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南京虐殺は嘘31 ベイツとティンパリー、嘘吐き宣伝工作員同士の音信

ベイツからテインパリーへの手紙
1938年3月3日
 われわれの考えはこうです。ずっと行われてきた戦争における野蛮な行為を、戦場から隔たっている公衆に知ってもらうためには、一つの街についてよりももっと広範囲な地域にわたって述べたほうが効果があるということです。遠くにいるものは、南京は結局例外である、つまり首都と言う名前ゆえの政治的憎悪や、時間的、人員的な偶発事件によるものと簡単に思ってしまいます。しかし、同じ時期に、上海、松江、蘇州、無錫、湖州、抗州にも同様な話があることが分かれば、全体的に見てずっと信憑性があるということになります。
『南京事件資料集』アメリカ関係資料編


テインパリーからベイツへの手紙
1938年3月28日
 なぜ私が上海、松江、嘉興を放っておくのかとお尋ねですが、『戦争とは何か』の第7章を読んでいただければ分かると思います。この点を調べていくと、上海付近の民衆に対する暴行については、確実な証拠がほとんど見つかりません。日本に対して申し立てられた事件は主として南駅の爆撃とか攻撃機から民衆を機銃掃射するといった一連の空爆が主なのです。
『南京事件資料集』アメリカ関係資料編
【注】一連の空爆も支那軍による



支那側が宣伝工作を本格化したのは、1937年11月頃からである。
━━━━━━━━
極秘文書の『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』のなかの「編集課工作概要」は次のように記していた。
――――――
董顕光副部長が命を受けて上海から南京に赴き、第五部の業務を肩代わりして対外文書宣伝の重要性を察し……同月(1937年11月)中旬……第五部は範囲を縮小して、国際宣伝処と改められ、国際宣伝処は中央宣伝部に所属することになる。
――――――
1937年11月と言えば、上海が陥落したところである。第五部とは、国民政府軍事委員会のなかで国際宣伝を「主管」していた第五部のことで、董顕光は南京陥落の2ヵ月前にその副部長となっていた。そして対外的な宣伝戦を重視する董顕光の発案により、国民政府軍事委員会の第五部が、国際宣伝処に改組されて中央宣伝部の直属となり、本格的に工作活動を展開し始めたことになる。
董顕光は次のようにも「自伝」に記されている。
――――――
政府は大規模に改組した新しい部署の中から第五部を取り消し、国際宣伝業務は中央党部所属の宣伝部に組み込まれて、私は宣伝部の副部長という身分で、曽虚白を始めとする国際宣伝処の仕事を監督指導することになった。・・・
――――――
P30
『南京事件――国民党極秘文書から読み解く』東中野修道著
━━━━━━━━

このように、支那が宣伝工作を本格化させ始めたのは、1937年11月頃からだった。

1937年11月頃から本格化した支那側の宣伝工作において、12月以降、ベイツは日本軍の極悪非道の対外宣伝に中心的役割を果たした。

しかし、そのベイツも1937年7月から始まっていた支那事変において、11月まで全く残虐行為をしていなかった日本軍が12月から突如急に南京で大虐殺を始めたのでは不自然だと思ったのだろう。
そのため、何とか11月以前にも上海やその他の街で日本軍が残虐行為をしていたことも宣伝もしておきたかったのだが、上海に居たテインパリーかいくら調査しても、1937年11月以前の日本軍の残虐行為は何一つ把握することは出来なかった。
結局、それでもベイツは12月以降南京における日本軍の残虐行為の嘘宣伝を断行するのだが、冒頭に提示した1938年3月に行われた南京のベイツと上海のテインパリーの手紙のやり取りは、宣伝工作員としてのベイツの憂慮を表したものとして面白い。

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