FC2ブログ
正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現
嘘の歴史に騙されるな!日本最優先政治、日本国民の生命と財産と自由を守る核武装、日韓断交を実現しよう!マスゴミの嘘や洗脳工作を許すな!がんばれ!日本国民党!
202403<<123456789101112131415161718192021222324252627282930>>202405
【今日は何の日?】塘沽協定締結:1933年5月31日・蒋介石の国民党政権が満州事変の終結と満州国の成立を認めた・よって「15年戦争」は欺瞞・「太平洋戦争」もGHQの洗脳工作用語で「大東亜戦争」が正しい

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070531-00000000-scn-cn


【中国】【今日は何の日?】1933年:塘沽協定が締結される
5月31日8時7分配信 サーチナ・中国情報局

 1933年5月31日、「塘沽(タングー)協定」が締結された。中国の国民政府軍と日本の関東軍が締結した、満洲事変の停戦協定。

 関東軍は1932年3月1日の満洲国建国宣言の後、熱河省(現在の河北省、遼寧省、内モンゴル自治区の境付近)に侵攻し、万里の長城(長城線)以北の地域を満洲国に併合した。

 関東軍は更に長城線を越えて河北省へ南下したが、国民政府軍は本格的に交戦。しかし、当時の国民政府は二大実力者だった蒋介石と汪兆銘が日本との本格的対決を極力回避する方針で一致していた。一方、日本も同年3月に国際連盟を脱退して孤立していたことから、停戦にむけて国民政府との交渉を開始した。

 1933年5月31日、中国側は日本側が提出した草案を全面的に受け入れ、天津郊外の塘沽において協定を締結、満洲国国境の南側に非武装地帯を設定した。協定の骨子は以下の通り。

◆国民政府軍は河北省東北部から撤退する
◆前項が遵守されているかどうか日本軍が監視することを認める
◆日本軍は長城線以北へ撤退する
◆長城線以南および国民政府軍撤退ラインの間の地域の治安は、中国側の警察によって維持する。


 この協定により、国民党政権は満州国の成立を実質的に認めたことになった。中国共産党は協定を妥結した責任者とされた汪兆銘を、「売国奴」と厳しく非難した。
―――――――






このように、1933年5月31日に締結された「塘沽協定」によって、満州事変は終結し、支那(蒋介石の国民党政権)は満州国を承認したのである。

蒋介石政権が満州国を認めた以上、支那は満州国を独立主権国家として認めたのだ。

このことは、東京裁判でパル判事も指摘している。




━━━━━━━━
 検察側自身のいうところによっても、熱河をふくむ全満州の軍事的占領は、1933年5月までには完了していた。
1933年5月31日に塘沽停戦協定が調印され、これらの諸省に関する日中間の紛争の実情はどうであったにしても、それに関する実際の敵対行為は終ったのである。

 この停戦協定の調印をもって、日華間の友好関係は回復された。
検察側自身も、この停戦後当座の間は日華間の関係が改善されたといっている。
もちろん、1935年の初期にはある種の波瀾があったには違いないが、これらはすべて妥協によって解決され、1935年6月10日には梅津・何応欽協定が締結された。両国双方において、その主な政治家の公式の言説のなかには融和的な語調が現れた。
蒋介石元帥と在中国日本政府代表との間の個人的な接触も長い間中絶していたが、ここに回復を見るにいたった。
反日運動をより有効に取締ってもらいたいという東京からの要望にたいして、中国政府は他国との国交を損なうおそれのある運動を抑圧するために、地方ならびに各自治体当局に警告を発したり、学校の教科書を改訂し、日本にとって不快な章句を除去したりして、欣然これに応ずる態度を示した。
日本政府においても好意的態度を示し、その中国派遣外交使節を大使館に昇格させて中国にたいする敬意を表した。
右の変更は6月14日に行われ、その後三ヵ月間に、英国、ドイツ、米国もこの例にならって同様の措置をとった。

 その後、蒋介石政府官憲は、関税、郵便、電信、および鉄道に関して、満州国と取極めを結んだ。
1935年6月に蒋介石は日本を対象として敦睦邦交令を公布した。
岡田内閣の外相広田氏は中国と交渉して、満州ならびに華北における「現状」の承認をふくむ「広田三原則」を公表し、またこの原則にもとづいて細目を論議することについて中国政府の同意をえた。

東京裁判研究会編『共同研究 パル判決書(下)』(講談社、昭和59年2月、第一刷)、507-9頁より
━━━━━━━━




認めていない国と取極めや協定や各種条約を結べる国は、存在しない。

その後、支那が満州に侵攻すれば、それは侵略以外の何ものでもない。










Yahoo!掲示板
トップ > 生活と文化 > ニュース、時事問題 > 海外ニュース > 日本の戦争責任


責任なし11 中国の満州侵犯と熱河作戦 2003/ 5/11 6:13 [ No.344

投稿者 :
rekisisiranai



 中国は、自分達の悪逆非道を棚に上げ、日本の自衛行動を侵略と逆恨みしました。元々、自分の物でもない満州を侵略しておきながら、本来の持ち主に取り返して上げる行為を侵略と逆恨みしているのです。盗っ人猛々しいとはこの事です。

 日本は、侵略者の中国に“侵略”呼ばわりされるいわれはありません。
 満州人に言われるのなら別ですが。関東軍の軍人が横柄で、皇帝をないがしろにしていたのは事実です。

 ですが、それもある程度、仕方がなかった事です。中国が常に再侵略を狙っていましたし、出来たばかりの満州国に自衛能力はありませんから。また官僚組織も不十分でしたので、いきおい関東軍が指図することになります。

 しかし、これも時が解決したでしょう。軍人はしょっちゅう移動させられますし、時が経てば建国の功労者もいなくなります。その時には国の整備も整い、真の独立国になれたかも知れません。あまりにも早く潰された為に判らなくなりましたけど。

 だが満州事変は、いくつかの地域を占領しただけでは終わりません。
 これを防衛しなければならないからです。中国軍がいつ反撃してくるか判りませんので。
----
 遼寧省、吉林省、黒龍江省、コロンバイルなどは独立宣言をしましたが、その他の地域は手つかずで残っています。
 最初、日本は中国東北辺防軍のいる錦州は攻撃しませんでした。それは、政府が中国と全面戦争になることを恐れていたからです。

 関東軍は馬賊の討伐もやっていますので、これを追撃すると錦州に逃げ込みます。関東軍が手を出せないので、錦州が馬賊の聖域となっていました。そしてこの馬賊は中国東北辺防軍の別働隊でもあったのです。

 また錦州政権の存在は関東軍占領下の小軍閥の動きにも影響を与えていました。そこで、関東軍は錦州を何とかしなければと考え、錦州を爆撃する事にしたのです。といっても爆撃機ではなく偵察機で、しかも人が手でもって落とすだけですけど。

 従って、たかが知れています。では何でそんな事をしたのかというと、目的は軍事効果ではなく、それによって、お目出度い政治家の頭を吹き飛ばす事にあったのです。

 後に日本は交渉で張学良軍を山海関の外に移動させます。しかし、これで、満州国が安定したわけではありません。

 昭和7年7月17日午後1時ごろ、満州熱河省の北票から遼寧省の錦州に向かう列車が両省の境に近い南領~朝陽寺間にさしかかった所、一隊の武装兵が停車を命じ、乗っていた関東軍嘱託の石本権四郎を拉致しました。

 犯人は匪賊的に行動している抗日義勇軍の一部です。
 熱河省は満州の一部ですが、まだ関東軍の手はついていません。

 満州を追われた張学良は、4万の義勇軍を熱河に送り込み反満抗日の拠点にしていたのです。
 そのため関東軍はこれをも一掃せざるを得なくなりました。

 結局、熱河省も制圧しない事にはどうしようもないと判ったからです。関東軍は昭和8年熱河作戦を行い、結果、本来、満州の領域である熱河省の回収にも成功することになります。

 この作戦では、最初、関東軍の武藤司令官は長城越えを禁じていました。ところが、中国軍が南から熱河奪還作戦を行うものですから、結局、長城の南にも行かざるを得なくなったのです。

 その時、関東軍は、天津・北平(北京)に迫る勢いを見せました。これは不都合ですからやめさせなければなりません。長城の北だけなら満州国の防衛と主張できますが、南に行くとその理屈が通らなくなります。

 外国から見ると侵略に見えます。だから止めなければなりません。ところが現場がなかなか止まりません。というのは中国兵を南に追いやっても、関東軍が引っ込むと、また戻って来るからです。だから“もっと遠くへ”とやっている内に、こうなったのです。しかしこれでは際限がありません。



 そこで“中国軍が二度と満州を侵略できないようにと《北京北方から密雲以東、長城線から約五~六十キロの深さの河北省》を非武装地帯にする”という 塘沽停戦協定を中国と結んで、関東軍は長城の北に引き揚げました。

 これにて、満州事変は終了します。
しかし中国側は納まりません。つねに満州再侵略を試み、また中国国内での排日運動を激化させます。
つづく






●「十五年戦争」、「太平洋戦争」という呼称について
(2009年2月14日追加)

「15年戦争」というのは、戦後、反日左翼が考え出した欺瞞。
大東亜戦争でも支那事変も日本の完全な正当行為だったため、GHQは東京裁判で日本を悪者にするために満州事変まで遡らざるを得なかった。
満州事変まで遡っても日本を悪者には出来なかったが、それでも、支那事変や大東亜戦争と比べれば、少しだけ日本を悪者に出来た気分になった。
ただ、満州事変は1933年の塘沽協定の締結で、支那が満州国を承認したことで終結した。
塘沽協定締結を無視して「15年戦争」なんて言っている連中は馬鹿丸出しだ。


「太平洋戦争」というのも、戦後GHQが、日本に強制したアメリカに都合の良い呼称だ。
1945年12月9日、NHKラジオ番組「真相はかうだ」の放送開始。
引き続いて放送された「真相箱」、新聞に掲載された「太平洋戦争史」、東京裁判などと共にGHQは「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」という洗脳工作を実施。

日本における「太平洋戦争」という呼称は、戦後初めて米国による日本人洗脳工作の一環として使用されるようになった。
GHQの検閲により、「大東亜戦争」という呼称は禁止されたが、その後日本が独立して主権を回復した以上、日本は洗脳工作のための「太平洋戦争」から、当時の日本で公式に使用していた「大東亜戦争」に戻すべきだ。







人気ブログランキング
http://blog.with2.net/in.php?671525

くつろぐブログランキング
http://kutsulog.net/index.php?id=66431

1日1回以上クリックよろしくお願いします


  ∧_∧
 ( ・∀・) よろしく ↑
 ( ∪ ∪
 と__)__)

関連記事
コメント
コメント
コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する
トラックバック
トラックバック URL
トラックバック
copyright © 2024 Powered By FC2ブログ allrights reserved.