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正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現
嘘の歴史に騙されるな!日本最優先政治、日本国民の生命と財産と自由を守る核武装、日韓断交を実現しよう!マスゴミの嘘や洗脳工作を許すな!がんばれ!日本国民党!
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温度差開く歴史認識・ロシアが日本と朝鮮の取引をしていたらロシアは英国に代わって満州と支那を征服できた・『世界政治と東亜』G・F・ハドソン著4

日韓間の温度差開く 歴史認識・対北政策…
4月1日8時0分配信 産経新聞

 【済州島(韓国)=久保田るり子】日韓外相会談で韓国の宋旻淳・外交通商相は冒頭から歴史認識問題が未来志向を阻害していると不快感を示し、日本政府に対し「正しい歴史認識」を求めた。

 韓国では米国発の「慰安婦問題」▽高校教科書検定における竹島(韓国名・独島)記述▽靖国神社の戦犯合祀(ごうし)に関する資料公開-の“歴史3点セット”が関心の的となっており、「未来志向の会談」はまず「歴史」に対する日本政府の立場を確認する場となった格好だ。
(以下略)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070401-00000022-san-int











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 そういうわけで独露の親善関係は、1905年の末には既に過去のものとなっていた。
その解消は日露戦争の直接の結果であった。
1895-1905年に至るまでは、この親善関係は、1893年に同盟グループ体制の完成を見て以来、欧州大陸を2つの武装陣営に分割していた露仏、独墺両グループの対立を、外交的反対分割によって多かれ少なかれ緩和していたものである。

斯かる事情のうちにこそ、この10年間に於ける欧州の政策にとっての極東政策の重要性を見るべきである。
極東の情勢は諸強国のグループ体制の編成替えを余儀なくさせたのであって、それはもしヨーロッパ諸国の関係にとって純然たるヨーロッパ問題が依然最高の重要性を持っていたならば到底起こり得なかったものである。



 1895-1905年に至る10年間は、欧州近代史中最も顕著な帝国主義の時期であった。
それは即ち欧州の大強国(オーストリアを除く)が最も困難な欧州の諸問題は暫くお預けにして、アジア、アフリカにおける紛争や利権争奪に没頭した時期であった。

アフリカの問題も大いに重要ではあったが、差し迫った支那の崩壊こそは圧倒的な最重大問題であった。欧州における政治的向背は、何よりも極東問題に対する関係によって決定された。


 次の時期、即ち1905~1915年までの時期になると、極東はもはや欧州の形勢に対してこれという関係は持たなくなり、モロッコとバルカンが国際的危機の銘醸地となった。
歴史の旋回点は、1905年、ロシアに対する日英同盟の勝利であった。
現代外交史を理解するために最も必要なことは、1895-1905年迄の時期と、1905-1914年までの時期とをはっきり区別して考えることである。

遺憾ながら多くの史家の著作においてこの史的展望が著しく歪められているようだが、それはその著作者たちが戦争の原因(即ち1914年の世界大戦の原因)の探求に心を奪われ、1907年以後の政治地図に表れた三国同盟、三国協商の分界線を過大評価するためであろう。
1914年の破局に導いた各国政策の衝突と比較すれば、1895-1905年の緊迫した情勢もあまり現実的でなく重大でないかのように思われ易く、またビューローの所謂、『英露の利害の大衝突』ももぐらの丘を山という類でしかないかのように思われ易い。

それだから一般に、三国干渉から日本海海戦に至るまでの露国の極東帝国建設の企図の歴史的意義を充分に理解し得ないことになる。


 ロシアは日露戦争で散々たる敗北を喫したものだから、「ロシアの危険」とは実態のないものであったとか、ロシアの支那征服の意図は痴人の夢であったとかと思われ易いのである。
だが、ロシア外交がもし日本と取引し得る再三の機会を拒否するという馬鹿気た真似をしていなかったなら、何が一体ロシアの進出を阻止し得たであろうか?

もしもロシアが朝鮮の排他的な支配を日本に譲っていたならば、ロシアは支那において遥かに広大な自己の野望を、日本の反対を受けずに達成し得たことだろう。
1895から1902年に至るまでは、日本は正にそのような条件でロシアと協定せんとする用意のあったことは明白である。
そうした協定は、ロシアをして自由に北京へ、次いで揚子江にまで進出することを得しめたであろう。
もしロシアが日本の比較的軽少な要求を拒絶してこれを英国の腕の中に追いやらなかったならば、英国は、『その利益のために戦ってくれる大陸の陸軍』を何処に見出すことができたのか?
英国は仏独を説得してロシアの支那征服に反対させることなどはできなかったし、また単にその海軍力のみをもって露国の大陸横断的膨張を撃破することもできなかったであろう。


P122-123
『世界政治と東亜』G・F・ハドソン著(1939年)
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ここで言うロシア外交が再三の機会を拒否した日本との取引とは、日本が露国に言明した『もし露国政府が朝鮮に関して同様の宣言をなす用意があるならば、日本政府は満州並びにその沿岸は全く日本の利害関係の範囲外と見做す用意がある』という取決めである。

もしも、ロシアが朝鮮を利害関係の範囲外と認めて朝鮮支配を放棄していたら、ロシアは英国に代わって満州や支那を勢力圏のおさめることは間違いなかった。
それを、朝鮮や日本まで狙って、日本と敵対したために、日英同盟を成立させ、日露戦争で日本に敗れたために歴史は変わった。

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