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9月18日は満州事変勃発(柳条湖事件)記念日(1)・満州と支那は別物・満州事変以前は張作霖、張学良親子が率いる武装盗賊が強盗殺人をやりたい放題

9月18日、柳条湖事件76年

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070919-00000006-jij-int


柳条湖事件76年、各地でサイレン=日本国旗燃やす騒ぎも-中国
9月19日2時1分配信 時事通信

 【北京18日時事】1931年に中国東北部・奉天(現在の遼寧省瀋陽)で、旧日本軍による満州事変の発端となった柳条湖事件が起きてから18日で76年。中国メディアによると、国内各地でサイレンが鳴らされ、「国の恥を忘れず、中華を振興させる」との呼び掛けが行われた。
 ただ、昨年10月以降に実現した日中両国指導者の相互訪問を受け、日中関係の改善に向けた動きが加速。今年7月7日の盧溝橋事件(日中戦争発端)70周年と同様、メディアを含めて愛国主義をあおる動きは少なかった。瀋陽の日本総領事館によると、中国人2人が18日夜、瀋陽市内で日本国旗を燃やすなどした。一部群衆が「反日」スローガンで同調したが、大きな混乱はなかった。
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9月18日は、満州事変が勃発(柳条湖事件)の日だ。

1931年9月18日、関東軍が張学良率いる武装盗賊の満州からの追放を開始した。

満州事変は、関東軍が満州から盗賊を追い出した警察行動だった。

3,000万人の満州住民の強い要請と支援によって、たった1万人の関東軍が、30万人の武装盗賊(張学良)を追放することに成功した。



そもそも満州は支那ではなく満州と支那は別物だった。




●満州と支那は別物

・支那4千年の歴史で漢民族が満州を支配したことは辛亥革命後まで一部分を除いて殆んどなかった。
(漢民族の王朝が全満州地域を支配下においたことは、明代の一時期を除いて、一度もなかった。しかし、満州南部の遼西・遼東地域は戦国時代から漢民族系農耕民の居住世界であり、度々漢民族王朝の支配下におかれた)

・三民主義(内一つが民族独立)を掲げて辛亥革命を行ったくせに、チベットや蒙古の独立宣言を認めず、袁世凱は侵略をした。

・中華民国政府が清朝と結んだ『退位協定』には、「大清皇帝は辞位後も皇帝の尊号を廃止せず、中華民国は外国君主に対する礼を以てこれを待遇する」とあった。

・溥儀は自らの意志で満州国皇帝になった。

・国連加盟国が約50カ国しかなかった時代に、満州国を世界の20カ国以上が承認。

・鉄道や都市開発等は日本をも凌いだ程で、事変前の人口3千万人が10年後の1941年には4千3百万人に急増。






「満洲」というのは、トゥングース系の言語である「満洲語」、自称 manju gisun を話す満洲族が住む地域のこと。

シナ語では、地域は「満洲」Manzhou,民族は「満族」Manzu,言語は「満語」Manyu.

英語では「満洲」は Manchuria,モンゴル語では Манж(ローマ字轉写すると Manzh)になる。

もちろん、トゥングース民族はロシア・シベリアにもいる。






【「民族」の独立】が辛亥革命の目標(基本政策)の一つだった。

【辛亥革命】
革命運動の目標(基本政策)として、「民族」の独立、「民権」の伸張、「民生」の安定、という3つ「三民主義」を掲げた。
1911年10月、孫文の中国革命同盟会が湖北省の武昌で反乱をおこすと、16の省がつぎつぎと清朝からの独立を宣言。
各省代表が南京に集まり、1912年には、孫文を臨時大総統に中華民国臨時政府を成立させた。




辛亥革命で満州王朝(大清帝国)から独立する支那人たちが、「満州と支那は別物」、「満州は支那にとって外国」と認識していたのだから、辛亥革命における『独立』は当然満州王朝(大清帝国)からの『分離独立』を意味する。


胡漢民は「支那と満州は別物」と強く主張し、孫文も「支那革命は万里の長城以北には関係せぬ」と述べていた。


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同盟会創立当時の機関紙民報に「支那革命党の弁駁書」と云う胡漢民の大論文を翻訳して載せてある
其の内容は『国民新聞』が満州政府は支那政府である
何の為に支那人が革命を必要とするかと論及したのに対して、支那と満州は別物である
之を同一視するには支那の歴史を知らぬものであると国民新聞を痛切に駁論して居る処と、孫公が露西亜亡客ドクトルゲルシヨニの懇請を退けて、支那革命は万里の長城以外には関係せぬと断然ことわつて居る処と、・・・

久保田文次編『萱野長知・孫文関係資料集』、232Pより
※萱野長知著『中華民国革命秘笈』序文から抜粋された個所
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孫文以下の指導者も「中国にとっては満州は外国であり、革命成功の後は、満州問題は日本に一任する」と公言していた。

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 その理由は「革命同志会」の標語は「倒満興漢」であり、清朝を倒して元来満州人である清国政府をその故郷満州に追い返すことを主張していたからである。
機関紙『民報』は「日本と革命中国の国民連合」を唱え、孫文以下の指導者も「中国にとっては満州は外国であり、革命成功の後は、満州問題は日本に一任する」と公言していた。
彼らは革命後にも漢民族の勢力は満州までは及ばず、清朝は満州帝国を再建して、ロシア帝国と手を結び、漢民族の敵国となるだろうと予想していたのである。
林房雄著『大東亜戦争肯定論』
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満州が支那ではないことは、支那人の英雄・孫文が言っていたのだ。



また、中華民国政府が清朝と結んだ『退位協定』には、「大清皇帝は辞位後も皇帝の尊号を廃止せず、中華民国は外国君主に対する礼を以てこれを待遇する」とあった。


そして、大清帝国と列国が締結した各種条約は、革命後、最初の支那政権、即ち袁世凱政権がそれを継承するといった。

袁政権崩壊後は、支那各地の軍閥政権が、その都合に応じて、例えば、借款が欲しいとかいう都合に応じて継承するといったり、突然豹変して関係ないといったり(例えば、塩税や釐金税の徴収権など)など、支那は到底『主権国家』等といえる状態ではなかったが、その都度、列国が認める時の中央政府が形式上継承している形だった。

しかし、その都度態度が変るため、列国は権益保持のため軍隊を駐留させ、軍閥政権が発作的に起す暴挙に対応する準備をしていた。

以上が、『大清帝国後の各種支那政府』と諸外国との条約関係から見た継承関係だ。




更に日本の場合、今から100年以上前、日本を守るためにはロシアに侵略されそうだった朝鮮を守らなければならなかった。

そのため、日本軍は満州でロシア軍と戦った。

日露戦争後、関東州の租借地(遼東半島)と南満州鉄道が日本のものになった。

それらの守備をするために関東都督府陸軍部が置かれた。

そして、1919年に関東軍となった。







●満州事変までの満州では武装盗賊が強盗殺人をやりたい放題


張作霖、張学良親子は、武装盗賊の頭領で、満州で強盗殺人をやりまくっていた。

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清国衰弱と共に満州には多くの中国人が流入し、日本の後援を受けた張作霖が独立国とした(張作霖、張学良が満州の民衆を搾取していた実態や、張作霖の度重なる危機を関東軍が救った話は古野直也氏著の近著「張家三代の興亡」が好著である)。
 張作霖父子は中国征服に乗り出し、20年先の税金まで一般人から取り、日本や朝鮮人にも法外な税金を徴収したり、土地、会社などを没収したりしたので日本に対する忘恩行為と言われたが、特に朝鮮人は虐待された。
(略)
 当時、朝鮮人は日本人だったが、日本人としての権益を認めず、朝鮮語、朝鮮服の使用を禁止したり、朝鮮学校の没収を行い、帰化を強制し、あげくには帰化朝鮮人まで追放し、殺害、略奪の対象になった。

『ノモンハン事件の真相と戦果――ソ連軍撃破の記録』小田洋太郎・田端元著
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当時、支那が世界平和に対する脅威だったと『リットン報告書』も述べていた。

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 支那に於ける主導的要素は徐々に行われつつある国民自体の近代化なり。
現代支那は其国民生活のあらゆる方面に於いて過渡的証跡を示しつつ進展しつつある国家なり。
政治的擾乱内乱、社会的及経済的不安は中央政府の衰微をもたらすとともに1911年の革命以来支那の特徴となりたり。
之等の状態は支那の接触し来れるあらゆる国家に不利なる影響を及ぼし来れるものにして、匡救せらるるに至る迄は常に世界平和に対する脅威たるべく又世界経済不況の一原因たるべし。

『リットン報告書』
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以上のことから満州事変は、関東軍が満州から武装盗賊を追い出した警察行動だったことが良く分かる。


当時の満州には【3,000万人】の「満州人・蒙古人・支那人・日本人(朝鮮人含む)・ソ連人」が住んでいた。
張学良が率いる盗賊軍は、約【20万人~30万人】だった。
関東軍は、【1万人】だった。

これは、人口3,000人の村に、30人の武装窃盗団が蔓延って居て、1人の警察官が居た状況と考えれば良い。
たった1人しか居ない警察官は、3,000人の村民の強い要請や支援がなければ、30人の武装窃盗団を村から追い出すことなんて不可能だよ。

つまり、張学良の盗賊軍30万人を満州から追い出し、満州国を建国したのは、1万人の関東軍だけの力では到底不可能であり、3,000万人の満州住民の強い要請と支援があったからこそ実現したということなんだ。

【たった1万人の関東軍が、30万人の張学良軍と3,000万人の満州住民】を相手に「侵略」など出来る訳がない。




(続く)









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