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南京虐殺は嘘28 嘘吐きベイツ1....嘘吐きベイツの化けの皮

ベイツは宣教師で、南京で大学教授をしていた。

南京安全区国際委員会のメンバーであり、当時から日本軍の犯罪を米国領事館へ報告したり日本大使館へ抗議しまくっていた。
また、戦後の東京裁判でも様々な証言をして、「南京大虐殺」を作り上げた中心的人物の一人だ。

実は、1937年12月15日に南京を去ったNY・タイムズのダーディン記者やシカゴ・デイリー・ニューズのスティール記者に出鱈目メモを渡したのもベイツだった。
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南京事件調査研究会編訳『南京事件資料集 第1巻』一〇五頁。一九三八年一月五日、上海のアメリカ総領事ガウスからワシントンの国務長官宛の「祕密扱い」の報告書簡(出典:Record of US Embassy to Chinam Correspondence American Embassy Nanking)には次のように記されている。「南京大学のシール・ペイツ博士(社会学および歴史学の教授)が書いた日本軍占領後の南京の状況に関するメモを同封する。本メモの写しは、『シカゴ・デイリー・ニューズ』 のアーチボルト・スティール氏が当総領事館の館貞に手渡したものである」
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ベイツは長く南京に滞在したのだが、ベイツ自身が目撃した虐殺は0件だ。

ベイツが所属した安全区国際委員会の公文書にある殺人事件の報告を基に犠牲者を数えると、出鱈目ばかりだが、それでもたったの約50件。

ところが、ベイツは、「ベイツ・メモ」で4万人大虐殺を主張した1938年に国民政府から勲章を受けた。
また、ベイツは、東京裁判で市民1万2000人大虐殺を主張した1946年にも国民政府から勲章を受けた。

他の安全区国際委員会のメンバーは、1938年や1946年に国民政府から勲章を受けていない。
ベイツが国民政府から貰った「勲章」と南京大虐殺の「大宣伝」の相関関係は、これで十分に説明がつく。

日本軍占領地で日本人と親しく付き合っていた者たちは、戦後、国民党から弾圧された。
日本軍占領地に居ながら、戦後、国民党から勲章を受けたというのは余程のことだ。
このことだけでも、ベイツが国民党側の人物だったことは確実なのだ。



さらに、2001年には、ベイツが「国民政府の顧問」と紹介されていた新聞記事の切り抜きまで発見された。

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「南京虐殺問題」

 南京陥落(1937年12月13日)後に日本軍によって中国の一般市民や捕虜が虐殺されたとする"南京虐殺"問題について新事実が明らかになった。亜細亜大学教授の東中野 修道氏は『諸君!』2002年4月号の「南京大学教授ベイツの"化けの皮"」で、当時、南京大学の歴史学教授で敬虔な宣教師、従って中立的な証言者として知られたマイナー・サール・ベイツが実は国民党中央政府の顧問だった事実を昨年イエール大学で発見した。
 また同大学では、ベイツがその著書で初めて4万人虐殺を主張した1938年と東京裁判で市民1万2000人虐殺を主張した1946年に、当時の中国政府(国民党政府)から勲章を受けたと晩年に書かれた自筆の履歴書も見つかっている。



「南京大学教授ベイツの"化けの皮"」

そのティンパーリと反日的な点で同志関係にあったベイツも、中華民国政府顧問であったことも次の史料から明らかになった。
それを証明したのが、イエール大学で私が発見した小さな新聞記事の切り抜きであった。写真説明は次のようになっている。
「中国の首都南京の城門を攻める日本軍の砲撃がこだまするなか、それに怯むことなく、オハイオ州・ハイアラム出身の南京大学歴史学教授にして、中華民国政府顧問のマイナー・サール・ベイツ博士(写真)は、城壁で囲まれた南京城内の自らの持ち場を離れることを拒否した。アメリカ大使館は、ベイツ博士が最後の瞬間に逃げることを許可し、彼に、城壁をよじ登って降りるさいの縄ばしごを提供した」
『諸君!』2002年4月号

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