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「国の恥忘れず未来に目を」盧溝橋事件70年を前に新華社・盧溝橋事件(1937年7月7日に日本軍が攻撃され7月8日に反撃)1・なぜ日本軍が支那の盧溝橋付近で演習をしていたのか?

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070706-00000111-yom-int


「国の恥忘れず未来に目を」盧溝橋事件70年を前に新華社
7月6日20時32分配信 読売新聞

 【北京=杉山祐之】中国国営新華社通信は6日、日中戦争の発火点となった盧溝橋事件(1937年7月7日)70年を前に、「国の恥を忘れず、未来に目を向けよう」と題する論文を配信した。

 旧日本軍の侵略・残虐行為を強調して政権の求心力向上を図った旧来の愛国教育・宣伝を修正、国民の反日感情を抑えて社会の安定を守ろうとする胡錦涛政権の方針を反映した内容となっている。

 論文は、同事件の経緯、日中戦争の被害に関する中国側データを記した上で、「国家が強大なら侵略を避けられる」と強調。「日本人民も旧日本軍の侵略の被害者」との立場を改めて記した。別の新華社論文では、「中国人民は狭隘な復讐主義者ではない」との表現もある。
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もうすぐ盧溝橋事件なので今日から少し盧溝橋事件について説明しようかと思う。

支那事変は日本の侵略ではなく、支那軍が日本人居留民や日本軍を攻撃した戦争だ。

日本は日本人居留民や駐屯軍が攻撃されたから防衛戦をしただけなので日本の侵略ではないと事実を述べると、
「日本の軍隊が外国に居たのだから日本の侵略だ」という馬鹿が少なからず存在する。

だったら、現在、日本に居るアメリカ人やアメリカ軍を自衛隊が攻撃すれば米軍は防衛戦をするだろうが、その場合、アメリカの侵略と言うのか?!

そんな馬鹿な話はない。

支那事変はこれと同じことだったのだから、やはり日本の侵略ではない。

今日はどうして日本軍が豊台(盧溝橋付近)に居たのかなどを説明しておこう。




日本軍の支那駐屯は、義和団事件後の「北京議定書」によって取り決められた。

「義和団の乱」で、支那人たちが北京などに駐在していた外国人を大虐殺した。
北京などで自国民が大虐殺された列国は、連合軍を派遣し、ようやく支那人どもによる外国人大虐殺事件を鎮静した。


義和団事件
武装した狂信者の集団・義和団(拳匪)が支那在住の外国人を大虐殺
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/21256741.html



そのときに列国と清国と結んだ講和議定書が「北京議定書」だ。
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北京議定書
北京-山海関の12の要地における外国軍の駐屯
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この「北京議定書」は、英・米・仏・露・独・墺・伊・白・西・蘭・日の11カ国と締結され、外国の軍隊が支那に駐屯し、支那の警察の役割を務めることになった。

よって、日本も北京-山海関の重要な地域に日本軍を駐屯させる権利を持っていた。
日本の支那駐屯軍は、港が近い天津に軍司令部を置き、そこに支那駐屯歩兵第1連隊第2大隊、支那駐屯歩兵第2連隊等を配置。
また、北京には北平部隊が置かれ、支那駐屯歩兵旅団司令部および支那駐屯歩兵第1連隊等が配置され、その他、通州、豊台、塘沽、唐山、樂州、昌黎、秦皇島、山海関にも部隊が配置されていた。


義和団事件後の処理
『北京議定書』(北清事変に関する最終議定書)(辛丑条約)
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/5384006.html



要するに、当時、支那にはマトモな警察がなかったから、義和団事件のような支那人による在支外国人大虐殺が起こったのであり、支那の警察の代わりに外国の軍隊が支那に駐屯して支那の治安と平和の維持を担うことになった。

その後30年以上経っても、支那にマトモな警察がなかった状況は改善されなかったので、結局、各国の軍隊は第2次世界大戦まで駐屯し続けることとなったのだ。




以上、当時、なぜ日本軍が豊台(盧溝橋付近)に駐屯していたのか説明したが、1901年の条約(北京議定書)が1937年においても有効だったのかなどと疑問を抱く者も居るかもしれないので裏付けとなる当時の資料を紹介しておこう。
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盧溝橋城内通過ニ関シテハ昨年豊台駐屯当初ニ於テハ我部隊ノ通過ヲ拒否スルコトアリシヲ以テ之ニ抗議シ通過ニ支障ナカラシメ 特ニ豊台事件以後ニ於テハ支那軍ノ態度大ニ緩和シ日本語ヲ解スル将校ヲ配置シ誤解ナカラシムルニ努メシ跡ヲ認メシモ 最近ニ至リ再ヒ我軍ノ城内通過ヲ拒否シ其都度交渉スルノ煩瑣ヲ要シタリ
『支那駐屯歩兵第一連隊戦闘詳報』
(注)豊台事件は1936年6月26日と9月18日に起こった。
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更に1937年7月当時の状況は以下のとおり

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 日本側に、冀察政務外交専員の林耕宇から「空砲で演習する場合でも、あらかじめ中国側に通告して欲しい」との要請があり、特務の方で検討する事になりました。

 北清議定書では、実弾射撃の場合は通報する事になっていますが、空砲の場合は規定されていません。
 「日本だけ勝手に規定を変える事はできない、ここは他の列強と協議してからでなければ」

 「しかし、今、不穏なこの時期、間違いがあれば大変な事になる」
 「ここは一時的に彼らの要求を通したら」
という事で、『7月6日、7日、9日、10日の4日間、日本軍が盧溝橋の原で昼夜空砲を使って演習する』という通告が、その日の晩に、中国側に通達されました。
『盧溝橋事件』寺平忠輔著(読売新聞社刊)
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