●暴虐支那軍が違法毒ガスを使用し住民諸共殺害
昭和13年6月21日の同盟ニュース
「山西の敗敵、妄動しきり 暴虐毒ガスを使用して挑戦」
皇軍が黄河以南作戦のため一部兵力を移動している隙に乗じ、山西の敵大部隊は気勢を挙げ、徐州敗戦の汚辱を一挙に雪ぐべく、手段を選ばざる挑戦に出で、暴戻にも毒ガスを使用し、付近の無辜の民は、この惨禍を蒙るもの多く、正に人道上許し難し・・・
昭和13年7月22日の同盟ニュース
「暴虐支那軍又も不法 イベリット糜爛性毒ガス使用」
我が森本部隊の息をもつかせぬ猛攻撃に敗退一路を辿る支那軍は、張杏鎮において、又もや不法にも、猛烈爆発式撒毒管によるイベリット糜爛性毒ガスを使用、我が急追をはばまんと・・・
(参考)
1930年(昭和5年)、9月11日、国民党軍は、共産党の長沙暴動に対し、飛行機から毒ガス攻撃を行った。
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糟谷領事の報告によれば、
「12日(省政府秘書)、楊宜誠ガ極秘トシテ語ル処ニヨレバ、11日、ニハ飛行機ヲ以テ毒瓦斯ヲ使用シ共匪軍ニ相当ノ打撃ヲ与エタルガ・・・」
9月14日、閻錫山は、「蒋介石が毒ガス弾を使用して、地方人民を惨害しているので、人民を救うため下野して戦争を休止する」と、電報を発し下野。
『日中戦争』児島襄著
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敵毒ガスで逆襲
1937年12月
十日夜半より早暁にかけて、光華の伊藤部隊正面に大逆襲し来った敵は、城壁を奪回せんと、必死の勢い物凄く手榴弾、機関銃の他、催涙弾を雨注し来たり、我が将兵は直ちに防毒面をつけて応戦、一時は非常な苦戦に陥ったが、肉弾戦を以て之を撃退したのである。
『支那事変戦跡の栞 中巻』 陸軍画報社編 国書刊行会刊 P174 南京攻略の部分より抜粋
支那派遣軍化学戦教育隊がまとめた【敵軍毒瓦斯(細菌を含む)使用調査】(内藤裕史編・解説『毒ガス戦教育関係資料』所収)によれば、
昭和十二年から昭和十五年にかけて、中国軍による毒ガス戦の事例は十三件、細菌戦の事例は二十件であった。
右の調査は、その年月日、場所、種類、方法、被害、概要を一覧表で記録している。
例えば、昭和十二年九月七日、宝山城付近にて中国軍はコレラ菌 を井戸に投入し、このためその井戸水を飲んだ日本軍及び中国人民数十名が罹患している。
また、昭和十三年七月二十六日、九江においても同様の理由で日本軍百二十九名、中国人民五百名の罹患者を出している。
また、重慶を脱出した国民党軍の元軍政部防毒処勤務将校の情報をまとめた【支那軍の化学組織系統の概要】(昭和十六年六月二十六日付、前掲『毒ガス戦教育関係資料』所収)によれば、
中国における毒ガスの研究及び製造は、「軍政部兵工署理化研究所」において行われていた。
中国は1926年3月、ソ連から一万発の毒ガス弾を購入し、1937年9月、第二次上海事変で細菌、猛毒兵器を使っている。
日本軍は中国軍から、大量のソ連製毒ガス兵器を押収している。
『細菌・毒ガス戦/中国が最初の違反者だった』信夫淳平博士
【昭和史研究會報】中村粲/第39、40より
昭和12年9月2日
中国軍は化学兵器弾を上海派遣軍司令部近くに撃ち込んでいた。
司令官の松井自身、「石鹸水泡のようなものが広がった」のを見ている。
『将軍の真実 南京事件 松井石根人物伝』早瀬利之
「張發奎の戦死説 自軍毒ガスで大被害」
最近広東軍を中心とする支那軍中毒ガスを使用せんとして却って自軍を痛め顔面手足等を廃爛させ戦闘に堪えなくなったもの1万2千の多きを算するに至ったと伝えられてゐる。尚広東軍首脳者たる張發奎の南京における戦死説、…(等々人名傷病状態略)…何れも去る九日広東に輸送され相当重傷であるといはれこれに加ふるに余カンボウと呉鉄城の内訌が盛んに流布され広東方面では漸く動揺の色が濃厚となってきた。
昭和十二年十二月十三日朝日新聞
「敗敵毒ガス作戦 山西で防毒面多数押収」
ベルギ-製250支那製1万その他約2万の防毒面をわが方において押収せるが支那軍がかかる大量の防毒面をそなへていることは卑劣にも毒ガスによりわが精鋭無敵の皇軍に抗せんとする意図を明白にしてをり、さきにわが進撃を阻むため黄河を決壊せしめ数十万の自国良民の生命財産を奪った敵はここにまた毒ガス使用の戦術を持ちふるに至った(後略)
昭和十三年六月二十九日大阪毎日新聞夕刊
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