


先帝陛下(昭和天皇)
http://www.sankei.com/life/news/150416/lif1504160020-n1.html
両陛下、武蔵陵墓地ご参拝 パラオ慰霊訪問を報告される
2015.4.16 11:59、産経新聞
昭和天皇の武蔵野陵を参拝し、パラオ訪問について報告された天皇陛下=16日午前、東京都八王子市
天皇、皇后両陛下は16日午前、東京都八王子市の武蔵陵墓地にある昭和天皇の武蔵野陵(むさしののみささぎ)と香淳皇后の武蔵野東陵(むさしののひがしのみささぎ)を参拝し、パラオ共和国への慰霊訪問を終えたことを報告された。
両陛下の2陵ご参拝は、外国訪問前後の慣例。陛下はモーニング姿、皇后さまはグレーの参拝服姿で、武蔵野陵、武蔵野東陵の順にお一人ずつ足を運び、深々と頭を下げられた。
両陛下はともに3月下旬から風邪の症状がみられ、完全に回復しないまま4月8、9日の強行日程でパラオ訪問を果たされた。宮内庁幹部は「お疲れになったと思うが、帰国翌日から普段通りの生活に戻られている」としている。

両陛下がパラオ慰霊訪問を報告されるため、昭和天皇の武蔵野陵をご参拝(4月16日)
【先帝陛下(昭和天皇)の心を動かしたペリリュー島の戦い】
米軍は、2~3日で、パラオのペリリュー島を攻略できると計画していた。
ところが、ペリリュー島の日本軍守備隊は、1944年9月15日早朝に米軍第一海兵師団28,400名がオレンジビーチよりペリリュー島上陸作戦を開始してから、73日間にわたって、ペリリュー島を死守した!
当時、既にサイパン、グァム等で敗北が相次いでいた日本にとって、パラオのペリリュー島の大奮戦は、先帝陛下(昭和天皇)や日本軍にとっては希望の光となった。
先帝陛下(昭和天皇)は、毎朝ペリリュー島の状況を気にされていたご様子であり、「いまペリリューはどうなっておるか」と御下問されることが日課となっていた。
そして、先帝陛下(昭和天皇)は、ペリリュー島の守備隊に対し、9月15日・17日・22日、10月6日・18日・24日、11月2日・7日・13日・14日・20日と11回もご嘉賞(お褒め)のお言葉を送られ、感状3回を与えられている。
11回のご嘉賞の言葉を得た部隊は、その前にも後にも例がなく、先帝陛下(昭和天皇)にとってペリリュー島の戦いが、どれだけ心を動かされたものだったかが分かる。
このようなこともあり、ペリリュー島は、米軍から「天皇の島」と呼ばれた。
米第81師団長ムラー少将は、長期にわたる大苦戦の末にペリリュー島をほぼ制圧すると、「今やペリリューは天皇の島から我々の島に移った」と宣言した。
ちなみに、アメリカは、パラオ、サイパン、硫黄島、そして東京を結ぶ線について、昭和天皇がいる帝都・東京を少しでも早く攻撃するための「裕仁(ヒロヒト)(昭和天皇)ハイウェイ」と呼んでいた。

(参考)
平成5年、天皇皇后両陛下は、先帝陛下(昭和天皇)が果たされなかった沖縄御巡幸を果たされた。
平成6年、天皇皇后両陛下は、慰霊のために硫黄島をご訪問。
平成17年、天皇皇后両陛下は、慰霊のためにサイパン島をご訪問。
平成27年、天皇皇后両陛下は、慰霊のためにパラオのペリリュー島をご訪問。
━━━━━━━━━━

【日本とパラオの物語】
ペリリュー島の桜花
1919年、第一次世界大戦の戦後処理をする「パリ講和会議」において、パラオは日本の委任統治領となった。
日本国政府は、当時の首都である「コロール」に南洋庁及び南洋庁西部支庁(パラオ支庁)を置き、パラオは日本の南洋周辺諸島を統治する中核的な島となった。
日本委任統治時代のパラオには、多くの日本人が移住して、最盛期の1943年(昭和18年)には約2万5千人の日本人と、当時は日本国民だった朝鮮人も約2千人が居住していた。
日本の統治時代には、パラオで、ドイツの植民地時代にはほとんど行われなかった、学校、病院、道路などのインフラの整備も重点的に行われ、首都のコロールは近代的な都市へと変貌していった。

コロール
日本は、パラオの住民に、疾病に係る予防接種を受けさせ、また、パラオの言語を顕すための文字を持たないパラオ住民のために、学校を建てて日本語の教科書を用いた日本語教育も行った。

日本統治後のパラオでは、それまでの白人による植民地時代とは異なり、日本人の礼儀正しさや、節度、道徳心、他民族を思いやる心などが認められ、日本人はパラオの現地住民から愛された。
パラオには、太平洋上のパラオ諸島の中に「ペリリュー島」と言う南北9キロ・東西3キロ・高さ80メートル・全体で20平方キロの珊瑚礁からできた小島がある。

このペリリュー島では、大東亜戦争の末期に、日米両軍によって実に73日間にも亘る死闘が繰り広げられた。
1941年(昭和16年)に大東亜戦争が始まると、日本軍は「ペリリュー島」に東洋最大といわれる飛行場(1200m滑走路2本)をつくっていた。
パラオは、日本軍にとってグアムやサイパンの後方支援基地として、日本の防衛上も重要な拠点だった。

大東亜戦争で日本軍が劣勢となる中、ペリリュー島は日本軍にとってフィリピン防衛の防波堤だったが、フィリピン奪還に総力をあげる米軍にとってもペリリュー島の攻略が必要となった。
1944年、米陸軍を指揮するマッカーサーは、フィリピン攻略を有利に進めるため、「ペリリュー島」を奪取しなければならなかった。
米太平洋艦隊を指揮するニミッツ提督は、マッカーサーの作戦を助けるために、第一海兵師団にペリリュー島の占領を命令し、ハルゼー大将が指揮する第三艦隊約800隻の艦艇を海兵隊支援のために差し向けた。
これら米軍は、日本軍の兵力の約4倍、航空機200倍、戦車10倍、重火砲100倍以上の軍事力であり、航空機による爆撃、軍艦からの艦砲射撃なども考慮すると、米軍が数百倍の火力で日本軍を圧倒していた。
ペリリュー島を守備する日本軍は、関東軍最強と呼ばれた第十四師団、その座下の水戸歩兵第2連隊、高崎歩兵第15連隊を主力とした地区隊、約1万2000人だった。
すでに、数百倍の軍事力に加え、制海権も制空権も握っていた米軍は、2~3日の攻撃でペリリュー島を攻略できると予測をしていた。
9月12日に米軍は、ペリリュー島に艦砲射撃と高性能焼夷弾の集中砲火を浴びせた。
ペリリュー島には「オレンジビーチ」と呼ばれる海岸があるが、ここで多くの米軍兵が戦死して、海岸が血の色に染まったことから、こう呼ばれるようになったとも言われている。

9月15日早朝、米軍第一海兵師団28,400名が、オレンジビーチよりペリリュー島上陸作戦を開始した。
圧倒的勢力を持つ米軍は、この上陸作戦は短期間で終結すると考え、昼食をオレンジビーチで取る予定でいた。
ところが、日本軍守備隊は激しく抵抗して持久戦に持ち込み、米軍第一海兵師団は全体の50%もの損失を出したので一旦撤退し上陸戦は長期化した。
11月24日、生き残った日本軍将兵はわずか60人足らずとなり、司令部陣地の弾薬もほとんど底をついたところで、司令部はついに玉砕の決断を下した。
守備隊長の中川州男大佐、師団派遣参謀の村井権治郎少将、飯田義栄中佐の割腹自決の後、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文が送られて、翌朝にかけて根本甲子郎大尉を中心とした55名の残存兵による万歳突撃が行われた。
結局、米軍が上陸完了をしたのは11月27日だった。
日本軍は、実に73日間にわたって、ペリリュー島を死守したのだった!
日本本土に送られた「サクラサクラ」、この六文字の電文は、ペリリュー島守備隊全員が「桜花のごとく散った」ということを伝えるためのものだった。

ペリリュー島には現住民が住んでいたが、壮絶で長い戦闘が繰り広げられたにもかかわらず、ペリリュー島の民間人には、ただの1人の犠牲者もでなかった。
ペリリュー島民は、日本人を尊敬していたので大人も子供も日本軍と一緒に戦う決意をしていたが、日本軍が島民を戦火に巻き込んではならないとしたからだ。
戦局を予期していた日本軍司令部の命令により、ペリリュー島民のパラオ本島への移住をほぼ完了させ、一部残った島民も疎開させるために戦火の中をパラオ本島へと送り出していた。
――――――――――
「ペリリュー島の戦い」
日本軍
戦死者 10,695名
捕虜 202名
※戦闘終結後も生き残りの日本兵34人が洞窟を転々として生き延び、戦後も2年戦い続け、昭和22年に投降。
米軍
戦死者 2,336名
戦傷者 8,450名
※この他に精神に異常をきたした者が数千名。
住人
死者 0名
負傷者 0名
――――――――――
この当時の様子を知る、ペリリュー島民の老人のコラム(毎日新聞)が残っている。
遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。
「あそこでみんな死んでいったんだ・・・」
沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。
太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。老人は村の若者達と共にその作業に参加した。日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。
やがて戦況は日本に不利となり、いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。仲間達と話し合った彼は代表数人と共に日本の守備隊長のもとを訪れた。「自分達も一緒に戦わせて欲しい」と。
それを聞くなり隊長は激高し叫んだという。「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」
日本人は仲間だと思っていたのに・・・。みせかけだったのか。裏切られた想いで、みな悔し涙を流した・・・。
船に乗って島を去る日、日本兵は誰一人見送りに来ない。村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。
しかし、船が島を離れた瞬間に日本兵全員が浜に走り出てきた。そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。
その瞬間、彼は悟ったという。あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだと・・・。

守備隊長、中川州男大佐(11月24日戦死後、2階級特進し陸軍中将)
近野滋之Blog『民族主義者の警鐘』「パラオ・ペリリュー島の桜花(1)、中川州男大佐、村井権治郎少将、飯田義栄中佐の割腹自決の後、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文、島民を戦火に巻き込んではならない、桜花のごとく散った日本軍の武士道精神」より、一部を修正し、抜粋
━━━━━━━━━━
●詳細記事
パラオのペリリュー島の桜花・天皇皇后両陛下ご訪問の地・パラオはなぜ「世界一の親日国」なのか?
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-5788.html
続★パラオのペリリュー島の桜花・両陛下ご訪問の地・パラオはなぜ「世界一の親日国」なのか?」
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-5789.html
フジが日本パラオ友好の橋を報道・「韓国が造った橋が突然崩落」・ペリリュー州が4月9日を祝日に
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-5790.html
【先帝陛下(昭和天皇)のお話】
●戦中

アッツ島の守備隊
昭和18年(1943年)5月12日の米軍アッツ島上陸以来、先帝陛下(昭和天皇)は、同地の守備隊の模様をいたく気にかけられ、 毎日のように戦況を御下問されておられた。
5月29日夕刻、守備隊から最後の電報が発せられた。
「機密書類全部焼却。是レニテ無線機破壊処分ス」
陸軍大臣は、直ちに参内し、アッツ玉砕を天皇に奏上した。
陛下は、陸軍大臣大臣の報告を黙って聞くと、目を閉じしばし佇立された。
そして、ひと言、 「アッツ島守備隊は、まことに最後まで良く敢闘した。このことを伝えよ。」 とおっしゃった。
陸軍大臣は、陛下が自分の報告を聞き違えられたかと思い、言葉を返した。
「恐れながら陛下、彼らは無線機を既に破壊しており、お言葉をお伝えする手段がございません」 と申上げると、
陛下は、 厳しい声で、「構わぬ。それでも構わぬから、そういう電波を出しなさい!」とご命令された。
陸軍大臣は一礼して引き下がり、控えの間に至ると両手で顔を覆って男泣きに泣き崩れた。
直ちに北のアッツ守備隊に向け、電報が放たれ、陛下の御言葉が打電され続けた。
勿論、アッツから返事が来ることはなかったが。

アンカレッジの博物館には、昭和18年(1943年)5月に、アッツ島で玉砕した日本軍将兵の遺品が展示されている

■動画
『 凛として愛 』
http://www.youtube.com/watch?v=HBxaF0wps6U
57:17~
大東亜戦争最初の玉砕地となった北のアッツ島では、山崎保代大佐以下2,500の将兵が守備していたが、15,000のアメリカ軍相手に18日間善戦。
昭和18年5月29日、敵陣地の突撃して玉砕した。
アッツ島守備隊の最期が天皇陛下にご報告されると、
陛下は、「最後まで良く敢闘した。このことを伝えよ。」と言われたが、既に将兵は玉砕し、無線機も破壊されてない。
そのことを申し上げると、陛下は厳しい声で、「それでもよい!電波を出しなさい!」とご命令されたという。
雪と氷で閉ざされた北のアッツに向けて、陛下の御言葉が打電された。
諸国のために散華された2,500の将兵は、陛下の御言葉を耳にしたのであろうか。
●戦後

先帝陛下(昭和天皇)の戦後の全国ご巡幸
毎年「昭和の日」に、私は、先帝陛下(昭和天皇)の全国ご巡幸などについて紹介している。
日本が戦後、奇跡と呼ばれる復興をなしえた1つの要因は、全国ご巡幸で国民を励まされた先帝陛下を中心に、日本が結束を保ったことだった。
このことは、私たち日本人が永久に語り継いでいかなければならない。
まだ読んでいない方は勿論だが、既に読んだことがある方も、「昭和の日」を機会に改めて読んで頂ければ幸いだ。

●マッカーサーを感動させた昭和天皇の言葉
「…(終戦時において)陛下に対する占領軍としての料理の仕方は、四つありました。
一つは東京裁判に引き出し、これを絞首刑にする。
一つは共産党をおだてあげ、人民裁判の名においてこれを血祭りにあげる。
三番目は、中国へ亡命させて中国で殺す。そうでなければ、二〇個師団の兵力に相当するかと怯えた彼らです。
また第四番目は、闇から闇へ、一服もることによって陛下を葬り去ることでありました。
いずれにしても、陛下は殺される運命にあったのです。
天皇は馬鹿か、気狂いか、偉大なる聖者か、いつでもつかまえられる。
かつては一万八〇〇〇人の近衛師団に守られたかもしれないが、今や全くの護衛を持たずして、二重橋の向こうにいる。…
陛下の割腹自刃の計画は、三度ありました。
貞明(皇太后)様は、(侍従に、)陛下から目を離さんように命じました。
じつに一番悩まれたのは、陛下でありましたでしょう。
九月二七日、陛下がただ一人の通訳を連れて、マッカーサーの前に立たれたことは、皆様方もよくご承知の通りであります。
ついに天皇をつかまえるべき時が来た。
マッカーサーは、二個師団の兵力の待機を命じました。
マッカーサーは、陛下は命乞いに来られたものと勘違いし、傲慢不遜にもマドロスパイプを口にくわえて、ソファーから立とうともしなかった。
陛下は直立不動のままで、国際儀礼としてのご挨拶を終え、こう言われました。
『日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命においてすべてが行なわれました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されても、いつでも応ずるだけの覚悟はあります』
――弱ったのは通訳でした。その通り訳していいのか
――しかし陛下は続けました。
『しかしながら、罪なき八〇〇〇万の国民が、住むに家なく、着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えんものがあります。温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますように』
天皇は、やれ軍閥が悪い、やれ財界が悪いと言う中で、一切の責任はこの私にあります、絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処せられても…と淡々として申された。
このような態度を見せられたのは、われらが天皇ただ一人であったのです。
陛下は我々を裏切らなかった。
マッカーサーは驚いて、スクッと立ち上がり、今度は陛下を抱くようにして座らせました。
そして部下に、「陛下は興奮しておいでのようだから、おコーヒーをさしあげるように」と。
マッカーサーは今度は一臣下のごとく、直立不動で陛下の前に立ち、
「天皇とはこのようなものでありましたか!天皇とはこのようなものでありましたか!私も、日本人に生まれたかったです。陛下、ご不自由でございましょう。私に出来ますることがあれば、何なりとお申しつけ下さい」
と。
陛下は、再びスクッと立たれ、涙をポロポロと流し、
「命をかけて、閣下のお袖にすがっておりまする。この私に何の望みがありましょうか。重ねて国民の衣食住の点のみにご高配を賜りますように」
と。
そののちマッカーサーは、陛下を玄関(ホール)まで伴い、見送ったのです。
皆様方、日本は八〇〇〇万人と言いました。
どう計算しても八〇〇〇万はおらなかったでしょう。
いかがです?
一億の民から朝鮮半島と台湾、樺太をはじめ、すべてを差し引いて、どうして八千万でしょうか。
じつは六六〇〇万人しかいなかったのです。
それをあえて、マッカーサーは、八〇〇〇万として食糧をごまかして取ってくれました。
つまりマッカーサーは、いわゆる、陛下のご人徳にふれたのです。
米国大統領からは、日本に一〇〇〇万の餓死者を出すべしと、マッカーサーに命令が来ておったのです。
ただ一言、マッカーサーは、
『陛下は磁石だ。私の心を吸いつけた』
と言いました。
彼は陛下のために、食糧放出を八〇〇〇万人の計算で出してくれました。
それが後で、ばれてしまいます。
彼が解任された最大の理由はそれであったというのが、事の真相です。
【マッカーサーおよび侍従長の証言】
以上が、三上教授の講演の言葉である。
この講演にも出てきた一九四五年九月二七日の天皇とマッカーサーの会見については、辻井圭三氏(キリスト伝道会「活水の群」副理事長)も、こう書いている。
「この件については、第二回目の通訳をされた、内閣情報局総裁であり戦後外務次官も務められた奥村勝蔵氏を通じて、私は詳しく伺いました」
そして、三上教授の言っている通りであると述べている。
実際マッカーサー自身が、のちに回顧録の中で次のように書いたのである。
「天皇の話はこうだった。
『私は、戦争を遂行するにあたって日本国民が政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対して、責任を負うべき唯一人の者です。あなたが代表する連合国の裁定に、私自身を委ねるためにここに来ました』
――大きな感動が私をゆさぶった。
死をともなう責任、それも私の知る限り、明らかに天皇に帰すべきでない責任を、進んで引き受けようとする態度に私は激しい感動をおぼえた。私は、すぐ前にいる天皇が、一人の人間としても日本で最高の紳士であると思った」
(マッカーサー回顧録一九六三年)
天皇とマッカーサーの会見は、はじめ一五分の予定だった。
しかし、マッカーサーは天皇の態度に深い感銘を受け、会見は三五分にも及んだのである。
会見がなされると、その会見の要旨は後ほど通訳の手で文書にまとめられ、侍従長に渡される習慣になっていた。
会見の翌日、藤田侍従長は、会見における天皇の発言の要旨を文書にまとめたものを、通訳から受け取った。
藤田氏は、いつものようにそれに目を通したうえで、天皇のもとに提出した。
藤田氏はこのとき、メモをとらなかった。
しかし彼はのちに、その内容について二つの点をはっきり憶えていると言って、次のように著書の中に書いている。
「…陛下は、次の意味のことをマッカーサー元帥に伝えられている。
『敗戦に至った戦争の、いろいろな責任が追求されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命する所だから、彼らには責任がない。
私の一身はどうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい』
一身を捨てて国民に殉ずるお覚悟を披瀝になると、この天真の流露は、マッカーサー元帥を強く感動させたようだ。
『かつて、戦い破れた国の元首で、このような言葉を述べられたことは、世界の歴史にも前例のないことと思う。私は陛下に感謝申したい。占領軍の進駐が事なく終わったのも、日本軍の復員が順調に進行しているのも、これすべて陛下のお力添えである。これからの占領政策の遂行にも、陛下のお力を乞わなければならぬことは多い。どうか、よろしくお願い致したい』」
とマッカーサーは言った(藤田尚徳『侍従長の回想』昭和三六年)。
メールマガジン
「話題通信」

■動画
昭和天皇とマッカーサーの会見を通訳官が証言 The testimony of the interpreter
https://www.youtube.com/watch?v=inE1DSH0jrk

戦災者住宅で戦災者を激励される先帝陛下(昭和天皇)、昭和21年(1946年)2月19日 神奈川・横浜
●貞明皇太后の前で泣いた昭和天皇
また、さらにご立派であったのは、貞明皇太后でした。
母君の貞明様は、亡くなるまで防空壕の中で生涯を送り、雨漏りのする、そして皆様方、貞明様は法華経の信者でしたから、戦死者のお名前を一〇人ずつ書きながら、法華経をあげて生涯を送られたのです。
その貞明様が、皇霊殿に陛下をお招きになりました。
皇霊殿は高いので、東京の市中が見えるのであります。
焼けただれ、一日千秋の思いでわが子の復員を待つ年寄りたちの姿も、見えるのであります。
貞明様は陛下にそれをお見せになり、
「陛下、国民は陛下のご不徳によって、このように苦しんでおります。この国を一日も早う復興しようと召されず、お腹をおめしになろう(切腹しよう)などとはご卑怯ではありませんか。退位は絶対になりません!」
陛下は、母君の前で頭を垂れて泣かれたそうです。
どうしたらいいのかと。
陛下の万歳を叫んで死んでいった護国の英霊の労苦を労いなさい、遺族の労苦を労いなさい、産業戦士の労苦を労いなさい――これが、後の陛下の行幸(外出)になったのでした。
原爆の地、広島に行幸された時でした。
共産党の腕利きが、今こそ「戦争の元凶である裕仁に対して恨みを報いようではないか」とビラをまき、宣伝カーで叫んでいました。
しかし、陛下は一兵の護衛をも持たず、ツギのあたった背広をお召しになり、中折れ帽をかぶって、広島の駅頭に立たれたことは、われらの記憶に新しいところであります。
むしろ陛下がおいたわしかった。
「万歳、万歳」の歓呼をもって迎えられました。
言えばやはり記録に残りましょうから、その県名と市名はもうしませんが、北陸のある所(福井市)においては共産党が、「朕はたらふく飯を食う。汝臣民飢えて死ね」とプラカードを仕立て、二〇〇〇名のデモ行進をやっていました。
「陛下、お逃げなさい」
しかし陛下は、「私に面会を申し込んでいる限り、私が会いましょう」 と言って、皆の前に頭を下げられました。
「皆様方が私を打擲することによって心が癒えるならば、ごずいにめされたがいい。でも日本の国を一日も早う復興し、次の子孫へこの国を送り得てこそ、はじめて護国の英霊に対し、我々が報いる道ではなかろうか」
と陛下は申されたのでした――はっきり言ったほうが良かったのかも知れませんが、場所を。
陛下に向かっての発砲もありました。
八二歳のある老婆が犠牲になったことも、中国地方の一角でありました(広島で、陛下をねらった弾がはずれて老婆に当たった事件)。
陛下の行幸は、そういう中に続いたのであります。…」
歩一〇四記念講演特集号より

釜石
昭和21年(1946年)から昭和29年(1954年)までの間に行われた御巡幸では、敗戦直後で宿舎がままならず、陛下が列車の中、学校の教室に泊まられた事もあった。
それでも陛下は、「戦災の国民のことを考へればなんでもない。十日間くらゐ風呂に入らなくともかまはぬ」とおっしゃり、御行幸を続けられた。
先帝陛下(昭和天皇)が硫黄島に行かれた時、硫黄島自体がお墓だからとおっしゃり、靴をお脱ぎになって上陸された。
因みに小沢一郎は普通に靴をはいていたそうだ。
遺骨収集が完了していない地下壕跡に入るときには、周りの案内役もそのまま足を踏み入れたのに、陛下だけは靴をお脱ぎになって裸足になられた。

硫黄島

昭和63年9月、先帝陛下が病床につかれると、全国の御平癒祈願所に約9百万人が記帳に訪れた。
40数年間の御巡幸で陛下に励まされた人々も少なくなかった。
陛下は、病床で「もう、だめか」とおっしゃったことがあった。
医師たちは、陛下がご自分の命の事をおっしゃったのかと思ったが、実は「沖縄訪問はもうだめか」と問われたのだった。
御巡幸の最後の地、沖縄に寄せられた陛下の御心は、今上陛下によって平成5年に果たされた。
東京の空を台風が過ぎ去った翌日、侍従長は、陛下に「台風が去ってようございました。」と申し上げた。
すると、陛下は、次のとおりおっしゃった。
「… まだ、東北、北海道地方はこれからである。」
「陛下、ありがとうございました!」
と思う人は、↓クリックお願いします。↓


∧_∧
( ・∀・) よろしく
( ∪ ∪
と__)__)
- 関連記事
-
- 先帝陛下:昭和天皇のお話・お言葉と全国ご巡幸・フジテレビによる「昭和の日」抹消事件の新画像 (2016/04/29)
- 国連「男系継承は女性差別!夫婦同姓は女性差別!慰安婦対応は不十分!」女子差別撤廃委の支那人暗躍 (2016/03/10)
- 昭和天皇とパラオのペリリュー島の戦い・昭和の日・日本国民を励ました先帝陛下のお言葉と全国ご巡幸 (2015/04/29)
- 続★パラオのペリリュー島の桜花・両陛下ご訪問の地・パラオはなぜ「世界一の親日国」なのか?」 (2015/04/08)
- パラオのペリリュー島の桜花・天皇皇后両陛下ご訪問の地・パラオはなぜ「世界一の親日国」なのか? (2015/04/07)
http://blog.livedoor.jp/acablo-nakagawayatsuhiro/archives/38479765.html
・・・と、中国の大学生たちが言っていた。
恐らく、中国の反日教育や、反日論客による新聞の報道や、抗日ドラマ・映画の影響だろう。
「天皇に元々力はないよ。京都の人々にとっては〝俺たちの天皇様”で、親しまれていたけれど、江戸時代は全く存在感が無かった。明治の近代化というけれど、15歳ぐらいで即位した明治天皇に近代化を成し遂げるだけの政治力があったと思う?」と噛んで含める様に説明しても、「だってそう教わったんだもん。」の一点張り。
こんな「反日」で凝り固まった国とは、仲良くできるわけがねー。
近平は今頃「やべー、反日やり過ぎた・・経済面でも安全保障面でも良い事全然ねーや・・・」と思っているはずだが、もう手遅れだよ。
有り難うございます。
それしか思いつかない。
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1430249640/
林雄介 @yukehaya · 10時間 10時間前
極東の平和は非朝鮮半島3原則の実現で解決を。自衛隊と在日米軍を朝鮮戦争に出兵させない。朝鮮半島と国交しない、させない。関わらない。朝鮮半島のことは朝鮮半島内で解決すべき。自衛隊や在日米軍を出せば、戦争拡大を招くだけです。世界が朝鮮半島と関わらなければ、極東は平和になる。
林雄介 @yukehaya · 10時間 10時間前
在日米軍には、日本人の血税から思いやり予算が支払われています。思いやり予算は、反日国である韓国を助けるために在日米軍に支払っているわけではありません。日本と親日国を守ってもらうために在日米軍に思いやり予算を払っているのです。在日米軍の韓国の防衛に日本人は反対すべきです。
長い歴史によりつちかわれてきた日本人の常識というものを見事に表現していると思われます。(「皇室」という言葉ではなく「天皇制」という言葉を多用しているのは、当時の左翼の影響もあると思います。)
1.終戦のご聖断
「朕深ク世界ノ体勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ・・・」
私が天皇制について私見の一端を述べるとき、やはり忘れることができないのは、
この天皇陛下の終戦のおことばです。
昭和20年8月15日、太平洋戦争が始まってからすでに3年8カ月が過ぎていましたが、
今日は”陛下の放送がある”ということで、私以下会社の幹部一同は講堂に集まり、
かたずをのんで放送を待っていました。
正午12時、ラジオから流れる陛下のお言葉は聞き取りきくい面がありましたが、
しかし仰せられることの意味はよくわかりました。
”戦いは敗戦に終った”、
これは、やや予期していたことではありましたが、さてとなるとやはり
いいしれぬ悲しみで、私も会社の幹部の人々も、みな目頭を赤くしたものです。
その夜、私はまんじりともしませんでした。この思わぬ事態に直面して
この日本のために自分は何をすればよいのだろうか、と真剣に思いあぐんでいたからです。
考えは容易にまとまりませんでした。しかし、これだけははっきりしていました。
それは、今から日本は直ちに再建に入る、一刻の猶予もならない、そのために
私のできることは生産だ、ということでした。
翌日、急遽、私は会社の幹部を招集してこう訴えました。
「3年有余にわたる総力をあげての戦争も、いかんながらついにこの結末になった。
国民としてこれほど悲しいことはない。しかし、陛下は”耐え難きを耐え、忍び難きを忍べ”
と仰せられた。この仰せに従って、われわれは悲しみに耐え、苦しみに耐えて、
直ちに国家の再建にとりかからなければならない。これが国民としての何よりの義務だ。
悲しめが限りがないが、わが社本来の使命にもとづきともかくも直ちに行動にとりかかろう」
そして、私は幹部社員と再建についての真剣な協議を始めたのですが、
多くの国民もまた、虚脱感を味わいつつも、陛下のおことばに、
この惨状に耐え、一刻も早く復興をはからなければならないという思いに
かられたのではないでしょうか。
もし、陛下の放送がなかったら、陛下の終戦のご決断がなかったら、
いや、日本に天皇制の伝統というものがなかったら、日本はいったいどのように
なっていたでしょうか。私はそのことを思うと、天皇がおられたことに心から
感謝せずにはいられない気持ちになるのです。
戦争末期、連合軍との実力の違いはいかんともしがたく、本土決戦による玉砕か、
無条件降伏かという重大な岐路に我が国が立ったとき、陛下は御前会議で
「これ以上戦争を続けては結局我が国が焦土となる。国民にこれ以上の苦悩を
なめさせることは、私としては実に忍び難い。この際私としてなすべきことが
あればあれば何でもいとわない。国民に呼びかけることがよければ私はいつでも
マイクの前に立つ」との決意をこみあげる嗚咽をのみ下しながら語られたといいます。
周知のように、戦前の日本は天皇親政でしたが、それはいわゆる独裁君主でなく、
憲法に基づく立憲君主制でした。つまり天皇が議会なり、内閣の補佐により、
憲法の規定に基づきつつ政治を行うようになっており、実際にも議会なり
内閣が決定したことを、天皇の独断で否決するということはしないような
慣行になっていたといわれます。
ですから、太平洋戦争の開戦については、内閣はじめ当時の指導者の人々が
一致してそう決定したことを天皇はそのまま承認されたのです。
しかし、終戦の時には、内閣なり指導者の人々の間で意見の一致がみられず、
そのために天皇の裁断によって決定されることになりました。
そこで陛下は、もはやこれ以上の犠牲を出すにしのびないということから、
連合軍のポツダム宣言を受諾し、ご詔勅を出されたのです。
そして、そのご詔勅が出るや、それまで戦争続行を主張していた人々も
納得し、まとまりにくかった空気がピタリとおさまって、戦争は終結したのでした。
天皇のお言葉にそれほどの権威というか重みがあったわけで、もし我が国に
長きにわたる天皇制がなかったなら、こうはいかなかったでしょう。
実際、連合軍側にしても、沖縄での攻防戦のすさまじさは大変なものでしたから、
日本軍の死をもおそれぬ勇敢な戦いぶりから、本土を攻撃するにあたっては
大きな犠牲を払わなくてはならないだろうと考えていたようです。
それが天皇のご詔勅一つできわめて平和裡に終戦になり、まったく抵抗なく
無血進駐に成功したのですから、すっかり驚いてしまったといいます。
これはどうしたことか、と連合軍の総司令官、マッカーサー元帥も疑問を
抱かずにはいられませんでした。その疑問が解けたのはマッカーサーが
天皇に会ったときです。マッカーサーは最初、往々にして敗戦国のリーダーが
そうであるように、日本の天皇も少しでも罪が軽くなるように頼みにくるのだろう
というくらいに考えていたようです。
ところが、天皇はマッカーサーに対して臆するところもなければ責任を
逃れようとすることもなく、この戦争の責任はすべて自分にある、
だから国民をいたわってもらいたいと毅然としていわれました。
これを聞いたマッカーサーは大変感激し、こういう天皇だから、
天皇が降伏せよと一言いったら国民はいうことを聞いて、なんの抵抗もせずに
引き下がったのだな、とはじめて謎が解けました。
そして陛下がこられるときには出迎えなかったマッカーサーがお帰りのときには
玄関まで見送りに出たといいます。
日本の占領を円滑に進める任務をおびていたマッカーサーが、このような
日本国民にしたわれ、徳のある天皇はそのままにしておいた方が戦後の復興も早いし、
人心の安定にもつながると考えたとしても不思議ではないでしょう。
連合軍の中には、天皇の戦争責任、あるいは天皇制の存続を云々する意見も
あったようですが、とにかく天皇を罰することもなく、天皇制はその後も
存続しています。
第一次大戦、あるいは第二次大戦で敗れたドイツ、オーストラリア、イタリアなどでは
国民は王制の廃止を望み皇帝は廃位となっていることを考えるとここが日本の
違うところだと思います。
つまり、昭和21年元旦の「新日本建設に関する詔勅」にも、「天皇と国民の間は
終始相互の信頼と敬愛とによって結ばれてきた」という意味の一節がありますが、
まさに天皇は国民のことを思い、国民は天皇を敬愛し親しんできたのが日本の
天皇制の根本精神ではなかったでしょうか。それが、諸外国と違って、敗戦という危機
にもかかわらず、天皇制を存続せしめる大きな力となったのではないかと思うのです。
2.非常時をささえる大きな力
天皇の権威や徳というものが、第二次大戦後の非常時にあって、
きわめて大きな力となったと述べましたが、幕末から明治維新にかけての
国家存亡のときも同様だと思います。
当時、欧米の先進諸国は、次々と東洋に進出し、そのためアジアの諸国は
すべてといっていいほど植民地化しつつありました。鎖国をしていた日本も
開国を迫るアメリカのぺリー艦隊の来訪で幕末の動乱が本格的に始まりました。
それは、封建時代から近代へ移る胎動だったのかもしれませんが、旧来の
徳川幕府を守り、これを中心に近代化を進めていこうとする人々と、幕府を倒して
新しい秩序を生み出さなければならないという人々の対立が激化し、世情は混沌、
イギリスやフランスなど外国の介入も招きかねないというきわめて危険な状態でした。
一歩誤れば国内が分裂し、そこから他の国々と同じように植民地化していたかもしれません。
しかし、幸いそういう姿に陥らずにすみました。当時わずか16歳であった明治天皇に
大政を奉還するというかたちにおいて、平和裡に一大改革がなしとげられたのです。
もちろん、明治維新に際しては、各地でいくつかの戦闘がありました。
しかし、250年も続いた徳川幕府という封建体制から明治政府という近代国家に
移行するにあたって、全体としてあれだけ平和裡に改革が行われ、政権がかわったことは、
世界の歴史の中でもめずらしいことではないでしょうか。
それは、志士をはじめ、当時の人々が、自分の家、自分の藩、自分の幕府というものに
とらわれず、日本のためということを考えて行動したからでしょうが、それはやはり
それぞれの心に日本人の中心としての天皇というものがあったからこそだと思います。
天皇というものがなく、単に幕府と幕府に反対する勢力の争いであったなら、
共に相手を倒すまで戦い抜こうとしたでしょう。
幕府側がフランスと、反幕府側がイギリスと近づいていたことを考えると、
日本がまっ二つに分割され、植民地化していたかもしれません。
しかし、幕府に反対する人々はもちろん、将軍自身、天皇には恭順の意を表すると
いう気持ちがあった。だからこそ大政奉還がスムーズに行われたと考えられます。
この天皇の偉大な力はこのような国家存亡の非常時ばかりではなく、常にわれわれ
国民に及んでいるのだと思います。戦後の40年を考えてみましても、国会が混乱し、
たびたび開店休業というような状態になったことがありました。また、首相が辞意を
表明しても、後継者がなかなか決まらないということもありました。
今日、海外では、このような状態ですと、クーデターが起こったり、秩序が乱れると
いう国も少なくないと思います。そういう国では、国民もいつ何が起こるかと、
夜もおちおち眠れないにちがいありません。
しかし、我が国では、そのような政府や国会が混乱した中でも、国民はそれほど
不安には思っていません。これも一つには、天皇に精神的なよりどころを無意識の
うちに見出しているからではないでしょうか。
そこに、日本が今日のように復興発展を遂げることができた大きな理由の一つが
あると思われます。
今日の社会は、価値観の多様化の時代といわれます。また、「個性主義」の時代
ともいわれています。そのこと自体は、それぞれの人々の個性、天分が生かせる時代
ということで、まことに結構なことだと思いますが、それぞれが他の人のことを考えず、
自分勝手に自らを出せば、共同生活というものは成り立たないでしょう。
そこには、どうしても統合の原理というか、共通の基盤が必要だと思います。
それは、一般的には法律であり道徳であると考えられますが、日本ではそれに加えて
天皇制という伝統があげられると思うのです。価値観の多様化が進めば進むほど、
ますます国民の精神的支えともいうべき天皇制の価値は高まってくるのではないでしょうか。
3.徳に基づく権威
それでは、どうして天皇というものが「日本と日本国民統合の象徴」なのでしょうか。
あるいは、どうして、国民に慕われ、敬愛されるのでしょうか。それは、なぜ天皇制が
二千年もの長い間、連綿として続いてきたのか、ということにも関係があるように思います。
もとより、建国の過程においては、天皇がみずから政治の中心となって国を治めるという姿が
あったでしょう。しかし、それは、武力や権力をもって国民を圧迫するのではなく、
みんなの幸せを願いつつ、徳による政治を中心にしたものだったといえるのではないでしょうか。
いわゆる祭政一致とでもいうか、一方では建国の祖、民族の祖先である皇祖皇宗を
中心とした神々をまつり、敬いつつ、一方で「私」というものにとらわれることなく、
徳を以って国民を治めていくという徳政の姿ではなかったかと思うのです。
天皇自身のために国を動かすことなく、国家と国民のためにはどうあるべきかと
いうことを天皇家は考えてこられました。仁徳天皇は、丘の上から国見をされたとき、
かまどの煙が少ないことに国民が貧窮していることを感じ、租税をしばらく免除されました。
国民のかまどが賑わうまで、自らは粗食に甘んじ、皇居の雨漏りをも直そうとされなかった
という言い伝えがあります。
現在の天皇家も、第二次大戦後は長い間、皇居を改築されませんでした。
その間、民間ではずいぶん立派な建物が建ちましたし、地方の市役所も公民館も
相当立派な建物になりました。それでも皇居は戦前のままで、旧宮内庁を仮宮殿として
利用してこられました。
そういう生活を二十数年送られ、戦後の復興も成って国民の生活がある程度の水準に
なったのをみて、皇居を建てることをお許しになった。このように、天皇家は仁徳天皇が
おやりになった同じことを実行しておられるわけです。
今日までの日本の歴史の中の大部分では、政治の実権というものは、天皇から時の
権力者といわれる他の人に移っていました。
古代においては、大伴氏であるとか物部氏、蘇我氏といった人々が、その時々において
実際の政治を行ったといわれますし、平安時代には藤原氏が次第に力をつよめ、
藤原道長にいたっては、「この世をばわが世とぞ思う・・」といった歌を残すほどに
権力を一身に集めたわけです。
けれど、そのように大きな権力を手にした人々も、それによって天皇にとってかわり、
その地位につこうとはしませんでした。太政大臣であるとか、摂政であるとか、
関白といった天皇を補佐するという立場において政治の実権を行使したのです。
そのことは、さらに時代が下がり、平家や源氏、さらに足利氏から、織田、豊臣、徳川
といった武士が政権をにぎるようになっても同じことです。
そうした武士たちは、武力をもってお互いに相争い、そして天下をとったわけですが、
その場合でも、時の権力者にとってかわるのであって、さらに進んで天皇の位を
おかそうという人はいませんでした。
もちろん長い歴史の中には、天皇やあるいは上皇を島流しにしたというような権力者も
ありましたが、そういう人でも天皇制そのものを廃するのではなく、天皇の位に対しては
臣従しています。いわば、天皇の位というものは歴史を通じて少しも傷つけられなかったわけです。
よくいわれることですが、昔の皇居である御所には、堀であるとか石垣であるとか
いったものがありません。ただ土塀がめぐらしてあるだけで、外からの攻撃に対しては
全く無防備といってよい姿です。それに対して、同じ京都でも、徳川将軍の宿所であった
二条城には、堀もあれば高い石垣もあります。これは二条城だけでなく、将軍はじめ各地の
大名の居城というものは程度の差こそあっても、みな堅固な防備をしつらえていたわけです。
また、外国の場合を考えても、国王の宮殿というものはおおむねそういう姿にあるようです。
そういうことを考えてみますと、京都に都がうつされてから明治までの一千年あまりの長い間、
しかもその間多くの戦乱がありながら、そのような無防備な御所をだれも襲おうとせず、
無事が保たれてきたというのは、世界でも例をみないことではないでしょうか。
まことに不思議といえば不思議な話です。もちろん、人々が天皇の存在に価値をみとめず、
すててかえりみなかったというのなら、そういう姿は十分考えられましょう。
けれども、そうではないことは歴史をみても明らかです。例えば源氏にかわって
鎌倉幕府の実権を握り、承久の乱で三上皇を島流しにするなどした北条氏でも、
みずからは執権という立場にあって、将軍には皇族を迎えることによって自分の権威を
高めています。
また、戦国時代になって多くの武将が各地に割拠して天下を争ったときでも、その人々は、
天皇のもとに伺候し、忠誠を誓うことをもって本懐としていたといわれています。
そのように、多くの人々が天皇の地位というものに非常に重きを置き、その権威を
認めていました。そして、先に述べたような平和な防備もない姿において、一千年の間、
だれも御所を襲ったり天皇の地位をおかそうとしなかったのです。
これは結局天皇の権威というものが力による権威ではなく、建国の祖としての権威であり、
同時に徳に基づく権威であったからではないでしょうか。代々の国民が意識するとしない
とにかかわらず、そこに一つの精神的なよりどころというものを求めていたのではないか
と思うのです。それは、信仰に近いといってもよいような、信愛と尊敬の念だと思います。
そういうものを代々の国民が天皇に対して感じていたのでしょう。またその時々の権力者の
多くも感じていたのだと思います。ですから、だれも天皇にとってかわろうとしなかったし、
仮にそういうことを考えた人があっても、それは時の人々の許すところとはなり得なかった
と考えられます。
20世紀初頭、765名の孤児をシベリアから救出した日本の恩をポーランド人は今も忘れない
平成11年8月に、ポーランドから「ジェチ・プオツク少年少女舞踊合唱団」が来日した。
合唱団はヘンリク・サドスキさん(88)からの次のようなメッセージを携えてきた。
20世紀の初め、孤児が日本政府によって救われました。
シベリアにいたポーランドの子供は、さまざまな劣悪な条件にありました。
その恐ろしいところから日本に連れて行き、その後、祖国に送り届けてくれました。
親切にしてくれたことを忘れません。……
(合唱団は)私たちの感謝に満ちた思いを運んでくれるでしょう。
日本のみなさん、ありがとう。
サドスキさんはさらに「一番大事にしている物を皇室に渡して」と救出当時の写真を託した。
「孤児収容所を慰問した皇后陛下(貞明皇后)に抱き締めてもらったことが忘れられない」 と話したという。
20世紀の初めの孤児救出とは、どのような出来事だったのだろうか?
(ご存知ではない方は以下を参照)
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h12/jog142.html
【拡散】移民国家日本に災禍を招く!
>元警視庁通訳捜査官・外国人犯罪対策講師の、坂東忠信公式ブログ
転載
残された時間はあと2年くらいか・・・という東京。 2015年04月28日NEW !
テーマ:日本人の課題
みなさん、こんにちは。日本が日本であるために、後どれくらいの時間が残されているのかち計算してみました。すでに申し上げたとおり、日本にはもう最大の人口を誇る中国を始めとする各国から難民が来ていて、定着しています。これが合法滞在できる裏技として口コミになっているようで、難民申請件数は年々加速度的に増えているのです。詳細は坂東学校でお伝えしておりますが、どこの国であっても、たとえアメリカ人であっても難民申請はでき、申請がなされれば滞在を認めざるをえないという、国際化に乗り切れていない日本の制度の大穴が悪用されているのです。周辺諸国のイベントや中国韓国の社会問題、これらの国との領土問題など、いろいろ考えてみると、「特別永住者制度の廃止」「なりすまし対策」「難民申請制度改革」をうまくこなすことができなければ、このままではおそらく東京オリンピック終了から日本の本格的な劣化が始まります。そのために残されている時間は、おそらく今年と来年くらいでしょう。再来年(平成28年)だと間に合うかどうか。平成29年では手遅れです。平成30年(2018年)ではもうダメでしょう。今の日本の状態を取り戻すことはできません。この事象の具体的提示を中心に、「昭和の日」の明日は八王子で講演をします。
・4月29日(水) 開場13:30 開演14:00~16:00(終了後 懇親会 予定)
・場 所 :八王子労政会館 八王子市明神町3-5-1 ・定 員 :70名 ・参加費 : 1,000円(資料代等として) ・主催 東京都政を監視する会 ・・・・そうならないためにまずは実態を把握していただきたいのです。統計だけでなく現場の声や私の元刑事としての経験、中国側情報などを元にお伝えします、お時間の有る方も無い方もどうぞお越しください。
http://ameblo.jp/japangard/
元公安調査庁調査第二部長の菅沼光弘が特派員協会で行った講演で、ヤクザの6割が部落民で3割が在日朝鮮人(在日韓国人)と公表。
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-4300.html
■暴力団の3割(約25,000人)は朝鮮人(公安発表)Japanese Yakuza 1-6(元公安調査庁調査第二部長 菅沼光弘の講演1/6)
http://www.youtube.com/watch?v=YRFmzRKvx7I
日本の裏者社会を構成している主な要素は、1つは「ヤクザ」、もう1つは「同和」、そして3番目に「在日」といわれる朝鮮人と韓国人----日本の暴力団構成員は、警察調べで8~9万人で、実際にはもっと多いと思われる。ヤクザの出自の内訳は6割が同和(被差別部落)、3割が在日コリアン(韓国系のほか、朝鮮系が1/3)、残りの1割が同和ではない日本人やあるいは支那人
「言挙げの方法」
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h13/jog172.html
松原久子氏は、ドイツ・ゲッティンゲン大学院でヨーロッパ
文化史を専攻、小説や評論などドイツ語の著書を多数出版され、
さらにドイツの新聞やテレビで活発な発言を続けている。
その松原氏が、ドイツの全国テレビで「過去の克服-ドイツ
と日本」をテーマにした討論番組に参加された。ドイツ代表は、
日本も戦時中、中国、朝鮮、東南アジアで市民を殺戮したから
ホロコーストは日本の問題でもある、と発言した。松原氏はす
かさず、こう反論した。
こんな好戦的国家でも、近代日本は友好関係を保とうとして、昭和天皇が皇太子の時代に英国に留学をされている。
このときの昭和天皇が見聞された思い出が英米との戦争に最後まで反対しつづけた要因のひとつとなった。
最後まで英米に尻尾をふり続けていれば良かったのか?
それとも最初から徹底抗戦すればよかったのか?
それとも徳川時代のままで良かったのか?
正解は神様にもわからないだろうさ。
知ったかぶりをするのは頭の悪い学者だけ。
「イギリス帝国主義の戦争虐殺史」
1600年代 アメリカ、カナダ、ジャマイカ、セントクリストファーネイビーズ、
アンティグアバーブーダ、バルバドス、スリナムを侵略併合
1700年代 オーストラリア、ニュージーランド、グレナダ、バミューダ諸島、バージン諸島、
インド、パキスタン、バングラデシュ、スリランカ、ミャンマーを侵略併合
1800年代 アイルランド、エジプト、リビア、スーダン、ソマリア、ケニア、ウガンダ、
セーシェル、モーリシャス、マラウイ、シエラレオネ、ガーナ、ガンビア、
ナイジェリア、ジンバブエ、ザンビア、レソト、スワジランド、ボツワナ、
南アフリカ、クウェート、カタール、バーレーン、イエメン、アラブ首長国連邦、
アフガニスタン、マレーシア、シンガポール、ブルネイ、香港、ソロモン諸島、
サモア、フィジー、トンガ、キリバス、ニューギニア南東部、セントルシア、
ドミニカ、ガイアナ、トリニダードトバゴ、ベリーズを侵略併合
1897~1901 ウガンダ独立弾圧
1899~1902 ボーア戦争
1899~1920 ソマリア侵略
1900~1901 北清事変
1903~1904 チベット侵略
1903~1904 ナイジェリア独立弾圧
1906 ナイジェリア独立弾圧
1914 ボーア戦争
1914~1918 対ドイツ戦争
1914~1918 対オーストリア・ハンガリー戦争
1914~1918 対オスマントルコ戦争
1916~1921 アイルランド独立戦争
1918~1922 シベリア侵略
1918~1932 イラク併合
1918~1946 ヨルダン併合
1918~1947 パレスチナ併合
1919 インド独立弾圧
1919 イラク独立弾圧
1919 アフガニスタン独立戦争
1922 イラク独立弾圧
1927 イラク独立弾圧
1932 イラク独立弾圧
1940~1945 対ドイツ戦争
1941~1943 対イタリア戦争
1941~1945 対日本戦争
宮内庁は15日、紀宮さまから聞き取った朝の両陛下とのやりとりを文書で公表した。
「私からは今までの御礼とお別れを申しあげますと、
陛下は、これからは皇后様がなさっていらっしゃったように、
慶樹さんはもちろんのこと、慶樹さんに連なる人々と
慶樹さんの仕事を大切に考えるように、とおっしゃり、
その後、優しい眼差(まなざ)しで
『今後、公的な行事を共にすることはなくなるが、家族の絆(きずな)は
変わらないので、折々にいらっしゃい』とおっしゃって下さいました」
「慶樹さん」が3か所に登場し、夫を「慶樹さん」と呼んでいることがうかがえる。
また、皇后さまは、紀宮さまをしっかり抱きしめ、「大丈夫よ」と何度も話されていたという。
皇后さまは、71歳の誕生日を前にした先月の文書回答で、子ども時代の紀宮さまから
「ドンマーイン」という言葉で励まされたことを明かされたが、「大丈夫よ」は同じ意味。
旅立つ我が子を気づかい、「返歌」のように皇后さまが励まされた。
黒田さんは、母親の寿美子さんから「今日からは家庭を持つのだから、常にその責任を
よく考えて、行動するように」という趣旨のことを言われたという。
(読売新聞) - 11月15日
皇后陛下は「A級戦犯」発言。
そして、尖閣の守りに必要な日本最大の巡視艇を手術室まで完備したバリアフリーに改造、重指定の機能を失せさせ、日本の海域から引き離されて宿代わりに。
そして、慰霊と共に「謝罪」と「反省」
皇太子殿下も「平和憲法護持」発言。
保守を名乗る皆さんも、平和憲法護持なのですか? 「A級戦犯」っていると思っているのですか?
・古代王朝憧憬の丸谷才一「大正天皇は御水尾院以来最高の帝王歌人で、この才能を発揮させていたならば大歌人となったに相違ない」。代表作の「国見歌」
・誰が為に花は咲くらむみむ人はすまずなりぬる故郷(ふるさと)の花
・乗る汽車の窓より見れば秋草の花盛りなり毛野の国はら
・あたたけき沼津の野辺を辿りつつ霞みの奥の富士を見るかな
・釣り舟もあまた浮かべり近江の海比叡の高峯の晴れわたる日は
・よさの海の霞みの奥になりにけりさみやかに見えし天の橋立
・這ひし跡さやかにみせて蝸牛いづこに今は影を潜める
・夕闇の空に乱れて飛ぶ蛍遠き花火を見るここちする
国家にとって残念なのは当時宮中で富国強兵の国情、日本族の母系王朝ルーツ恋歌を邪魔者扱いする空気の為、大正天皇の御作にフィアンセだった九条節子様(後の貞明皇后)に贈われた次の1首しか恋歌が残っていない事だ。連綿と国民の手本として(こいか)を作ってきた民族ほかに有るか?
今ここに君もありなば共々に拾はむものを松の下つゆ
松の下つゆ---日本トリュフとして話題を集めている幻のキノコの松露で沼津の旧御用邸の近くで自生していた黒松の松林で獲れたものか、
草加(護憲)と強酸(護憲)の組織票が、選挙を支配しているのですから。

初めて知りました。
昔は自生の松も多かったのに、最近めっきり減りましたよね。
大正天皇陛下も、戦後の社会科教師に不当に貶められてますね。

沖縄のご訪問が、かなわなかったことは、本当にお心残りでございましたことでしょう。
陛下はプロの軍人を、信じておられたのです。
陛下と東条は共産主義でいらっしゃらなかったことは、明らかですよ。
幾ら共産主義者どもが、何穿り返そうが、なにも出て来ないと思いますけど。
http://www.sankei.com/life/news/150429/lif1504290014-n1.html
石原も実は反天皇の不敬な奴なんだよな。
こいつも尻から勲章だすんじゃねえか?
>
親英米というか2.26の時、昭和天皇陛下が真っ先に心配されたのは、為替の件ですが。(独白録より)
脱アなんて目指されてなかったと思いますが。
為替がちゃんと回らないと民が苦しむってことでしょう。
そのようなこと(経済がぽしゃると結果的に民が苦しむ)をやる軍人も政治家も、陛下は、お許しにはなれなかったと思うんですよね。
心してほしいですね。
http://mogiseka.at.webry.info/201504/article_4.html
(所詮、人心把握できない共産主義者の手)ことに失敗したのは日本だけですからね

幾らやったって、お宅ら共産主義者が、天皇陛下の地位につくことはできないんですよ。

終戦間際にアメリカが石油握ったって言うのがね~。
シナ国民党がアメを引っ張り込んだように、英国もひっぱり込んだのですから、アメを。
どちらかというと陸軍士官学校のエリートはドイツ語組に集中してましたし。
http://soumoukukki.at.webry.info/201101/article_4.html
http://blog.goo.ne.jp/ta6323blue/e/8ef5a58768f58a34e925f9410ce5a7d5

絶対島に入ってほしくない人の一人ですね

中年で徴兵された祖父が、あと数週間というところで、軍人恩給支給資格には足りませんでした。
その後は恩給も無く、全財産無くしたのに頑張って生きておりました祖父です。
だから靖国問題も、私には、ずっと蚊帳の外だと思っていたのです、その昔。
でも、高校の時ですかね~、教科書の福読書か何かで、石原莞爾の文章に接しまして、
これがあの期ちがいだのバカだの言われている陸軍の人の文章かと目を疑いました

私の陸軍贔屓は、その頃からでしょうね。
追記。
そう言う家ですから、どちらかというと左向きで、わたしも高校の頃は自衛隊反対の左向きでしたから。
でもいろいろ掘り下げて考えてみましたら、そういう祖父たちも、無事に戦後日本で暮らしておりましたのも、日本という国体があったればこそでしょう。
その国体を護られたのは、やはりあなたのおじさまや、プロの軍人さん方なのです。
そこに思いが至りましてからの、保守派ですね。
不逞鮮人どもに乗っ取られたのだと思います。
農地解放やらの共産主義にはうんざりですね。(高校の頃は何も知らなかったので)
「都市にあっては、富裕階級の居住する区域は、わがアメリカにおけるほどには明確なる一線を画してはいない。」
「貧民ですら衣服も住居も清潔な日本」
チェンバレン
「この国のあらゆる社会階級は、社会的には比較的平等である。
一般に日本人は、大西洋の両側のアングロサクソンよりも根底においては民主的である。」
「金持ちは高ぶらず、貧乏人は卑下しない。ほんものの平等精神、われわれは、みな同じ人間だと
心底から信じる心が、社会の隅々まで浸透している」
「衆目が認めた日本人の表情に浮かぶ幸福感は、当時の日本が自然環境との交わり、
人びと相互の交わりという点で自由と自立を保証する社会だったことに由来する。」
「西洋人は、何を対照として日本を見ていたのか。西洋の初期工業化社会が生み出した都市のスラム街、
そこでの悲惨な貧困と道徳的崩壊であり、西洋人の挑戦によって崩壊しようとする異民族支配下の
専制帝国の混乱した末期のシナだった」
オールコック
「形式的外見的には一般民衆の自由があって民主的な制度をより多くもっている多くの国々以上に、
日本の町や田舎の労働者は多くの自由をもち、個人的に不法な仕打ちをうけることがなく、
この国の主権をにぎる人びとによってことごとに干渉する立法を押しつけられることもすくないのかも知れない」
カッテンディーケ(オランダ海軍)
「日本政府は民衆に対してあまり権力を持っていない」
ヴェルナー(プロシャ使節団)
「幕府は土地を強制収用する立場にはなかった。」
「警察・裁判の機能は大幅に民間に移譲されていた」
ヒューブナー(オーストリア外交官)
「ヨーロッパにもこれほど自由な村組織の例はない」
スエンソン(フランス海軍)
「日本人は身分の高い人物の前に出た時でさえ、めったに物怖じすることのない国民だ。
主人と召使いの間には、通常、友好的で親密な関係が成り立っており、これは西洋自由諸国にあっては
まず未知の関係といってよい」
ムーサ弁護士が入国を拒否される理由は一切ない。
http://crx7601.com/archives/44502785.html
日米共同ビジョン声明
↑
とうとう日米両国が世界に対して将来への意思表示!
そんなのシナ畜の拒否権で無理という考えがありますが、
ハッキリ言いますけど、条件や状況によってどうにでもなりますよ。
なんか南トンスル国でチョンコリアン共が大発狂してる図が目に浮かびますw
(笑)
http://yukokulog.blog129.fc2.com/blog-entry-1939.html
http://bakankoku.com/archives/1025836718.html
http://fxya.blog129.fc2.com/?no=20252
ネトウヨ諸君、説明せよ!
昭和20年2月14日に近衛文麿は敗戦を確信して天皇に上奏文を出し、敗北による早期終結を決断するように求めたが、
天皇は「もう一度敵をたたき、日本に有利な条件を作ってから」の方がよいと判断、これを拒否したという。
田村謙(松山大学教授)“近衛文麿の上奏文” 外務省編『日本外交年表竝主要文書』下.
昭和20年8月12日の皇族の会議
朝香宮鳩彦王「国体(天皇制)が護持できなければ戦争を継続するのか」
昭和天皇「勿論だ」
『昭和天皇独白録』
昭和20年2月14日に近衛文麿は敗戦を確信して天皇に上奏文を出し、敗北による早期終結を決断するように求めたが、
天皇は「もう一度敵をたたき、日本に有利な条件を作ってから」の方がよいと判断、これを拒否したという。
田村謙(松山大学教授)“近衛文麿の上奏文” 外務省編『日本外交年表竝主要文書』下.
<結果>
・東京大空襲をはじめ日本の都市は焼き尽くされる。
・沖縄戦で戦闘地域となった南部住民の生存率は10人に1人、ほとんどは避難壕で火炎放射器で焼かれて死んだ。(生きたまま家族もろともガソリンをかけられて焼かれた)
・広島・長崎に原爆投下
昭和20年8月12日の皇族の会議
朝香宮鳩彦王「国体(天皇制)が護持できなければ戦争を継続するのか」
昭和天皇「勿論だ」
『昭和天皇独白録』
<結果>
・米国のバーンズ回答により暗に天皇の戦争責任を問わないと示唆されると、あっさり陸軍を裏切り講和を強行。
・安易な講和により戦後は天皇の権威をうけた横田幕府(米国)が日本を支配する構図が出来上がる。
・警備の為に首都高が通行止めになるのは皇族が通る時と米国大統領(オバマ)が通るときだけである。日本の首相が通る時はもちろん通行止めにはならない。
天皇を否定するわけではないが
事実を見ようとしないネトウヨの妄想は醜い
http://hannichigukoku.info/blog-entry-8507.html
626 :可愛い奥様@転載は禁止:2015/04/29(水) 17:48:17.16 ID:49U6pGcd0>>623
朝鮮人の対日工作の資金源は昔から麻薬もその一つ
北朝鮮工作船撃沈後は日本近海の警備が厳しく北ルートからの密輸が難しくなった為
中国マフィアと提携した日本のヤクザ窓口でメキシコルートが増加した
海上保安庁のコストガード船にロケットランチャーやAK47で発砲する北朝鮮工作船へ反撃命令を
迷うことなく下したのは運輸大臣だった扇千景
指に被弾【指を切断】した海上保安官もいたが躊躇したならばもっと犠牲が出ただろう
中国政府の反対もあり北朝鮮工作船引き上げ検証に躊躇した日本政府
そんなとき【今は反日マスコミのターゲット】曽野綾子(日本財団会長)が
実費負担で北朝鮮工作船を引き上げた
この2人の女性がいなければウヤムヤになっていた事件
日本女性は強い
海上保安庁、工作船展示館=北朝鮮工作船事件の映像、数々の証拠品展示
https://www.youtube.com/watch?v=3jKBotnUNDM
不審船撃沈
https://www.youtube.com/watch?v=WabpzkyqmR0
礼を知らないものは「人間」ですらない。
定年後、ネットに触れるようになってから少しずつ歴史の真実に出会い、これまでの自分に恥ずかしい限りです。
今は次世代の党のポスターを自宅に掲示していますが先の世論調査では山本××党と同じ支持率であり、まだまだ日本の主権回復への道は遠いと思っています。(学会・法曹界・マスコミ・大学他すべて左翼と朝鮮で汚染・占拠されているので)
でも真実がようやくネットを中心に披瀝されるようになった今、左翼(マスコミ)の反撃にも太刀打ちできるようになりました。一昔前なら南京事件はなかったと発言すれば大臣の首がとぶ時代でしたから。
今回の昭和天皇の記事、前段は承知していましたが、後段は初めてで前段と併せて涙が止まりませんでした。
BUROGU主様には色々と圧力や非難があろうかと存じますが是非健康にご留意いただき日本を取り戻す勢力のリーダーとしてご健闘ください。応援しています。
・100t超の大量のデブリ塊はどこへ行ったのか?
・1~3号機内では4年後の今も各100tのデブリが4000~5000℃の高温を発し、メルトアウトか?
・デブリが「地底臨界」すれば地球規模の超巨大原子力災害に?
~週プレNEWS 4月28日(火)
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150428-00046924-playboyz-soci
http://fxya.blog129.fc2.com/blog-entry-20258.html
しかし天皇という存在は、合理的な民主社会にふさわしいとは言えない。
非科学的な権威。
天皇は政治利用されてきた歴史経緯がある。
他者に服従を強いる道具。
幕末の薩長も、天皇を掲げてクーデターの正当化。
戦前の軍部も、天皇の統帥権を掲げて反対派を黙らせる。
単なる普通のおじさんを、現人神みたいな立場に置きたがる人達が居る。
水戸黄門の印籠みたいな利用価値も出るからな。
努力と能力で地位に就く大統領の方が、人間として尊敬できる。
皇室なりに色々と仕事してるかも知れないが、
特別な敬意を抱く根拠は存在しない。
努力してノーベル賞とか、難病の治療法とか開発した人は尊敬に値するが、
皇室は単にその家に生まれただけ。
彼らが尊ばれやすい立場に居るのは、先祖が対抗勢力や民を武力制圧し、
「俺は偉い、俺に従え」とやったからだよ。
日本で最初に天皇を称した天武も血塗れ。
昔に生まれたら、彼ら&それを掲げる存在に従うしかないが、
個人尊重の合理社会で、彼らの血統を崇拝してやる論理性は無い。
「特定の家、民族、人種に生まれたら無条件で尊い」とか馬鹿か。
だからシナ人は日本に住まなくていいよ!!
近衛上奏文の内容は真実も含まれている。(左翼以外の研究者により、もっと分析されるべきだと思う)
ただし実現するのはあまりに荒唐無稽、というか「時すでに遅し」であった。
近衛
「従来、軍は永く一つの思想によって推進し来ったのでありますが、これに対しては又常に反対の立場をとってきた者もありますので、この方を起用して粛軍せしむるのも一方策と考えられます。これには宇垣、香月、真崎、小畑、石原の流れがございます。これらを起用すれば、当然摩擦を増大いたします。考えようによっては何時かは摩擦を生ずるものならば、この際これを避くることなく断行するのも一つでございますが、もし敵前にこれを断行する危険を考えれば、阿南、山下両大将のうちから起用するも一案でございましょう。先日、平沼、岡田氏らと会合した際にも、この話はありました。賀陽宮は軍の立て直しには山下大将が最適任との御考えのようでございます。」
天皇
「もう一度、戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う。」
天皇は近衛を信用せず相手にしてなかったのである。
天皇が近衛の進言を受け入れて戦意を大規模にそぐような和平交渉に突っ走っていたら、その後、どうなっただろうか?
まず間違いなく、天皇は暗殺か幽閉。
そして終戦工作も完全に失敗。
日本は国土決戦の一億玉砕に突き進んだであろう。
もしも終戦工作が失敗していたら、日本という国家は世界から消滅していた可能性が高い。
原爆は不幸だが、徹底抗戦派と和平派がなんとか拮抗してきたような、ほとんど唯一のタイミングでもって
昭和天皇は重臣たちを説得して終戦にもっていくことができた。
(それでも天皇の玉音放送を阻止しようとする大規模な暗殺工作が起きた。)
現代の価値観で当時をさばいてもわからないよ。
86 :名無しさん@お腹いっぱい。:2013/06/17(月) 00:28:10.88 ID:xCfSK4+iP
なんで真珠湾攻撃やったのかなあ。
黙って石油取りに行けば良かったのに。
そこで攻撃してくる奴らを殲滅すれば良かったのに。
んで石油貯めこんだら、講和。
95 :名無しさん@お腹いっぱい。:2013/06/18(火) 00:08:14.97 ID:5qL9+Yqq0>>86
よくそんなこという連中がいるんだが・・
日本が守るべき場所は、日本列島だけじゃないぞ。
まず、
①内南洋といわれて、日本が統治していた委任統治領は、
現在のパラオ、北マリアナ諸島(サイパン島、テニアン島、ロタ島)、ミクロネシア連邦(ポナペ、
コスラエ、チューク)とマーシャル諸島(マジュロ、クエゼリン、ジャルート)のことである。
サイパン支庁、パラオ支庁、ヤップ支庁、トラック支庁、ポナペ支庁、ヤルート支庁があった。
おおよそ北緯0度~20度、東経130度~170度の範囲。
10万人以上の日本人がこれらの地域に移住していた。
これらの領土を、どうやって守ることができるか・・・。
②石油や資源地帯を確保した後に、ここから日本本土に送る必要があるが
広大なシーレーンを攻撃されたら日本の勢力では対応不能。
③敵は東のアメリカだけではない。
西からはイギリス、南からはオランダ、オーストラリア
北からもアメリカが・・・・。
これらの敵がが、いつ来るか、どこに来るか?
同時に複数の場所から来るか?
これらを考慮すると、防衛は無理。
しかし、このままでは経済封鎖によって、
日本は何もせずとも破滅する、
ドイツが勝って、イギリスが屈服するかもしれない、欧州もドイツの勢力下になる、
そうなればアメリカも参戦はしないだろう・・・という可能性がある、
だから、その可能性に、藁にもすがる思いで開戦をエライ人々が決めたのだ。
戦争目的も無効になり、降伏って事だろうが、敗戦は
合理的に考えるだけでは無理だ。
45年8月がジャストタイミングだったと思う。
まあ、フィリピン後の1年で日本は大変な損害を出したわけだが。
45年8月以前に降伏していたら日本の地位は現実よりはるかに
悪いことになっていたような気がする。
始めなかったのが一番良かったんだけどねえ。
でも歴史ってのは成り行き的に最善を選ばないことも多い。
44年まではまあ、負け戦と言っても通常の戦争だった。
最後の1年、フィリピンから終戦までがすごい。特攻、降伏拒否、
成功するわけが無い作戦をまるで相手の能力を無視しているように
遂行。そしてこの1年で日本は大規模な損害をこうむる。
特に民間の犠牲のほぼすべてがこの最後に1年だ。
この、最後の1年の仕事で日本はベタだけど連合国に対して
「俺たちにとっては国が滅びるぐらいなら死ぬ国民だよ」というメッセージを
じっくり送ったわけだ。そりゃ組織的な特攻が続くのを見れば相手方も
さすがにそのメッセージを受け取る。
アメリカの原爆を非難せずに、日本だけを罵倒するわ、
韓国の性奴隷制度を黙殺しながら、日本軍の慰安所だけは死に物狂いで糾弾するわ、
こういう変態左翼の異常繁殖しているわけを日本人がまず悟れ。
変態左翼が日本の歴史をどうこうと酒の肴にして批評するなど千年早いわ。このうじ虫どもめ。
象徴であり、日本歴史の縦糸をつらぬく中核です。
古代に国家統一の基礎をつくり、華やかな貴族文化の中心となり、その後長い武家社会が
続いたが揺らぎのない権威がありました。
武士の時代には天皇は不在も同然だったというのはデマであり、源頼朝以降、一部の例外を除いて、
武士のリーダーは神話以来連綿と続く天皇の権威をみじんも疑わず、深い敬意を払っていました。
日本の長い歴史において皇室が健在であり、日本の伝統の安定性と持続性が保たれたからこそ
文化的、経済的に豊かな現在の日本があります。
また国民の歴史的団結性も保たれ、明治維新や終戦時のような国家の危機には皇室が求心力となり、
国家の分裂を防ぎました。
だからといって日本は狂信的、排他的な独善主義にも陥らずに(戦中など例外を除き)
東洋や西洋から多くの事物を謙虚に学び、自国で重層的に育てる度量もありました。
国粋主義者でなくとも普通に歴史や古典を学べばわかることではないでしょうか。
3時間の間、微動だにしなかった。
「それは、ものすごく立派だった」
と、三島由紀夫はこの動画のあとの方で述べている。
三島由紀夫と東大全共闘
https://www.youtube.com/watch?v=ttktCdQLixk
ところで、昭和天皇の養育係が「院長閣下」である乃木さんで、質素と勤勉で教育した。
司馬遼太郎は「坂の上の雲」で、乃木大将を執拗にクサしている。
司馬は、本当は昭和天皇をクサしたかったのではないのか?
それはできないので、
「師匠」の方をボロクソにやっつけたんではないかな・・・・。
そして又、こういう時、例によって早速妨害に涌いて来るのが「なりすまし朝鮮人」ですwww
彼等は我々と違って「天皇の血」は引いておりませんからね。
3千年近くも経っているのですから、普通の先祖代々日本人の血を引いている人なら誰でもどこかで「天皇の血」を引いていますよ。あなたも。私も。みんな。どこかで。帰化人とか朝鮮人のようなヨソモノを除いてね。(支那朝鮮のような都合の良い時だけ利用しようとする「乞食害国人」や、明らかな「敵」「破壊者」ではなく、「溶け込んで魂が寄り添える人」なら、例え外国人であっても、ちゃんと日本国は「仲間」として受け入れますよ。そして一緒に生きて行く。)
国民全てが(天皇という存在を通じて)血が繋がっている国なんて外国から見たら、とても恐ろしい存在でしょうね。誰も何も言わないのに、指揮取ってる人もいないのに、整然と正しい行動がとれる(規律を乱しているのは大抵、なりすまし朝鮮人。)…こんな国は他に存在しない。この事に気付いた時、何故、支那や朝鮮が必死になって天皇制の伝統と御皇室を潰そうとしているのか…わかる気がしましたよ。彼等がいくら望んでも手に入らないものだから。私達日本人だけに許された物凄い制度…物凄く強い「絆」だから…。
ですから、日本を滅ぼしに来た「敵性外国人」=「侵略者朝鮮人」は、何とか「天皇を貶めようと必死」なのですwww
書き込みを見ていれば、「日本人でない者」のソレは一発でわかりますねwww(こんなにもキムチ臭+ウンコ臭が物凄いのに、どうして自覚していないのか…???工作に何の進歩も無く、何年も変わらず同じ事をしている…とても不思議です。)
どこの誰でもなれる、いくらでも代わりのいる「王様」なんかとは全然違う。「天皇」は唯一無二の御存在。
「一番偉い人」ではなく「最も大切な人」。
「一番上に君臨する権利者」ではなく「全ての人と同じ目線に立ち、誰からも等しい位置に居られるみんなの絆」。
私達全ての日本人の血を繋いで下さっている誰からも等しい位置に居られる天皇陛下と御皇室の皆様方を絶対、御守り致しましょう!!!
日米両首脳が28日に合意した「日米共同ビジョン声明」の要旨は次の通り。
第2次世界大戦終戦から70年を迎える本年、かつての敵対国が不動の同盟国となり、
和解の力を示す模範となっている。
安倍晋三首相とオバマ大統領との会談は日米のパートナーシップの変革における歴史的な前進を画する。
日本の「積極的平和主義」、米国のアジア太平洋リバランス(再均衡)戦略を通じ、
地域および世界の平和で繁栄した将来のために緊密に連携する。
日米はダイナミックかつ急成長するアジア太平洋地域および世界中で、
貿易および投資のルールを定めるため取り組みを主導。
環太平洋連携協定(TPP)の2国間交渉で大きな進展があったことを歓迎し、
より広い協定の迅速かつ成功裏の妥結を達成するために取り組む。
新たな防衛協力の指針(ガイドライン)は、日本がグローバルな安全への貢献を拡大することを可能にする。
この地域およびそれを超えた地域において日米が海洋安全保障を含む事項で緊密な形で取り組み、
他の国々と連携することを可能にする。米国は日米安全保障条約に基づく自らのコミットメントに固い決意を持つ。
日米は気候変動および環境悪化が引き起こす脅威などグローバルな課題に対処する。
米国は日本を常任理事国に含む形で国連安全保障理事会が改革されることを期待する。
日米はグローバルな協力を拡大すべく努める上で、
航行および上空飛行の自由を含む国際法に基づく規範の促進などの原則に従う。
力や強制により一方的に現状変更を試みることで主権および領土一体性の尊重を損なう国家の行動は、
国際的な秩序に対する挑戦だ。(ワシントン時事)
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2015042801110
港フェニックステレビは28日、米国と日本の外務・防衛の閣僚協議「2+2」が米ニューヨークで開かれ、
新たな「米日防衛協力ための指針」(ガイドライン)を決定したと報じた。
新ガイドラインは、米日の軍事協力範囲を世界規模に広げ、アジア太平洋およびその他の地域の平和と安全に向けて主導的役割を発揮していくとした。
会議には米国からケリー国務長官とカーター国防長官、日本から岸田文雄外相と中谷元防衛相が出席した。
会議終了後の合同記者会見で、ケリー長官は新ガイドラインについて、「防衛関係における歴史的な変革」と表現し、
「日本を守るという強固な約束は変わらない。防衛協力範囲は、日本が領有権を主張するすべての範囲に及ぶ。尖閣諸島も含まれる」と強調した。
新ガイドラインは、島しょ防衛の強化や日本が武力攻撃を受けた際の対応策などが盛り込まれた。両国の軍事協力拡大を目的に、18年ぶりに見直された。
http://www.focus-asia.com/socioeconomy/photonews/416499/
>防衛協力範囲は、日本が領有権を主張するすべての範囲に及ぶ。
>尖閣諸島も含まれる」と強調した。
準備は整った後は・・・・・
その残りカスの一部反日在日吉本が思った以上の炎上に手を焼き逆キレしてネット上の言論に脅しを掛ける。
893張りの脅しをネット上の言論に掛けるとはホンマもんの893がバックに付いている組織に取っては当たり前の行動で平城運転に戻っただけと云うことかな?。お笑いは下手糞過ぎて笑えないが脅しに掛けては一流て事だな。
芸能界なんてアウトローが仕切る業界で一歩裏に回れば恐怖と枕が営業手段の如何わしい恐怖産業で其の中でも特にいかがわしく怖い吉本がお笑い界のトップなんだから笑える筈が無い訳だ。
まーサンマ等一部の怖くない芸人が吉本が本来持っていた怖いイメージを数十年掛けて覆い隠してくれたから今が有る訳なんだが。
その割と良いイメージを自爆行為で自ら木端微塵に破壊しようとしてるって事に成る訳だ。馬鹿なの?
8.6秒バズーカーのネット上での「反日」という噂に対して、吉本興業が威力業務妨害で告訴を検討
http://hosyusokuhou.jp/archives/43825264.html?1430315644
元ソース週刊文春WEB版
吉本興業さんヤッテ見て下さいサー訴えて下さい。
そうするとテレビしか見ない情弱ヘビー層にも吉本の恐ろしさと8、9cmバズーカーのラッスンゴレラィの原爆を揶揄したネタが知れ渡る事に成ると思いますが。
こう云うのを炎上商法で火傷を負って我が身に危険が及ぶ身から出た錆びとか自業自得って云うんですよ。
確実に言える事は吉本は情弱層に取ってももう笑えない存在と云う事です。
もうお笑いでも日本では食って行けそうも有りませんねご愁傷様です。
元々笑えない吉本の終りの始り、コリア目出度い事だわ。お帰りはアチラ日本海側です。
>copy #cvytSrAIネタ元がエロ雑誌の週刊プレィボーイて何の冗談かな?
記事?ガセが主流で極度に低能なサヨク記事だらけのエロで釣るブサヨ量産雑誌だろ
>その尻馬に乗りこのブログにしばしばレスをするw気違いの●●島を許す事が出来ません(蔑)。
ところで、HNはコロコロ変わるし、それに、戦死なさったのは大叔父様じゃなかったのですか? しかも、2人いらしたはずですが?
あと、「尻馬に乗り」のくだりが意味不明なんですけど、申し訳ないですが、私はフィリピンの戦場について詳しいことはあまり知らないので、乗る尻馬もありませんけど・・・。
てゆうか、『千年恨んでやるニダ!』のどこぞの半島人と同じ精神構造してますよ、これ真面目に言ってますからね、念のため。
しかしながら、よく理解できたことが1つだけあります。日本人がなぜ千年反日の半島民族を嫌悪しているか。『とにかくしつこい』からですね。よく分かる。
ま、クネクネと同じ「告げ口」で今後も頑張って下さいな(笑)
2ちゃんでも未だに執拗にソニー攻撃してる奴がいる。それも「サムスンスマフォの熱停止エラーの原因はソニーのカメラ」とか必死で繰り返してる。あそこまで異常に粘着し日本企業叩きするのは日本人ではない。
あと原爆バンザイ!
これも日本人ならやらない。原爆ドーム前でピースして笑顔で写真撮って、それを自慢気にアップししかも「広島焼きを食おうぜ!」ってわざわざその下に入れる、これは日本人は絶対しない。チョン公は原爆を日本への罰だ、ざんまあ!って教育されてる。
神社放火や狐様の銅像の首落とし。
これも日本人なら絶対に畏れ多くて(つーか意味もね~し)やらない。卒塔婆や墓が大量に捨ててあるニュースが日本ではよくある。産廃業者は朝鮮人が多く、連中はクリスチャンである。しかも日本人ザンマア!だから廃棄しても平気。日本人なら罰当たり!で怖くて絶対に捨てない。
神社放火なんぞも日本人なら考えない。鍵などセキュリティも神社仏閣は長年してなかったが、日本人のモラルでは考える必要すらなかったからだ。
しかし、そこに韓国人住職ら馬鹿窃盗団がつけ込み、日本に来ては盗みを繰り返した。国宝や仏像が多数盗まれ韓国に流れた。それを韓国政府は堂々と「国宝」で展示し、韓国の警察は「日本のセキュリティが甘いのが悪い」などと居直り、逮捕されたエラ住職も「もともと韓国にあったのを日本が盗んだだけ」などと自らを正当化してる。
>
しかもそれに輪をかけて台湾沖航空戦に勝利したという誤報が一人歩きして海軍から陸軍に確実に伝達されず投入された部隊の90パーセントが戦死か行方不明となった
レイテ決戦をフィリピン防衛の第14方面軍に強要した大本営陸軍部作戦課とw南方軍とw
>
私もこの誤報の力が、陸軍を死地に追いやったと見ています。
>その尻馬に乗りこのブログにしばしばレスをするw気違いの●●島を許す事が出来ません(蔑)。
ざっと読んでますがそこまで憎まれるのはよくわかりませんね。
>ところで貴殿の御祖父様は、戦地に出動されたのでしょうか?
だから数週間足りなかったんです。
中年男だから少年兵に小突かれてひどい扱いだったようです。
足に銃弾受けてましたね。
それでも、恩給は出なかったという事ですよ。 商売人系は皆こういう目にあっているでしょう。
もう一人の祖父は明治生まれで行けなかったんじゃないですかね、年より過ぎて。
>
このことを言うのかもしれませんね。
だから私は、澄田閣下と東條閣下を主語にしてそのようなことを明言したのかと、根拠を示して下さいと申し上げたはずですが、私の知る限り貴殿から返答はありませんが?
そもそもが秘密のベールに包まれた軍事作戦におけるいきさつを断定的に言える人などいらっしゃらないでしょう? だから私は主語を特定しなかったのであり、『議論を経て決定したことに対して意義を申し立てたら軍規に反するから左遷されても仕方ないが、そういうことを軍部のダークサイドということにする人がいる』と、軍部悪玉論の東京裁判史観全般を指して申し上げたのでしょう。
それを勝手に澄田閣下と東條閣下を名指ししたと「妄想」し、揚げ句の果てには御遺族を引っ張り出して(知り合いなの?)、『謝罪シル!』って言ってるのは誰ですか?
だいたい、海軍を日本の敵だの陸軍も阿呆だのと、散々好き勝手言っておいて、よくもまぁ遺族への名誉毀損だとか言えますよね?
『遺族に謝罪すんのはオマエだろ!この妄想野郎!』
って、心の中で思いましたが、まぁ、この御仁には通用しないでしょうね(笑)
そりゃ古代権力者~後に権威の家系だから子も多いだろうよ。
しかし自分の両親に皇室の血が入ってるとか不明だし、
自分の両親やご先祖様を尊ぶのは、皇室の血とか無関係。
仮に皇室の血が僅かに流れてても、皇室なんて他人と同様。日常会話にも出ない。
皇族は、彼らが困窮しようが死のうが他人事。
涙拭きなよ
ソ連が仲介してくれると、日本の終戦を一番引き延ばしてた(ソ連仲介派というか)んでしょうが。
独白録に載ってますでしょう。
青葉の季節を迎え、皆様方もお元気でご活躍のこととお慶び申し上げます。この度、国賊売国奴でw妄想脳内オナニー史観主義者のw零崎涼介に対しw『零崎涼介をw、coffeeさんでボッコボコにする会(略称 RBA)』を結成致しました。皆様方におかれましては、どうか宜しくお願い申し上げますm(__)m