東史郎は、南京虐殺本である『わが南京プラトーン』(昭和62年)の作者である。
しかし、残虐行為をしたと書かれた分隊長だった元伍長・橋本氏が原告となり名誉毀損になるとして、東史郎、下里正樹(元「赤旗」報道部長で森村誠一と組んで「悪魔の飽食」をヒットさせた)、青木書店を平成5年4月、東京地裁に提訴した。
東史郎らの被告はその訴訟に敗れた。
南京虐殺本である『わが南京プラトーン』の資料となった『東日記』は、東京地裁、高裁、最高裁で"捏造日記"と認定されたのだ。
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おなつかしや一等兵どの(東史郎展)
http://www.asahi-net.or.jp/~KU3N-KYM/tyousa02/tushu4.htm
(抜粋)
一審で問題になったのは「東日記」の信憑性。まず元になったという「戦中でのメモ」なるものが実在しないこと。東氏は「京都の戦争展に貸し出した際に紛失した」と言い、 戦争展の当事者は「元々ない」と双方食い違いの証言をしている。
「東日記」は、どうやら戦後になってからの作文のようである。
そして記述内容の実行の可能性も問題となった。
「物資不足の当時、郵便袋もガソリンも貴重品で、捕虜をなぶり殺しするために使うことはありえない」「仮に郵便袋を使ったとして、人が入っていればかなりの重量で、しかも火のついたそれを一人で沼に投げ込めるのか」「火のついた重い郵便袋に手榴弾をゆわえて投げれば、投げた本人も被害を受けるのではないか」などである。
(略)
二審になると傍聴席に東氏の支援者が増えてきた。とくに平成10年には中国人が増え始め、中国語や片言の日本語がとびかうこととなった。
ここでも東氏の証言はデタラメだった。つじつまが会わなくなると平気で証言を変えるのだった。南京へ行って急に記憶がよみがえった、というのだが現在の南京は当時と様相が一変している。
平成10年(1998 )12月22日、東京高裁は一審判決を支持し、控訴を棄却した。
(略)
2000年1月21日、最高裁は上告を棄却した。この決定で東氏や青木書店側の敗訴が確定した。
(略)
東氏は一審の途中で突然、農民3人の首を斬ったと言い出した。自らの非行を証言すれば他人の非行も真実になるだろうと考えたらしい。米国の入国拒否はこの証言のためだろう。ところが二審では4人斬ったといい「東日記」には2人となっている。戦友たちは斬ったことなどないはずだ、と言っている。
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