まずは、南京の支那軍総数
南京防衛軍戦力推計
http://nankinrein.hp.infoseek.co.jp/page008.html
(抜粋)
南京城攻防戦12月10日頃の戦力は、上記戦史分析で考察したように 「大目に見積もっても9万程度」である公算が強いようです。12月13日の陥落時の戦力は、戦死,逃亡などを考慮すると、東京裁判判決に記された「陥落時5万」というのが概数として妥当なようです。(この5万には揚子江ルートで脱出成功したものが含まれる)
(略)
これらを考慮すると、各史料と最も整合性があるのは、12月10日頃の動員兵力が約8万~9万(雑兵含む)。脱出成功および逃亡など生存が4~5万。差し引き4~5万から戦死をマイナスした分が、捕虜・便衣兵として処刑された分と考えられます。日本軍に捕獲後殺害された概数としては2万~3万といったところでしょう。
■支那兵の結末の内訳
戦闘で戦死した者、2万
便衣兵となり摘出されて処刑された者、1万
日本軍に投降しようとしたが日本軍が捕虜として保護することを拒否した(状況に応じて投降兵の助命を拒否することは合法)ため処断された(戦死した)者、1万
不当な投降兵(捕虜)処分、0~8百
捕虜として生存した者、1万
その他は南京脱出成功(約4~5万)
■結論■
日本軍による不当な支那兵処分は、0人~8百人
ちなみに、支那軍は、負傷や投降して捕まえた日本兵を捕虜として保護することは全くなかった。
支那軍の場合には、捕まえた日本兵を「反戦兵士」にする僅かな者を除いて全員惨殺した。
支那軍に捕まった日本兵全員があまりにも惨たらしく虐殺されていたので、陸軍は1941年1月に示達した「戦陣訓」の中に、「生きて虜囚の辱を受けず」という有名なくだりを挿入した程だ。
「戦陣訓」は1941年1月に示達されたことからも分かるように、支那事変における陸軍の行動規範を示したものだった。
しかし、その後日本が1941年12月から戦ったアメリカ軍なども、支那軍のように全員惨殺までは流石にしなかったが、捕まえた日本兵の殆どを惨たらしく殺していたので支那軍と大きな違いはなかった。
資料としては、チャールズ・リンドバーグ大佐の『リンドバーグ第二次大戦日記』や、ジョン・ダワー教授の『人種偏見』などがある。
さらに、ソ連に至っては、日本がポツダム宣言を受諾した後に100万人以上の日本人を拉致、強制連行、労働をさせ、うち数十万人(50万人超か)を大虐殺した。
こうして見ると、第2次世界大戦中、捕まえた敵国の兵士を最も良く保護していたのが日本軍であったことが良く分かる。
一方、日本軍による無辜の南京市民虐殺はまったく無かった。
誤爆などの事故による犠牲者は居たが、日本軍による無辜の南京市民虐殺は0人だった。
南京の人口は日本軍占領直前に約20万人だったが、日本軍占領1ヵ月後に約25万人に増えており、更に9ヵ月後には40~50万人まで増加した。
まず、これで日本軍による市民大虐殺がなかった証明になる。
また、15人の安全区国際委員会メンバーや100人を超す日本人報道関係者などは、南京に長期間滞在したにもかかわらず、誰も1度も日本軍による南京市民虐殺を目撃しなかった。
更に、現地(南京)に居た日本軍(憲兵隊など)に通報された日本軍による強姦事件は約10件で掠奪事件も似たようなものだったが、虐殺事件に関しては0件だった。
また、憲兵隊が調査などによって発見・察知した虐殺事件も0件だった。
つまり、南京の憲兵隊に通報されたり、憲兵隊が察知した虐殺事件は0件だった。
目撃が0件で、現地の憲兵隊などへの通報も憲兵隊などによる発見もなく、犯人も被害者も特定できなかった。
戦後しばらく経ってから自白した元日本兵が何人か居たが、これまで本名で証言をした人は例外なくすべて嘘であったことが確認されている。
よって、日本軍による無辜の南京市民虐殺事件は0件だった。
■一般市民の死因の内訳(1937年12月~1938年春)
支那軍・不逞支那人による虐殺、数百~数千
日本軍による虐殺、0
誤爆などの事故死、1千
病死、数千
■結論■
日本軍による不当な支那市民殺害は、0人
2007年6月24日追加
●支那軍の生存捕虜が約1万人だった資料
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「捕虜1万5百」
『朝日新聞』昭和12年12月29日
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歩兵第38連隊戦闘詳報第12号附表備考
『1、俘虜7,200名ハ第10中隊堯化門附近ヲ守備スヘキ命ヲ受ケ同地ニ在リシガ、14日午前8時30分頃数千名ノ敵白旗ヲ掲ゲテ前進シ来リ午後1時武装ヲ解除シ南京ニ護送セシモノヲ示ス』
第16師団
歩兵38連隊戦闘詳報 附表第3 戦闘詳報12号附表
備考
1、俘虜7200名は、第10中隊堯化門付近を守備すべき命をうけ同地にありしが
14日午前8時30分頃数千名の敵、白旗を掲げて前進し来り午後一時武装を解除し南京に護送せし者を示す。
『南京戦史資料集』P594
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なお、城内に収容された捕虜のその後については、『南京戦史』第六章第六節「南京付近に収容した捕虜の状況」に詳しいが、最初一万人程度の捕虜が収容され、翌昭和十三年一月六日に「三千六百七十人もいるそうだ」と第十六師団経理部の小原立一少尉の日記に記されている。約半数が昭和十二年末ころ上海に送られたものと見られ、残りが汪兆銘の南京政府軍に編入されたという事実はよく知られている。
『本当はこうだった南京事件』P387 板倉由明著 日本図書刊行会
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これらを総合すると堯化門(仙鶴門鎮)付近の捕虜約七千二百名を中央刑務所(第一監獄所)に護送し収容したことはあきらかである。
『南京戦史』P324
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