日本の大陸政策の背景
(略)
こういう中国的考え方を頭に入れた上で、日本を見なければならない。日本は日清戦争に勝利したが、「国際道義上、他国の領土を分捕ることは許されない」との列強の干渉で、多くの権益を奪われた。確かに、それまでは勝者が領土なり何なり切り取り放題であったが、時代は変わった。倫理・道義というものが大切になったのだ。引き下がるしかない。しかし取り上げられたものがそのままロシアのものになったから怒りが爆発した。それだけではない。ロシアに対しては、あの高尚な国際道義なるものの一言も言われなかったのである。臥薪嘗胆、黙って見ているしかなかった。ロシア人がにっこり笑って持っていくのを。日本人が血を流して勝ち得たものを。
さすがの日本人も怒髪天を衝く。通常の小競り合いの後、日露戦争が始まった。アメリカでは日本支持派が大勢を占めた。数ヶ月でロシアを一蹴した日本は「下関条約で確定した権利を奪取」すべく、万全を期して和平交渉に臨んだ。しかし、しかしである。列強はまたもやあの高尚な「国際道義の歌」を合唱した。歌詞は同じだが、題名が「国際親善の歌」と変わっていた。日本の要求は国際親善上認められないという歌である。しかしこれまた不思議なことに、1905年、ニューハンプシャー州のポーツマスで行われた講和会議に出席した日本の全権大使は、さしたる不満も漏らさず、黙ってこの歌を聴いたのである。しかしさすがに、日本国内では日比谷焼打事件等の暴動が起こった。帰国した全権大使の身の安全を図って厳重な警備体制を敷かねばならないという事態にまで進展した。それほど国民の怒りは大きかったのである。
二十一ヵ条要求の背景
世界中が戦争に巻き込まれていた1915年、日本はこれを好機と捉え失地回復を図った。二十一ヵ条からなる文書を認め、中国代表団に提示した。いわゆる「二十一ヵ条要求」である。確かに「要求」といわれれば「要求」かもしれない。全容は明らかにされなかったが、日本が最も力を入れたのは、1923年に期限切れとなる鉄道の租借期限の延長であった。これを知ったアメリカがまず日本非難に回り、列強も同調したので要求を幾分和らげることとなった。これは交渉に当たった日本の外交官からじかに聞いた話であるが、内容が公になるずっと前に、中国代表団は内容に満足し、調印に同意していたそうである。ところが、中国側はこう持ち出してきた。「内容はこれで満足だが『要求』ということにしてくれまいか。そうした方が見栄えがする。やむなく調印したのだという風にしたいのだが」と。これを受けて日本側は「その方が良いならそういたしましょう」と言って、高圧的な態度に出るふりをした。それで中国人は不承不承、署名をするという風にしたのである。裏でかなりの金が動いたであろう。中国との交渉事は金次第とみてきたからである。
ところが今回は計算違いだった。「日本に脅迫されやむなく調印した」という体裁にしたのは、中国の国内の中国人に納得してもらうためであった。ところがアメリカがこれに噛み付いた。「哀れな中国に、過酷な要求を突きつけるとは許せん」とばかり、同情が湧き上った。
(P256~258)
『暗黒大陸中国の真実』ラルフ・タウンゼント著(1933年)
- 関連記事
-
- 南京虐殺は嘘72・支那軍による虐殺12・支那事変の前後編 (2007/01/17)
- 支那産食品は命がけ!命がほしければ食べるな!政府は輸入全面禁止を!毒菜、毒果、毒肉、毒魚、毒調味料… (2007/01/16)
- 日本の大陸政策の背景・二十一ヵ条要求の背景・『暗黒大陸中国の真実』ラルフ・タウンゼント著(1933年)17 (2007/01/16)
- 南京虐殺は嘘71・支那軍による虐殺11・苛酷な徴発、略奪、徴兵等【支那軍と支那人民の殺し合い】 (2007/01/16)
- 給食に農薬中国野菜 (2007/01/15)