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盧溝橋事件70周年・反日色弱め式典・いぜん残る残虐写真・盧溝橋事件(1937年7月7日に日本軍が攻撃され7月8日に反撃)4・毛沢東、周恩来、?小平、劉少奇(葛西純一)…「共産党が戦争を起こした!」

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070708-00000009-san-int


盧溝橋事件70周年 反日色弱め式典 いぜん残る“残虐写真”
7月8日8時0分配信 産経新聞

 日中戦争の発端となった盧溝橋事件から70周年を迎えた7日、北京郊外の盧溝橋近くにある「中国人民抗日戦争記念館」で記念式典が開かれた。式典では「平和、未来志向」が強調され、胡錦濤指導部による対日関係発展の方針を受けて反日色を弱めた内容となった。しかし盧溝橋では民間団体などが旧日本軍の残虐行為とされる写真を多数展示、「反日」感情を高める効果を果たした。(北京 野口東秀)

 同記念館の式典には小中学生ら約1000人が参加、主催者側は「歴史を忘れず、平和を愛し、中日両国民が未来を切り開くことが重要だ」と強調した。「友好」と「協調」を重視する対日方針は6月に訪中した「日中青年世代友好代表団」を胡錦濤国家主席が厚遇したことで鮮明になった。7日開催した同記念館の特別展は「忘れがたい七七 平和を大切に」がテーマだ。

 消息筋によると、党中央宣伝部などは、靖国神社参拝問題、盧溝橋事件、南京事件について「みだりに報道したり発表してはならない」と指示している。秋の党大会や来年夏の北京五輪を控え、社会の安定を揺るがしかねない「反日」を抑え込む必要があるからだ。

 同記念館はかつて残虐性を際立たせる旧731部隊の人体実験の模型などを展示していたが、2005年7月に撤去した。上層部の指示とみられる。

 現在、旧日本軍の“残虐ぶり”を示すのは、「日本軍の暴行」コーナーの写真だけだ。

しかし「旧日本軍の行為か疑わしい」「合成写真の疑いがある」と研究者から指摘される写真もある。

 記念館は、延べ1400万人が参観、うち60~70%を小中学生が占めたとされ、重要な「愛国主義教育」の拠点と位置づけられている。

 7日、盧溝橋で展示された多数の残虐行為や「旧日本兵によるざんげ」の写真の中にも、旧日本軍によるものなのか疑わしい写真が含まれていた。しかし、この日だけでも1万人以上の見学者が盧溝橋や同記念館を訪れ、それらを目に焼き付けている。

 中国人作家の葛紅兵氏が「各地の抗日記念館の残虐な展示物は反日教育となる」との論文を発表したが、批判にさらされ謝罪に追い込まれる事態に発展した。指導部は「友好」強調で対日批判を抑え込み過ぎると「反日」の矛先が自分たちに向く危険性を認識しており、「旧日本軍の残虐」写真は当分、「展示すべき教育材料」(中国筋)となりそうだ。
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今はこんなふうにおかしくなってしまった。


しかし、戦後、今から40年くらい前まで、支那共産党の幹部たちは、支那事変(盧溝橋事件と戦線拡大と継続)が共産党の仕業だったことをいろいろと証言していた。




●周恩来
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1949年10月1日、「中華人民共和国」成立の日に周恩来首相が、「あの時(廬溝橋事件の際)、我々の軍隊が、日本軍・国民党軍双方に、発砲し、日中両軍の相互不信を煽って停戦協定を妨害し、共産党に今日の栄光をもたらしたのだ」と発言したと伝えられている。
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●劉少奇(葛西純一)
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 私が盧溝橋事件の仕掛人は中国共産党(北方局第一書記胡服こと劉少奇)であると初めて知ったのは、一九四九年(昭24)十月一日の北京政権誕生直後、河南省洛陽市西宮に駐屯する中国人民解放軍第四野戦軍後勤軍械部(兵器弾薬部)第三保管処に現役将校(正連級、日本の大尉に相当)として勤務している時であった。

 その頃、閉された中国大陸は『人民中国』の誕生にわきかえっていた。中国人民解放軍総政治部発行のポケット版『戦士政治課本』(兵士教育用の初級革命教科書で、内容はいずれも中国共産党の偉大さを教えるものばかり)は、


「七・七事変(葛西注=中国では盧溝橋事件を一般にそう呼ぶ)は劉少奇同志の指揮する抗日救国学生の一隊が決死的行動を以って党中央の指令を実行したもので、これによってわが党を滅亡させようと第六次反共戦を準備していた蒋介石南京反動政府は、世界有数の精強を誇る日本陸軍と戦わざるを得なくなった。その結果、滅亡したのは中国共産党ではなく蒋介石南京反動政府と日本帝国主義であった」

と堂々と述べ、・・・

(略)

 昭和28年から翌29年(一九五三~五四)にかけて、いわゆる中共帰国船(興安丸、白山丸、自竜丸)で約三万二千人の日本人が帰国したが、「国共内戦で帰国のチャンスを失った日本人居留民」と北京放送の伝えたあの日本人たちは、実は中国革命戦争に八年間も従軍した革命者なのであった。

 彼ら三万二千人は殆んどが中国語の『戦士政治課本』を読みこなせたし、或る者は、


「日中戦争が中国共産党の仕組んだものだったとは・・・」

と憤慨もした。

葛西純一編訳著『新資料盧溝橋事件』(昭和49年、中国人民解放軍政治部発行)
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葛西純一氏は、元支那共産党軍(人民解放軍)将校だ。


そして、あの毛沢東も、「日本の皇軍なしには、我々が権力を奪取することは不可能だった」と発言していた。

このように、40年くらい前まで、支那共産党の連中は、「盧溝橋事件とそれに続く日支全面戦争は、自分たちが起こした」と堂々と公言していたのだ。



●毛沢東
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日本社会党の人士佐々木更三、黒田寿男、細迫兼光らを接見した際の談話 (1964年7月10日)

佐々木――今日、毛主席の非常に寛大なお気持ちのお話しをうかがいました。過去において、日本軍国主義が中国を侵略し、みなさんに多大の損害をもたらしました。われはれはみな、非常に申し訳なく思っております。


主席――何も申し訳なく思うことはありません。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらし、中国人民に権力を奪取させてくれました。みなさんの皇軍なしには、われわれが権力を奪取することは不可能だったのです。この点で、私とみなさんは、意見を異にしており、われわれ両者の間には矛盾がありますね。

(皆が笑い、会場がにぎやかになる)。

佐々木――ありがとうございます。


主席――過去のああいうことは話さないようにしましょう。過去のああいうことは、よい事であり、われわれの助けになったとも言えるのです。ごらんなさい。中国人民は権力を奪取しました。同時に、みなさんの独占資本と軍国主義はわれわれをも〔日本側の記録では、「みなさんをも」となっており、文脈からはその方が適切と思われる〕助けたのです。日本人民が、何百万も、何千万も目覚めたではありませんか。中国で戦った1部の将軍をも含めて、彼らは今では、われわれの友人に変わっています。

東京大学近代中国史研究会訳『毛沢東思想万歳』、下巻
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●?小平
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 日本側が「先の戦争では申し訳なかった」といった内容のことを述べると、?小平は発言をさえぎるようにして「われわれは日本軍をそんなに悪く思っていませんよ」と切り出した。あっけにとられた一行を前にした?小平の説明はこうだった。

 「あの戦争が始まる前、われわれは井崗山(せいこうざん)から、長征の途についた。延安にたどりついたときは気息奄々、靴もちびはて、人数も2万人に減って、全滅寸前でした。ところが日中戦争が始まり、われわれを包囲していた蒋介石軍は日本軍によって次第に南部に押されていく。袋のネズミだったわれわれはそれで息を付くことになり、日本軍の後ろに回って、着々と工作をしていった。そして戦争終結時には数百万の正規軍を擁する軍事勢力にのし上がった」


西安に旅行したとき、周恩来が隠れていた地下指令室を見学した時のことを思い出した。展示されていた古い雑誌に、日本軍が蒋介石軍を破って南京に迫ってゆく様子を「形勢好」と表現してあった。「形勢はいいぞ」という意味だ。当時は「へんなことが書いてある」といった程度の認識だったが、国共合作で友軍になったはずの蒋介石軍が負けていて「いい」ということもなかろうにと考えた。

 とにかく1936年秋の西安事件までは、蒋介石は日本とことを構えるより、共産党制圧を第一目標にしていた。それが西安事件で順番が逆転する。そうしなかったら捕らわれの身だった蒋介石は殺されていただろう。

http://www.yorozubp.com/9806/980606.htm
1998年06月06日(土)
伴 正一

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