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冨田メモの徹底検証8:元侍従長・徳川義寛のウソの証明。富田メモの最重要部分は徳川義寛の発言だった!?

■冨田メモの徹底検証
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/opinion08k.htm#_第7章_徳川元侍従長の虚言?


第7章 徳川元侍従長の虚言?


(4)徳川と靖国側の主張の食い違い


さて、ここで徳川元侍従長の発言を再度見てみよう。いわゆる「A級戦犯」の合祀が進められた

昭和53年の年には、徳川は侍従次長だった。侍従長は、入江相政である。二人の侍従長在職期間は以下の通りである。いずれも前職は侍従次長である。



 入江相政 昭和44年(1969)9月16日~昭和60年(1985)9月29日

 徳川義寛 昭和60年(1985)10月1日~昭和63年(1988)4月13日



さて、昭和53年10~11月の当時、入江侍従長の下で侍従次長だった徳川寛義氏は、著書で次のように語っている。

「靖国神社の合祀者名簿はいつもは10月に神社が出してきたものを陛下のお手元に上げることになっていたんですが、昭和53(1978)年は遅れて11月に出してきた。『A級戦犯の14人を合祀した』と言う。」と。
 もしこの通りだとすれば、靖国神社は、意図的に事前に報告せず、合祀をしてしまってから事後報告をしたことになる。そうであれば、天皇に上奏したうえで、祭神を合祀するという慣例を破る行為である。徳川の発言は、靖国神社または松平宮司が天皇を無視して、独断専横で合祀したという印象を強く与える。

 ところが、靖国神社側の主張は、まったく異なる。靖国神社は、元「A級戦犯」の合祀を10月17日に行い、翌18日に秋の例大祭を挙行した。その前に、例年通り上奏簿をつくって、宮内庁に提出したという。
 松平宮司は、著書『誰が御霊(みたま)を汚したのかーー「靖國」奉仕十四年の無念』に、以下のように書いている。
 「私の就任したのは53年7月で、10月には、年に一度の合祀祭がある。合祀するときは、昔は上奏してご裁可をいただいたのですが、今でも慣習によって上奏簿を御所へもっていく。そういう書類をつくる関係があるので、9月の少し前でしたが、『まだ間にあうか』と係に間いたところ、大丈夫だという。それならと千数百柱をお祀りした中に、思いきって、14柱をお入れしたわけです」

 こうして作成した上奏簿を事前に提出したという。
 以上のような靖国神社の主張は、徳川の主張とは、全然異なっている。

 しかも、この年の秋、上奏簿の提出は、宮内庁からの申し出により、昭和天皇の国内行幸日程を考慮し、通常より日程を早めて行われたという経緯があったらしい。
 10月7日に、池田良八権宮司はじめ三人の職員が宮内庁に行って、上奏簿を侍従職と掌典職に届けた。掌典職のほうは、皇室の祭祀をつかさどる部署である。
 権宮司とは、宮司の次の役職である。宮司が専門の神職でなくともよい靖国神社においては、事実上、神職の最高位である。宮内庁の申し出に応じて、例年より早く上奏簿を提出し、責任ある神職が宮内庁を訪問して担当者に提出したというわけである。この点は、秦郁彦氏が、「靖国神社の社務日記で確認した」と書いている(『靖国神社「鎮霊社」のミステリー』)



 それにもかかわらず、徳川は言う。
 「靖国神社の合祀者名簿はいつもは10月に神社が出してきたものを陛下のお手元に上げることになっていたんですが、昭和53(1978)年は遅れて11月に出してきた。『A級戦犯の14人を合祀した』と言う。」と。
 すべて事後報告だというのである。あまりにも大きな食い違いが、ここにはある。一体なぜ、このような食い違いを生じているのか。私は
徳川がウソをついていると考えざるを得ない。

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