■冨田メモの徹底検証
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第7章 徳川元侍従長の虚言?
(5)食い違いは、もう一つある
食い違いと言えば、もう一つある。
徳川によれば、靖国神社は元「A級戦犯」の合祀をしてから、11月に遅れて提出してきた。その際、「私は『一般にもわかって問題になるのではないか』と文句を言ったが、先方は『遺族にしか知らせない』『外には公にしませんから』と言っていた。やはりなにかやましいところがあったのでしょう。そうしたら翌年4月に新聞に大きく出て騒ぎになった。そりゃあ、わかってしまいますよね」と、徳川は著書で語っている。
先に見たように、靖国神社側は、事後報告ではなく事前に、しかも宮内庁の申し出により、例年より早く名簿を提出した。また、権宮司らが宮内庁を訪れて提出したと言う。しかし、徳川は、違う。靖国神社は、勝手に合祀をして事後報告だったから、「やましいところ」があったのだろう、だから公表しなかったが、自分が懸念していたように、結局わかってしまい、騒ぎになったではないか、と言いたいようである。
これに対し、松平宮司は、著書『誰が御霊(みたま)を汚したのか』に、次のように書いている。
「14柱を合祀したときは、事前に外へ漏れると騒ぎがおきると予想されましたので、職員に口外を禁じました。しかし合祀後全く言わないと、これまた文句を言う人が出てくる。そこで合祀祭の翌日秋季例大祭の当日祭と、その次の日においでになったご遺族さん方に報告したわけです。
『昨晩、新しい御霊を1766柱、御本殿に合祀申し上げました。この中に』--ここを、前の晩、ずいぶん考えたんです。『東条英機命以下‥‥』というと刺激が強すぎる。戦犯遺族で結成している『白菊会』という集りがありますので--『祀るべくして今日まで合祀申し上げなかった、白菊会に関係おありになる14柱の御霊もその中に含まれております』
そういうご挨拶をしたんです。すると、白菊会の会長である木村兵太郎夫人が、外に出てくる私を待っていらして、『今日は寝耳に水で、私が生きているうちに合祀されるとは思わなかった』と非常に喜ばれた。
それから半月後に、14柱のご遺族すべてに、昇殿・参拝いただきたいという通知を出し、お揃いでご参拝いただいたと、こういう経過でございます。」
木村兵太郎は、東京裁判で「A級戦犯」として絞首刑にされた7人のうちの一人。陸軍大将だった。可縫夫人は、当時白菊会の会長として、例大祭に参列したものだろう。
松平宮司の言うには、事前に外へ漏れると騒ぎがおきると予想されたので、職員に口外を禁じた。しかし、10月17日に合祀をした翌日、18日の例大祭の宮司挨拶で合祀したことを述べ、元「A級戦犯」の遺族にも報告した。
事前に伏せておいたのは、神社としては穏やかに神事を執り行いたいという考えだろう。隠しておいて勝手に進めるということとは違う。また、例大祭の宮司挨拶で公表したのであれば、公式の発言である。祭典が終わった後に、遺族にだけ耳打ちしたのではない。
ところが、徳川は、11月になって名簿を遅れて提出してきた際に、「私は『一般にもわかって問題になるのではないか』と文句を言ったが、先方は『遺族にしか知らせない』『外には公にしませんから』と言っていた。やはりなにかやましいところがあったのでしょう」と言う。そして、「そうしたら翌年4月に新聞に大きく出て騒ぎになった。そりゃあ、わかってしまいますよね」と語る。
靖国神社側には「やましいところがあった」、それは事前に名簿を提出せずに合祀したからである。「やましいところがあった」から、遺族以外には合祀を伝えず、公表しなかったのだという印象を強く与える言い方を、徳川はしている。また結局、世に知られて騒ぎになったのは、靖国神社の姿勢に問題があるという印象を強く与える言い方になっている。
ここにも食い違いがある。
独立回復後の国会において、わが国にはA級戦犯を含めて戦争犯罪人はいない、処刑された者は公務に殉じた法務死者とみなすことを決定した。その基準に変更のない限り、彼らを靖国神社に合祀するのは、いずれ実行すべき課題である。
元「B・C級戦犯」は、昭和34年から合祀が行われた。国は41年の祭神名票に、元「A級戦犯」14柱の氏名を記載した。靖国神社は45年か46年に総代会で合祀を決定した。「時期は宮司預かり」とは言え、機関決定したことを、宮司個人の判断でいつまでも先延ばしにすることは、組織としておかしい。
松平宮司は就任後、再度、総代会が合祀の実行を確認したのを受けて、合祀の名簿をつくった。それを宮内省に提出した上で、合祀を実行し、例大祭の宮司挨拶で公表した。
国会の決議、政府の通知、組織の決定、合祀事務の手続き等を経て、元「A級戦犯」の合祀は行われたと理解するのが、適当ではないか。その公表の仕方や時期をどうするかは、靖国神社側の考えですることではないか。
私は徳川の発言に疑問を感じる。しかも、その主張の大前提は、靖国神社は事前に上奏簿を提出せず、合祀した後の事後報告だったということにあるのである。
(6)徳川と朝日新聞社の関係
元「A級戦犯」の合祀が、一般に知られるようになったのは、翌年春、昭和54年4月19日の共同通信のスクープ報道による。徳川は「新聞に大きく出て騒ぎになった」というのが、これである。
当時、朝日新聞は「賛否、各界に波紋」という見出しで報じたが、それほど大きな騒ぎになったわけではない。報道の2日後に、大平正芳首相が靖国神社の例大祭に参拝した。
大平氏はこの時、「人がどう見るか、私の気持ちで行くのだから批判はその人にまかせる」と述べ、「A級戦犯あるいは大東亜戦争に対する審判は歴史が致すであろうというように、私は考えております」と明言して参拝した。自身はクリスチャンだった。
その後も大平首相は通算3回、続く鈴木善幸首相は8回参拝し、中曽根首相にいたった。中曽根氏は在任中、最後の回も含めると10回参拝している。国民の間には、元「A級戦犯」が合祀されたことを批判する者もいたが、大多数の国民は彼らが合祀されている靖国神社に首相が参拝することに賛同するか、またはこれを許容していた。元「A級戦犯」の合祀は、既に行なわれたこととして定着しつつあったのである。
徳川が「一般にもわかって問題になるのではないか」「新聞に大きく出て騒ぎになった」と言うのは、国民の大多数の反応とは異なっている。
(以下略)
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