http://www.sankei.com/politics/news/170729/plt1707290041-n1.html
200人以上の日本人居留民が中国人部隊などに虐殺された…「通州事件」から80年、集会に300人参列「事件をユネスコ『世界記憶』に」
2017.7.29 20:02更新、産経新聞
通州事件で、弾丸を受けて破損した父の遺品の日記帳を開く加納満智子さん(右)=29日、東京都千代田区(原川貴郎撮影)
日中戦争開始直後の1937年7月、中国・北京郊外の通州(現・北京市通州区)で200人以上の日本人居留民が中国人部隊などに虐殺された「通州事件」の発生から80年に当たる29日、犠牲者の慰霊と事件の記憶を目的とした集会が東京都内で開かれ、約300人が参加した。
出生前に父と叔母が殺された加納満智子さん(79)は、被弾して破損した父の日記帳を公開し、事件の凄惨さを伝えた。加納さんを身ごもっていた母も背中を撃たれたが、奇跡的に助かったという。
日本人虐殺に関与した中国人部隊を事件翌日に殲滅した旧日本軍の独立歩兵第12連隊の奈良晃連隊長の三男、保男さん(87)は「通州事件はユネスコ(国連教育科学文化機関)の『世界の記憶』に登録されるべきだ」と呼びかけ、参加者から拍手が起きた。
80年前の1937年7月29日、北支の通州で「通州事件」が起こった。
私は、悪獣も及ばぬ猟奇の惨殺劇「通州事件」を日本の教科書に記述して、支那人の残虐性を日本の子供たちに教えておくべきだと考えている。
また、旧日本軍の独立歩兵第12連隊の奈良晃連隊長の三男、保男さん(87)が集会に参列した300人に呼びかけたように、通州事件をユネスコ(国連教育科学文化機関)の『世界の記憶』に登録するべきだ!
今年は通州事件から80年の節目でもあるため、新たな本なども出されている。
「通州事件 目撃者の証言」 (自由社ブックレット5) 藤岡 信勝 著 2016/8/7
「日本人が知らなくてはいけない通州事件 80年目の真実」 (英和ムック) ムック 藤岡信勝著 2017/3/21
通州事件の生存者
1937年7月29日、支那の保安隊が日本人居留民約260人を大虐殺した!
犯人は、支那の国民党軍でも共産党軍でもなく、事件前までは親日的だった「冀東防共自治政府」の保安隊だった。
しかし、支那保安隊が日本人居留民を大虐殺した最大の原因が支那国民党の南京政府の御用放送局(南京放送)によるデマ放送であり、保安隊が国民党軍(支那軍)に寝返るための日本人大虐殺だったので、支那軍による大虐殺といって良い。
【7月27日頃、北京特務機関がキャッチした南京放送ニュース】
日本軍は盧溝橋の戦場に於いて、我が優勢な29軍と交戦の結果、支離滅裂の敗戦に陥り、豊台と郎坊とは完全に我が手に奪還してしまった。
(略)
なお、最近北京における軍事会議の結果、蒋委員長は近く29軍を提げて、大挙冀東を攻撃し、偽都通州を屠り、逆賊殷汝耕を血祭りにして、満州失地恢復の第一声を挙げる事を決議した。
日本軍を撃破した支那軍(宋哲元軍=29軍)が、冀東防共自治政府(通州)に攻め込んで来れば、今まで親日だった支那保安隊は漢奸として処刑される。
そこでの支那保安隊の連中は、日本人を大虐殺し、親日の冀東防共自治政府の殷長官を捕らえ、これを手土産にして北京の宋哲元へ馳せ参ずることを決意した。
通州大虐殺事件の原因については、事件の2日前にあった日本軍による保安隊への誤爆や、事前に国民党と保安隊に密約があった計画的犯行など、今でもいろんな説があるが、最大で直接の原因が支那の蒋介石政府の南京放送によるデマ報道だったことは間違いない。
支那保安隊の連中は、日本人大虐殺を手土産にして意気揚々と支那軍(宋哲元軍=29軍)が居ると思い込んでいた北京へと向かった。
ところが、そこにいたのは支那軍(宋哲元軍=29軍)ではなく、実際には日本軍だった。
日本軍による誤爆が原因なら、支那保安隊が日本人を大虐殺した後に日本軍の居る北京に向かうわけがない。
北京に居るのが支那軍(宋哲元軍=29軍)ではなく日本軍だと知った支那保安隊の連中は慌てて逃げたが、日本軍に捕まった。
中島顧問は「機関銃をくれ、仇をとってやる」と息まいた。
しかし、「それでは暴に酬ゆるに暴を以ってするだけだ。」と止められ、結局、支那保安隊の連中は収容もされず城外に放置されただけとなった。
理由は「収容すると飯を食わさにゃならん。本当は鉛の弾を食わしたいくらいなのに、飯などもったいない。」という事だったが、支那保安隊の連中は後に移動して支那軍に加わった。
これが当時の日本軍であり、お人好しぶりは今の日本人と変わらない。
支那保安隊の連中が通州で大虐殺した日本人を手土産に北京に行ったことは、事件の直接の原因が【支那国民政府の南京放送のデマ報道】だったことを裏付ける。
通州事件では当時日本の外務省が公式声明を発しており、東京裁判で弁護団は通州事件に関する外務省公式声明を証拠として提出しようとしたが、ウェッブ裁判長が却下。
ただ、通州事件の目撃者3人の宣誓口供書は受理された。
その宣誓口供書の一部は次のとおり。
「守備隊の東門を出ると、数間ごとに居留民男女の死体が横たわっていた。
某飲食店では、一家ことごとく首と両手を切断され、婦人は14、5歳以上は全部強姦されていた。
旭軒という飲食店に入ると、7、8名の女が全部裸体にされ、強姦射殺され、陰部にほうきを押しこんであるある者、口中に砂を入れてある者、腹部を縦に断ち割ってある者など見るに耐えなかった。
東門の近くの池では、首を電線で縛り、両手を合せて、それに八番線を通し、一家6人数珠つなぎにして引き廻した形跡歴然たる死体が浮かんで居り、池の水は真っ赤になっていた。
夜半まで生存者の収容に当たり、『日本人はいないか』と叫んで各戸ごとに調査すると、鼻に牛の如く針金を通された子供、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦などが、そこそこの塵箱の中やら塀の蔭から出て来た」
支那駐屯歩兵第2連隊小隊長として7月30日、連隊主力と共に救援に赴いた桜井文雄証人
当時、天津歩兵隊長及び支那駐屯歩兵第2連隊長で、7月28日の南苑戦闘に参加した後、30日午後通州に急行して邦人救援に当たった萱島高証人は凡(およ)そ次の如く証言した。
「旭軒(飲食店)では40から17~8歳までの女7、8名が皆強姦され、裸体で陰部を露出したまま射殺されており、その中4、5名は陰部を銃剣で刺殺されていた。商館や役所に残された日本人男子の死体はほとんどすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、血潮は壁に散布し、言語に絶したものだった。」
まさになぶり殺しではないか。
中でも悲惨を極めた旅館・近水楼での惨劇について通州救援の第2連隊歩兵隊長代理を務めた桂鎮雄証人の供述は次の通り。
「近水楼入口で女将らしき人の死体を見た。足を入口に向け、顔だけに新聞紙がかけてあった。本人は相当に抵抗したらしく、着物は寝た上で剥(は)がされたらしく、上半身も下半身も暴露し、4つ5つ銃剣で突き刺した跡があったと記憶する。陰部は刃物でえぐられたらしく、血痕が散乱していた。
帳場や配膳室は足の踏み場もない程散乱し、略奪の跡をまざまざと示していた。
女中部屋に女中らしき日本婦人の4つの死体があり、全部もがいて死んだようだった。折り重なって死んでいたが、1名だけは局部を露出し上向きになっていた。
帳場配膳室では男1人、女2人が横倒れ、或(ある)いはうつ伏し或いは上向いて死んでおり、闘った跡は明瞭で、男は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のようだった。女2人はいずれも背部から銃剣を突き刺されていた。
階下座敷に女の死体2つ、素っ裸で殺され、局部はじめ各部分に刺突の跡を見た。
1年前に行ったことのあるカフェーでは、縄で絞殺された素っ裸の死体があった。
その裏の日本人の家では親子 2人が惨殺されていた。子供は手の指を揃(そろ)えて切断されていた。
南城門近くの日本人商店では、主人らしき人の死体が路上に放置してあったが、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱していた」
中村粲著『大東亜戦争への道』惨!通州事件
1937年7月30日、通州事件翌日の通州。南門から北門方面を見る。
被害甚大の近水楼
以下、北博昭「日中戦争の未公開写真-写真資料が語る通州事件-」、『歴史読本 九月号』第44巻第11号、新人物往来社、1999年9月1日、 156 - 163頁より。
犠牲者の虐殺体。被害者の氏名が判明しており、プライバシー保護のために目にマスク処理をしている
日本人居留民の遺体
日本人居留民の遺体
以上、北博昭「日中戦争の未公開写真-写真資料が語る通州事件-」、『歴史読本 九月号』第44巻第11号、新人物往来社、1999年9月1日、 156 - 163頁より。
以下、下の動画より。
■動画
通州事件の記録写真と南京大虐殺の捏造.mpg
http://www.youtube.com/watch?v=JZl9wUDt5U4
実はユネスコへの登録については、平成28年から計画が持ち上がっており、申請する資料は東京裁判に提出された証言や外務省の抗議声明などの公的文書のほか、当時の新聞の号外なども予定されているという。(関連記事)
次の画像が、当時の「朝日新聞」と「東京日日新聞」(毎日新聞)の記事の画像だ。
「東京朝日新聞」通州事件の記事
「東京日日新聞」(毎日新聞)の記事
所謂「南京大虐殺」は事実無根であり、日本軍が無辜の南京市民を虐殺した事実は1件も確認されていない。
したがって、当時は支那政府も日本政府も、全く「南京虐殺」については声明を発していなかった。
一方、「通州事件」については、当時の日本の外務省が公式声明を発していた。
つまり、日本人居留民約260人が大虐殺された「通州事件」ほどの事件が起これば当たり前のことだが、当時、内外において事件が認知されていた。
また、「通州事件」については、すぐに犠牲者名簿も作成された。
ところが、所謂「南京大虐殺」の場合、当時、支那政府も日本政府もその他誰も事件の認識がなく、よって当然犠牲者名簿などもなかった。
要するに、「南京事件」とか「南京虐殺」などというものは、当時は加害者側も被害者側も誰も全く認識していなかった不思議な不思議な事件なのだ。
このように「通州事件」と「南京事件」の差異を冷静に分析するだけでも、「南京大虐殺」「南京事件」が嘘っぱちのでっち上げであることが明白となる。
◆虐殺事件の証拠(資料)一覧◆
●済南事件
1.日本人犠牲者の名簿 ○あり
2.命令書 ×なし
3.当時の政府の認識 ○あり
(田中外相宛西田領事報告など○)
●通州事件
1.日本人犠牲者の名簿 ○あり
http://homepage1.nifty.com/SENSHI/data/tuusyuu00.htm
http://homepage1.nifty.com/SENSHI/data/tuusyuu20.htm
2.命令書 ×なし
3.当時の政府の認識 ○あり
(外務省の公式声明など○)
●南京大虐殺事件
1.犠牲者の名簿 ×なし
(日本も×、蒋介石政府も×、汪兆銘政府も×、南京安全区国際委員会も×、南京市民も×、誰も作成せず)
2.命令書その他公式文書 ×なし
3.当時の政府の認識 ×なし
(当時、日本にも×、何応欽にも×、蒋介石にも×、毛沢東にも×、国際連盟にも×、事件の認識×なし)
●カチンの森事件
1.ポーランド人犠牲者の名簿 ○あり
2.命令書その他公式文書 ○あり
(スターリンが命令し、内務人民委員部長官ラヴレンティ・ベリヤが命令書に署名○)
3.当時の政府の認識 ○あり
加害者のソ連 ○あり
被害者のポーランド ○あり
濡れ衣を着せられたドイツ ○あり
(事件3年後、収容所にいた元ポーランド軍将校、公務員、警察協力者、情報部員、憲兵隊員、獄吏等の遺骸を発見○)
●ホロコースト
1.犠牲者の名簿 ○あり
(犠牲者や強制労働者ら1750万人の名簿○)
2.命令書その他公式文書 ○あり
(ナチスの強制収容所などの実態が記述された約5千万件の公文書○)
3.当時の政府の認識 ○あり
●原爆投下
1.犠牲者の名簿 ○あり
2.命令書 ○あり
(7月25日、トルーマンの決定を受けてグローブスが作成した「原爆投下命令書」がワシントンの陸軍戦略航空軍司令官カール・スパーツに手渡され、ポツダムにいる陸軍長官スティムソン、陸軍参謀総長マーシャルが承認し、陸軍参謀総長代理トーマス・T・ハンディがサインした公文書○)
その他、膨大な文書○や記録フィルムなどの資料 ○あり
3.当時の政府の認識 ○あり
(日本にも○、アメリカにも○、世界中の政府にも○、認識あり)
●ソ連による日本人拉致・シベリア強制連行・殺害事件
1.犠牲者の名簿 ○あり
(死亡年月日、死因、埋葬地など全員○。犠牲者は50万人超で、ゴルバチョフ来日の際、名簿の一部のみ渡された)
2.命令書その他公式文書 ○あり
(マリク駐日大使がモロトフ外相に宛てた文書で、「1946年12月時点で、まだ生存している抑留日本人が105万人以上居る」と記載○)
3.当時の政府の認識
被害者の日本 ○あり
加害者のソ連 ○あり
第3国の米国 ○あり
▼【慰安婦(戦地売春婦)強制】に係る証拠(資料)▼
1.被害者の名簿 ×なし
(戦地売春婦である慰安婦は実在したが、日本によって強制された被害者は皆無「0人」)
2.命令書その他公式文書 ×なし
3.当時の政府の認識 ×なし
(当時、日本にも×、朝鮮総督府にも×、アメリカ政府にも×、強制の認識なし。1965年の日韓基本条約締結時の韓国政府にも×、全く強制の認識なし)
●関連記事
通州事件!7月29日で75年
支那保安隊が南京政府のデマ放送に騙され支那軍に寝返るために日本人居留民約260人を大虐殺
嘘っぱちの「南京事件」を教科書から削除し、忘れてならない事実「通州事件」を教科書に記述しろ
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-4737.html
ユネスコ記憶遺産に「通州事件」と「慰安婦と日本軍規律に関する文書」を登録申請!複数国の民間団体
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-6245.html
「通州事件 目撃者の証言」 (自由社ブックレット5) 藤岡 信勝 著 2016/8/7
「日本人が知らなくてはいけない通州事件 80年目の真実」 (英和ムック) ムック 藤岡信勝著 2017/3/21
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教科書に載せ
博物館を作り
世界に発信しなければならない。
世界に訳して発信します。
《同じく歴史を歪曲し続けてきた岩波書店》
・・・岩波書店もおなじである。朝日や岩波が何を報じてきたか。垂れ流された大量の記事や評論が、実態といかに乖離していたかの例は枚挙にいとまがない。岩波については長く看板雑誌の 「世界」 編集長をつとめ社長にまでなった安江良介の゛妄言゛を先に紹介したが、刊行物を一点例に引けば、その分厚い近代年表には昭和十二年七月二十九日に起きた通州事件のことは、一行も触れられていない。昭和十二年七月七日に起きた゛盧溝橋事件゛の発端は、毛沢東の中国共産党が日本軍と蒋介石軍を戦わせるために両方に発砲したという真相が、中国側から示されている。現地の日本軍にも国民党軍にも腑に落ちない事件で、数日後には停戦協定が成立した。それが守られずに戦闘が拡大してしまったのは、二週間後に通州で日本人居留民が中国側の手で二百二十人も惨殺される事件が起こったからである。そのあまりの残虐さに日本国民は怒り心頭に発し、中国に全国総動員令が発布されたことも重なって和平という選択肢はなくなり、日中両軍は全面戦争に突入していった。こうした経緯から、あの東京裁判ですら、支那事変の開戦責任は日本にある、としなかった。このように゛通州事件゛は重大な意味を持つにもかかわらず、岩波書店の近代年表は七月二十八日まで細々と書かれているのに、二十九日の通州事件だけは書かれていない。何と、露骨であろうか。きっと日本の正当性を抹殺するためには、何をやってもよいと、岩波書店は考えているのだろう。
いつまでも日本人が大人しくしてるだけと思うなよ。
http://www.news-us.jp/article/20170731-000009c.html
(引用開始)
一部抜粋
日本守備隊、特務機関などを襲撃、軍人や冀東政府関係者だけでなく一般居留民を殺害した。その被害は日本人 117 人、朝鮮人 106 人の計 223 人に達した。これを通州事件という。
一部抜粋
冀東は、冀東政権成立後、大規模な密貿易が展開され、満洲、朝鮮方面から多くの「一攫千金を夢みる投機的分子か又は浮浪無頼の輩」が流れ込んだ15。通州事件の被害者名簿によれば、日本人被害者の多くが冀東政府の職員、特務機関員だったのに対し、朝鮮人被害者は「無職」者が目立った16。彼らの多くは「不正業」特に阿片・麻薬密売者が多かったと考えられる。
上述したように中国の文学者・巴金は、事件での被害者が「ふだんからその土地で権柄ずくにふるまっていた人たちでしたし、しかもその大半は、ヘロインを売ったり、モルヒネを打ったり、特務工作をしたりしていた人たち」と指摘している。この点は香月清司・支那駐屯軍司令官の回想によっても裏づけられる。
ここで重要なのは、日本の植民地となり、その祖国から離れ、満州、通州へと流れて来た朝鮮人移民が、日本帝国主義の「手先」として中国で認識され、「被害」に遭った点である。彼らは日本帝国主義が生み出した犠牲者であるが、その一方で中国人にとって阿片・麻薬の害毒をまき散らす「加害者」として存在した。通州事件はその矛盾が具体的かつ先鋭的に表れた事件であった。
通州事件の語られ方 - 新潟大学 小林 元裕より
http://dspace.lib.niigata-u.ac.jp/dspace/bitstream/10191/18156/1/19_57-68.pdf
(引用終了)
<コメント>
犠牲者の約半分は朝鮮人である。しかも阿片・麻薬の密売業者が多かった。証言から地元での評判はすこぶる悪かったようである。このような朝鮮人の「不正業」は現在の日本のパチンコ産業も含め大問題なのではないのか?不正業朝鮮人の方を持つのはアホなネトウヨだけでいい。
(引用開始)
通州事件 麻薬汚染への報復説(wikiより)
冀東政権による麻薬の密造・密輸によって悪化した中国の麻薬汚染に憤激した通州の市民が、保安隊反乱の混乱に乗じて日本の居留民及び朝鮮人に報復した抗日事件とする説(信夫清三郎[66]、江口圭一[58])。事件の起きた通州は冀東政権の本拠地でありアヘン・麻薬の密造・密輸による「中国毒化」の大拠点であった。[要出典]中国の文学者・巴金は、事件の被害者が「ふだんからその土地で権柄ずくにふるまっていた人たちでしたし、しかもその大半は、ヘロインを売ったり、モルヒネを打ったり、特務工作をしたりしていた人たち」と指摘し、「通州事件を生み出した直接の原因は、日本軍閥の暴行なのであって、抗日運動もまた、あなたの国の政府が長年のあいだつづけて来た中国の土地に対する侵略行為によってうながされたものなのです。」と語った[67]。歴史学者の信夫信三郎は著書「聖断の歴史学」の中で、犠牲者に朝鮮人のアヘン密貿易者が多数いたことは、通州が中国毒化政策の重要な拠点であったことを示しおり、通州事件は日本の中国「毒化政策」にたいする中国民族の恐怖と抵抗を標示していた、と分析している[68]。
(引用終了)
<コメント>
関東軍の中ですら華北分離工作対しては批判的な者が多くいた。それは日本軍の主敵はあくまでソ連であり、首都北京までも勢力圏を伸ばし支那人の警戒や憎悪を一身に受けてしまえば、対ソ連戦に悪影響を及ぼし並びに中国国民党や中国共産党を増長させてしまい、満州国の存立にかかわると危惧されたからである。そのような背景の中でこれらの日本人・朝鮮人虐殺事件が発生している点も述べるべきであろう。また、当時の関東軍おいて南下を指導した東条英機や武藤章らにも責任の所在を追及するべきである。日中双方が概ね認めている陽高事件(日本軍による虐殺事件)なども発生しており日本側にも触れられたくない歴史があることも認識しておくべきである。
(引用開始)
一部抜粋
『朝になってみると、北口は、兵隊や一般民の死体で山となっていた』 (湯浅連隊長談)とあるごとく、事実は事実であるから正直に書くが、残敵掃蕩に名をかりて『男狩り』をやっているのだ。つまり、県城内の男という男を、兵隊、一般民のきらいなく、一人残らず殺しつくしているのである。
一瞬の差で、殺すか、殺されるかの戦場での出来事を、平和な今日の常識をもって律することが、あやまりであることはいうまでもない。ことに陽高の場合は、老若男女、兵と住民が一体となって我れに戦いをいどんだのだから、一般住民、男ばかりでなく、女子供までが戦闘員だったのだ。
そう考えれば、殺害も止むを得ないということにもなるが、正規兵の遁走した後、まったく抵抗をあきらめた住民までをも殺害したことは、たとえ生死を賭けた戦場であったにしても、非人道のそしりはまぬがれまい。
この戦闘によって、男なしの『女護ケ島部落』となった陽高では、中国全土にわたって男を募集輸入し、戦争未亡人たちと集団結婚させ、話題を賑わしたのは後のこと。こうした残虐行為を、誰れが命じ、誰れがやったかとなると、今ではまったくわからない。
一部抜粋
日中戦争初期の一九三七年九月、内モンゴルの陽高で、関東軍のチャハル兵団(兵団長東条英機中将)がひきおこした中国人虐殺事件。
中略
大同の東北にある陽高で虐殺事件が起きたのは九月九日である。本多族団が南城門から、篠原族団が北城門から城壁を乗り越えて城内へ突入したのは八日夜だが、守備兵の猛抵抗で約一四〇人の死傷者を出す。激高した日本軍は夜が明けて占領が終わると、城内の男という男を狩り出してしばりあげ、機関銃の集中砲火を浴びせて殺害した。
その数は三五〇人とも五〇〇人ともいわれるが、はっきりしない。また処刑を実施した部隊名も明確でないが、東条が首相時代の一九四三年二月、秘書官との雑談で当時を回顧して、「不穏な支那人等は全部首をはねた。一人しか捕虜は居なかった。斯くの如く日本の威力を知らせておいて・・・米とか何とかを施してやった。恩威並び行われたわけだ」と語っているので、東条兵団長の責任は免れないと思われる。
陽高事件 より
http://www.geocities.jp/yu77799/nicchuusensou/youkou.html
(引用終了)
<コメント>
日本軍にとって便衣兵は厄介な存在であったのは間違いない。沖縄戦における米軍の住民虐殺、ソビエトのアフガニスタン侵攻、現在の中東における米軍、いずれも民兵ゲリラに手を焼いており、戦場においては疑わしき者の処分行為が行われると考えるのが自然であろう。騒げば騒ぐほど日本軍として触れてほしくない行為も明るみに出てしまう。むしろ戦争とはどういうものなのかと考えた方がいい。
マスコミが報道しないからです。
隠す自由で日本の被害は報道しない。
うその中国・韓国のニュースは大々的に報道する。
そんな日本です。
というやり方は、どうもシナ大陸に特有のようだ。
Nスペ「中国文明の謎」で、以下のことが説明されている。
このやり方で殺害されたと見られる遺骨が、
山西省陶寺村の宮殿の遺跡から発掘された。
ナレーションによれば二里頭や陶寺村の遺跡は「夏王朝のもの」と見られると言う。
これらのことが次の記事で説明され、
Nスペの動画で該当する箇所を見ることができる。https://blogs.yahoo.co.jp/tatsuya11147/55095978.html
そうすると、この殺害方法は4000年前から行われてきたことになる。
『牡丹』で南京大虐殺を認めているのは
ネトウヨの「言ってはいけない」事実w
しかも、通州のはトリミングなどの加工なしで撮った記者までわかるソース付き。
中華人民共和国や大韓民国に
乗っ取られている
今の日本では、無理なような
>当時、日本国民の大多数が日本の戦争に反対しなかったのは、日本の自衛戦争の必要性を理解していたためだ。
支那事変は、支那共産党が盧溝橋事件(黄村=北京の豊台に駐屯中の日本軍を銃撃)を起こし、支那軍が停戦協定を何度も繰り返し破って継続・拡大した戦争。
盧溝橋事件の約3週間後には、支那保安隊が日本人居留民約260人を大虐殺した(通州事件)。
更に2週間後、支那軍は数十万人という大軍で上海の国際租界の日本人居留区を包囲攻撃した。
支那軍機は上海市街地のホテルやデパートを爆撃して民間人や外国人を大量に殺害した。
その後も支那は、日本が提出した和平案をことごとく蹴り、戦争を継続し、支那人民を虐め抜いた。
支那軍による徴発・徴用・徴兵は過酷を極めた。
支那軍は、上海市街地爆撃の他、焦土作戦、黄河・揚子江の堤防破壊(決壊)などによって多くの民衆を殺害し、世界で初めて違法毒ガスを使用したり細菌戦を行なったりするなどの暴虐・悪逆の限りを尽くした。
支那が戦争を始めて、日本が何度も何度も「やめよう。やめよう。」と言ったのに、支那がそれを無視して戦争を継続・拡大して暴虐の限りを尽くした戦争なのだから、日本にとっては自衛戦争以外の何ものでもない。
米英は、そのような暴虐支那に対して大々的にカネや武器を支援し、日本に対しては経済制裁を行なうなど理不尽な行動をとった。
日本は何も悪いことをしていなかったにもかかわらず、石油の輸入が出来なくなってしまった。
米英蘭の3カ国が日本に「石油を売らない」と言うことは、日本に「死ね」と言うのと同じことだった。
ハル・ノートを呑んで、支那や満州から撤退したら、失業者が溢れ、夥しい数の日本人が餓死などで死んだだろう。
更に、当時は国家生存の条件とされていた大国の地位を失い、小国に転落すれば、いつソ連や米国の植民地にされてもおかしくなかったし、ましてやアジア諸国の独立なんて何十年・何百年後に実現したか分からない。
引用終わり。
このcoffeeさんがいつも書いてたこと。
これは中学、高校の歴史教科書に載せないといけない文章です。
政治や歴史に興味ないほとんどの国民がこういうことがわかりません。
現代の中国人の強盗殺人の残虐性にも通じ全くその頃からも変わらない姿が恐ろしい。
現代の朝鮮民族のメディアを使って印象操作したり噂など流す、陰、後ろ、周りからの裏切りが、昔から全く今も変わらないと思った。
ビザなしとか、すぐ帰化できるとか、審査も時期の早さも甘く、日本人を全く守らない政府のやり方に恐怖を覚える。日本人を守って!
毎日起こってる日本人犠牲の事件(特にレイプ)をほとんどないもののように伝えないメディア・・・気が付いた時はまた通州事件が起こる。
ちゃんと記録が写真と共に残っているなら、全部ユネスコ登録するべき。教科書に載せるべき。
これからは若い人に教育をして、負の遺産として知らせねばいけない。
シナ、朝鮮(南北)に何をビビっているんだ。
マスメディアを取り返そう。
NHK、TBSなど他のマスコミメディアの全部は難しい。まず政治ニュースとか部門別に解体して行こう。
731とか、日本人が悪魔のごとく言われてる事件は殆ど、中国自身がやってたことなんだ。永遠の歴史をかけて、日本人が被った冤罪を正していこう。なぜそれが起こったとか事のプロセスを追及、書いて知らしめて欲しい。
歴史も道徳も文化も、その正確さに置いて世界の基準だと思う。
だからきちんと戦争も事件も正確に残しぶれないよう教育。
※【只、朝鮮人の人達が盛んに日本の悪口や、日本人の悪口を支那の人達に言いふらしているのです。】
私が日本人であるということを知らない朝鮮人は、私にも日本という国は悪い国だ、朝鮮を自分の領土にして朝鮮人を奴隷にしていると申すのです。
そして日本は今度は支那を領土にして支那人を奴隷にすると申すのです。
だからこの通州から日本軍と日本人を追い出さなくてはならない。
※【いや日本軍と日本人は皆殺しにしなくてはならないと申すのです。】
私は思わずそんなんじゃないと言おうとしましたが、私がしゃべると日本人ということがわかるので黙って朝鮮人の言うことを聞いておりました。
そこへTさんが帰って来て朝鮮人から日本の悪口を一杯聞きました。
するとTさんはあなたも日本人じゃないかと申したのです。
するとその朝鮮人は顔色を変えて叫びました。
日本人じゃない朝鮮人だ、朝鮮人は必ず日本に復讐すると申すのです。
そして安重根という人の話を語りました。
伊藤博文という大悪人を安重根先生が殺した。
我々も支那人と一緒に日本人を殺し、日本軍を全滅させるのだと申すのです。
私は思わずぞっとせずにはおられませんでした。
なんと怖いことを言う朝鮮人だろう。
こんな朝鮮人がいると大変なことになるなあと思いました。
Tさんは黙ってこの朝鮮人の言うことを聞いて最後まで一言もしゃべりませんでした。
こんなことが何回も繰り返されているうちに、町の空気がだんだん変わってくるようになってまいったのです。
でもそんなことを日本の軍隊や日本人は全然知らないのです。
私は早くこんなことを日本人に知らせねばならないと思うけれど、Tさんは私が日本人と話すことを厳重に禁止して許しません。(引用終了)
自業自得では?朝鮮人は?
うっすらとした記憶しかないのですが、この番組でシナ大陸でラーメン屋さんを営んでいた方が、虐殺事件に巻き込まれ、大変な思いをしたが、日本に戻られ恩人に会いたいと番組に出演したが、結局TV局でも探せなかった・・・話と重なるんですが、
日中が国交を回復して、一般の日本人も往来ができるようになり、当時の支那大陸での思い出を探す人が、この番組を頼ってきたのだとおもいましたが・・・今思うと、通州事件関係者だったのじゃないかと思われるのですが・・・
他にも満州地域では
葛根廟事件(かっこんびょうじけん)は、1945年8月14日、満州国興安総省の葛根廟(現在の中華人民共和国内モンゴル自治区ヒンガン(興安)盟ホルチン右翼前旗葛根廟鎮)において日本人避難民約千数百人(9割以上が婦女子)が攻撃され、1,000名以上が虐殺された事件
敦化事件(とんかじけん)とは1945年8月27日に満洲国吉林省敦化(現吉林省延辺朝鮮族自治州敦化市)でソ連軍によって連日に渡り集団強姦され続けていた日満パルプ製造(王子製紙子会社)敦化工場の女性社員や家族が集団自決した事件。
小山克事件とは1945年8月13日に満州国吉林省で南満州鉄道京図線が九台駅と吉林駅の間の小山克で武装した暴民に襲われ、日本人避難民が強姦・虐殺され集団自決した事件。
通化事件(つうかじけん)とは、1946年2月3日に中国共産党に占領されたかつての満州国通化省通化市で中華民国政府の要請に呼応した日本人の蜂起と、その鎮圧後に行われた中国共産党軍(八路軍)および朝鮮人民義勇軍南満支隊(李紅光支隊、新八路軍)による日本人及び朝鮮人に対する虐殺事件。日本人約3000人が虐殺され、その多くが老若男女を問わない一般市民だった。
たくさん日本人は虐殺されたり、自決されています。
自由社の中学生の歴史教科書には通州事件はすでに平成28年度使用開始分に載っています。
自由社の教科書以外には載っていません。
日本会議や産経新聞が推奨している<育鵬社>の教科書には載っていないし、育鵬社の編集に携わった方は<南京事件はあった>という見解を表明されています。
真実を追究して教科書を作っているのが自由社です。しかし、H28年度版の採択では全国の公立学校では1冊も採択されませんでした。
『保守』と言われる方々が<育鵬社>を選んだからです。
<育鵬社>版には昭和12年の南京入城同様、近代、現代の説明文で当時の日本の真実を知らせず、事象を跨ぐようにしてしか触れていない。
事実でも時系列をメチャメチャにして真実に触れられないような説明しかしていない部分があります。
<育鵬社>版では真実に目を開くことはできません。
<自由社>版はもしかしたら、あちこち既存の保守の方々とぶつかるところがあるのかもしれませんが、<自由社>は通州事件を載せました。
この現実をどう判断されるか?全国の保守と言われる活動を支持されるみなさんは次回の教科書採択で<育鵬社>を選ぶのですか???
本物の虐殺資料とはこういうものだというのを見せてあげないといけない
審査に落ちてもいいから是非とも彼らを招いて見て貰って欲しい
以後いい加減なことが言えないように
今どき孫銘九といっても即座に思い出せる人はだんだん少なくなっているのではなかろうか。しかし彼こそは1936年12月12日に突発、世界を驚かせた西安事件 — 満洲から追い出された張学良が、部下からの突上げ、中共からの影響、抗日世論などに動かされ楊虎城とくんで蒋介石に対し、その共匪討伐優先の「安内攘外」政策を抗日統一戦線結成へと軌道の修正を迫ったクーデター — の際、その謀議にも参画し、当日学良の命によって手兵二百を率いて、楊貴妃で有名な華清池温泉の蒋介石の宿舎を急襲し、裏山に逃れた蒋を生捕りにした当年僅か二十六歳の青年大隊長その人である。
過般の日中航空協定調印をめぐり、自民党が北京と台湾の所謂二つの中国の間に立ってどのように苦しんだかを見、また今後とも果てしなく続くであろう多難な日中、日台関係の将来など考えつつ、往年の西安事件を回顧すると、当時もし蒋介石が孫銘九の手兵に殺害されていたら(その可能性はあった。しかし孫銘九の冷静さがこれを回避した)、その後の中国、日中関係、極東及び世界の情勢はどのように変っていたであろうかなどと妄想は果てしなく拡がり、つい旧友孫銘九に思いを馳せる今日この頃である。
私と孫銘九との出会いは、盧溝橋事件が日中全面戦争に拡大し、わが軍が南京を攻略した後、私が二度目の上海在勤となった以後のことである。蒋介石の国民政府が抗日最後の根拠地四川省の重慶に後退し、戦争が長期かつ泥沼化の様相を濃くするにつれ、焦り出した日本政府は、日中和平の問題で蒋介石と意見を異にし重慶を脱出した汪兆銘を中心に、その率いる国民党を中核とし各党各派無党無派を糾合し南京に国民政府を樹立することに決定、戦局の転換を企図した。
そのとき新政権樹立工作の現地の最高責任者に影佐陸軍大佐が任命されたが、右政府決定にも不拘、当初は国民党以外、他政党の参加するものがなかったので、影佐大佐から私に対し中国人による新党の組織方要請があった。そこで早速私は前の上海時代の関係を辿って旧知の中国人に呼びかけ彼等を中核に上海、南京一帯に新党組織の母体として興亜建国運動を発動し、その積極展開に協力していた時期のある日、確か常時上海・香港間を往復し私とも接触のあった中共の老党員で一流の大物(特に名を秘す)からの紹介だったと思う、蘇州河口のガーデンブリッジの傍にそびえ立つ二十二階建のブロードウェーマンション・ホテル(解放後、上海大廈と改称)の私の居室に、孫が張学良の弟の学銘(新中国政府樹立後、天津市長)と滬西七十六号特工総部の女特工隊長という触れ込みの李小姐との三人で来訪したのが最初である。(続く)
(岩井英一 『回想の上海』 昭和58年[1983年])
こちらにまとまった論評があります。
http://goodlucktimes.blog50.fc2.com/blog-entry-407.html
なお、筆者・Bruxelles氏は2016年に逝去されました。
中韓のように数を多く見積もったり
しませんね
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