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ノモンハン事件5
壊滅的打撃を受けたのは関東軍ではなくソ連軍だった!
『ノモンハン事件の真相と戦果―ソ連軍撃破の記録―』小田洋太郎・田端元共著(有朋書院、2002年)
第2次大戦見直しに反発=ロ大統領
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のつづき
露、大戦の歴史見直しを拒否
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090827-00000630-san-int
露、大戦の歴史見直しを拒否 「無謬の戦勝国」史観
8月27日22時57分配信 産経新聞
【モスクワ=遠藤良介】ロシアが近隣諸国による第二次大戦の歴史見直し機運に強く反発している。1939年に日本の関東軍とソ連軍が衝突したノモンハン事件について、メドベージェフ大統領は「この勝利の本質を変える捏造(ねつぞう)は容認されない」と強調。欧州での独ソ戦(41~45年)をめぐっても、ソ連をナチス・ドイツと並ぶ「占領者」とみる東欧・バルト諸国と対立を深めている。「欧州の解放者」を自負するロシアは、「無謬の戦勝国」というスターリン史観を国際的影響力のテコとし続けたい思惑だ。
メドベージェフ大統領は26日、モンゴルの首都ウランバートルで行われた、ノモンハン事件の70周年行事に出席。モンゴルのエルベグドルジ大統領とともにノモンハン事件での司令官、ジューコフ将軍の記念碑に献花した。
モンゴルでは同事件について「(モンゴルは)日ソ両国の犠牲になった」とする解釈も出ているが、メドベージェフ大統領は事件を日本に対する「(ソ連、モンゴル)共通の勝利」と位置づけ、同じ歴史認識に基づいて友好関係を築くことを訴えた。
メドベージェフ氏はまた、「(戦闘で)関東軍は壊滅的打撃を受けた」とし、事件は「対ソ開戦しないとの日本の決定に影響を与えた」と指摘。これを受けて「(ソ連は)41年に極東からモスクワに大戦力を移動できた」と述べ、ノモンハン事件での勝利が西部での対独戦勝利につながったとの考えも示した。
独ソ戦をめぐっては23日、両国が東欧・バルト諸国の勢力圏分割を約した秘密議定書「モロトフ・リッベントロップ協定」も締結70年を迎え、その評価をめぐる議論が再燃している。
戦後のソ連支配を「新たな占領」とみる東欧・バルト諸国では、「協定はナチス・ドイツのポーランド攻撃を可能にし、第二次大戦の原因となった」との認識が主流だ。23日にはバルト三国首脳が「20世紀の2つの全体主義(ナチスとソ連)についての誠実な評価」を欧州連合(EU)に求める宣言に署名した。
(以下略)
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>メドベージェフ氏はまた、「(戦闘で)関東軍は壊滅的打撃を受けた」とし、
ノモンハン事件は、関東軍も苦戦したが、ソ連軍の被害は関東軍を遥かに上回っていた。
壊滅的打撃を受けたのは関東軍ではなくソ連軍だった!
スターリンは大損害に耐えかね、停戦に焦っていた。
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航空隊の戦果
戦果、ソ連機1464機を撃墜・爆砕。
(参考)ソ連の戦闘機は1930年、イギリス機のコピー、イ5、480馬力、最高時速295キロに始るもので、これを改良して1933年(昭和8)、イ15型とした。
次表からソ連がいかに、高速、軽量化に努力し、失敗したかが分かる。ソ連エンジンは高空での性能が悪かった。戦場で6種類の戦闘機が使用され、目まぐるしく改造したが成功せず、結局、設計技師ポリカルポフは解任された。
戦闘機 馬力 最高速度 5千米上昇 重量kg
イ15 400-700 360km/h 8分 1880 複葉機 上翼はガル型
イ15-bis 750 371km/h 1735 同 上翼は直線型
イ153 1000 430km/h 1440 同 上翼はガル型、引込脚
イ16 480 360km/h 1485 単葉機 木金混合製
量産型 775 450km/h 6.5分 1535 単葉機 木金混合製
イ16-24型 1600 470km/h 5分 2059 単葉機 木金混合製
97戦(日本)750-870 460km/h 5分 1110 単葉機 全超々ジェラルミン製
ソ連機は空気抵抗を無視したずんぐりした機体で、旋回性能が悪かった。低速度のイ15を下方に囮に使い、上方には2段にイ16やイ153を置き、3機1組の編隊を組んだが、これはチームプレーを必要とし、高度の熟練を要したためソ連飛行士には難しかった。日本の戦闘機の方が早いので一撃離脱するには速力不足だったし、技術不足で、空中戦になると敗勢で、すぐ逃走した(捕獲したイ16を調査すると、最高速度は370kmだった。公称より低いのがソ連の武器である)。
しかし、少数機の日本飛行士は毎日数回の飛行を行うため後半に疲労困憊し、休養を必要とし、また、飛行機も稼働率が落ちた。「黄塵のための弁の磨耗多し、人は居るが機がない」とある。
一番のネックは、ソ連側は満州国領土内を頻繁に飛行し、爆撃したが、日本機にはソ連領内への積極的飛行が制限されていたことで(6月28日、大陸指第491号)、偵察や爆撃も大々的にできなかった。これは7月20日の「事件処理要綱」でさらに強く制限され、現地の兵は損害を被り迷惑したのである。
戦車
日本軍はソ連戦車・装甲車を7月の左岸作戦で430台以上を破壊炎上した(ソ連側は配備した数字を446台としているので、96%以上を撃滅した事になる)。ソ連側は損害を60台と発表しているが、嘘である。しかし、ソ連側も大損害を受けたことを認めている(後に戦車旅団長ヤコヴレフ少将は戦死)。
その後も日本軍はソ連戦車を破壊し続けた。「1千米以内に入れば日本軍の速射砲は百発百中だった」(軍曹前田義夫氏「ノモンハン戦」御田重宝著)。高射砲では1千5百米でもソ連戦車を破壊した。また、火炎瓶を恐れてソ連戦車は600米以内に入って来なくなった。
ソ連の装甲車に至ってはフォード製で機関銃でブスブス貫通した。今日でも小口径銃の貫通弾痕のあるソ連戦車や装甲車が放置されているが、この報道にソ連軍との注がなく、また、ソ連軍の放置戦車をアサヒグラフ(平成11年5月14日号)は日本軍戦車とデタラメな注記をしている。後期でも手榴弾や火炎瓶、擲弾筒で戦車が破壊炎上したのが報告されており、後期には無効だと強調するのは疑問である。日本軍の無能を述べんとする意図的なものを感じる。後期の苦戦は弾丸がなくなり、大砲が破壊されたからである。
ソ連軍には当時、近代装備がなかった。防弾鋼板も自国製がなく、英国の造船所が軍縮で捨てた鋼鉄板を買って戦車に貼ったものである。空軍やトラック積載部隊など台数が多いだけで質的には近代的とは言えなかった。
戦果
ソ連戦車 800台以上を破壊
日本戦車 29台の損害
日本戦車の欠点のみ記述され、五味川氏は「日本戦車の戦闘性能はソ連戦車に較べて劣っているから対等に渡り合って勝ち目なく技能を尽くしても苦戦は避けられなかった」とあるが、間違いで、ソ連戦車の欠点を知らず、また技能ははるかに日本戦車兵に及ばなかったのを知らず、ソ連戦車は戦車決戦に敗れているのを知らないのである。日本の戦車はソ連軍の脅威として有効的で、論より証拠、
ソ連の戦車と対決して、66台を撃破、日本側損害なし。
飛行機は26機を落とし、その他、大砲、人員に多くの損害を与え、良くソ連軍を牽制し、日本戦車のいる所には近寄らなかった。
ソ連戦車は大砲を使い、機関銃はほとんど使用せず、また、互いに衝突するほど運転する視界も悪かったため、容易に接近できて火炎瓶で炎上させた。日本兵士は戦車に上り、戦車砲や機関銃を打撃し、これで照準を狂わせ使用不能にしたが、日本兵士が苦労したのは間違いない。
ソ連戦車には走行しながら射撃をする技術がなく、射撃するために停止したので、そこを日本軍に砲撃されて破壊された(日本戦車は行進射撃の訓練をしており、7月4日の戦車戦では12台の敵戦車を破壊し、敵は退却した。日本の損害0)。大砲の観測手は必ず赤い馬で現れたり、羊群が来たので見ると羊皮を被った観測手が紛れているという時代離れした思考だった。大砲は毎日同じ位置を砲撃し、日本兵に笑われている。そして、日本兵の苦労のみを伝え、ソ連側が大損害を受けて恐怖した事実を見逃している。
富永信氏(「ノモンハン孤立兵の遺書」農文協-氏は東京帝国大学卒の一等兵)
「敵砲弾はかなり正確に飛んでくるが、不発弾があり、私たちの周囲では敵砲弾による被害は非常に少なく、私たちは日ごろからソ連の戦力を過小評価していたので、敵の兵器は数量だけで質は粗製濫造による粗悪なもので威力がないのだと解していた」(ソ連機が70個の爆弾を落としたが半数近くが不発の記録もある。草葉大尉「ノロ高地」に眼前50センチに同時に落下した砲弾が2発がともに不発だった記述がある。筆者も垂直に落下している現存の不発弾を見ている)。
「その夜私はやはり部隊に遅れないようにただ歩いて停止し、走って停止して、前進を続けただけだった。陣地に引揚げると敵はトラックで来た。こちらが進めば後方から砲撃で日本の前進を阻み、こちらが引揚げると又侵入して来る」。「進めば敵は退くと思った。参謀が荘思ったのも無理ない」と、かなり見くびって油断していた。参戦者は一様に「負けたとは思わない」と語っている。
外人は日本兵士の銃剣による刺殺と日本刀に非常な恐怖を抱いており、砲弾で日本兵の進出を防いだ。「我銃剣突撃には絶大なる恐怖心を持ちあるものの如く、我にして巧みに敵の不意に乗じ突撃するか、側背に進出せば悲鳴をあげて潰走するを常とす」(歩72戦闘詳報)。白兵戦は日本の一戦力だった。後にソ連も銃剣術を採用した。
日本の公刊戦史は例外で、外国の公刊戦史は常に勝利の栄光のみを記し、損害や敗戦の実情などは書かないものであるから、ソ連の公刊戦史をそのまま信用するのは危険である。
―――――
つづく
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