これこそ我々が白人に勝てる証明だと。


ケマル・イドリス=インドネシア人。ペタ出身。元中将。
日本精神は我々にとって一番。
なぜなら、日本精神で我々はオランダに向かったのです。
我々はこの精神を独立戦争に持ち込み、その結果、独立を達成したのです。
我々は武器はなく、たとえ竹槍で戦っても、勇敢でした。
だから我々は独立戦争の基本となった軍事能力を与えてくれたことに大変感謝しているのです。



■皇紀で記されたインドネシア独立宣言■
インドネシアの10万ルピア札にスカルノとハッタの肖像画の中央に独立宣言文が記載されている。
インドネシアの10万ルピア札にスカルノとハッタの肖像画の中央に独立宣言文が記載されている。
PRIKLAMASI.
 Kami bangsa Indonesia dengan ini menjatakan kemerdekaan Indonesia.
 Hal-hal jang mengenai pemindahan kekoeasaan d.l.l., diselenggarakan dengan
tjara seksama dan dalam tempo jang sesingkat-singkatnja.
 Djakarta, hari 17 boelan 8 tahoen 05
 Atas nama bangsa Indonesia.
 Soekarno/Hatta

年号に注目して頂きたい。
05年とある。
この05年とは皇紀2605年を表している。


独立宣言
 我らインドネシア人民はここにインドネシアの独立を宣言する。
 権力及びその他の委譲に関する事柄は、完全且つ出来るだけ迅速に行われる。
 ジャカルタ、(皇紀26)05年8月17日
 インドネシア人民の名において
 スカルノ/ハッタ

皇紀2605年は西暦1945年だ。




オランダとの独立戦争で指揮を取った多くの日本兵は戦死しました。
インドネシアの独立に戦った日本軍への敬意として、インドネシアの独立記念日に日本軍兵士を英雄として称えています。
独立記念日に多くの「日の丸」を掲げられました。そして日本軍の軍服を着た日本兵士に扮して日本兵を独立式典に迎えました。
日本軍を英雄として称える親日国です。
現在では、このような「日の丸」や「日本軍」の服装をして行う式典はなくなりました。
日本兵を先頭に行進インドネシア
日本兵を先頭に行進
(昔の独立記念日の様子 現在ではこのような光景は見られません)

「日の丸」を掲げ称えるインドネシアの子供達
「日の丸」を掲げ称えるインドネシアの子供達



ジャカルタの旭日旗 旭日幟がアジア・アフリカ会議(バンドン会議)で翻った!インドネシアGJ!不参加の韓国は発狂か
2015年のアジア・アフリカ会議(バンドン会議)のジャカルタ会場に翻っていた旭日幟(旭日旗)


――――――――――
維新政党・新風より、統一地方選挙の結果を報告します。
応援、投票、ありがとうございました。


前半戦
当選!島根県議会:小沢秀多氏5727票(6.7%)現職
落選 名古屋市議会:筬島直人氏876票(1.2%)新人
落選 広島市議会:伊藤真二氏1338票(1.2%)新人

後半戦
落選 船橋市議会:川畑賢一氏1356票(0.8%)現職
落選 中央区議会:白須夏氏500票(1.0%)新人
当選!港区議会:赤坂大輔2359票(3.6%)現職
落選 枚方市議会:川東大了氏1226票(0.8%)新人
落選 明石市議会:藤本昌弘氏1095票(1.0%)新人
――――――――――



左:『21世紀の「脱亜論」――中国・韓国との訣別』 西村幸祐著 2015/4/2
右:『パラオはなぜ「世界一の親日国」なのか~ 天皇の島ペリリューでかくも勇敢に戦った日本軍将兵』井上和彦著 2015/3/12

「アジア・アフリカ会議で旭日幟!インドネシア、ありがとう!」

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TBSがワ支局長を左遷!韓国軍向けベトナム人慰安婦をスクープの山口敬之TBSワシントン支局長
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TBSのワシントン支局長だった山口敬之
TBSのワシントン支局長だった山口敬之は、韓国軍がベトナム戦争でベトナム人慰安婦を使った慰安所を設置していたことを証明する米公文書などを発見。
TBSでスクープしようとしたが、却下されたため、「週刊文春」に記事を掲載したら左遷された!


TBSが韓国軍のベトナム人慰安婦をスクープしたワシントン支局長を左遷

http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20150426/dms1504261140005-n1.htm
TBS支局長“左遷”のナゼ 『文春』で「韓国軍慰安所」スクープ
2015.04.26、zakzak

TBS支局長“左遷”のナゼ 『文春』で「韓国軍慰安所」スクープ
スクープを物にした社員に不可解な人事異動を通告したTBS

 韓国軍がベトナム戦争中にサイゴン(現ホーチミン)に「慰安所」を設けていた-とするスクープ記事を「週刊文春」に掲載したTBSの山口敬之ワシントン支局長が、同社から15日間の出勤停止処分を受け、営業局ローカルタイム営業部への異動を内示されていたことが25日、分かった。関係者の間では、取材の成果を他社の媒体に発表したため左遷されたという見方も広がっている。

 記事は3月26日発売の文春に掲載された。山口氏が米国内で発見した公文書に「韓国軍による韓国兵専用の慰安所」の存在が明示されていたとする内容で、これを裏づける元米軍海兵隊幹部の証言も盛り込まれている。

 朝日新聞が大誤報を認めたことで、日本の慰安婦問題の核心である「強制連行」の根拠は崩壊したが、いまだに韓国は筋違いな「解決」を求め続けている。韓国軍の慰安所の存在が明らかになれば、これまでの日本への批判は天に唾するものだったことが白日の下にさらされることになる。

 まさに「意義あるリポート」(ジャーナリストの室谷克実氏)といえるが、これだけの歴史的スクープをなぜ自社で報道しなかったのか。そして、なぜスクープを物にした有望社員が突然、異動の憂き目にあったのか。

 TBS関係者は「ローカルタイム営業部というのは関東ローカルの番組を扱う部署で、花形とは言いがたい。門外漢である記者、しかも海外支局長クラスを送り込むというのは、嫌がらせとしか思えない」と述べ、今回の異動が出勤停止処分と併せた事実上の左遷であるとの見方を示す。

 TBS広報部は、夕刊フジの取材に「人事についての詳細は公表しておらず、お答えできない」としているが、憶測は広がるばかりだ。



>韓国軍がベトナム戦争中にサイゴン(現ホーチミン)に「慰安所」を設けていた-とするスクープ記事を「週刊文春」に掲載したTBSの山口敬之ワシントン支局長が、同社から15日間の出勤停止処分を受け、営業局ローカルタイム営業部への異動を内示されていたことが25日、分かった。関係者の間では、取材の成果を他社の媒体に発表したため左遷されたという見方も広がっている。


TBSワシントン支局長だった山口敬之は、TBS「ニュース23」の筑紫哲也に何度も反抗したために、米国に飛ばされたそうだ。(ソース

TBSワシントン支局長だった山口敬之は、ワシントンに赴任する直前の2013年、外交関係者から「韓国軍がベトナムで慰安所を経営していた情報がある」と聞き、ワシントンに赴任後、ワシントンなどの公文書館や、各地の米軍基地付属の図書館や資料館を訪ねて、関連する文書を精査した。

ワシントン支局長となった山口敬之は、ベトナム戦争において韓国軍がベトナム人を慰安婦にした慰安所「トルコ風呂」(Turkish Bath)を設置していたことを知り、米国の公文書でも確認した。

山口敬之は、このスクープを報道しようとしたが、TBS局内では無視され続け、結局は「報道しない」と回答されたため、当該スクープ記事を3月26日発売の『週刊文春』(4月2日号)に掲載した。

そもそも、日本の国益となるスクープなのに、自社で報道しなかったTBSが異常だったのだ!

TBSは、「国民の知る権利」を完全に踏み躙った!

なお、山口敬之は、自身のFacebookで、次のとおり説明している。

TBS支局長“左遷”のナゼ 『文春』で「韓国軍慰安所」スクープ - コピー
山口 敬之

今日の夕刊フジの記事についてたくさんのお問い合わせをいただいたので、この場でご説明させて下さい。

私が4/23付でTBSワシントン支局長の任を解かれ、営業局への異動を命じられたのは事実です。ですから、もう私は「TBSの記者」ではありません。

なお、この異動と懲戒処分に際しては、私の週刊文春への寄稿内容ではなく、寄稿に至る手続きが問題とされました。見解の相違はありますが、今回の懲戒処分がTBSの報道姿勢に直接リンクするものではない事は、ご理解をいただけたらと思います。

PS:
自分の異動に関する新聞記事を読みながら食べる餃子は、不思議な味がしました。うまかったけど…
4月25日






>記事は3月26日発売の文春に掲載された。山口氏が米国内で発見した公文書に「韓国軍による韓国兵専用の慰安所」の存在が明示されていたとする内容で、これを裏づける元米軍海兵隊幹部の証言も盛り込まれている。


ベトナムで韓国軍がベトナム人を慰安婦にした慰安所「トルコ風呂」(Turkish Bath)には、韓国軍大佐の署名入り書類に「韓国軍による韓国兵専用の慰安所である」と記載されているため、韓国軍の公式施設と断定された。

さらに、山口敬之ワシントン支局長は、ベトナム戦争に参戦しあ元米軍海兵隊幹部へのインタビューの結果、次の証言も得た。
(1)韓国軍の慰安所は確かにサイゴン市にあった
(2)サイゴン市内にはさらに大きい別の慰安所もあった
(3)これらの施設は内部が多くのブロックに分かれていて、1区画に20人前後のベトナム人女性が働かされていた


山口敬之ワシントン支局長は、地道な取材努力を重ねて、米国の公文書や関係資料などの証拠とともに、歴史的スクープをTBSで報道する予定だった!

韓国軍のためにベトナム人慰安婦がどのように慰安所「トルコ風呂」に連れてこられたのか、給料に係る詳細などは、今のところ不明のようだ。

山口敬之が3月26日発売の『週刊文春』(4月2日号)に掲載した【米公文書が暴いたベトナムの「韓国軍慰安所」】については、週刊文春WEBの他、概要については産経新聞でも紹介されている。

http://www.sankei.com/politics/news/150329/plt1503290011-n1.html
「韓国軍が慰安所設置」 ベトナム戦争時 米公文書に記述
2015.3.29 21:44更新、産経新聞

 韓国がベトナム戦争時、サイゴン(現ホーチミン)市内に韓国兵のための「トルコ風呂」(Turkish Bath)という名称の慰安所を設置し、そこでベトナム人女性に売春させていたことが29日、米公文書で明らかになった。韓国軍がベトナムで慰安所経営に関与していたことが、公文書として確認されたのは初めて。韓国が朝鮮戦争時に慰安婦を「第5種補給品」として部隊に支給していたことはすでに知られているが、外国であるベトナムでも慰安婦を運用していた実態がうかがえる。

 文書は米軍からベトナム駐留韓国軍最高司令官、蔡命新将軍に宛てたもので、日付は記載されていないものの1969年ごろの通報とみられる。韓国陸軍幹部らによる米紙幣や米軍票などの不正操作事件を説明したもので、その調査対象の一つとして「トルコ風呂」が登場する。

 その中で米軍は、ベトナムの通関当局と連携した調査の結果として「トルコ風呂は、韓国軍による韓国兵専用の福祉センター(Welfare Center=慰安所)」と断じた。また、その証拠として韓国軍のスー・ユンウォン大佐の署名入りの書類を挙げた。

 その上で確認事項としてベトナム人ホステスがいることや「売春婦は一晩をともにできる。料金は4500ピアストル(38ドル)。蒸気風呂とマッサージ部屋は泊まりの際のあいびき部屋として利用できる」ことなどを指摘している。

 この米公文書は、週刊文春(4月2日号)でTBSの山口敬之ワシントン支局長が最初に発表した。

 現代史家の秦郁彦氏「ベトナムにおける韓国軍の住民虐殺、強姦はつとに知られていたが、その陰に隠れて慰安所経営にかかわっていたことが判明したのは、公文書では初めてだと思う。引き続きさまざまな公文書が出てくることを期待する。今後、米国にいるベトナム難民移住者らが声を上げる可能性もあり、韓国に旧日本軍のことを言う資格はないという意見も出るだろう」



韓国は、朴槿恵大統領の父、朴正煕(パク・チョンヒ)大統領時代の1964年、ベトナム戦争に参戦した。

1973年までの8年間で、延べ約32万人を派兵したが、北岡正敏、俊明兄弟が現地調査のうえで執筆した『韓国の大量虐殺事件を告発する-ベトナム戦争「参戦韓国軍」の真実』(展転社)は、膨大な民間人虐殺やレイプが行われたと指摘している。


『韓国の大量虐殺事件を告発する―ベトナム戦争「参戦韓国軍」の真実』北岡俊明著, 北岡正敏著(2014/06)

ベトナム戦争で、韓国軍は、上記の大虐殺や大量レイプをした他にも、TBSワシントン支局長だった山口敬之が報道したように、ベトナム人女性の慰安所まで設置していたのだ。


左:『21世紀の「脱亜論」――中国・韓国との訣別』 西村幸祐著 2015/4/2
右:『パラオはなぜ「世界一の親日国」なのか~ 天皇の島ペリリューでかくも勇敢に戦った日本軍将兵』井上和彦著 2015/3/12

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