FC2ブログ
正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現
嘘の歴史に騙されるな!日本最優先政治、日本国民の生命と財産と自由を守る核武装、日韓断交を実現しよう!マスゴミの嘘や洗脳工作を許すな!がんばれ!日本国民党!
202403<<123456789101112131415161718192021222324252627282930>>202405
盧溝橋事件~通州事件(1937年7月)・北支で攻撃を受け停戦しても繰り返し攻撃を受け続けた日本軍・第7章いかにして戦闘は始まったか・『シナ大陸の真相1931~1938』K・カール・カワカミ6

 1937年7月7日夕方、約150人の日本兵はマルコ・ポーロ橋の近くのいつもの練兵場でいつも通りの演習を行っていた。いつものように中国側は日本側から前もって連絡を受けていた。日本兵は実弾を携行していなかった。いつも通り彼らは空砲を撃った。

 ところが全く予期せぬことに同日夜11時40分、これらの日本兵は29路軍第37師団の中国軍部隊によって銃撃された。彼らはマルコ・ポーロ橋の方角から撃ってきた。この日中間に生じた戦闘の最初の局面に詳細に立ち入る前に我々は、北京・天津地域に軍隊を駐留させている国は日本だけではない、ということに留意せねばならぬ。日本軍派遣部隊が中国軍に銃撃された当時、この地域の諸外国の守備隊の内訳は次の通りである。

(略)

 ここでマルコ・ポーロ橋事件に話題を戻すと、150人の日本軍は7月7日の夜、中国軍に銃撃された時、実弾を携行していなかったので反撃できなかった、彼らは演習を中止し、少し退却して、約2マイルほど離れた場所にある豊台のかつて英軍兵営だった場所にある日本軍本部に通報した。深夜0時を少し過ぎた頃に援軍部隊が到着した。それから中国軍の銃撃に対する日本軍の応戦が始まった。

 そうしている間に北京の中国軍と日本軍の地方当局はこの事件の報告を受けた。直ちに彼らは日中共同の調査団を結成し、現地へ派遣した。その結果、7月8日午前6時に戦闘は止んだ。

 しかし当日午後3時及び午後6時に、中国軍は日本軍に銃撃を浴びせてきた。

 翌朝7月9日、中国29路軍の代表と日本軍松井大佐との間に休戦協定が結ばれた。

 7月10日午後5時から午後8時の間に、200人以上の中国兵が迫撃砲を使用して新たな攻撃を開始。これは休戦協定を完全に無視したものであった。日本軍は当然のことながら応戦した。しかしながらまた休戦協定が結ばれた。というのは日本軍はこの事件を地域的なものに限定して、一刻も早く清算したいと熱望していたのである。

 7月11日に日本政府は現地の日本軍に指令を送り、早期解決を図るべく努力を傾注するよう促した。

 同日午後4時、日本側の松井大佐と中国側の張自忠(天津市長)及び殷雲(河北省の公安長官)との間で協定が結ばれた。その協定の条文は次の通りである。

(略)

 7月13日、第29路軍の司令官であり河北・チャハル政治会議(事件を処理する十分な力がある)議長である宋哲元将軍は天津へ赴き、日本軍守備隊司令官の葛城陸軍中将と交渉を始めた。

 将軍は前記の条項を事実上受け入れ、7月18日盧溝橋事件について遺憾の意を表明し、事件収束の方向に向けてスタートした。

 ところが南京政府は、この事件を交渉によってではなく武力によって解決する決定を下した。盧溝橋に最初の銃声が響き渡るやいなや、南京は動員を開始。7月9日、南京政府は4個師団と戦闘機を北部へ派遣。これらは勿論、もう既に北支に大量に存在していた中国軍に追加されたものである。

 7月19日までに30個師団(約20万人)もの中国軍が北支に集結。このうち約8万人が北京周辺に展開。同日南京政府は、この事件に関する地域レベルでの決着は一切認めないし、東京は直接南京と交渉しなければならない、ときっぱり日本に通告した。これは、河北・チャハル政治会議議長と日本軍守備隊司令官との間で結ばれた協定を南京政府が拒否するつもりであることを意味する。

(略)

 この間ずっと南京政府は、このような地域レベルでの解決に対して異議を唱えたことは一度も無い。ところが今や中国の軍事指導者は、日本と戦場で対決する準備が整ったのでその結果、地域レベルで平和的に解決しようという日本の申し出をきっぱり拒否できるようになった、と明らかに確信してしまった。

(略)

 7月23日までに蒋介石自身が率いる師団が河北省に入った。これは1935年の協定への違反であり、この協定によれば南京政府は河北省に1兵足りとも進駐させない、と自ら誓ったのである。

(略)

 7月20日、宋哲元の誓約にもかかわらず、第37師団の部隊は盧溝橋付近で再び日本軍に対する攻撃を再開した。

 宋哲元将軍は、7月21日正午までに第37師団の撤退を行う、と日本軍司令官葛城将軍に再び保証した。

 同日午前11時蒋介石は会議を開き、日本に対して戦争の手段に訴えることを公式に採択した。

 7月23日、蒋介石の右腕といわれる南京副幕僚長孫浜将軍は飛行機で北京と保定(河北省の省都。北京南方90マイル)に赴き、その地域の軍隊に日本軍と戦うよう勧告し、金・人・武器の面で南京政府からの寛大な援助を彼らに約束した。

 このようにして、第37師団を撤退させるという宋哲元の度重なる誓約にもかかわらず、この軍隊は日本軍と対峙している同じ場所に事実上留まりつづけた。

 それにもかかわらず7月25日、葛城司令官はこの事件が平和的に解決されるだろうという意見を表明。彼がこのような楽観的な意見を述べているときでさえも、中国軍は北京・天津間を結ぶ日本軍の電話線を切断したりした。この両都市の丁度真中の廊坊で電話線が切断されているのが発見された。

 7月25日午後4時20分、歩兵1個中隊に護衛された日本軍工兵隊が廊坊に赴いたが、これは同地域を支配していた第38師団司令官の張治中将軍の明確な了解を得た上でのことである。

 同日午後11時までに修復工事は完了し、日本軍の技師と兵士は鉄道の駅で遅い夕食を食べていた。その時突然、中国軍が攻撃してきた。彼らはライフル、手榴弾、機関銃、そして迫撃砲をも使用していた。

 日本軍は夜陰に紛れて、圧倒的多数の敵前で陣地を固守した。たった今修理したばかりの野外電話線を使い、天津の日本軍部隊に通報した。

 廊坊は天津から約40マイルの地点にあり、包囲攻撃された部隊が差し迫った全滅の危機に曝されているまさにこの瞬間に、通常の手段で救援軍を現地に派遣するには余りにも遠すぎて不可能である。そういうわけで翌日(7月26日)午前7時、数機の日本軍戦闘機が廊坊に到着し、中国軍陣地を爆撃し日本軍を救った。

 ことここに至ってようやく葛城司令官も、中国軍の司令官は信頼できない、という結論を認めざるを得なかった。その結果、葛城司令官は宋哲元に最後通告となる覚書を送った。

(略)

 中国軍がこれらの条項に応じなかったのは言うまでも無い。そういうわけで7月28日、日本軍は中国軍前線に向けて進撃を開始した。

 7月27日、日本政府は平和的解決の望みを捨てて中国への援軍派遣を決定した。日付に注意して欲しい。本国の軍隊を紛争地へ派遣する命令を出すまでに3週間が経過しているのに対して、南京政府は7月9日の段階で動員令を出しているのだ。20日間もの間、日本は何とかしてこの軍事衝突を最小限に抑え、地域的な紛争に限定し、平和的解決を図ろうと必死の努力をしたのである。だが中国は戦争を熱望していたのである。

(略)

 7月29日、29路軍の3千人以上の兵士が北京の北の通州で、日本の民間人200人を虐殺した。

 同日の殆ど同時刻に29路軍の兵士が天津の日本租界区域に攻撃を仕掛けてきた。そこには1万人以上の日本の民間人が居住していた。


P139-149
『シナ大陸の真相』K・カール・カワカミ著






参考

南京虐殺は嘘61・支那軍による虐殺1・通州事件
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/10890186.html

関連記事
コメント
コメント
コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する
トラックバック
トラックバック URL
トラックバック
copyright © 2024 Powered By FC2ブログ allrights reserved.