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正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現
嘘の歴史に騙されるな!日本最優先政治、日本国民の生命と財産と自由を守る核武装、日韓断交を実現しよう!マスゴミの嘘や洗脳工作を許すな!がんばれ!日本国民党!
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ノモンハン事件7・少数の日本軍・バルト三国とソ連の不可侵条約締結・三国軍事同盟とノモンハン事件・『ノモンハン事件の真相と戦果―ソ連軍撃破の記録―』小田洋太郎・田端元共著(有朋書院、2002年)




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ノモンハン事件6
壊滅的打撃を受けたのは関東軍ではなくソ連軍だった!
『ノモンハン事件の真相と戦果―ソ連軍撃破の記録―』小田洋太郎・田端元共著(有朋書院、2002年)
露、大戦の歴史見直しを拒否
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のつづき





<ノモンハン事件>70年…「歴史歪曲許さず」露大統領演説

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090826-00000139-mai-int


<ノモンハン事件>70年…「歴史歪曲許さず」露大統領演説
8月26日22時10分配信 毎日新聞

 【モスクワ大木俊治】第二次世界大戦を前に日本と旧ソ連が交戦したノモンハン事件の対日勝利70年を記念する式典が26日、モンゴルの首都ウランバートルで開かれ、ロシアのメドベージェフ大統領とモンゴルのエルベグドルジ大統領が出席した。

 インタファクス通信によると、メドベージェフ大統領は式典で、「我々は数で勝る敵を撃退した」と、旧ソ連・モンゴル合同軍の勝利をたたえる一方で、「この勝利の本質を変えるような歴史の歪曲(わいきょく)は許されない」と述べた。

 東欧・バルト諸国で、第二次大戦の勝利に寄与した旧ソ連軍の功績を評価せず、ナチス・ドイツと同様の「占領軍」とみなす歴史観が広まっていることに反論したとみられる。

 エルベグドルジ大統領も、旧ソ連の勝利でモンゴルの独立が守られたとして、「第二次大戦の結果をゆがめようとする試みに反対する」とロシアを支持した。
――――


>メドベージェフ大統領は式典で、「我々は数で勝る敵を撃退した」




これも大嘘。
日本は不拡大の方針だったため本格的参戦をせず、ソ蒙軍約6万に対して当初、日本軍は8千以下で戦闘をした(その後、7月に日満軍合同で約1万9千)。






>東欧・バルト諸国で、第二次大戦の勝利に寄与した旧ソ連軍の功績を評価せず、ナチス・ドイツと同様の「占領軍」とみなす歴史観が広まっていることに反論したとみられる。



ソ連は、バルト三国と不可侵条約を締結し、その後、いずれも、相互援助条約を結び、ソ連は自ら国境紛争などを起こして、反ソ姿勢は条約に反するとして、宣戦布告なしにソ連は侵略した。
外モンゴルでも行ったソ連の常套的侵略法だ。


―――――
少数の日本軍

 張鼓峰事件とともに日本は不拡大の方針だったため本格的参戦をせず、ソ蒙軍約6万に対して当初、日本軍は8千以下で戦闘をした(その後、7月に日満軍合同で約1万9千)。日本側は損害に応じて、2百名~3百名と少数ずつ補充し、1万数千名程度を維持する兵力の逐次投入をした為、日本側の損害率が増えたので、損害率だけでは論じることができない。

 当時、日本は漢口作戦の進行中で積極的ではなかったが、荻州兵団3万を編成、強力な武器や戦車を増強し、戦場の近くで待機したところで停戦になった。第1線から帰還した兵は、野原を埋めつくす人員と装備を見て、何故反撃しなかったかと不満をもらしている。今までの少数ずつの補充の投入を止めて、本格的反撃のために部隊を集合していたのであるが、和戦いずれもタイミングを誤ったのは否めない。

 7月3日、日本軍は渡河してバインツアガン(白銀査干)台上を占領し、ソ連戦車群を壊滅させたが、意外の多数の戦車の出現に日本軍の参謀は、長期戦になると補給路が一本のため、戦闘の継続を心配して撤退させたが、この撤退をジューコフは、

 「日本の将兵は完全装備のまま水中に飛び込み文字どおり我戦車兵たちの前で溺れ死んだ。バインツアガン山を占領していた日本軍の残存部隊はハルハ河のほとりの山の東部斜面で完全に壊滅した。何千という死体、死馬の山、無数の壊れた砲、迫撃砲、機関銃、自動車がバインツアガン山を敷きつめていた。このとき日本機45機を撃墜した」。

この記述を基に記念館ではそのような絵があるが、皆嘘である。日本機の実際の損失は偵察機2機(内、1機は友軍の誤射)。ソ連側の損失は3日間の合計69機で、これではソ連側は恥ずかしくて真実の発表はできない。


 また、ソ連は降伏したポーランド軍将校1万5千名殺害したカチンの森の悲劇や、バルト三国の将校4千名を大量殺害し、以後の軍事力の消滅を図った事実を書くべきである。


バルト三国とソ連の不可侵条約締結
外蒙以外にもソ連の常套的侵略法についてねべる必要があるので解説すると、

1926年9月28日、ソ連はリトアニアと不可侵条約締結。
1932年2月5日、ソ連はラトビアと不可侵条約を結ぶ。
1932年5月4日、ソ連はエストニアと不可侵条約を結ぶ。

その後、いずれも、相互援助条約を結び、ソ連は自ら国境紛争などを起こして、反ソ姿勢は条約に反するとして、宣戦布告なしにソ連は侵略したのである。
 ソ連による最初の年だけで、リトアニアでは34,260人が消えた。ラトビアでは14,689人が、エストニアでは12,000人が跡形もなく消えた。この虐殺の記録は後にドイツ軍が名簿などを入手して判明した(トルストイの「スターリン」に詳細な文献と、想像を絶する死に至る拷問と野蛮な殺害方法の実相が記されている)。
 ポーランドではソ連に200万人が連行され生還したのは30万人という。


三国軍事同盟とノモンハン事件
 この成立がノモンハン事件に関係があるような議論があるが、実の所無関係である。
 三国軍事同盟結成はドイツがソ連牽制のために熱心だった。日本の陸軍の一部もソ連牽制のために熱心だったが、日本海軍は三国軍事同盟の結成は日米英の関係を損じると反対したため、結成は遅れた。
 ポーランド侵入に際して英国の干渉を防ぐ為に、ドイツにはソ連とのポーランド分割と、独ソ不可侵条約は不可欠ものだった。ドイツは早期からこの条約を望んでいたが、ソ連は条約違反の口実を与える可能性を警戒して承諾しなかった。しかし、ノモンハンでの敗勢から、ドイツに日本への影響を期待して、独ソ不可侵条約を承諾したもので、三国軍事同盟結成の遅れが独ソ不可侵条約を促進したとは言えない。一方、ソ連は外蒙安定の必要から国境紛争を起こし、外蒙を制圧したもので、三国軍事同盟の直接的影響はない。
 早期に三国軍事同盟が結成されていれば、ドイツは日本に対して対ソ戦の要望を行なっていたかも知れない。そしてポーランド侵入の為にやはり、ドイツは不可侵条約を結んだであろうから、ソ連としては西方は安泰で、蒙古制圧の為にやはり、国境紛争を起こしたであろう。
―――――


以上







「ロシアは、外モンゴルやバルト3国などを侵略した事実を認めよ!」

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