そのベイツ教授が上海から「諸友宛て」に送ったという、1938年4月12日付の手紙が残っている。
「その本には、12月15日に南京を離れようとしていたさまざまな特派員に利用してもらおうと、私が同日準備した声明が掲載されています」
その特派員とは、スティール、ダーディン、メンケン、マクダニエル、スミスの諸氏である。ベイツ教授の言う「その本」とは、今日では中央宣伝部が製作した宣伝本であると判明したティンパーリ編『戦争とは何か』である。その本の第1章の前半はベイツ教授が匿名で執筆していた。それが、ベイツ教授の言う「声明」(レポート)であった。ベイツ教授はそれを新聞記者に「利用」してもらおうと、12月15日に南京を離れる新聞記者たちに渡したと言うのである。
(略)
ベイツ教授が特派員たちに渡した「レポート」は、『戦争とは何か』の第1章前半に匿名で収録され、今日に残っている。早速、それを見てみよう。
2日もすると、たび重なる殺人、大規模で半ば計画的な略奪、婦女暴行をも含む家庭生活の勝手きわまる妨害などによって、事態の見通しはすっかり暗くなってしまいました。市内を見まわった外国人は、このとき、通りには市民の死体が多数ころがっていたと報告しています。……死亡した市民の大部分は、十三日午後と夜、つまり日本軍が侵入してきたときに射殺されたり、銃剣で突き殺されたりしたものでした。……元中国兵として日本軍によって引き出された数組の男たちは、数珠つなぎにしばりあげられて射殺されました。これらの兵士たちは武器をすてており、軍服さえぬぎすてていたものもいました。……南京で示されているこの身の毛もよだつような状態は……。
ベイツ教授がこれを特派員に渡したのは12月15日であった。したがって、この「レポート」が問題にしているのは(すでに見たアメリカの新聞記事と同じく)12月13日の陥落から3日間の出来事である。そこに書かれていることを挙げてみると、殺人、略奪、婦女暴行、死体、さらに中国兵の摘発、連行、射殺である。南京在住の外国人の記録を比較検討した前項からも分かるように、これは陥落3日間の状況から大きくかけ離れていた。しかも、ベイツ教授は国際委員会の有力なメンバーであった。彼が東京裁判で証言したように、「みずから」南京の日本大使館に渡していたという「市民重大被害報告」のなかには、ベイツ教授が12月15日の「レポート」に記したような「陥落後2日もすると頻発する殺人」という非難は一つも書かれていなかった。
P120~121
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