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先帝陛下:昭和天皇のお話・お言葉と全国ご巡幸・フジテレビによる「昭和の日」抹消事件の新画像
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先帝陛下(昭和天皇)昭和の日
先帝陛下(昭和天皇)

4月29日は「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」昭和の日だ。

【先帝陛下(昭和天皇)のお話】

●戦中
アッツ島の日本軍守備隊
アッツ島の守備隊

昭和18年(1943年)5月12日の米軍アッツ島上陸以来、先帝陛下(昭和天皇)は、同地の守備隊の模様をいたく気にかけられ、 毎日のように戦況を御下問されておられた。

5月29日夕刻、守備隊から最後の電報が発せられた。
「機密書類全部焼却。是レニテ無線機破壊処分ス」

陸軍大臣は、直ちに参内し、アッツ玉砕を天皇に奏上した。
陛下は、陸軍大臣大臣の報告を黙って聞くと、目を閉じしばし佇立された。

そして、ひと言、 「アッツ島守備隊は、まことに最後まで良く敢闘した。このことを伝えよ。」 とおっしゃった。
陸軍大臣は、陛下が自分の報告を聞き違えられたかと思い、言葉を返した。
「恐れながら陛下、彼らは無線機を既に破壊しており、お言葉をお伝えする手段がございません」 と申上げると、

陛下は、 厳しい声で、「構わぬ。それでも構わぬから、そういう電波を出しなさい!」とご命令された。

陸軍大臣は一礼して引き下がり、控えの間に至ると両手で顔を覆って男泣きに泣き崩れた。
直ちに北のアッツ守備隊に向け、電報が放たれ、陛下の御言葉が打電され続けた。

勿論、アッツから返事が来ることはなかったが。


1943年5月,アッツ島で玉砕した日本軍将兵の遺品がアンカレッジの博物館に展示されている。
アンカレッジの博物館には、昭和18年(1943年)5月に、アッツ島で玉砕した日本軍将兵の遺品が展示されている

『 凛として愛 』
■動画
『 凛として愛 』
http://www.youtube.com/watch?v=HBxaF0wps6U

57:17~
大東亜戦争最初の玉砕地となった北のアッツ島では、山崎保代大佐以下2,500の将兵が守備していたが、15,000のアメリカ軍相手に18日間善戦。
昭和18年5月29日、敵陣地の突撃して玉砕した。
アッツ島守備隊の最期が天皇陛下にご報告されると、
陛下は、「最後まで良く敢闘した。このことを伝えよ。」と言われたが、既に将兵は玉砕し、無線機も破壊されてない。
そのことを申し上げると、陛下は厳しい声で、「それでもよい!電波を出しなさい!」とご命令されたという。
雪と氷で閉ざされた北のアッツに向けて、陛下の御言葉が打電された。
諸国のために散華された2,500の将兵は、陛下の御言葉を耳にしたのであろうか。






●戦後

先帝陛下昭和天皇行幸
先帝陛下(昭和天皇)の戦後の全国ご巡幸

毎年「昭和の日」に、私は、先帝陛下(昭和天皇)の全国ご巡幸などについて紹介している。

日本が戦後、奇跡と呼ばれる復興をなしえた1つの要因は、全国ご巡幸で国民を励まされた先帝陛下を中心に、日本が結束を保ったことだった。

このことは、私たち日本人が永久に語り継いでいかなければならない。

まだ読んでいない方は勿論だが、既に読んだことがある方も、「昭和の日」を機会に改めて読んで頂ければ幸いだ。


昭和天皇(先帝陛下

●マッカーサーを感動させた昭和天皇の言葉

「…(終戦時において)陛下に対する占領軍としての料理の仕方は、四つありました。

一つは東京裁判に引き出し、これを絞首刑にする。
一つは共産党をおだてあげ、人民裁判の名においてこれを血祭りにあげる。
三番目は、中国へ亡命させて中国で殺す。そうでなければ、二〇個師団の兵力に相当するかと怯えた彼らです。
また第四番目は、闇から闇へ、一服もることによって陛下を葬り去ることでありました。


いずれにしても、陛下は殺される運命にあったのです。
天皇は馬鹿か、気狂いか、偉大なる聖者か、いつでもつかまえられる。
かつては一万八〇〇〇人の近衛師団に守られたかもしれないが、今や全くの護衛を持たずして、二重橋の向こうにいる。…


陛下の割腹自刃の計画は、三度ありました。
貞明(皇太后)様は、(侍従に、)陛下から目を離さんように命じました。
じつに一番悩まれたのは、陛下でありましたでしょう。


九月二七日、陛下がただ一人の通訳を連れて、マッカーサーの前に立たれたことは、皆様方もよくご承知の通りであります。
ついに天皇をつかまえるべき時が来た。
マッカーサーは、二個師団の兵力の待機を命じました。
マッカーサーは、陛下は命乞いに来られたものと勘違いし、傲慢不遜にもマドロスパイプを口にくわえて、ソファーから立とうともしなかった。

陛下は直立不動のままで、国際儀礼としてのご挨拶を終え、こう言われました。

『日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命においてすべてが行なわれました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されても、いつでも応ずるだけの覚悟はあります』

――弱ったのは通訳でした。その通り訳していいのか

――しかし陛下は続けました。

『しかしながら、罪なき八〇〇〇万の国民が、住むに家なく、着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えんものがあります。温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますように』


天皇は、やれ軍閥が悪い、やれ財界が悪いと言う中で、一切の責任はこの私にあります、絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処せられても…と淡々として申された。
このような態度を見せられたのは、われらが天皇ただ一人であったのです。
陛下は我々を裏切らなかった。

マッカーサーは驚いて、スクッと立ち上がり、今度は陛下を抱くようにして座らせました。
そして部下に、「陛下は興奮しておいでのようだから、おコーヒーをさしあげるように」と。

マッカーサーは今度は一臣下のごとく、直立不動で陛下の前に立ち、
「天皇とはこのようなものでありましたか!天皇とはこのようなものでありましたか!私も、日本人に生まれたかったです。陛下、ご不自由でございましょう。私に出来ますることがあれば、何なりとお申しつけ下さい」
と。

陛下は、再びスクッと立たれ、涙をポロポロと流し、
「命をかけて、閣下のお袖にすがっておりまする。この私に何の望みがありましょうか。重ねて国民の衣食住の点のみにご高配を賜りますように」
と。

そののちマッカーサーは、陛下を玄関(ホール)まで伴い、見送ったのです。


皆様方、日本は八〇〇〇万人と言いました。
どう計算しても八〇〇〇万はおらなかったでしょう。
いかがです?
一億の民から朝鮮半島と台湾、樺太をはじめ、すべてを差し引いて、どうして八千万でしょうか。
じつは六六〇〇万人しかいなかったのです。
それをあえて、マッカーサーは、八〇〇〇万として食糧をごまかして取ってくれました。
つまりマッカーサーは、いわゆる、陛下のご人徳にふれたのです。
米国大統領からは、日本に一〇〇〇万の餓死者を出すべしと、マッカーサーに命令が来ておったのです。

ただ一言、マッカーサーは、
『陛下は磁石だ。私の心を吸いつけた』
と言いました。

彼は陛下のために、食糧放出を八〇〇〇万人の計算で出してくれました。
それが後で、ばれてしまいます。
彼が解任された最大の理由はそれであったというのが、事の真相です。





【マッカーサーおよび侍従長の証言】

以上が、三上教授の講演の言葉である。
この講演にも出てきた一九四五年九月二七日の天皇とマッカーサーの会見については、辻井圭三氏(キリスト伝道会「活水の群」副理事長)も、こう書いている。
「この件については、第二回目の通訳をされた、内閣情報局総裁であり戦後外務次官も務められた奥村勝蔵氏を通じて、私は詳しく伺いました」
そして、三上教授の言っている通りであると述べている。
実際マッカーサー自身が、のちに回顧録の中で次のように書いたのである。

「天皇の話はこうだった。
 『私は、戦争を遂行するにあたって日本国民が政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対して、責任を負うべき唯一人の者です。あなたが代表する連合国の裁定に、私自身を委ねるためにここに来ました』
――大きな感動が私をゆさぶった。
死をともなう責任、それも私の知る限り、明らかに天皇に帰すべきでない責任を、進んで引き受けようとする態度に私は激しい感動をおぼえた。私は、すぐ前にいる天皇が、一人の人間としても日本で最高の紳士であると思った」
(マッカーサー回顧録一九六三年)

天皇とマッカーサーの会見は、はじめ一五分の予定だった。
しかし、マッカーサーは天皇の態度に深い感銘を受け、会見は三五分にも及んだのである。
会見がなされると、その会見の要旨は後ほど通訳の手で文書にまとめられ、侍従長に渡される習慣になっていた。
会見の翌日、藤田侍従長は、会見における天皇の発言の要旨を文書にまとめたものを、通訳から受け取った。
藤田氏は、いつものようにそれに目を通したうえで、天皇のもとに提出した。
藤田氏はこのとき、メモをとらなかった。

しかし彼はのちに、その内容について二つの点をはっきり憶えていると言って、次のように著書の中に書いている。

「…陛下は、次の意味のことをマッカーサー元帥に伝えられている。
『敗戦に至った戦争の、いろいろな責任が追求されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命する所だから、彼らには責任がない。
私の一身はどうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい』
一身を捨てて国民に殉ずるお覚悟を披瀝になると、この天真の流露は、マッカーサー元帥を強く感動させたようだ。
『かつて、戦い破れた国の元首で、このような言葉を述べられたことは、世界の歴史にも前例のないことと思う。私は陛下に感謝申したい。占領軍の進駐が事なく終わったのも、日本軍の復員が順調に進行しているのも、これすべて陛下のお力添えである。これからの占領政策の遂行にも、陛下のお力を乞わなければならぬことは多い。どうか、よろしくお願い致したい』」
とマッカーサーは言った(藤田尚徳『侍従長の回想』昭和三六年)。

メールマガジン
「話題通信」



昭和天皇とマッカーサーの会見を通訳官が証言 The testimony of the interpreter
■動画
昭和天皇とマッカーサーの会見を通訳官が証言 The testimony of the interpreter
https://www.youtube.com/watch?v=inE1DSH0jrk






戦災者住宅で戦災者を激励される先帝陛下(昭和天皇)、昭和21年(1946年)2月19日 神奈川・横浜
戦災者住宅で戦災者を激励される先帝陛下(昭和天皇)、昭和21年(1946年)2月19日 神奈川・横浜

●貞明皇太后の前で泣いた昭和天皇

また、さらにご立派であったのは、貞明皇太后でした。

母君の貞明様は、亡くなるまで防空壕の中で生涯を送り、雨漏りのする、そして皆様方、貞明様は法華経の信者でしたから、戦死者のお名前を一〇人ずつ書きながら、法華経をあげて生涯を送られたのです。

その貞明様が、皇霊殿に陛下をお招きになりました。
皇霊殿は高いので、東京の市中が見えるのであります。
焼けただれ、一日千秋の思いでわが子の復員を待つ年寄りたちの姿も、見えるのであります。

貞明様は陛下にそれをお見せになり、
「陛下、国民は陛下のご不徳によって、このように苦しんでおります。この国を一日も早う復興しようと召されず、お腹をおめしになろう(切腹しよう)などとはご卑怯ではありませんか。退位は絶対になりません!」

陛下は、母君の前で頭を垂れて泣かれたそうです。
どうしたらいいのかと。

陛下の万歳を叫んで死んでいった護国の英霊の労苦を労いなさい、遺族の労苦を労いなさい、産業戦士の労苦を労いなさい――これが、後の陛下の行幸(外出)になったのでした。

原爆の地、広島に行幸された時でした。
共産党の腕利きが、今こそ「戦争の元凶である裕仁に対して恨みを報いようではないか」とビラをまき、宣伝カーで叫んでいました。
しかし、陛下は一兵の護衛をも持たず、ツギのあたった背広をお召しになり、中折れ帽をかぶって、広島の駅頭に立たれたことは、われらの記憶に新しいところであります。
むしろ陛下がおいたわしかった。
「万歳、万歳」の歓呼をもって迎えられました。

言えばやはり記録に残りましょうから、その県名と市名はもうしませんが、北陸のある所(福井市)においては共産党が、「朕はたらふく飯を食う。汝臣民飢えて死ね」とプラカードを仕立て、二〇〇〇名のデモ行進をやっていました。
「陛下、お逃げなさい」
しかし陛下は、「私に面会を申し込んでいる限り、私が会いましょう」 と言って、皆の前に頭を下げられました。
「皆様方が私を打擲することによって心が癒えるならば、ごずいにめされたがいい。でも日本の国を一日も早う復興し、次の子孫へこの国を送り得てこそ、はじめて護国の英霊に対し、我々が報いる道ではなかろうか」
と陛下は申されたのでした――はっきり言ったほうが良かったのかも知れませんが、場所を。

陛下に向かっての発砲もありました。
八二歳のある老婆が犠牲になったことも、中国地方の一角でありました(広島で、陛下をねらった弾がはずれて老婆に当たった事件)。
陛下の行幸は、そういう中に続いたのであります。…」

歩一〇四記念講演特集号より


釜石
釜石


昭和21年(1946年)から昭和29年(1954年)までの間に行われた御巡幸では、敗戦直後で宿舎がままならず、陛下が列車の中、学校の教室に泊まられた事もあった。

それでも陛下は、「戦災の国民のことを考へればなんでもない。十日間くらゐ風呂に入らなくともかまはぬ」とおっしゃり、御行幸を続けられた。





先帝陛下(昭和天皇)が硫黄島に行かれた時、硫黄島自体がお墓だからとおっしゃり、靴をお脱ぎになって上陸された。
因みに小沢一郎は普通に靴をはいていたそうだ。

遺骨収集が完了していない地下壕跡に入るときには、周りの案内役もそのまま足を踏み入れたのに、陛下だけは靴をお脱ぎになって裸足になられた。

硫黄島
硫黄島


先帝陛下(昭和天皇)
昭和63年9月、先帝陛下が病床につかれると、全国の御平癒祈願所に約9百万人が記帳に訪れた。
40数年間の御巡幸で陛下に励まされた人々も少なくなかった。

陛下は、病床で「もう、だめか」とおっしゃったことがあった。
医師たちは、陛下がご自分の命の事をおっしゃったのかと思ったが、実は「沖縄訪問はもうだめか」と問われたのだった。
御巡幸の最後の地、沖縄に寄せられた陛下の御心は、今上陛下によって平成5年に果たされた。

東京の空を台風が過ぎ去った翌日、侍従長は、陛下に「台風が去ってようございました。」と申し上げた。
すると、陛下は、次のとおりおっしゃった。

「… まだ、東北、北海道地方はこれからである。」




(参考)
平成5年、天皇皇后両陛下は、先帝陛下(昭和天皇)が果たされなかった沖縄御巡幸を果たされた。

平成6年、天皇皇后両陛下は、慰霊のために硫黄島をご訪問。

平成17年、天皇皇后両陛下は、慰霊のためにサイパン島をご訪問。

平成27年、天皇皇后両陛下は、慰霊のためにパラオのペリリュー島をご訪問。




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日曜は赤、土曜は青、問題の29日は真っ黒 フジTVが昭和の日を抹消!またドラマの小道具で日本を侮辱!カレンダーに昭和の日なし!画像あり
拡大画像
http://blog-imgs-93.fc2.com/d/e/l/deliciousicecoffee/www_dotup_org836366.jpg
フジテレビがまたドラマの小道具で日本を侮辱!
フジテレビは、「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす【昭和の日】4月29日国民の祝日を抹消したカレンダー(小道具)を作ってドラマ内で放映した!




左:「さよならパヨク 」千葉麗子著(2016/4/16 )
中:「カエルの楽園」百田尚樹著 (2016/2/26)
右:「余命三年時事日記2」余命プロジェクトチーム著(2016/5/16)


左:カゴメ ふくしま産トマトジュース食塩無添加 スマートPET 720ml×15本
中:Panasonic 32V型 ハイビジョン 液晶テレビ VIERA TH-L32C6
右:「三島由紀夫が生きた時代 楯の会と森田必勝」村田春樹著(2015/10/20)


「陛下に感謝!」

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

国連「男系継承は女性差別!夫婦同姓は女性差別!慰安婦対応は不十分!」女子差別撤廃委の支那人暗躍
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「男系継承(皇統)は『女性差別』」最終案を取りまとめた支那人は、国連女子差別撤廃委員会・副委員長の「Ms. Xiaoqiao Zou」鄒暁巧(Zou Xiaoqiao)=「中華全国婦女連合会・国際連絡部部長」
男系継承は女性差別」夫婦別姓を認めないのは女性差別」慰安婦対応は不十分」などの勧告最終案を取りまとめた国連女子差別撤廃委員会・副委員長の支那人「Zou Xiaoqiao」鄒暁巧(中華全国婦女連合会・国際部長)

http://www.sankei.com/politics/news/160309/plt1603090006-n1.html
【国連女子差別撤廃委】
男系継承を「女性差別」と批判し、最終見解案に皇室典範改正を勧告 日本の抗議で削除したが…
2016.3.9 14:30更新、産経新聞

 国連女子差別撤廃委員会が日本に関してまとめた最終見解案に皇位継承権が男系男子の皇族だけにあるのは女性への差別だとして、皇室典範の改正を求める勧告を盛り込んでいたことが8日、分かった。日本側は駐ジュネーブ代表部を通じて強く抗議し、削除を要請。7日に発表された最終見解からは皇室典範に関する記述は消えていた。

 日本側に提示された最終見解案は「委員会は既存の差別的な規定に関するこれまでの勧告に対応がされていないことを遺憾に思う」と前置きし、「特に懸念を有している」として「皇室典範に男系男子の皇族のみに皇位継承権が継承されるとの規定を有している」と挙げた。その上で、母方の系統に天皇を持つ女系の女子にも「皇位継承が可能となるよう皇室典範を改正すべきだ」と勧告していた。

 日本側は4日にジュネーブ代表部公使が女子差別撤廃委副委員長と会い、皇位継承制度の歴史的背景などを説明して「女子差別を目的とするものではない」と反論し削除を求めた。副委員長は内容に関する変更はできないが、日本側の申し入れを担当する委員と共有するなどと応じたという。7日の最終見解で皇室典範に関する記述が削除されたことについて、委員会側から日本政府への事前連絡はなかった。

 皇室典範に関しては、2月16日の対日審査だけでなく、日本政府が昨年9月に提出した報告でも触れていない。過去の最終見解でも言及されたことはない。外務省によると、2003年7月の対日審査で、皇太子ご夫妻の長女、愛子さまが女性天皇になる道を開くために「皇室典範の改正を検討したことがあったか」との質問が出たことがあっただけだという。

 ジュネーブ代表部は4日、慰安婦問題についても「日本政府の説明を全く踏まえていない内容で極めて遺憾で受け入れられない」との申し入れを行った。


国連女子差別撤廃委
国連女子差別撤廃委


>国連女子差別撤廃委員会が日本に関してまとめた最終見解案に皇位継承権が男系男子の皇族だけにあるのは女性への差別だとして、皇室典範の改正を求める勧告を盛り込んでいたことが8日、分かった。


国連女子差別撤廃委員会に限らず、国際連合(正しい訳は「連合国」)というのは、本当に腐った傲慢な組織だ。

国連女子差別撤廃委員会には、日本という一国の在り方、国柄、伝統に対する理解や尊重が全く見られない。

国連女子差別撤廃委員会は、わが国の先人たちが、知恵を絞り苦労を重ねて125代の皇統(男系継承)を一度の例外もなく続けてきたのか全く分かっていない。

皇位の継承とは、全ての天皇の父をたどれば最初は神武天皇になるという2650年以上も厳然と続いてきた男系維持の伝統だ。

この系譜こそが日本の伝統であり、国の在り方そのものであり、理屈を越えた正統なのだ。

皇統は日本国の根幹をなすものであり、男系継承でなければ皇統とはならず、すなわち男系継承を途絶えさせることは、天皇や皇室を終焉させて日本を終焉させることと同じことだ。






>日本側は駐ジュネーブ代表部を通じて強く抗議し、削除を要請。7日に発表された最終見解からは皇室典範に関する記述は消えていた。


強く抗議して削除できるくらいなら、慰安婦問題や夫婦別姓などについての勧告も全て削除させるべきだった。





>日本側に提示された最終見解案は「委員会は既存の差別的な規定に関するこれまでの勧告に対応がされていないことを遺憾に思う」と前置きし、「特に懸念を有している」として「皇室典範に男系男子の皇族のみに皇位継承権が継承されるとの規定を有している」と挙げた。その上で、母方の系統に天皇を持つ女系の女子にも「皇位継承が可能となるよう皇室典範を改正すべきだ」と勧告していた。


国連女子差別撤廃委員会から唐突に「男系継承(皇統)は女性差別」として皇室典範の改正を求める勧告が出たのには支那人が暗躍していたことが、読売新聞の記事で判明した。
国連女子差別撤廃委の報告書を取りまとめたのは、中国の民間団体「全国婦女連合会」国際部長を務める中国人女性!

読売には、この国連委員会の報告書の主査が中国の「全国婦女連合会」の国際部長で
日本政府関係者は「報告書の作成過程で、偏った考え方の団体や個人の話に依拠しすぎではないか」と疑問を投げかける。政府内には「委員会から脱退するべきだ」(政府高官)との強硬論もくすぶる。

読売には、この国連委員会の報告書の主査が中国の「全国婦女連合会」の国際部長で
まとめ役は中国人
報告書の取りまとめ役(主査)は、中国の民間団体「全国婦女連合会」国際部長を務める中国人女性(64)で、中国政府との結びつきが強いとされる。日本政府は、女性個人の意見が報告書に強く反映されたとみている。歴史認識を巡り、日本批判を国際的に展開してきた中国政府の意向が影響したとの見方もある。



>まとめ役は中国人
>報告書の取りまとめ役(主査)は、中国の民間団体「全国婦女連合会」国際部長を務める中国人女性(64)で、中国政府との結びつきが強いとされる。日本政府は、女性個人の意見が報告書に強く反映されたとみている。歴史認識を巡り、日本批判を国際的に展開してきた中国政府の意向が影響したとの見方もある。



「男系継承(皇統)は『女性差別』」最終案を取りまとめた支那人は、女子差別撤廃委員会・副委員長の「Ms. Xiaoqiao Zou」鄒暁巧(Zou Xiaoqiao)=「中華全国婦女連合会・国際連絡部部長」だ!
「男系継承(皇統)は『女性差別』」最終案を取りまとめた支那人は、女子差別撤廃委員会・副委員長の「Ms. Xiaoqiao Zou」鄒暁巧(Zou Xiaoqiao)=「中華全国婦女連合会・国際連絡部部長」

「男系継承(皇統)は『女性差別』」最終案を取りまとめた支那人は、女子差別撤廃委員会・副委員長の「Ms. Xiaoqiao Zou」鄒暁巧(Zou Xiaoqiao)=「中華全国婦女連合会・国際連絡部部長」

「男系継承(皇統)は『女性差別』」最終案を取りまとめた支那人は、女子差別撤廃委員会・副委員長の「Ms. Xiaoqiao Zou」鄒暁巧(Zou Xiaoqiao)=「中華全国婦女連合会・国際連絡部部長」

「男系継承(皇統)は『女性差別』」最終案を取りまとめた支那人は、女子差別撤廃委員会・副委員長の「Ms. Xiaoqiao Zou」鄒暁巧(Zou Xiaoqiao)=「中華全国婦女連合会・国際連絡部部長」
男系継承は女性差別」夫婦別姓を認めないのは女性差別」慰安婦対応は不十分」などの勧告最終案を取りまとめた国連女子差別撤廃委員会・副委員長の支那人「Zou Xiaoqiao」鄒暁巧(中華全国婦女連合会・国際部長)


読売新聞の記事では、「日本政府は、女性個人の意見が報告書に強く反映されたとみている。歴史認識を巡り、日本批判を国際的に展開してきた中国政府の意向が影響したとの見方もある。」とある。

しかし、私は、上記の日本政府の見方は、真相からずれていると考えている。

国連の支那人職員が国連で個人的な意見など主張することは基本的になく、支那政府の意向が反映されていると考えるべきであり、更に歴史認識とかは当該問題とは関係ないと考えるべきだ。

支那政府は、できることなら天皇や皇室を終焉させて日本を終焉させたいがために、「男系継承は『女性差別』」と主張しているのだ。

上述したとおり、皇統は日本国の根幹をなすものであり、男系継承でなければ皇統とはならず、すなわち男系継承を途絶えさせることは、天皇や皇室を終焉させて日本を終焉させることと同じことだ。

コミンテルン(ソ連や支那などの共産主義政党による国際組織)は、日本の強さの根源が天皇陛下と皇室にあると分析している。

コミンテルンの連中は、日本を侵略するためには、天皇や皇室を終焉させれば容易になると考え、そのために男系継承を終わらせようとしているのだ。


━━━━━━━━━━━━
▲間接侵略に対する最後の砦・天皇制▲

戦前、コミンテルンの日本担当グループは、どうしたら強大な日本国を無力化し、共産化し、ソ連の衛星国にすることができるのか、その答えを探るため日本史を熱心に研究した。
まもなく彼らが到達した結論が、「なによりもまず天皇制を破壊しなければならない」――だった。


(略)

かつてイギリスの清教徒は、宗教的な自信過剰から、王様を殺した。が、その後、国内の雰囲気は、うってかわって殺伐とし、暗くなった。国内の個人と個人は、互いの土地財産の強奪のチャンスをうかがう狼同士であるかのように猜疑しあった。それも当然だ。国家の伝統的な支配家族が絶滅すれば、それまでの臣民の土地所有権を保護してくれた法律体系や慣行も、権威源と正当性を失うからだ。
(略)
こうなると個人と個人、隣人同士の信頼感は希薄になり、社会はバラバラになり、経済も効率的に発展し得ず、文化活動などもおのずから停滞し、その国家のまとまりの弱さにつけ込んでヨーロッパの外国がイギリスに侵略/干渉がしやすくなる。ますます社会には不安感がみなぎっていくのである。
こんなありさまになったのを見て、ゲルマンの武侠と自由主義の伝統精神を愛するイギリス人は反省した。
彼らは、イギリスに縁の深い古い血筋を持つ王様候補を対岸のオランダから連れ込むことにした。たちまち、国内の人民に、法治社会に対する信頼感が回復した。法的な秩序体系は、長期的にずっと安定して続くのだと予期する気持ちが、人々の間に戻ったのである。イギリスはそこから、世界の自由と秩序のリーダーとして飛躍を始めた。

(略)

優秀なコミンテルンの政治分析者はすぐに察することができた。日本の歴史的秩序の核心は、一見すると無権力な朝廷の存在だと。帝室が過去から未来まで連続するという安定感のために、日本の内戦は、完全な秩序崩壊には決して至らず、外国の傀儡勢力が暴力で政権を奪取することは難しいのだ。
しからば外国はこの天皇制をどうやって破壊できるか?まず、歴史をさかのぼって、その根源の血統に、庶民の疑いの目を向けさせることだ。
この作戦の1つとして、「大和朝廷=もと朝鮮人」説が、さかんに宣伝されるようになった。義務教育の歴史教科書に神話を載せるなという反日団体の要求も、この運動方針に沿う。
もう1つの破壊方法は、帝室を不必要なまでに政治に関与させることである。天皇への外交コメント強要、天皇皇后への外遊強要、皇族からの政治的発言の引き出しなどが、その常套手段である。
(略)
高度成長期以後の新戦術としては、「開かれた皇室」運動や、「女系天皇容認」運動がある。

P174-177
『日本有事』(憲法を棄て核武装せよ)兵頭二十八著

━━━━━━━━━━━━



国連は日本に対して、「死刑を廃止しろ」とか「慰安婦に謝罪と補償措置を講じろ」とか「ヘイトスピーチをやめろ」などと内政干渉をしたり、不当な圧力をかけたりしており、確信犯的に日本を貶め、滅ぼそうとしている。

今回も「夫婦別姓は、女性差別だ」と言い、「男系継承(皇統)は、女性差別だ」とまで勧告しようとしていた。

北朝鮮なんて、国連機関や外国から援助を貰うために意図的に大量の人工餓死者を出しているが、それをやめさせようともせずに国連機関による援助と人工餓死の大量発生を繰り返している。

国連が死刑の廃止を訴えるのは、共産主義者やテロリストによる共産革命などをし易くするためだ。

このように、国連(正しくは連合国)や国連世界食糧計画(WFP)や国連開発計画(UNDP)や国連教育科学文化機関(ユネスコ)は、共産主義者の巣窟であり、テロ支援組織なのだ。

このような共産主義者たちのテロ支援組織に日本国民の血税を投入し続けるのは、おかしい。

国連分担金は日本にとって酷い税金の無駄使いだけではなく、共産主義者たちのテロ支援になっているのだ。

日本は毎年巨額の国連分担金を支払っているが、これは、常任理事国である支那やロシア、事務総長の母国である韓国の何倍も多い。

日本が国連を脱退するメリットは分担金の消滅など非常に大きいが、デメリットは皆無に等しい。

私は、10年くらい前から「日本は国連を脱退するべきだ」と繰り返し訴え続けている。


最近では、アメリカ人のケント・ギルバートも「日米両国は国連を脱退して、新しい国際組織の創設を呼びかけるべき」と訴えている。

日本でタレントをしていた米カリフォルニア州弁護士のケント・ギルバート



左:「そうだ難民しよう! はすみとしこの世界」はすみとしこ著(2015/12/19)
中:「余命三年時事日記」余命プロジェクトチーム著 (2015/12/17)
右:「三島由紀夫が生きた時代 楯の会と森田必勝」村田春樹著(2015/10/20)


左:カゴメ ふくしま産トマトジュース食塩無添加 スマートPET 720ml×15本
中:Panasonic 32V型 ハイビジョン 液晶テレビ VIERA TH-L32C6
右:『日本の自立 戦後70年、「日米安保体制」に未来はあるのか?』西村幸祐著、ケント・ギルバート著 (2015/8/7)


「ふざけるな!国連(連合国)!」

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昭和天皇とパラオのペリリュー島の戦い・昭和の日・日本国民を励ました先帝陛下のお言葉と全国ご巡幸
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先帝陛下(昭和天皇)昭和の日
先帝陛下(昭和天皇)

http://www.sankei.com/life/news/150416/lif1504160020-n1.html
両陛下、武蔵陵墓地ご参拝 パラオ慰霊訪問を報告される
2015.4.16 11:59、産経新聞

昭和天皇の武蔵野陵を参拝し、パラオ訪問について報告された天皇陛下=16日午前、東京都八王子市
昭和天皇の武蔵野陵を参拝し、パラオ訪問について報告された天皇陛下=16日午前、東京都八王子市

 天皇、皇后両陛下は16日午前、東京都八王子市の武蔵陵墓地にある昭和天皇の武蔵野陵(むさしののみささぎ)と香淳皇后の武蔵野東陵(むさしののひがしのみささぎ)を参拝し、パラオ共和国への慰霊訪問を終えたことを報告された。

 両陛下の2陵ご参拝は、外国訪問前後の慣例。陛下はモーニング姿、皇后さまはグレーの参拝服姿で、武蔵野陵、武蔵野東陵の順にお一人ずつ足を運び、深々と頭を下げられた。

 両陛下はともに3月下旬から風邪の症状がみられ、完全に回復しないまま4月8、9日の強行日程でパラオ訪問を果たされた。宮内庁幹部は「お疲れになったと思うが、帰国翌日から普段通りの生活に戻られている」としている。


両陛下、パラオ訪問を報告 昭和天皇の武蔵野陵を参拝
両陛下がパラオ慰霊訪問を報告されるため、昭和天皇の武蔵野陵をご参拝(4月16日)


【先帝陛下(昭和天皇)の心を動かしたペリリュー島の戦い】

米軍は、2~3日で、パラオのペリリュー島を攻略できると計画していた。

ところが、ペリリュー島の日本軍守備隊は、1944年9月15日早朝に米軍第一海兵師団28,400名がオレンジビーチよりペリリュー島上陸作戦を開始してから、73日間にわたって、ペリリュー島を死守した!

当時、既にサイパン、グァム等で敗北が相次いでいた日本にとって、パラオのペリリュー島の大奮戦は、先帝陛下(昭和天皇)や日本軍にとっては希望の光となった。

先帝陛下(昭和天皇)は、毎朝ペリリュー島の状況を気にされていたご様子であり、「いまペリリューはどうなっておるか」と御下問されることが日課となっていた。

そして、先帝陛下(昭和天皇)は、ペリリュー島の守備隊に対し、9月15日・17日・22日10月6日・18日・24日11月2日・7日・13日・14日・20日と11回もご嘉賞(お褒め)のお言葉を送られ、感状3回を与えられている。

11回のご嘉賞の言葉を得た部隊は、その前にも後にも例がなく、先帝陛下(昭和天皇)にとってペリリュー島の戦いが、どれだけ心を動かされたものだったかが分かる。

このようなこともあり、ペリリュー島は、米軍から「天皇の島」と呼ばれた。

米第81師団長ムラー少将は、長期にわたる大苦戦の末にペリリュー島をほぼ制圧すると、「今やペリリューは天皇の島から我々の島に移った」と宣言した。

ちなみに、アメリカは、パラオ、サイパン、硫黄島、そして東京を結ぶ線について、昭和天皇がいる帝都・東京を少しでも早く攻撃するための「裕仁(ヒロヒト)(昭和天皇)ハイウェイ」と呼んでいた。

パラオ、サイパン、硫黄島、そして東京を結ぶ線をアメリカは、昭和天皇がいる帝都・東京を少しでも早く攻撃するための「裕仁(昭和天皇)ハイウェイ」と呼んでいた。

(参考)
平成5年、天皇皇后両陛下は、先帝陛下(昭和天皇)が果たされなかった沖縄御巡幸を果たされた。

平成6年、天皇皇后両陛下は、慰霊のために硫黄島をご訪問。

平成17年、天皇皇后両陛下は、慰霊のためにサイパン島をご訪問。

平成27年、天皇皇后両陛下は、慰霊のためにパラオのペリリュー島をご訪問。



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パラオ

【日本とパラオの物語】
ペリリュー島の桜花


1919年、第一次世界大戦の戦後処理をする「パリ講和会議」において、パラオは日本の委任統治領となった。

日本国政府は、当時の首都である「コロール」に南洋庁及び南洋庁西部支庁(パラオ支庁)を置き、パラオは日本の南洋周辺諸島を統治する中核的な島となった。

日本委任統治時代のパラオには、多くの日本人が移住して、最盛期の1943年(昭和18年)には約2万5千人の日本人と、当時は日本国民だった朝鮮人も約2千人が居住していた。

日本の統治時代には、パラオで、ドイツの植民地時代にはほとんど行われなかった、学校、病院、道路などのインフラの整備も重点的に行われ、首都のコロールは近代的な都市へと変貌していった。
コロール
コロール

日本は、パラオの住民に、疾病に係る予防接種を受けさせ、また、パラオの言語を顕すための文字を持たないパラオ住民のために、学校を建てて日本語の教科書を用いた日本語教育も行った。
パラオの言語を顕すための文字をもたないパラオの住民のために、学校を立てて日本語の教科書を用いた日本語教育もしました。

日本統治後のパラオでは、それまでの白人による植民地時代とは異なり、日本人の礼儀正しさや、節度、道徳心、他民族を思いやる心などが認められ、日本人はパラオの現地住民から愛された。

パラオには、太平洋上のパラオ諸島の中に「ペリリュー島」と言う南北9キロ・東西3キロ・高さ80メートル・全体で20平方キロの珊瑚礁からできた小島がある。
このペリリュー島では、大東亜戦争の末期に、日米両軍によって実に73日間にも亘る死闘が繰り返されました

このペリリュー島では、大東亜戦争の末期に、日米両軍によって実に73日間にも亘る死闘が繰り広げられた。

1941年(昭和16年)に大東亜戦争が始まると、日本軍は「ペリリュー島」に東洋最大といわれる飛行場(1200m滑走路2本)をつくっていた。

パラオは、日本軍にとってグアムやサイパンの後方支援基地として、日本の防衛上も重要な拠点だった。
パラオは、日本軍にとってグアムやサイパンの後方支援基地として、日本の防衛上も重要な拠点だった。

大東亜戦争で日本軍が劣勢となる中、ペリリュー島は日本軍にとってフィリピン防衛の防波堤だったが、フィリピン奪還に総力をあげる米軍にとってもペリリュー島の攻略が必要となった。

1944年、米陸軍を指揮するマッカーサーは、フィリピン攻略を有利に進めるため、「ペリリュー島」を奪取しなければならなかった。

米太平洋艦隊を指揮するニミッツ提督は、マッカーサーの作戦を助けるために、第一海兵師団にペリリュー島の占領を命令し、ハルゼー大将が指揮する第三艦隊約800隻の艦艇を海兵隊支援のために差し向けた。

これら米軍は、日本軍の兵力の約4倍、航空機200倍、戦車10倍、重火砲100倍以上の軍事力であり、航空機による爆撃、軍艦からの艦砲射撃なども考慮すると、米軍が数百倍の火力で日本軍を圧倒していた。

ペリリュー島を守備する日本軍は、関東軍最強と呼ばれた第十四師団、その座下の水戸歩兵第2連隊、高崎歩兵第15連隊を主力とした地区隊、約1万2000人だった。

すでに、数百倍の軍事力に加え、制海権も制空権も握っていた米軍は、2~3日の攻撃でペリリュー島を攻略できると予測をしていた。

9月12日に米軍は、ペリリュー島に艦砲射撃と高性能焼夷弾の集中砲火を浴びせた。

ペリリュー島には「オレンジビーチ」と呼ばれる海岸があるが、ここで多くの米軍兵が戦死して、海岸が血の色に染まったことから、こう呼ばれるようになったとも言われている。
ペリリュー島には「オレンジビーチ」と呼ばれる海岸がありますが、ここで多くの米軍兵が戦死して、海岸が血の色に染まった事から、こう呼ばれるようになったとも言われています。

9月15日早朝、米軍第一海兵師団28,400名が、オレンジビーチよりペリリュー島上陸作戦を開始した。

圧倒的勢力を持つ米軍は、この上陸作戦は短期間で終結すると考え、昼食をオレンジビーチで取る予定でいた。

ところが、日本軍守備隊は激しく抵抗して持久戦に持ち込み、米軍第一海兵師団は全体の50%もの損失を出したので一旦撤退し上陸戦は長期化した。

11月24日、生き残った日本軍将兵はわずか60人足らずとなり、司令部陣地の弾薬もほとんど底をついたところで、司令部はついに玉砕の決断を下した。

守備隊長の中川州男大佐、師団派遣参謀の村井権治郎少将、飯田義栄中佐の割腹自決の後、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文が送られて、翌朝にかけて根本甲子郎大尉を中心とした55名の残存兵による万歳突撃が行われた。

結局、米軍が上陸完了をしたのは11月27日だった。

日本軍は、実に73日間にわたって、ペリリュー島を死守したのだった!

日本本土に送られた「サクラサクラ」、この六文字の電文は、ペリリュー島守備隊全員が「桜花のごとく散った」ということを伝えるためのものだった。
日本本土に送られた「サクラサクラ」、この六文字の電文は、ペリリュー島守備隊全員が「桜花のごとく散った」、という事を伝えるためのものでした

ペリリュー島には現住民が住んでいたが、壮絶で長い戦闘が繰り広げられたにもかかわらず、ペリリュー島の民間人には、ただの1人の犠牲者もでなかった。

ペリリュー島民は、日本人を尊敬していたので大人も子供も日本軍と一緒に戦う決意をしていたが、日本軍が島民を戦火に巻き込んではならないとしたからだ。

戦局を予期していた日本軍司令部の命令により、ペリリュー島民のパラオ本島への移住をほぼ完了させ、一部残った島民も疎開させるために戦火の中をパラオ本島へと送り出していた。

――――――――――
「ペリリュー島の戦い」

日本軍
戦死者 10,695名
捕虜   202名
※戦闘終結後も生き残りの日本兵34人が洞窟を転々として生き延び、戦後も2年戦い続け、昭和22年に投降。

米軍
戦死者 2,336名
戦傷者 8,450名
※この他に精神に異常をきたした者が数千名。

住人
死者 0名
負傷者 0名

――――――――――


この当時の様子を知る、ペリリュー島民の老人のコラム(毎日新聞)が残っている。

遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。

「あそこでみんな死んでいったんだ・・・」

沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。

太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。老人は村の若者達と共にその作業に参加した。日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。

やがて戦況は日本に不利となり、いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。仲間達と話し合った彼は代表数人と共に日本の守備隊長のもとを訪れた。「自分達も一緒に戦わせて欲しい」と。

それを聞くなり隊長は激高し叫んだという。「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」

日本人は仲間だと思っていたのに・・・。みせかけだったのか。裏切られた想いで、みな悔し涙を流した・・・。

船に乗って島を去る日、日本兵は誰一人見送りに来ない。村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。

しかし、船が島を離れた瞬間に日本兵全員が浜に走り出てきた。そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。

その瞬間、彼は悟ったという。あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだと・・・。


守備隊長、中川州男大佐(11月24日戦死後、2階級特進し陸軍中将)
守備隊長、中川州男大佐(11月24日戦死後、2階級特進し陸軍中将)

近野滋之Blog『民族主義者の警鐘』「パラオ・ペリリュー島の桜花(1)、中川州男大佐、村井権治郎少将、飯田義栄中佐の割腹自決の後、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文、島民を戦火に巻き込んではならない、桜花のごとく散った日本軍の武士道精神」より、一部を修正し、抜粋
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●詳細記事
パラオのペリリュー島の桜花・天皇皇后両陛下ご訪問の地・パラオはなぜ「世界一の親日国」なのか?
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-5788.html
続★パラオのペリリュー島の桜花・両陛下ご訪問の地・パラオはなぜ「世界一の親日国」なのか?」
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-5789.html
フジが日本パラオ友好の橋を報道・「韓国が造った橋が突然崩落」・ペリリュー州が4月9日を祝日に
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-5790.html






【先帝陛下(昭和天皇)のお話】

●戦中
アッツ島の日本軍守備隊
アッツ島の守備隊

昭和18年(1943年)5月12日の米軍アッツ島上陸以来、先帝陛下(昭和天皇)は、同地の守備隊の模様をいたく気にかけられ、 毎日のように戦況を御下問されておられた。

5月29日夕刻、守備隊から最後の電報が発せられた。
「機密書類全部焼却。是レニテ無線機破壊処分ス」

陸軍大臣は、直ちに参内し、アッツ玉砕を天皇に奏上した。
陛下は、陸軍大臣大臣の報告を黙って聞くと、目を閉じしばし佇立された。

そして、ひと言、 「アッツ島守備隊は、まことに最後まで良く敢闘した。このことを伝えよ。」 とおっしゃった。
陸軍大臣は、陛下が自分の報告を聞き違えられたかと思い、言葉を返した。
「恐れながら陛下、彼らは無線機を既に破壊しており、お言葉をお伝えする手段がございません」 と申上げると、

陛下は、 厳しい声で、「構わぬ。それでも構わぬから、そういう電波を出しなさい!」とご命令された。

陸軍大臣は一礼して引き下がり、控えの間に至ると両手で顔を覆って男泣きに泣き崩れた。
直ちに北のアッツ守備隊に向け、電報が放たれ、陛下の御言葉が打電され続けた。

勿論、アッツから返事が来ることはなかったが。


1943年5月,アッツ島で玉砕した日本軍将兵の遺品がアンカレッジの博物館に展示されている。
アンカレッジの博物館には、昭和18年(1943年)5月に、アッツ島で玉砕した日本軍将兵の遺品が展示されている

『 凛として愛 』
■動画
『 凛として愛 』
http://www.youtube.com/watch?v=HBxaF0wps6U

57:17~
大東亜戦争最初の玉砕地となった北のアッツ島では、山崎保代大佐以下2,500の将兵が守備していたが、15,000のアメリカ軍相手に18日間善戦。
昭和18年5月29日、敵陣地の突撃して玉砕した。
アッツ島守備隊の最期が天皇陛下にご報告されると、
陛下は、「最後まで良く敢闘した。このことを伝えよ。」と言われたが、既に将兵は玉砕し、無線機も破壊されてない。
そのことを申し上げると、陛下は厳しい声で、「それでもよい!電波を出しなさい!」とご命令されたという。
雪と氷で閉ざされた北のアッツに向けて、陛下の御言葉が打電された。
諸国のために散華された2,500の将兵は、陛下の御言葉を耳にしたのであろうか。






●戦後

先帝陛下昭和天皇行幸
先帝陛下(昭和天皇)の戦後の全国ご巡幸

毎年「昭和の日」に、私は、先帝陛下(昭和天皇)の全国ご巡幸などについて紹介している。

日本が戦後、奇跡と呼ばれる復興をなしえた1つの要因は、全国ご巡幸で国民を励まされた先帝陛下を中心に、日本が結束を保ったことだった。

このことは、私たち日本人が永久に語り継いでいかなければならない。

まだ読んでいない方は勿論だが、既に読んだことがある方も、「昭和の日」を機会に改めて読んで頂ければ幸いだ。


昭和天皇(先帝陛下

●マッカーサーを感動させた昭和天皇の言葉

「…(終戦時において)陛下に対する占領軍としての料理の仕方は、四つありました。

一つは東京裁判に引き出し、これを絞首刑にする。
一つは共産党をおだてあげ、人民裁判の名においてこれを血祭りにあげる。
三番目は、中国へ亡命させて中国で殺す。そうでなければ、二〇個師団の兵力に相当するかと怯えた彼らです。
また第四番目は、闇から闇へ、一服もることによって陛下を葬り去ることでありました。


いずれにしても、陛下は殺される運命にあったのです。
天皇は馬鹿か、気狂いか、偉大なる聖者か、いつでもつかまえられる。
かつては一万八〇〇〇人の近衛師団に守られたかもしれないが、今や全くの護衛を持たずして、二重橋の向こうにいる。…


陛下の割腹自刃の計画は、三度ありました。
貞明(皇太后)様は、(侍従に、)陛下から目を離さんように命じました。
じつに一番悩まれたのは、陛下でありましたでしょう。


九月二七日、陛下がただ一人の通訳を連れて、マッカーサーの前に立たれたことは、皆様方もよくご承知の通りであります。
ついに天皇をつかまえるべき時が来た。
マッカーサーは、二個師団の兵力の待機を命じました。
マッカーサーは、陛下は命乞いに来られたものと勘違いし、傲慢不遜にもマドロスパイプを口にくわえて、ソファーから立とうともしなかった。

陛下は直立不動のままで、国際儀礼としてのご挨拶を終え、こう言われました。

『日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命においてすべてが行なわれました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されても、いつでも応ずるだけの覚悟はあります』

――弱ったのは通訳でした。その通り訳していいのか

――しかし陛下は続けました。

『しかしながら、罪なき八〇〇〇万の国民が、住むに家なく、着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えんものがあります。温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますように』


天皇は、やれ軍閥が悪い、やれ財界が悪いと言う中で、一切の責任はこの私にあります、絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処せられても…と淡々として申された。
このような態度を見せられたのは、われらが天皇ただ一人であったのです。
陛下は我々を裏切らなかった。

マッカーサーは驚いて、スクッと立ち上がり、今度は陛下を抱くようにして座らせました。
そして部下に、「陛下は興奮しておいでのようだから、おコーヒーをさしあげるように」と。

マッカーサーは今度は一臣下のごとく、直立不動で陛下の前に立ち、
「天皇とはこのようなものでありましたか!天皇とはこのようなものでありましたか!私も、日本人に生まれたかったです。陛下、ご不自由でございましょう。私に出来ますることがあれば、何なりとお申しつけ下さい」
と。

陛下は、再びスクッと立たれ、涙をポロポロと流し、
「命をかけて、閣下のお袖にすがっておりまする。この私に何の望みがありましょうか。重ねて国民の衣食住の点のみにご高配を賜りますように」
と。

そののちマッカーサーは、陛下を玄関(ホール)まで伴い、見送ったのです。


皆様方、日本は八〇〇〇万人と言いました。
どう計算しても八〇〇〇万はおらなかったでしょう。
いかがです?
一億の民から朝鮮半島と台湾、樺太をはじめ、すべてを差し引いて、どうして八千万でしょうか。
じつは六六〇〇万人しかいなかったのです。
それをあえて、マッカーサーは、八〇〇〇万として食糧をごまかして取ってくれました。
つまりマッカーサーは、いわゆる、陛下のご人徳にふれたのです。
米国大統領からは、日本に一〇〇〇万の餓死者を出すべしと、マッカーサーに命令が来ておったのです。

ただ一言、マッカーサーは、
『陛下は磁石だ。私の心を吸いつけた』
と言いました。

彼は陛下のために、食糧放出を八〇〇〇万人の計算で出してくれました。
それが後で、ばれてしまいます。
彼が解任された最大の理由はそれであったというのが、事の真相です。





【マッカーサーおよび侍従長の証言】

以上が、三上教授の講演の言葉である。
この講演にも出てきた一九四五年九月二七日の天皇とマッカーサーの会見については、辻井圭三氏(キリスト伝道会「活水の群」副理事長)も、こう書いている。
「この件については、第二回目の通訳をされた、内閣情報局総裁であり戦後外務次官も務められた奥村勝蔵氏を通じて、私は詳しく伺いました」
そして、三上教授の言っている通りであると述べている。
実際マッカーサー自身が、のちに回顧録の中で次のように書いたのである。

「天皇の話はこうだった。
 『私は、戦争を遂行するにあたって日本国民が政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対して、責任を負うべき唯一人の者です。あなたが代表する連合国の裁定に、私自身を委ねるためにここに来ました』
――大きな感動が私をゆさぶった。
死をともなう責任、それも私の知る限り、明らかに天皇に帰すべきでない責任を、進んで引き受けようとする態度に私は激しい感動をおぼえた。私は、すぐ前にいる天皇が、一人の人間としても日本で最高の紳士であると思った」
(マッカーサー回顧録一九六三年)

天皇とマッカーサーの会見は、はじめ一五分の予定だった。
しかし、マッカーサーは天皇の態度に深い感銘を受け、会見は三五分にも及んだのである。
会見がなされると、その会見の要旨は後ほど通訳の手で文書にまとめられ、侍従長に渡される習慣になっていた。
会見の翌日、藤田侍従長は、会見における天皇の発言の要旨を文書にまとめたものを、通訳から受け取った。
藤田氏は、いつものようにそれに目を通したうえで、天皇のもとに提出した。
藤田氏はこのとき、メモをとらなかった。

しかし彼はのちに、その内容について二つの点をはっきり憶えていると言って、次のように著書の中に書いている。

「…陛下は、次の意味のことをマッカーサー元帥に伝えられている。
『敗戦に至った戦争の、いろいろな責任が追求されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命する所だから、彼らには責任がない。
私の一身はどうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい』
一身を捨てて国民に殉ずるお覚悟を披瀝になると、この天真の流露は、マッカーサー元帥を強く感動させたようだ。
『かつて、戦い破れた国の元首で、このような言葉を述べられたことは、世界の歴史にも前例のないことと思う。私は陛下に感謝申したい。占領軍の進駐が事なく終わったのも、日本軍の復員が順調に進行しているのも、これすべて陛下のお力添えである。これからの占領政策の遂行にも、陛下のお力を乞わなければならぬことは多い。どうか、よろしくお願い致したい』」
とマッカーサーは言った(藤田尚徳『侍従長の回想』昭和三六年)。

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昭和天皇とマッカーサーの会見を通訳官が証言 The testimony of the interpreter
■動画
昭和天皇とマッカーサーの会見を通訳官が証言 The testimony of the interpreter
https://www.youtube.com/watch?v=inE1DSH0jrk






戦災者住宅で戦災者を激励される先帝陛下(昭和天皇)、昭和21年(1946年)2月19日 神奈川・横浜
戦災者住宅で戦災者を激励される先帝陛下(昭和天皇)、昭和21年(1946年)2月19日 神奈川・横浜

●貞明皇太后の前で泣いた昭和天皇

また、さらにご立派であったのは、貞明皇太后でした。

母君の貞明様は、亡くなるまで防空壕の中で生涯を送り、雨漏りのする、そして皆様方、貞明様は法華経の信者でしたから、戦死者のお名前を一〇人ずつ書きながら、法華経をあげて生涯を送られたのです。

その貞明様が、皇霊殿に陛下をお招きになりました。
皇霊殿は高いので、東京の市中が見えるのであります。
焼けただれ、一日千秋の思いでわが子の復員を待つ年寄りたちの姿も、見えるのであります。

貞明様は陛下にそれをお見せになり、
「陛下、国民は陛下のご不徳によって、このように苦しんでおります。この国を一日も早う復興しようと召されず、お腹をおめしになろう(切腹しよう)などとはご卑怯ではありませんか。退位は絶対になりません!」

陛下は、母君の前で頭を垂れて泣かれたそうです。
どうしたらいいのかと。

陛下の万歳を叫んで死んでいった護国の英霊の労苦を労いなさい、遺族の労苦を労いなさい、産業戦士の労苦を労いなさい――これが、後の陛下の行幸(外出)になったのでした。

原爆の地、広島に行幸された時でした。
共産党の腕利きが、今こそ「戦争の元凶である裕仁に対して恨みを報いようではないか」とビラをまき、宣伝カーで叫んでいました。
しかし、陛下は一兵の護衛をも持たず、ツギのあたった背広をお召しになり、中折れ帽をかぶって、広島の駅頭に立たれたことは、われらの記憶に新しいところであります。
むしろ陛下がおいたわしかった。
「万歳、万歳」の歓呼をもって迎えられました。

言えばやはり記録に残りましょうから、その県名と市名はもうしませんが、北陸のある所(福井市)においては共産党が、「朕はたらふく飯を食う。汝臣民飢えて死ね」とプラカードを仕立て、二〇〇〇名のデモ行進をやっていました。
「陛下、お逃げなさい」
しかし陛下は、「私に面会を申し込んでいる限り、私が会いましょう」 と言って、皆の前に頭を下げられました。
「皆様方が私を打擲することによって心が癒えるならば、ごずいにめされたがいい。でも日本の国を一日も早う復興し、次の子孫へこの国を送り得てこそ、はじめて護国の英霊に対し、我々が報いる道ではなかろうか」
と陛下は申されたのでした――はっきり言ったほうが良かったのかも知れませんが、場所を。

陛下に向かっての発砲もありました。
八二歳のある老婆が犠牲になったことも、中国地方の一角でありました(広島で、陛下をねらった弾がはずれて老婆に当たった事件)。
陛下の行幸は、そういう中に続いたのであります。…」

歩一〇四記念講演特集号より


釜石
釜石


昭和21年(1946年)から昭和29年(1954年)までの間に行われた御巡幸では、敗戦直後で宿舎がままならず、陛下が列車の中、学校の教室に泊まられた事もあった。

それでも陛下は、「戦災の国民のことを考へればなんでもない。十日間くらゐ風呂に入らなくともかまはぬ」とおっしゃり、御行幸を続けられた。





先帝陛下(昭和天皇)が硫黄島に行かれた時、硫黄島自体がお墓だからとおっしゃり、靴をお脱ぎになって上陸された。
因みに小沢一郎は普通に靴をはいていたそうだ。

遺骨収集が完了していない地下壕跡に入るときには、周りの案内役もそのまま足を踏み入れたのに、陛下だけは靴をお脱ぎになって裸足になられた。

硫黄島
硫黄島


先帝陛下(昭和天皇)
昭和63年9月、先帝陛下が病床につかれると、全国の御平癒祈願所に約9百万人が記帳に訪れた。
40数年間の御巡幸で陛下に励まされた人々も少なくなかった。

陛下は、病床で「もう、だめか」とおっしゃったことがあった。
医師たちは、陛下がご自分の命の事をおっしゃったのかと思ったが、実は「沖縄訪問はもうだめか」と問われたのだった。
御巡幸の最後の地、沖縄に寄せられた陛下の御心は、今上陛下によって平成5年に果たされた。

東京の空を台風が過ぎ去った翌日、侍従長は、陛下に「台風が去ってようございました。」と申し上げた。
すると、陛下は、次のとおりおっしゃった。

「… まだ、東北、北海道地方はこれからである。」



「陛下、ありがとうございました!」

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続★パラオのペリリュー島の桜花・両陛下ご訪問の地・パラオはなぜ「世界一の親日国」なのか?」
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大東亜戦争の激戦地、パラオ・ペリリュー島 天皇皇后両陛下がパラオを初めて公式訪問される
大東亜戦争の激戦地、パラオ・ペリリュー島 天皇皇后両陛下がパラオを初めて公式訪問される
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今回は、前回の記事「パラオのペリリュー島の桜花・天皇皇后両陛下ご訪問の地・パラオはなぜ「世界一の親日国」なのか?」の続きになるので、まだ前回の記事を読んでいない方はこちらをクリックしてお読みすることをお奨めします。

ペリリュー島の戦いが終って島に戻った住民は、多くの日本兵の遺体を見て泣きました

ペリリュー島の戦いが終り、島に戻った住民たちは、多くの日本兵の遺体を見て泣いた。

「アメリカ人は日本人の遺体には見向きもせず、自国兵の遺体だけを整理した。ここに征服民族の本性を見る」と。

ペリリュー島の住民は日本軍将兵の遺体を葬り、そして日本の人たちがいつ来ても良いように、その後も墓地の清掃を心掛けた。

敵将のニミッツ提督は、その著「太平洋海戦史」の中でペリリュー島の戦闘に相当のページをさき、次のように結んでいる。

ペリリューの複雑極まる防備に打ち克つには、米国の歴史における他のどんな上陸作戦にも見られなかった最高の戦闘損害比率(約40パーセント)を甘受しなければならなかった。既に制海権制空権を持っていた米軍が、死傷者あわせて一万人を超える犠牲者を出して、この島を占領したことは今もって疑問である


昭和57年(1982年)に「ペリリュー神社」が再建された。

「ペリリュー神社」の御祭神は「天照大神」「戦死者一万余名の護国の英霊」だ。
昭和57年に「ペリリュー神社」が再建されて、御祭神は「天照大神」と「戦死者一万余名の護国の英霊」です。

そして、敵将の「ニミッツの詩」が、以下の日英2か国語の文で掲示されている。
そして、敵将の「ニミッツの詩」が建立され、以下の日英2か国の文が記されている。

「諸国から訪れる旅人たちよ。この島を守るために日本軍人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い、そして玉砕したかを伝えられよ」
米大平洋艦隊司令長官 C.W.ニミッツ
「Tourists from every country who visit this island should be told how courageous and patriotic were the Japanese soldiers who all died defending this island.」


この詩には、戦終ればかつて敵であった日本軍の愛国心とその勇戦ぶりをこの島を訪れる旅人に伝えてくれとの願いが込められている。

大東亜戦争終結後、パラオなど南洋の島々は米国の統治領となった。

パラオから日本が去った後、パラオの公用語は英語となり、アメリカによる目に余る反日教育が行われた。

歴史の授業では米国で作られた教科書が使われ、日本人による「パラオ人虐殺事件」などが掲載された反日捏造歴史教科書もあった。

ところが、パラオの年長者が、「そんな話はない」と否定したために、この作り話はパラオには浸透しなかった。

パラオとマーシャル諸島の切手
パラオとマーシャル諸島の切手

米国から独立した後の1997年、パラオで初の「パラオ史」の国定教科書が作られた。

国定教科書では、全462ページのうち36ページもが日本統治時代にあてられ、章には「日の丸の旗のもとに」というタイトルが付けられている。

その教科書には、日本がパラオを統治するようになった経緯だけではなく、日本が行った学校教育、産業、経済活動などについても詳しく述べられている。

学校教育については「日本人は、当時の日本式の教育方針をそのままパラオにも持ち込み、体罰を伴う非常に厳格な躾(しつけ)を行った。」としながらも、「一年生ですらかけ算の九九を暗記することができた」などと教育水準の高さについても述べられている。

また、「当時の生徒は学年末、とりわけ権威のある年間賞をもらう儀式で認められたくて、とてもよく働き勉強したものだった。その儀式は特別で、村の人たち全員が出席し、子供が成し遂げた誇りを分かち合った」という記述もある。

そして、身分を問わず、努力次第で公平に認められる社会を構築した成果についても記述されており、日本式教育を受けたパラオ人の「学校の厳しい躾が人生に役立った」というコメントも載っている。

産業についても「日本統治のもとで、パラオの島々の経済発展は産業の強化をもたらした」と記述されており、農業、漁業、鉱山業の発展について公平公正な評価がなされている。

さらに、「1年半働くと、7日間の一時帰休と永久就職の保証が与えられた。15歳以下の者は雇用されなかった」などと、福利厚生や労働基準が定められていたことについても記述されている。

日本統治時代について、公平公正に評価をし、不当な批判もなく、事実のみが淡々と教科書に記述されているのが、パラオの国定教科書だ。

パラオ共和国は1981年に、憲法を制定して、日系人のハルオ・レメイク氏が初代大統領に就任し、1993年にクニオ・ナカムラ氏が大統領に就任した翌年の1994年に米国から独立して国連に加盟した。

アメリカから独立してパラオ共和国が誕生した時、ペリリュー島出身の人らによってペリリュー島における日本軍の勇戦を讃える「ペ島の桜を讃える歌」(作詞:同島出身のジョージ・シゲオとオキヤマ・トヨミ、作曲:同島小学校副校長ウィンティ)がつくられ、今に歌い継がれている。

作詞者の沖山トヨミ庄子シゲオの2人の名前について不思議に思うかもしれないが、実は今でもパラオでは日本を慕って止まない心情もあってパラオ国民の半数以上が姓名のいずれか(あるいは両方)に日本名が付けられている。

国のために尊い命を捧げて、命に代えてパラオのペリリュー島民を守り抜いた日本兵を桜にたとえ、その日本兵への感謝の心をつづった歌だ。

1、激しく弾雨(たま)が降り注ぎ オレンジ浜を血で染めた、強兵たちはみな散って ペ島(じま)は総て墓地(はか)となる

2、小さな異国のこの島を 死んでも守ると誓いつつ、山なす敵を迎え撃ち 弾(たま)射(う)ち尽くし食糧(しょく)もない

3、将兵(ヘいし)は”桜”を叫ぴつつ これが最期の伝えごと、父母よ祖国よ妻や子よ 別れの”桜"に意味深し

4、日本の”桜"は春いちど 見事に咲いて明日(あす)は散る、ペ島(じま)の”桜"は散り散りに 玉砕(ち)れども勲功(いさお)は永久(とこしえ)に

5、今 守備勇士(もののふ)の姿なく 残りし洞窟(じんち)の夢の跡、古いペ島(じま)の習慣で 我等勇士の霊魂(たま)守る

6、平和と自由の尊さを 身を鴻(こな)にしてこの島に、教えて散りし"桜花" 今では平和が甦る

7、どうぞ再びペリリューヘ 時なし桜花(さくら)の花びらは、椰子の木陰で待ち佗(わび)し あつい涙がこみあげる

8、戦友遺族の皆さまに 永遠(いついつ)までもかわりなく、必ず我等は待ち望む 桜とともに皆さまを


南洋に住むパラオの人々は、実際には桜を見ていないかもしれないが、桜を日本人の心だと感じていたのだ。
靖国神社の桜花
靖国神社の桜花

パラオがアメリカから独立した際に定められた「国旗」は、一般国民から公募した70数点の中から青い太平洋に浮かぶ、黄色い月」が一番の人気となって選ばれた。
パラオ国旗は日の丸を模している
パラオ・ペリリュー島の桜花(2)、ペ島の桜を讃える歌、パラオ国旗、パラオ教科書・日の丸の旗のもとに、大統領トミー・E・レメンゲサウ・ジュニア「親愛なる日本の皆様に」、桜花のごとく散った日本軍の武士道精

この国旗について、パラオで伝えられるエピソードがある。
「太陽(日本)」があってこそ「月(パラオ)の輝きがある」という意味が込められて、月が中心から微妙にずれているのは、「日本に敬意を表し、同じでは日本に失礼だから」と、わざと中心からはずしたといわれていま

「太陽(日本)」があってこそ「月(パラオ)の輝きがある」という意味が込められており、月が中心から微妙にずれているのは、「日本に敬意を表し、同じでは日本に失礼だから」と、わざと中心からずらしたといわれている。

パラオの人々は、「日本軍は命を捨てて私たちの命を守ってくれた」という感謝の気持ち、そして、強大な米軍と戦った日本人の勇敢さと純粋さに敬意を抱いている。

今でもパラオ国民は、「日本兵は勇気と国を想う心があれば、アメリカよりも強くなれることを教えて死んだのだ」と考え、日本を敬っている。

1995年10月1日、パラオでは独立一周年を祝う式典が催された。

世界の国家元首がパラオに祝電を贈ったが、当時の日本国首相だった反日極左の村山富市だけは、パラオが親日国家であるために祝電を贈らなかった!
世界の国家元首が祝電を贈ったが、当時の日本国首相だった反日極左の村山富市だけは、パラオが親日国家であるために祝電を贈らなかった!

村山富市は、パラオ共和国が台湾(中華民国)を国家として認め、支那(中華人民共和国)を国家として認めていないことも問題視したようだ。

パラオの独立一周年を祝う式典で、世界各国の国旗の中に「日の丸」はなく、クニオ・ナカムラ大統領は深い悲しみに包まれた。

それでも、2006年8月15日、靖国神社を参拝した小泉元総理に、トミー・レメンゲサウ大統領は、「すべての人のために祈るのは正しいこと」と、靖国神社参拝に支持を表明した。

また、「死後の魂は安らかな場に置かれるべきだ」とし、所謂A級戦犯を合祀する靖国神社のあり方にも理解を示している

靖国神社参拝への批判に対しても、「生きている人間の間で善意の交流を促進すべきで、過去に集中すべきではない」と指摘した。

【親愛なる日本の皆様に】

日本は第二次世界大戦終戦から今日に至るまでの年月で敗戦から見事に立ち上がり、それどころか、産業・経済・文化など様々な分野において、世界のリーダーとして活躍されています。

そんな日本の皆様たちのバイタリティが、実は私たちの国パラオを造ったという事実をご存じでしょうか。

終戦までの日本は、数万人に及ぶ日本人入植者をパラオに送り込み南洋庁を作り、私たちパラオ人のために様々な教育や産業を伝えました。それは後に、パラオ独立のための貴重な原動力となりました。

そして現在でもパラオの長老たちは日本のことを「内地」と呼び、世界で最も親日感情が高い国、といっても過言ではないのです。

パラオ共和国大統領 トミー・E・レメンゲサウ・ジュニア

パラオ共和国大統領 トミー・E・レメンゲサウ・ジュニア
「日本パラオ国際交友協会」抜粋
http://www.palau-smile.com/

「サクラサクラ」の電文で桜花のごとく散った日本軍将兵と日本国に感謝しているのがパラオ共和国であり、日本人が知らなければならない大東亜戦争の真実だ。

「サクラサクラ」の電文で桜花のごとく散った日本軍将兵と日本国に感謝しているのがパラオ共和国であり、日本人が知らなければならない大東亜戦争の真実だ。


近野滋之Blog『民族主義者の警鐘』パラオ・ペリリュー島の桜花(2)、ペ島の桜を讃える歌、パラオ国旗、パラオ教科書・日の丸の旗のもとに、大統領トミー・E・レメンゲサウ・ジュニア「親愛なる日本の皆様に」、桜花のごとく散った日本軍の武士道精神より、一部を修正し、概ね転載。
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■動画
パラオ人の証言
https://www.youtube.com/watch?t=16&v=vQaZ6SHqOxA



https://twitter.com/kaminoishi/status/304104767829966849
井上太郎
@kaminoishi
あまり知られていないパラオ事情。唯一の公立パラオ高校、日本語が選択としてありほぼ全員受講。三重県は5代大統領クニオ・ナカムラの父が出身で友好。首都コロールは東京と姉妹都市。日本からは10年から成田と直行便。南国といわれるのを嫌う、理由は日本と同じ北半球だからとうれしそうに言う。
2:46 PM - 20 Feb 2013


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パラオ共和国のトミー・E・レメンゲサウJr.大統領
パラオ共和国のトミー・E・レメンゲサウJr.大統領
パラオ共和国のトミー・E・レメンゲサウJr.大統領両陛下の訪問は両国の親密な関係をさらに強固にする、などと歓迎や期待の気持ちを表しました。
パラオ共和国のトミー・E・レメンゲサウJr.大統領、両陛下の訪問は両国の親密な関係をさらに強固にする、などと歓迎や期待の気持ちを表しました。
パラオ共和国のトミー・E・レメンゲサウJr.大統領、両陛下の訪問は両国の親密な関係をさらに強固にする、などと歓迎や期待の気持ちを表しました。
パラオ共和国のトミー・E・レメンゲサウJr.大統領、両陛下の訪問は両国の親密な関係をさらに強固にする、などと歓迎や期待の気持ちを表しました。
パラオのレメンゲサウ大統領がインタビューに応じ、両陛下の訪問は両国の親密な関係をさらに強固にする、などと歓迎や期待の気持ちを表しました。(画像:メイド・イン・ジャパン!
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https://twitter.com/arigatou45671/status/583456207190405120
Hiroki
@arigatou45671
【親日パラオ】

パラオ共和国の海底に眠る陸軍徴用船
「てしお丸」

この船と乗組員たちの命日3月30日に
自らその船体に潜り献花黙祷を捧げる
のは

トミー・E・レメンゲサウJr.
現パラオ共和国大統領です。
pic.twitter.com/Yrela1FyCr
パラオ共和国の海底に眠る陸軍徴用船 「てしお丸」 。この船と乗組員たちの命日3月30日に 自らその船体に潜り献花黙祷を捧げるのはトミー・E・レメンゲサウJr. 現パラオ共和国大統領
11:29 AM - 2 Apr 2015



両陛下は、4月8日、民間チャーター機でパラオに入られて、親善行事などを行われる。そして翌9日、ペリリュー島で慰霊碑に献花をして、帰国される
両陛下は、4月8日、民間チャーター機でパラオに入られて、親善行事などを行われる。そして翌9日、ペリリュー島で慰霊碑に献花をして、帰国される
両陛下は、4月8日、民間チャーター機でパラオに入られて、親善行事などを行われる。
そして翌9日、ペリリュー島で慰霊碑に献花をして、帰国される。

天皇皇后両陛下パラオ行幸啓、奉送迎

4月8日の御出発は午前10時31分(皇居正門)、9日の御帰着は午後9時55分(皇居正門)の御予定となりますので、次の通り実施する所存です。

【奉送日時】
4月8日(水)午前10時集合待機

【奉迎日時】
4月9日(木)午後9時30分集合待機

【奉送迎場所】
皇居前広場(二重橋前)

主催:三澤浩一



パラオはなぜ「世界一の親日国」なのか~ 天皇の島ペリリューでかくも勇敢に戦った日本軍将兵』
井上 和彦 (著) PHP研究所 (2015/3/12)


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パラオ政府観光局
パラオ政府観光局

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Hiroki
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【親日パラオ】

パラオ共和国の海底に眠る陸軍徴用船
「てしお丸」

この船と乗組員たちの命日3月30日に
自らその船体に潜り献花黙祷を捧げる
のは

トミー・E・レメンゲサウJr.
現パラオ共和国大統領です。
pic.twitter.com/Yrela1FyCr
パラオ共和国の海底に眠る陸軍徴用船 「てしお丸」 。この船と乗組員たちの命日3月30日に 自らその船体に潜り献花黙祷を捧げるのはトミー・E・レメンゲサウJr. 現パラオ共和国大統領
11:29 AM - 2 Apr 2015



パラオはなぜ「世界一の親日国」なのか~ 天皇の島ペリリューでかくも勇敢に戦った日本軍将兵』
井上 和彦 (著) PHP研究所 (2015/3/12)


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パラオ

【日本とパラオの物語】
ペリリュー島の桜花


有史以前のパラオについては未解明だが、近年の遺跡などの調査では、約4000年前から人が住んでいたと推定され、1855年(明治18年)、パラオはスペインの植民地となった。

スペイン人らによって天然痘などが持ち込まれたことや、植民地支配での略奪、殺戮などの結果、パラオの人口は当時90%も減少したといわれている。

1899年、国力が衰退の一途を辿っていたスペインは、グアムを除くスペイン領ミクロネシアを450万ドルでドイツに売却したが、その中に、パラオも含まれていた。

ドイツの植民地となったパラオでは、他のドイツの植民地と同様に、道路や水道などのインフラ整備や、パラオの先住民への教育はほとんど行われなかった。

1914年(大正3年)、第一次世界大戦が始まるると、ドイツに対して宣戦を布告した日本は海軍を派遣して、ドイツ守備隊を降伏させ、パラオを解放した。

1919年、第一次世界大戦の戦後処理をする「パリ講和会議」において、パラオは日本の委任統治領となった。

日本国政府は、当時の首都である「コロール」に南洋庁及び南洋庁西部支庁(パラオ支庁)を置き、パラオは日本の南洋周辺諸島を統治する中核的な島となった。

日本委任統治時代のパラオには、多くの日本人が移住して、最盛期の1943年(昭和18年)には約2万5千人の日本人と、当時は日本国民だった朝鮮人も約2千人が居住していた。

1920年代のパラオの町並みの写真には、右側の方にハングルの看板の店舗があるのがわかる。
1920年代のパラオの町並みの写真を見ると、右側の店舗には、韓国・朝鮮人が1910年の日韓併合により奪われたと歴史を捏造している、ハングル文字の看板があります。
ハングルの看板

ただ、今ではこの写真も、韓国人どもによって「パラオは1910年の日韓併合によってチョッパリに奪われたニダ!」と捏造宣伝に悪用されている。

日本の統治時代には、パラオで、ドイツの植民地時代にはほとんど行われなかった、学校、病院、道路などのインフラの整備も重点的に行われ、首都のコロールは近代的な都市へと変貌していった。
コロール
コロール

日本は、パラオの住民に、疾病に係る予防接種を受けさせ、また、パラオの言語を顕すための文字を持たないパラオ住民のために、学校を建てて日本語の教科書を用いた日本語教育も行った。
パラオの言語を顕すための文字をもたないパラオの住民のために、学校を立てて日本語の教科書を用いた日本語教育もしました。

日本統治後のパラオでは、それまでの白人による植民地時代とは異なり、日本人の礼儀正しさや、節度、道徳心、他民族を思いやる心などが認められ、日本人はパラオの現地住民から愛された。

パラオには、太平洋上のパラオ諸島の中に「ペリリュー島」と言う南北9キロ・東西3キロ・高さ80メートル・全体で20平方キロの珊瑚礁からできた小島がある。
このペリリュー島では、大東亜戦争の末期に、日米両軍によって実に73日間にも亘る死闘が繰り返されました

このペリリュー島では、大東亜戦争の末期に、日米両軍によって実に73日間にも亘る死闘が繰り広げられた。

1941年(昭和16年)に大東亜戦争が始まると、日本軍は「ペリリュー島」に東洋最大といわれる飛行場(1200m滑走路2本)をつくっていた。

パラオは、日本軍にとってグアムやサイパンの後方支援基地として、日本の防衛上も重要な拠点だった。
パラオは、日本軍にとってグアムやサイパンの後方支援基地として、日本の防衛上も重要な拠点だった。

大東亜戦争で日本軍が劣勢となる中、ペリリュー島は日本軍にとってフィリピン防衛の防波堤だったが、フィリピン奪還に総力をあげる米軍にとってもペリリュー島の攻略が必要となった。

1944年、米陸軍を指揮するマッカーサーは、フィリピン攻略を有利に進めるため、「ペリリュー島」を奪取しなければならなかった。

米太平洋艦隊を指揮するニミッツ提督は、マッカーサーの作戦を助けるために、第一海兵師団にペリリュー島の占領を命令し、ハルゼー大将が指揮する第三艦隊約800隻の艦艇を海兵隊支援のために差し向けた。

これら米軍は、日本軍の兵力の約4倍、航空機200倍、戦車10倍、重火砲100倍以上の軍事力であり、航空機による爆撃、軍艦からの艦砲射撃なども考慮すると、米軍が数百倍の火力で日本軍を圧倒していた。

ペリリュー島を守備する日本軍は、関東軍最強と呼ばれた第十四師団、その座下の水戸歩兵第2連隊、高崎歩兵第15連隊を主力とした地区隊、約1万2000人だった。

すでに、数百倍の軍事力に加え、制海権も制空権も握っていた米軍は、2~3日の攻撃でペリリュー島を攻略できると予測をしていた。

9月12日に米軍は、ペリリュー島に艦砲射撃と高性能焼夷弾の集中砲火を浴びせた。

ペリリュー島には「オレンジビーチ」と呼ばれる海岸があるが、ここで多くの米軍兵が戦死して、海岸が血の色に染まったことから、こう呼ばれるようになったとも言われている。
ペリリュー島には「オレンジビーチ」と呼ばれる海岸がありますが、ここで多くの米軍兵が戦死して、海岸が血の色に染まった事から、こう呼ばれるようになったとも言われています。

9月15日早朝、米軍第一海兵師団28,400名が、オレンジビーチよりペリリュー島上陸作戦を開始した。

圧倒的勢力を持つ米軍は、この上陸作戦は短期間で終結すると考え、昼食をオレンジビーチで取る予定でいた。

ところが、日本軍守備隊は激しく抵抗して持久戦に持ち込み、米軍第一海兵師団は全体の50%もの損失を出したので一旦撤退し上陸戦は長期化した。

11月24日、生き残った日本軍将兵はわずか60人足らずとなり、司令部陣地の弾薬もほとんど底をついたところで、司令部はついに玉砕の決断を下した。

守備隊長の中川州男大佐、師団派遣参謀の村井権治郎少将、飯田義栄中佐の割腹自決の後、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文が送られて、翌朝にかけて根本甲子郎大尉を中心とした55名の残存兵による万歳突撃が行われた。

結局、米軍が上陸完了をしたのは11月27日だった。

日本軍は、実に73日間にわたって、ペリリュー島を死守したのだった!

日本本土に送られた「サクラサクラ」、この六文字の電文は、ペリリュー島守備隊全員が「桜花のごとく散った」ということを伝えるためのものだった。
日本本土に送られた「サクラサクラ」、この六文字の電文は、ペリリュー島守備隊全員が「桜花のごとく散った」、という事を伝えるためのものでした

ペリリュー島には現住民が住んでいたが、壮絶で長い戦闘が繰り広げられたにもかかわらず、ペリリュー島の民間人には、ただの1人の犠牲者もでなかった。

ペリリュー島民は、日本人を尊敬していたので大人も子供も日本軍と一緒に戦う決意をしていたが、日本軍が島民を戦火に巻き込んではならないとしたからだ。

戦局を予期していた日本軍司令部の命令により、ペリリュー島民のパラオ本島への移住をほぼ完了させ、一部残った島民も疎開させるために戦火の中をパラオ本島へと送り出していた。

――――――――――
「ペリリュー島の戦い」

日本軍
戦死者 10,695名
捕虜   202名
※戦闘終結後も生き残りの日本兵34人が洞窟を転々として生き延び、戦後も2年戦い続け、昭和22年に投降。

米軍
戦死者 2,336名
戦傷者 8,450名
※この他に精神に異常をきたした者が数千名。

住人
死者 0名
負傷者 0名

――――――――――


この当時の様子を知る、ペリリュー島民の老人のコラム(毎日新聞)が残っている。

遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。

「あそこでみんな死んでいったんだ・・・」

沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。

太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。老人は村の若者達と共にその作業に参加した。日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。

やがて戦況は日本に不利となり、いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。仲間達と話し合った彼は代表数人と共に日本の守備隊長のもとを訪れた。「自分達も一緒に戦わせて欲しい」と。

それを聞くなり隊長は激高し叫んだという。「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」

日本人は仲間だと思っていたのに・・・。みせかけだったのか。裏切られた想いで、みな悔し涙を流した・・・。

船に乗って島を去る日、日本兵は誰一人見送りに来ない。村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。

しかし、船が島を離れた瞬間に日本兵全員が浜に走り出てきた。そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。

その瞬間、彼は悟ったという。あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだと・・・。


守備隊長、中川州男大佐(11月24日戦死後、2階級特進し陸軍中将)
守備隊長、中川州男大佐(11月24日戦死後、2階級特進し陸軍中将)


大東亜戦争終結後に、「日本軍は悪かった」と子供たちに洗脳教育をする教師と、パラオ島民の血を受け継ぐ生徒とのエピソードも残っている。

生徒 「俺のじいちゃんは、日本の兵隊に優しくしてもらったって言っていました。皆礼儀正しく、差別もしない人達だったって」

教師 「でも、酷いことも…」

生徒 「後から来た、アメリカの方が酷かったって言っていました」

教師 「貴方のような考えの人もいるかも知れないけど、それはごく一部で」

生徒 「ごく一部じゃ駄目なんですか?」

教師 「そういうことじゃなくて」

生徒 「俺のじいちゃんの国は凄く小さいです。他の国に比べれば全然重要じゃないかも知れないけど、日本人は、そんな国も大事にしてくれたって言っていました。戦争の時、仲良くした日本兵はみんな笑って出掛けて行って、誰も帰ってこなかったと言っていました。国旗も日本を真似ました。みんな、日本を尊敬しています」


桜花のごとく散った日本兵は、満開の桜にある靖国神社に英霊として祀られている。
桜花のごとく散った日本兵は、満開の桜がある靖国神社に英霊として祀られています。
近野滋之Blog『民族主義者の警鐘』「パラオ・ペリリュー島の桜花(1)、中川州男大佐、村井権治郎少将、飯田義栄中佐の割腹自決の後、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文、島民を戦火に巻き込んではならない、桜花のごとく散った日本軍の武士道精神」より、一部を修正し、概ね転載。
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天皇皇后両陛下パラオ行幸啓、奉送迎

4月8日の御出発は午前10時31分(皇居正門)、9日の御帰着は午後9時55分(皇居正門)の御予定となりますので、次の通り実施する所存です。

【奉送日時】
4月8日(水)午前10時集合待機

【奉迎日時】
4月9日(木)午後9時30分集合待機

【奉送迎場所】
皇居前広場(二重橋前)

主催:三澤浩一



パラオはなぜ「世界一の親日国」なのか~ 天皇の島ペリリューでかくも勇敢に戦った日本軍将兵』
井上 和彦 (著) PHP研究所 (2015/3/12)


「英霊に感謝!天皇陛下万歳!ありがとうパラオ!」

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