泥流渦巻く黄河の洪水被災地で、支那人に対する日本軍の必死の救助作業が続く。
同盟ニュース、昭和13年6月23日
2011年3月11日、東日本大震災が発生し、今現在、死者、行方不明者を合わせると2万3千人超となっている。
未曾有の大惨事だ。
ただ、歴史をひも解くと、上には上が有る。
今から73年前の6月11日夜、支那軍は、黄河の堤防を破壊し、大洪水にし、何十万人もの命を奪った。
1938年6月11日夜に始まった支那の大洪水には、天災の要素はなく、人間が意図的に起こした神をも恐れぬ大犯罪だ。
支那は常々1998年に発生した死者約3000人の大水害を「史上最悪の大水害」と報じている。
1998年に全国規模の発生した所謂「史上最悪」の大水害による死者は約3000人、2010年の水害による死者は200人超だが、73年前1938年の水害では、死者は河南省だけの少ない見積もりでも32万人、記録によれば89万人とも100万人とも言われている。
しかも、驚くことに、73年前の大水害は自然災害ではなく、支那軍が人為的に行った人的災害だった。
73年前の1938年といえば支那事変の真っ最中だが、当時、支那大陸では、支那軍が様々なことをして支那民衆を大量に殺しまくっており、日本軍はそんな支那民衆の救助に追われていた。
その1938年の大水害は「黄河決壊事件」と呼ばれ、当時、支那民衆を大量に殺しまくっていた支那軍と、そんな支那民衆を救助しまくっていた日本軍の代表的な出来事として、支那事変について勉強している人なら知っている大事件だ。
どうして、この「黄河決壊事件」のことが歴史教科書に記述されないのか不思議でならない!
まだ知らない方は、これを機会に支那事変では、支那軍が支那民衆を殺しまくり、日本軍が支那民衆を救出しまくっていた実態を是非とも知って頂きたい。
黄河決壊
1938年6月6日に、日本は河南省の中心地である開封市を占領、鄭州市も攻略できる様相となった。
早急な対策が求められた国民党軍側では劉峠第一戦区副司令官の「黄河の堤防破壊により洪水を起すことによって日本軍の進撃を阻止」する案が程潜司令官に示され、蒋介石の承認を得た。
蒋介石は、商震将軍に日本軍前衛部隊の背後を突くように堤防爆破を命じたが、国民党軍の撤退が終わるまで爆破は延ばされた。
この間、蒋介石は何度もその爆破が行われたかの問い合わせを行っている。
おそらく蒋介石は、日本軍の進撃を阻止するために、味方諸共水攻めにしようとしたのだろう。
6月7日には中牟近くで爆破が行われたが、これは結果として失敗し、その後、場所を花園口に変更して作業が進められた。
6月9日午前9時に作業が終了、堤防が破壊されると黄河の水は堤防の外に流れ出し、河南省・安徽省・江蘇省の3省の土地54,000平方kmを水浸しにした。
この結果、黄河の流れはその後9年間、南側へ変わり黄海に注ぐようになった。
水没した範囲は11都市と4,000の村におよび、3省の農地は農作物ごと破壊され、水死者は100万人、被害者は600万人と言われるが被害の程度については諸説ある。
6月11日夜、支那軍は、隴海線中牟の西方20Kmの地点で黄河の堤防3箇所を破壊した。
二、三日前の雨で増水した黄河の水は堰を切って奔流しつつあった。
6月12日午後5時に日本軍の2部隊が堤防修理に出動し、開封治安維持会からも50名以上が自発的に応援に出た。
洪水は中牟を中心として幅約20Kmにわたり、5m弱の高さを持った中牟城壁は30cm程度を残すだけとなった。
幸い線路が高い所に位置していたため、住民は線路伝いに徒歩で東方に避難した。
日本軍は筏船百数十艘を出して住民とともに救助活動を行い、同時に氾濫した水を中牟付近から別の地域に誘導するために堤防と河道を築いた。
日本軍に救助された避難民は開封方面1万人、朱仙鎮、通許方面5万人、尉氏方面2万人、その他数万人だった。
国民党軍は現場に近づく日本軍に攻撃を加えたほか、日本軍が住民と共同で行っていた防水作業を妨害した。
日本軍の地上部隊は住民とともに土嚢による防水作業を行い、日本軍の航空機も氾濫した地区において麻袋をパラシュートにより投下してこれを支援したが、決壊地点の対岸にいた支那軍遊撃隊が麻袋の投下開始直後からその航空機と地上で防水作業中の住民に激しい射撃を加えたこともあった。
6月11日午前、支那国民党の通信社であった中央社は「日本の空爆で黄河決壊」という偽情報を発信した。
6月13日、さらに支那国民党は、支那全土の各メディアに虚偽報道の上「日本軍の暴挙」と逆喧伝させた。
当然、日本側は、支那の発表を否定するコメントを出した。
支那側からは、最初は黄河の堤防破壊は堤防の影に避難している支那軍を日本軍が砲撃及び爆撃した時になされたものであるとの説明がなされ、後には事件は日本軍によって意図して行われたことであり、中牟と鄭州地区にある支那軍陣地への水攻めとし、かつ後方連絡を脅かすゲリラに対する戦略であり、広東への絶え間ない無差別爆撃と同様に支那民衆を威嚇する日本軍の作戦の一部とされた。
さらに報告では日本軍機による中牟北部の堤防への爆撃が続けられ、これが洪水を悪化させ、かつ日本軍は洪水の被害を受けた地区からの避難民を機関銃で銃撃していること、が説明された。
支那国民党は、自分たちが行っていた住民への銃撃まで日本軍の仕業だと嘘を吐いて逆宣伝を行っていた。
日本側は、開封の堤防破壊は支那軍に強制された農民によるものと声明を出した(国民党軍は1個師団の兵に加えて付近の農民を強制して作業を行っていた)。
また、日本軍は自軍の前進を妨げる洪水を引き起こす黄河の堤防破壊をすることはなく、さらに堤防の大きさを考慮すれば爆撃と砲撃によって堤防を破壊することは不可能だと主張した。
以下は、この大水害に関する文献や資料だ。
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『抗日戦回想録』郭沫若自伝より
敵の最初の計画は、伝えられるところでは、大きく迂回した包囲戦略をとり、隴海線に沿って西進し、さらに平漢線南半を奪って大武漢の背をつこうというものだったという。しかしこの戦略は、6月11日の黄河堤防の決壊で、河南省東部が沼沢地帯になったため、水の泡と化した。
あの時、黄河の堤防は開封の西北の五荘、京水鎮、許家堤等で同時に決壊した。わが方の対外宣伝では敵の無差別爆撃による、といっていたが、実はわが軍の前線の将軍が命令によって掘りくずしたのだった。
わが伝統兵法――「水、六軍を淹(ひた)す」だった。
しかし敵が水浸しになった程度はたかの知れたもので、むしろわが方の民間の生命財産が想像もつかぬ犠牲をこうむった。
敵の迂回戦略は挫折したが、逆に正面攻撃戦術をとり、五方面の大軍で長江下流から水陸を並進し、直接武漢を攻撃した。かくてしばしの安逸を貪っていた当局も「大武漢を守れ」の呼びかけを出さざるを得なかった。
私たちが活躍すべき機会到来であった。
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1938年年6月、開封が日本軍に占領されると、支那軍は日本軍の追撃を断ち、日本軍を水攻めにするため黄河の堤防を破壊した。
ところが、支那は、この犯行を「日本軍がやった」と嘘報道した。
支那軍は自ら堤防を破壊しながら、それを日本軍がしたと逆宣伝したのだ。
1938年6月16日
16日付東京朝日新聞夕刊
【上海特電十五日発】
上海軍当局談
「支那側は目下しきりに黄河堤防決壊は日本軍の所為なりと宣伝に努めつつあるが、決壊地点と称される京水鎮には、まだ、日本軍は進出しておらず…」
事実は、この時、日本軍は濁流に飲まれる支那住民を救っていた。
6月23日同盟ニュースには、ボートで救助作業をしている日本軍の写真があった(冒頭に掲載)。
國史図書刊行会編『支那事変』にも、その時の写真が掲載されている。
濁流に車馬を渡す須磨部隊(第10師団工兵第10連隊)。中下は洪水によって浸水した農村地帯
その後、支那軍は揚子江の堤防も決壊した。
1938年6月26日
6月26日同盟ニュース
『悪逆、暴虐、その極に達す 敵、揚子江堤防を決壊』
悪逆の限り、黄河決壊の暴挙を敢えてなし、無辜の民幾十万かを絶望の淵にたたき込んだ蒋介石は、なんたる無謀か、皇軍を怖るあまり、又しても進撃を阻まんとして、太湖南方揚子江両岸の馬華堤を破壊し、付近一帯の住民は濁流渦巻く大水害に見舞われんとし、怨嗟憤怒は地に満ちている
わが軍の慈愛の手に救はれた黄河氾濫の被害民の群れ
支那事変画報 第33号(毎日新聞 1938年7月11日)
更に支那軍は9月23日にも武穴鎮の下流で揚子江を決壊させた。
支那軍は、自分たちが安全に逃げる、ただそれだけのために、夥しい数の支那人民の生命と財産を犠牲にし、お人好しの日本軍に支那住民を救助させた。
黄河決壊事件の被害状況についての第一報は、6月21日に日本軍の占領下にある開封の治安維持会と商務会が発表している。
それによると、罹災者約100万人、うち行方不明者約12万人、浸水部落約3500、うち水底に没したもの約2000、倒壊浸水家屋約30万戸、被害面積約200平方キロという(大阪朝日6月21日)。
死者数については、終戦後の1945年12月に国民政府が河南省で行った「河南省戦時損失調査報告」がある。
それによると、1944年末の段階で、洪水による死者約32万人、離郷者数約63万人という数値を提示している。
徐州会戦経過要図(1938年5月〜6月)
死者・離郷者の数値は、韓・南「黄泛区的損害与善後救済」,梁262頁所収、冠水地域は北支那方面軍史料より作図
犯人である国民政府が終戦直後、河南省だけで約32万人とした死者数は、その後『中国革命史辞典』などで89万人とされている。
●その他資料
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一般住民に対して、徴発と略奪があまりしばしば行われたので、農民は日本軍よりも彼等自身の軍隊をさらに一層憎んだ。
穀物を略奪されまいとして抵抗する農民を飢えた中国兵が殺したり、日本軍の進撃を免れるために逃亡兵が村民を殺し、その衣類を自分が着こんで変装するということも起こった。
日本軍の進撃を鈍らせて鄭州の町を守るために、政府は1938年に黄河の堰を開いた。
すると、黄河は1世紀近く前から打ち捨てられたままになっていた古い河道を再び流れた。
「思い切った」決定であったが、このために、河南省東部の数十万の農民が命を失った。
彼等は水に溺れ、或は飢えて死んだのである。
『中国革命の起源』ルシアン・ビアンコ著
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●関連記事
南京虐殺は嘘84(最終回)
支那の「極悪暴虐・大虐殺」と「卑怯な逆宣伝」のまとめ
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/12704324.html
黄河決壊事件と揚子江堤防決壊で死者数は32万人とも89万人とも
1938年6月、支那軍の悪逆、暴虐、その極に達す!
日本軍は被災地で必死の救助作業
ウィキペディア、同盟ニュース、『抗日戦回想録』郭沫若
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/40872628.html
支那の水害情報と黄河決壊事件
蒋介石が日本軍の進軍を阻止するため黄河と揚子江の堤防を破壊
死者数は89万人~100万人(河南省だけの犯人の報告で32万人)・
那事変で支那住民を殺しまくった支那軍と、懸命に救助した日本軍の代表的事件
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-3884.html
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日の丸は日本とパラオとバングラデシュを結ぶ固い絆・日の丸「三兄弟」考
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2011-06-10/2011061015_01_1.html
2011年6月10日(金)「しんぶん赤旗」
「君が代」条例
アジア出身教員にも
大阪 橋下知事が強制方針
大阪府の橋下徹知事は8日開いた府教育委員との懇談で、東南アジアから教員を迎えた場合、「日本の公務員になるなら(『君が代』を)起立・斉唱すべきだ」とのべました。
橋下知事が5月議会で成立した「君が代」強制条例に続き、9月議会で懲戒免職を含む「処分条例」を提出しようとしていることに対し、慎重を求める意見が相次ぎました。
出席した教育委員から「府民の願いはこういうことを議論することだろうか」との疑問や、将来、「日の丸」「君が代」に抵抗感がある東南アジアから教員を迎えることもあると指摘。「教え子を再び戦場に送らない」とがんばっている教員が子どもたちの信頼を得ていることもあるとして、「処分は、十分われわれとコミュニケーションを」とってほしいと求めました。
知事は「そういう(起立しない)教員が採用試験でなぜ合格したのか」とのべ、憲法が保障する思想・良心の自由に挑戦する態度をあらわにしました。
>大阪府の橋下徹知事は8日開いた府教育委員との懇談で、東南アジアから教員を迎えた場合、「日本の公務員になるなら(『君が代』を)起立・斉唱すべきだ」とのべました。
そもそも外国人が日本の公務員になること自体が問題だ。
語学等の教員として一時的に特別に外国人公務員教員を認める場合でも、君が代が演奏されたり斉唱されたりする際に起立をするのは当然だ。
公務員とは関係なく、日本人が外国に行った際に、その国の国歌が演奏されたり斉唱されたりする際に起立しなければならない。
同様に外国人が日本の来た際に、日本の国歌が演奏されたり斉唱されたりする際に起立しなければならない。
例えば相撲取りならモンゴル人の朝青龍や白鵬は、ちゃんと「君が代」を憶えて表彰式では斉唱している。
品行方正とは言えない朝青龍でさえ、表彰式ではきっちりと君が代を斉唱していた。
白鵬は、2006年5月場所の新大関で14勝1敗、優勝決定戦で勝ち、初優勝を果たしたが、12日目の帰りの車の中で「君が代」を教わり練習し、千秋楽の表彰式で君が代を歌った。
当たり前のことだ。
君が代斉唱の国技館
>出席した教育委員から「府民の願いはこういうことを議論することだろうか」との疑問や、将来、「日の丸」「君が代」に抵抗感がある東南アジアから教員を迎えることもあると指摘。
この教育委員は東南アジアが「日の丸」「君が代」に抵抗感があると言っているが、いったい何を根拠に言っているのだろうか?
東南アジアを支那や朝鮮(韓国)のような特アと一緒にするな!
実際には、東南アジアの人々は、支那や韓国を非常に嫌っているが、日本には好感を抱いている。
■読売新聞社、韓国日報社、ギャラップグループによる「アジア7ヶ国世論調査」
(2006年9月10日付読売新聞朝刊より)
・日本と韓国、それぞれの国に対して「非常に良い」印象を持っているアジア各国の国民の割合
日本人 対日 - 対韓4.9%
韓国人 対日0.2% 対韓 -
インド人 対日60.4% 対韓18.4%
インドネシア人 対日42.0% 対韓12.7%
マレーシア人 対日33.4% 対韓20.0%
タイ人 対日25.0% 対韓8.3%
ベトナム人. 対日53.3% 対韓39.2%
・日本と韓国、それぞれの国に対して否定的な印象を持っているアジア各国の国民の割合
日本人 対日 - 対韓51.2%
韓国人 対日82.1% 対韓 -
インド人 対日2.3% 対韓8.8%
インドネシア人 対日4.2% 対韓13.2%
マレーシア人 対日7.0% 対韓13.1%
タイ人 対日10.5% 対韓43.4%
ベトナム人. 対日4.2% 対韓8.4%
(インド人の38.4%=韓国の印象を問う質問に「答えない」、45.5%=北朝鮮の印象を問う質問に「答えない」)
■動画
アジアの人は日本人をどう思ってるの?
http://www.youtube.com/watch?v=9RCWrJP-AaQ
アジア5カ国 好感度調査(日本をどう思うか?)
参考資料: 「読売新聞社と韓国日報社がアジア各国でおこなった共同世論調査」
(1995年5月23日・読売新聞)
『日本と韓国に対してそれぞれ否定的な印象を持っている各国人の割合』
中国人 対日37.8% 対韓31.1%
インドネシア人 対日13.9% 対韓33.3%
マレーシア人 対日 2.9% 対韓33.3%
タイ人 対日21.6% 対韓61.2%
ベトナム人 対日 1.1% 対韓41.3%
参考資料: 「戦後50周年アンケート」(1995年読売新聞の世論調査)
『第2次世界大戦中に行なった行為は、今でも日本との関係の発展を妨げているか?』
妨げている
韓国 71%
中国 49%
タイ 36%
マレーシア 25%
ベトナム 13%
インドネシア 12%
日本に対して良いイメージを持っている
ベトナム 95%
マレーシア 94%
タイ 80%
インドネシア 72%
中国 53%
韓国 30%
特集
アジアにおける日本と大東亜戦争
日本は本当にアジア諸国に嫌われているのか?
http://www.jiyuushikan.org/tokushu/tokushu_e.html
ちなみに、パラオとバングラデシュの国旗は日の丸に由来している(影響を受けている)。
国内外情勢、近現代史、国のあり方を考える 日本人としての誇りのために
◎日の丸は日本とパラオとバングラデシュを結ぶ固い絆
○バングラデシュ国旗の由来
それではバングラデシュの国旗はどうか。これは1971(昭和四十六)年独立した時に定めたものである。名越二荒之助氏が駐日大使館に国旗の意味を試ねたら、広報担当官が流暢な日本語で「日本への憧れですよ」と言下に答えた。
私が「それは外文辞今ではないか。独立国らしく答えて貰いたい」と言うと、「私の国では国旗の意味を特定していない。解釈は自由なのだ」という。
そして、「バングラデシュというのは、”ベンガルの国”という意味である、そのベンガルに世界に誇るべき偉人が三人いる,一人はアジア人で最初にノーベル文学賞を貰った詩聖タゴール(岡倉天心と親交あり、数回来日している)であり、続いてインド独立に命をかけたチャンドラ・ボース、そして極東裁判で正論を貫いたラダビノッド・パル判事だ。この三人はいづれも日本と深い関係にある」と答える。
同じ解釈をするのは大使館員だけではない。独立した時に日本は早川崇国会議員を団長に、バングラデシユを訪問したことがある。その時建国の父といわれるシェイク・ムジブル・ラーマン首相が、訪問団に同じ趣旨のことを述べたという。このことは同行した田中正明氏の証言でも在る。
○パラオ国旗の由来
パラオは1981年(昭和五十六)年一月に、米国の国連信託統治から独立を認められた。独立とともに大統領を選び、憲法や国旗も定めた。
国旗は公募し、七十数点の秀作の中から、一も二もなくこれが選ばれた,「青は太平洋を意味し、満月は円満なパラオの心を現わす」と政府発行の広報誌には書かれている。
もし「国旗は日本への憧れを現わすとでも言えばパラオ国内の親米派の反発を招くであろうし、パラオは独立国と言えず、日本の愧儡になってしまう。
我々日本人が心ひそかに、あの国旗は「月は日出づる国日本に照らされて輝く」という意味を持っている、と解釈するのはよい。しかし決してバラオの人々に向かって□にすべきではない。名越氏は何回か訪パしているが、この「月章旗」は、玉砕した一万二千の英霊を抜きにしては考えられないと証言している。
ベリリュー島では、中川州男大佐率いる一万人の守備隊が、補給も弾薬もない中、ニカ月以上にわたって戦った,島民は日本の兵隊さんと戦いたいと願ったが、島民はすべてパラオ本島に移した。
アンガウル島では約二千人の守備隊(隊長・後藤丑雄少佐)が戦ったが、最後は強制命令によって島民を米軍に降伏させた。島民の犠牲を最小限に喰い止めて、日本軍は玉砕した。彼らは今も桜の如く散っていった英霊を讃え、自作の「ぺ島のサクラを讃える歌」や「緑の墓の歌」を歌う。
そして彼らは慰霊を忘れない。英霊の魂が、このような国旗となったと信じて合掌するのみである。
昭和の戦争記念館4巻「大東亜戦争その後」から引用
(参考)
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ペリリュー島のサクラと神社
遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。
「あそこでみんな死んでいったんだ・・・」
沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。
大東亜戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。
老人は村の若者達と共にその作業に参加した。
日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。
やがて戦況は日本に不利となり、
いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。
仲間達と話し合った彼は代表数人と共に
日本の守備隊長のもとを訪れた。自分達も一緒に戦わせて欲しい、と。
それを聞くなり隊長は激高し叫んだという
「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」
日本人は仲間だと思っていたのに…みせかけだったのか
裏切られた想いで、みな悔し涙を流した…
船に乗って島を去る日 日本兵は誰一人見送りに来ない。
村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。
しかし船が島を離れた瞬間、日本兵全員が浜に走り出てきた。
そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。
先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。その瞬間、彼は悟ったという。
あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだと・・・。
『サクラサクラ―ベリリュー島洞窟戦』船坂弘著 (1967年) (毎日ノンフィクション)
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厳密に言うと、パラオとバングラデシュは「東南アジア」ではなくオセアニアと南アジアに分類されているが、東南アジアも歴史的な背景は概ね同じだ。
だからこそ、上述のように、東南アジア諸国で世論調査をすると、日本に良い印象を持っているのだ。
こういう国の人々が「君が代」「日の丸」に抵抗感があると言う教育委員は、無知なのか、工作員なのか?
>「教え子を再び戦場に送らない」とがんばっている教員が子どもたちの信頼を得ていることもあるとして、…
そんな教員は子供たちの信頼を得ているわけがない。
根津公子の漫画にも描かれていたように、そんな教員は子供たちからも「キモイ」と言われている。
そもそも君が代斉唱や斉唱・演奏の際の起立と、「教え子を再び戦場に送らない」とかいうこととは全く関係が無い。
日本は戦後も70年近く「君が代」を国歌として歌続けているが、その間一度も戦争をしていない。
一方、韓国では朝鮮戦争やベトナム戦争をしているし、支那や米国やロシアなどは数え切れないほど戦争をしている。
君が代を歌うと子供が戦場に行くという主張は、全く意味不明で的外れで頓珍漢だ。
>知事は「そういう(起立しない)教員が採用試験でなぜ合格したのか」とのべ、憲法が保障する思想・良心の自由に挑戦する態度をあらわにしました。
「思想・良心の自由」とは関係ない。
ただ単に、「公務員は職務命令に従って起立しろ」と言っているだけの話だ。
百歩譲って、思想・良心の自由と関係するとしても、何度も言うように、それは「制約」であって、「侵害」とはならない。
「君が代日の丸反対派の反論は的外れ!」
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