中国帰還者連絡会(中帰連)
中帰連は昭和32年に結成され、撫順・太原からの帰国戦犯の約半数が加入した。日中友好協会にも団体加入、親中国運動を展開した。それはつまり反日・反米・反韓・反台であった。
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三光
昭和32年、「三光」という本が、衝撃をもって日本人の前に現れた。
内容の過激さゆえ、当初は驚きと同時に疑いをもって見られていたのだが本多勝一氏の朝日新聞連載「中国の旅」で「三光」という語はかなり定着してしまった。
「三光」という言葉は日本語ではない。国民党と中共党がお互いに相手の残虐さを罵るために使ったプロパガンダ用語である。
にもかかわらず「三光」は日本の歴史教科書にまで載るようになった。
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捕虜が敵国で書かされた文章など、一笑に付すのが常識的な対応であろう。
しかし、出版されると内容に疑いをもたれながらも、「三光」はそのえげつなさにベストセラーになり知名度をあげた。
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時期、場所がウソ
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つまり、小田少佐は手記を強要されながらも、3人に累が及ばないよう、日本に帰った人だけを登場させ、時期も3人と関係のない35師団時代にしたのである。
関係者が読めば全く架空のホラ話であることが判るよう、周到な計算のもとに書かれたものと言える。
しかし、時期、場所、部隊構成がデタラメでも行為は事実なのではないか、という見方もある。これを田辺敏雄氏が元78大隊の人に聞き取り調査をした。
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『…したがって「三光」は大嘘』だということ。
もっとも、中帰連側ではこの人たちが口裏を合わせ、嘘を言っているというのだが。
ここに初登場した「三光」という言葉は、この後日本において「三光作戦」「三光政策」という言葉になり、日本軍が支那全土で長期的に行なった計画的大量殺戮であった意味合いを持たされていった。
教科書や百科事典にも載っており、すでに史実のようになっている。
小田少佐は自分の書いたものが、こんなに出世するとは夢にも思わなかっただろう。
そもそも「三光」は中国語である。
台湾の辞書には三光を『放浪中の中共党軍のスローガンで、民衆から略奪したものを「全部分けよ」「食い尽くせ」「使い尽くせ」と称し』(略)
中共の辞典には『三光とは抗戦時期、敵の傀儡軍隊(汪政権)が抗日民主根拠地で行なった残酷な人民殺害手段』で『国民党反動派軍隊(蒋介石軍)も解放区に向かってこのような非人道的政策を行なった』とある。
今日の、日本は悪逆非道なことばかりしてきた、という日本罪悪史観を作り上げたのは、日本軍がやったと云われる具体的な残虐行為や残虐事件である。
そして、それらの根拠として、撫順戦犯の手記・供述書・証言が最大のネタ元となっている。
中帰連とホラ話「三光」
http://www.asahi-net.or.jp/~ku3n-kym/doyoyon/doyoyo8.html