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ノモンハン事件5・壊滅的打撃を受けたのは関東軍ではなくソ連軍だった!『ノモンハン事件の真相と戦果―ソ連軍撃破の記録―』小田洋太郎・田端元共著(有朋書院、2002年)・第2次大戦見直しに反発=ロ大統領



写真上
飛行場に着陸する飛行第64戦隊所属の九七式戦闘機"甲"。ノモンハンは見渡す限りの草原地帯のため、前線では特に飛行場というものは造成せず、せいぜい背の高い草を刈り込んだ程度の「簡易飛行場」を転々と移動しつつ作戦することが多かったという。

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ノモンハン事件4
壊滅的打撃を受けたのは関東軍ではなくソ連軍だった
『ノモンハン事件の真相と戦果―ソ連軍撃破の記録―』小田洋太郎・田端元共著(有朋書院、2002年)
第2次大戦見直しに反発=ロ大統領
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/41699594.html

のつづき




http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090826-00000106-jij-int


第2次大戦見直しに反発=ノモンハン事件70周年-ロ大統領

>メドベージェフ大統領は演説で、「戦いで日本の関東軍は壊滅的打撃を受けた」とし、同事件でのソ連側の勝利が第2次大戦全体の行方にも影響を与えたと指摘。




ノモンハン事件は、関東軍も苦戦したが、ソ連軍の被害は関東軍を遥かに上回っていた。
壊滅的打撃を受けたのは関東軍ではなくソ連軍だった!
スターリンは大損害に耐えかね、停戦に焦っていた。


―――――
『ノモンハン事件の真相と戦果 ―ソ連軍撃破の記録―』小田洋太郎・田端元共著(有朋書院、2002年)


 満州国実業部大臣丁鑑修氏は幼少のロシア少年を保育し後にソ連に帰国させた。彼はソ連陸軍の参謀になり、丁氏に「ノモンハンでソ連軍は日本軍の2倍の戦死者を出し、戦車は全滅した。飛行機の損耗も日本軍の比ではない。ソ連が土壇場になった時、日本軍が攻撃を中止し、私共も命拾いした」と連絡した(鬼塚知應『惨たり燦たりノモンハンの夕映え』)。

 「日本軍の傍受電によると、ソ連の損害は甚大でバイカル湖以東の病院は負傷者の収容に忙殺され、西行き列車には患者が満載されているのがわかった。患者は3万3千~4万名と考えられる」(『ノモンハンの真相』玉田美郎。当時、戦車第4連隊長)。辻政信氏も傍受電で、「ソ連軍は、損害の甚大なことを中央部に訴えており」と記述している。

 これに戦死者の数を入れると、ソ連軍の損害は5万名以上になる。

 この損害に耐えかねて、

 8月15日にソ連はドイツ大使に仲介を打診し、かつて独が提案し、ソ連が避けていた独ソ不可侵条約を提案した。

 16日、リッペントロップは日本に影響力を使うことを約束した。

 18日、モロトフは催促し、リッペントロップは「総てはヒットラーが保証する」と述べ、文句があるなら日本の攻撃は止められない、と脅かした。

 20日、ソ連側は停戦交渉に持ち込むために大攻勢を開始したが、戦況は進展せず(後述の井置部隊などから大損害を蒙り、予備兵力はなくなっている)、一方、日本の大使は無表情で、何ら交渉を申し出なかった。

 22日、利権問題で会見の時にソ連側は焦って、「日ソ国交正常化はソ連の最も希望する所、国境問題につき具体的提案があれば検討する」と停戦を申し込み、

 23日、独ソ不可侵条約締結。日本を驚かせたが、スターリンはリッペントロップに対日関係を好転させたいからドイツの援助を頼むと言い、如何にスターリンがノモンハン処理に焦っていたか分かる。

 24日、日本軍の反撃開始予定日だったが、ボロジエイキン少将によると、「日本軍は10ヶ師団を集結中で補給線は日本有利だった。これはヒットラーの急速な進撃と無関係ではない」と推測した。1ヶ師団の日本軍でもてこずっているのに10ヶ師団も来られては大変と、スターリンは震え上がった。そして、

 9月早々、ソ連はドイツ大使に停戦工作を開始したのである。

 関東軍は当然、反撃の軍を用意したが、中央は軍部にはソ連からの停戦申し込みである事を隠して交渉した。事情を知っていれば、関東軍は停戦に応じなかったといわれる。とにかく反対する関東軍を大命として強引に停戦させ、復讐を期した将兵は残念がった。



 (参考)日本の基本戦略として、日ソの兵力比は満州では3対1で、到底日本側が不利なため、「ソ連当初の攻撃を食い止め、その間に約1ヶ月をかけて内地、朝鮮、シナから約10ヶ師団を集めて、敵主力と決戦する」、この情報が漏れていたのであろう。早速日本の反撃を10ヶ師団と見積もったのである。原案では第二次動員をし、総計23ヶ師団、飛行機も500機以上を集め、ソ連30ヶ師団に対抗するもので、ノモンハンで日本は1ヶ師団しか動員していないから、第一次動員以前の問題だった。

 ソ連側損害の数字は、今まで数回にわたり発表されたが、その度に数字が増えてきており、文書管理の秘密保持の解禁から、今後も増える可能性があるとソ連側自ら述べている(実の所は統計の所在が不明らしく、筆者らが検討するほどに統計などないのではないかと思われる)。

 (参考)スターリンは国内での地位安定を目指して昭和12年にトハチェフスキー元帥を含む

 元帥       5人中、3人
 軍司令官   16人中、14人
 海軍提督    8人全員
 軍団長     67人中、60人
 師団長    199人中、136人
 旅団長     397人中、221人
 将校      3500人

が銃殺され、昭和13年6月にはリシュコフ大将は日本へ亡命し、日本はソ連の進攻はないと思っていた。ジューコフ将軍も粛清のリストに入っていた。

 (参考2-ソ連数字の魔術)ソ連側の算定の基本は、常に日本側の兵力を過大に算定し、戦果はそれに見合う数字を発表し、それよりも少ないソ連側損害を発表していたのである(牛島氏)。従って、ソ連側の算定する日本軍の総兵力7万5千(これは実戦の参加部隊ではなく、第二次ノモンハン事件以後に派遣を計画した総数を含む数字)以下の兵力で勝ったとするための数字を、参戦数としているので、本当の数字は異なり、ソ連軍の実際は23万名以上ともいうが、一応、第二次ノモンハン事件ではジューコフのいう5万7千名としておく(当時点の日本側参戦者は2万以下)。

 (参考-3)ノモンハン事件を「ハルハ河戦争」とソ連側は記しているが、宣戦布告がないので「戦争」というのは間違いである。



優秀な日本機

 NHKは日本機が多いので優勢だったと報道したが、間違いである。

 日本機の集結は5月13日の臨時飛行団に始まる。

 飛行第10戦隊 97式軽爆撃機 18機 偵察1機
 飛行第24戦隊 97式戦闘機   19機 松村黄次郎中佐

 5月24日には、

 第12飛行団司令部
 飛行第11戦隊 97式戦闘機   19機 野口雄次郎大佐が加わった。

 付記、神武天皇即位以来の年号を皇紀といい、皇紀2597年(昭和12年、1937年)に制式となったので97式という。

 日本軍の戦闘機は優秀で緒戦の5月20~23日までにソ連機5機を撃墜し、その後の6日間(5月26~31日)でもソ連機175機を撃墜してソ連空軍を撃滅した。これに恐慌を来たしたソ連側は飛行士に戦闘禁止を命令した。日本の飛行機を見たら逃げるように指導し、専ら、日本機のいない時に地上攻撃に来たが、日本機に遭遇すると、その後も数十機単位で撃墜されている。

 「ソ連機が1段50機の3段構え、合計150機で来ても日本機が数機ではダメだが、20機も行けば逃げた」(中尉、河添〔阿部〕武彦氏)。

 事実、5月28日は60機対18機で戦い42機を撃墜している。その他80機対9機で戦い篠原機だけで6機を撃墜とか、6月27日は篠原機だけで11機を落としている。

 当初、日本側は5月13日、飛行第24戦隊19機しか配備せず、9機ずつ4交替で飛び、場合により別の9機が応援に賭け付けたもので、ソ連側は一度に日本機を30機とか、45機を撃墜したなど空戦記で発表しているが嘘である(ジューコフは6月22日から26日までに日本は64機を失ったと書いたが、日本側の記録では日本機の損失は7機である)。

 ソ連戦闘機のイ15は羽布張りの複葉機で速度が遅く、イ16号は金属製といわれるが羽布張りもあった。運動性能は鈍重で、いずれも日本戦闘機の軽快な運動と熟練した技術に抵抗できなかったので、欧州からスペイン内戦に参加した飛行士と、イ15を改造した1153(チャイカー鴎)を大量投じた。これは、8ミリ銅板をイ15の座席の背当板とタンク囲いに使い、引込脚にし、大エンジンをつけたもので外観は同じ羽布張りの複葉機だった。

 ジューコフのいうイ16の改良型も座席とタンクを8ミリ鋼板で囲ったものだった。新鋭高速のイ16などと書く者もいるが、実態は違う。旋回性能は悪く、速度も上らなかった。

 日本の戦闘機は全金属製の97式戦闘機で高速ながら旋回性能に優れ、旋回半径は約78~86米、これは英国やドイツ機の110~140米より優秀であり、「1旋廻半でソ連機の真後ろに追尾することができた」(少年航空兵第4期生、児玉敏光、当時19歳)。
―――――


つづく






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