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正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現
嘘の歴史に騙されるな!日本最優先政治、日本国民の生命と財産と自由を守る核武装、日韓断交を実現しよう!マスゴミの嘘や洗脳工作を許すな!がんばれ!日本国民党!
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西部邁の自主防衛論・『なぜ自主防衛論議が興らないか』電気新聞 ・『多極世界の中での自主防衛』産経新聞(保守再考)・『核武装論議の広がりを期待する――自立国家の自主防衛には不可欠』産経新聞(正論)

[時評・ウエーブ]西部邁 なぜ自主防衛論議が興らないか
2003/03/07 電気新聞

 アメリカで「日本の核武装」のことが公然と論じられはじめた。つまりアメリカは、「中国が北朝鮮問題に責任を持たないと、日本が核武装に赴く」との脅かしを中国にかけている。また「イラク問題で対米追随を渋るようなことをするなら、東アジアから米軍を撤退させる。そうなれば日本は核武装を強いられることになるが、そんな大胆なことを日本はできないだろう」とのメッセージを日本に寄せてもいる。



 こうした脅かしが通用するのは、日本が自主防衛の姿勢を確立していないからだ。自主防衛を単独防衛のことと同一視して、日米安保なくて日本が自衛できるわけがない、と反論するものがいる。しかし自主防衛とは、「単独でも自国を守ってみせるとの構えに立って、他国と安全保障や不可侵の条約をとりつけること」にほかならない。

 集団自衛の必要も公認できずに自主防衛に入ることなど不可能だと主張するものもたくさんいるが、話は逆である。自主防衛の構えがないもので集団自衛に本気で取り組めないのである。さらに中国の脅威なるものも、自主防衛の気構えすらない日本国民の過剰な脅えからきているのではないか。

 世界広しといえども、自主防衛と聞いて目を剥く、ものが多いのは日本だけだ。それは、ひとえに、GHQ(占領軍司令部)体制が日米安保体制となって今に引き継がれていることによる。日米安保条約は文面では双務的となっている。しかし実際には、ほぼ完全にアメリカ主導の下に運用されているのだ。
こうしたアメリカへの依存心が頂点に達していればこそ、「イラク問題で日本が協力しないなら、北朝鮮問題でのアメリカの協力もない」という判断に立って、イラク問題にかんして国連安保理での(日本)の対米追随発言が行われたわけだ。

 我が国が自主防衛という初歩的な段階でつまづいているあいだに、世界の防衛論議はプリヴェンティヴ(予防的)な先制攻撃を認めるところまできている。たとえば、イラクには炭疽菌がたくさん残っているはずなのでバグダッドに先制攻撃をかけようとしている。そして、アメリカの軍事行動に協力すべくイージス艦を派遣するようなことをしておきながら自主防衛論議を禁句としている。平常な神経では対応できないのが日本における防衛の現状だというほかない。

 防衛意識のあいまいさは「侵略」をどう定義するかに如実に現れている。パリ不戦条約においては「国際紛争(ディスピュート)を解決するための手段としての戦争」が侵略戦争とよばれた。その定義にしたがえば、国際的なもめ事を処理するために武力で先制するのが侵略となる。そして予防的侵略ならば認めようというのが世界の軍事常識となりつつある。そうならば我らの憲法の第九条について、「戦力不保持と交戦権否認」を規定している第二項は当然のこととして、(パリ不戦条約の意味での)「侵略」を否定した第一項も廃棄されなければならない。

 憲法で禁止されるべき戦争はどういう種類のものか。ヘゲモニック(覇権的)な先制攻撃(侵略)のみを禁じる、それがこれからの憲法でなければならない。そういうことについてすら何一つ議論していないものだから、我が国にあって自主防衛という当然の行いすらがなおざりにされてきたのである。

 自主防衛に正面から取り組むなら、中国や北朝鮮がすでに核武装している以上は、我が国が核武装することの是非が公の場でもっと議論されなければならない。だが、世界がますますキナクサイ状態に入っているというのにNPT(核拡散防止条約)からの脱退を口に出すものは一人もいないのである。


―――――


【保守再考】西部邁(14)多極世界の中での自主防衛
2006/07/17, 産経新聞

 北朝鮮が日本海に向けてミサイル発射を行ったことをめぐり、国連安保理において、対朝制裁決議を推し進めようとする日米と、当初対朝批判の議長声明にとどめようとした中露とが、激しく綱引きを続けた。その結果はともかく明らかなのは、アメリカのユニラテラリズム(単独覇権主義)という新世紀への世界観にもとづく国連軽視論も、国連に公正中立な審議と決定と行動を期待する国連中心主義も、ともに挫折しているという一事である。
 国際秩序は、各国の国益主張がまず衝突し次に調整される場としての国連において、覇権主義の縦糸と協調主義の横糸とによって織り成される、不断の形成過程である。一人前の国家ならば、その過程にたいして、自前の主張をたずさえて、能動の姿勢で参加していかなければならない。その意味で、制裁決議案をかかげた日本の外交団の努力はひとまず多とすべきであろう。

 しかし、どう考えても解せないことがある。そのミサイル発射が日本にとって差し迫った危機であるかどうかはともかくとして、国家の防衛にとって危機としか呼びようのない現実が目前に生起しているにもかかわらず、「自主防衛の路線に進み出よ」と唱える者がほとんどいない。聞こえてくるのは、対米依存症と名づけたくなる類の日米同盟強化論ばかりときている。だから、この「発射」は日本をアメリカにいっそう強く抱きつかせて米軍再編の費用をいっそう多く負担させるための絶好の機会だ、とアメリカがとらえているかもしれない、という可能性に言及する者もいない。
 アメリカは、その対アジア外交史において、みずからがアジアに配置している(核兵器をはじめとする)戦略兵器はみずからの国防のために準備しているのであって、日本を防衛するという目的のために使用することはない、といくたびも言明している。それなのに六十年間にわたる対米依存の姿勢をさらに強めようというのだから、「日本はアメリカの被保護国である」(国際政治学者Z・ブレジンスキー)といわれるのも致し方あるまい。しかもその「保護」すら不確かなものなのだ。

 自主防衛路線とは、具体的には、防衛費を格段に増やして、それを日本独自の情報網の設立や迎撃ミサイル態勢の拡充や自衛用核武装の準備に用いることである。
なお、自主防衛は単独防衛と同じではない。一人前の国家の防衛体制は、その中心に自主防衛の態勢を敷き、その外がわに友好国との安保条約を結び、そしてさらにその周縁に仮想敵国とも軍事協定を約するといった形での、同心円状をなしている。
 国際秩序は多極化に、正確には(半開半閉の)ブロック化に向かっているというのに、「十年かけて自主防衛の完備を」と訴える者はかくも少ない。それは、この列島がアメリカのテリトリー(准州)であることに甘んじる劣等な国民意識のせいではないか。
(にしべ・すすむ)


――――――


核武装論議の広がりを期待する

【正論】西部邁
2006年10月7日、産経

■自立国家の自主防衛には不可欠


≪“核の傘”頼みでは限界も≫

 中曽根元首相率いる「世界平和研」が「将来における国際社会の大変動に備え、核問題を検討しておくべし」との提案を行った。政府近辺の機関が日本の核武装について、いささかなりとも積極的な姿勢を示したのは、これが初めてではないのか。さすが「大勲位」の貫禄と評価したい。

 で、その報告書を読んでみると、確かに「主体的な防衛戦略」や「集団的自衛権行使の容認」が謳われている。だが、「非核保有国の立場の堅持」「NPT(核拡散防止条約)体制の強化」「日米同盟の堅牢化」といった従来の防衛路線がそのまま踏襲されてもいる。

 この程度の認識と態度では、残念ながら「核問題」の核心にも「自主防衛」の本質にも迫れないのではないか。大事なのは「日本はアメリカの“核の傘”によって守られている」という話をおおよそ虚偽と見定めておくことだ。IC(大陸間)やSL(潜航)のBM(弾道ミサイル)の下では、アメリカ本土が核攻撃の危険にさらされる。アメリカが、その恐怖を乗り越えて、日本のために報復の核攻撃を(日米共同の敵国に)加えてくれるはずがない。

 「核の傘」のみならず、アメリカが売り込み中の「迎撃ミサイル」についても、斯界(しかい)では、その性能はきわめて低いといわれている。そうならば、非核保有国にとどまるかぎり、わが国は(核抑止を含めて)戦争抑止の強い力量を手にすることができない。それゆえ自主防衛の姿勢も腰砕けに終わることになる。


≪“非核二原則”は亡国の策≫

 このことをとうに承知しているアメリカは、「日本はアメリカのプロテクトレート(保護領)になるしかないし、自衛隊も極東米軍のツール(道具)にすぎない」と見通している。実際、Z・ブレジンスキー(という国際政治学の泰斗)がそのように公言している。大方の日本人もそれに呼応して、国家の「自尊と自立」を失ってでも「安全と生存」のために「日米同盟を強化せよ」と言いつのる。

 しかし、「核問題」を見据えれば、この非核列島がアメリカのテリトリー(准州つまり「投票権なき州」)になるまでは、列島人の「安全と生存」は危殆(きたい)に瀕したままとわかる。そうと知ってアメリカは-学界はいざ知らず政府では-わが国の核武装に反対してきた。NPTもその趣旨で発案された。

 非核保有国が「同盟」とやらを防衛の最後の拠り所にするのは、その国を准州に赴かせる道だ。戦後日本を律してきたのは“非核二原則”であったといってもよい。アメリカの利益のために核を「持ち込ませ」ても、日本の利益のために核を「持ったり作ったり」することはしない、というわけだ。こんな亡国の防衛論がなぜ罷り通るのか。

 それは対米大敗戦の(すでに潜在的意識に沈んだ)トラウマと深く関係している。「自主防衛が可能なのはアメリカだけだ」とか、「世界はアメリカの一極支配に向かっている」とかいった対米恐怖に根差す世界観が日本を対米属国たらしめてきた。




≪敗戦トラウマから脱却を≫

 自主防衛は単独防衛のことではない。対等な形では同盟国も友好国も持つことはできないと不安がっている自信喪失の国家だけが、単独防衛は不可能と考えて軍事最強国にとりすがる。自立した国家においての自主防衛は、防衛網の中心に(最悪の事態に備えて)単独防衛体制を準備し、その周縁に同盟・友好諸国との軍事条約・協定を張り巡らせ、さらに仮想敵国とも妥協の約束を結ぶに当たって(外国の指令ではなく)自国の自主的な判断を優先させる。


 敗戦トラウマ国民は(歴史的良識としての)伝統を投げ捨てる。それは国民精神の底板を外すことにほかならず、そういう国民の自主的判断力は低下の一途をたどる。結局、彼らの心身から、核アレルギー(過敏症)のみならず、(現憲法におけるように)自衛用の「戦力と交戦」に対しての過敏症も生じる。さらに、ネーション(国民)とステート(政府)の区別をつけぬままに、ネーション・ステート(「国民とその政府」としての国家)への過敏症までもが広がっている。

 自主防衛構想には核武装論が欠かせない。世界の多極化のなかで、「恐怖の均衡」におけるマハト(力)として核が必要、というだけではない。国際的なレヒト(法)の形成・解釈・運用にもその種の力が






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