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<東京大空襲>被害者、遺族ら国提訴12億円の賠償請求・原告が指摘する「東京大空襲が日本軍の重慶爆撃などの先行行為(原因)の結果として受けた被害」は間違い!重慶爆撃の真相と東京大空襲との明確な違い

<東京大空襲>被害者、遺族ら国提訴 12億円の賠償請求
3月9日20時21分配信 毎日新聞

 1945年3月10日、約10万人の命が失われた東京大空襲の被害者や遺族ら112人(57~88歳)が、国に1人当たり1100万円(総額約12億3200万円)の損害賠償と謝罪を求め9日、東京地裁に提訴した。原告団によると、空襲被害者の集団訴訟は初めて。
 原告は現在、東京、大阪、北海道など20都道府県に住み、弁護団は全国30都道府県の110人。訴状には、原告全員の被災や戦後の生活実態を1ページずつ盛り込んだ。
 訴状によると、旧軍人・軍属やその遺族は国家補償を受けているが、空襲などの民間被害者に補償制度がないことから「法の下の平等に反する」と主張。大空襲が、日本軍の中国・重慶爆撃などの先行行為(原因)の結果として受けた被害である点からも、国に責任があると指摘している。
(以下省略)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070309-00000111-mai-soci









いろいろと、疑問が多い集団訴訟だが、以下の点について説明しよう。




>大空襲が、日本軍の中国・重慶爆撃などの先行行為(原因)の結果として受けた被害である点からも、国に責任があると指摘している。





この人たちは東京大空襲と重慶爆撃の違いを全く理解していない。



―――――――
1945年3月9日から10日に日付が変わった直後、深夜の午前0時8分に初弾投下が行われた。B-29爆撃機344機による爆撃は、40km2の円周上にナパーム製高性能焼夷弾を投下して東京の住民が逃げられないようにした後、東京市の隅田川沿岸地区を中心にその円の内側を塗りつぶすように約1万2千発(2,000トン)もの油脂焼夷弾、黄燐焼夷弾やエレクトロン焼夷弾が投下された。
―――――――



上の記述は、1年ほど前に、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』からの引用(最近は少し変更されている)。

アメリカ軍が行った空襲は、明確に、民間人を大量に殺害するための空襲だった。

一方の日本軍が行った重慶爆撃は、全然違った。


―――――――
1938年から始まった重慶爆撃は当初は飛行場や軍事施設のみを攻撃していたのですが、重慶市街にも相当数の支那軍側の対空砲台があり、そのため日本軍の被害も増大する状況となったので、1940年6月頃になって作戦指導部は市街地域の徹底した爆撃を決意しました(海軍航空隊・巌谷二三男氏、陸軍航空隊独立第一八中隊・河内山譲氏の証言)。
―――――――




これらの証言には「絨毯爆撃」という言葉が用いられたりしているが、我々が東京大空襲などでイメージする絨毯爆撃とは実態は違っている。

重慶爆撃の場合、犠牲者はそれほど多くはなく、『重慶抗戦紀事』(1937-1945、中国人民政治協商会議四川省重慶市委員会文史資料研究委員会編、1985年8月刊)によると、犠牲者は、1939年から1943年の約5年間で1万1889人だ。
そのうち、1939年5月の2日間で3991人の犠牲者が出たが、この直接的な原因は火災であり、爆撃は間接的な原因だった。

1940年後半から、日本軍が、支那軍の対空砲火陣地だけではなく、蒋介石政権の軍事政治経済の中枢機関、重要資源、主要交通線等を爆撃をしたことは事実だろうが、それ以上の爆弾投下は爆弾等の物資の無駄遣いとなる。




だから、支那軍が上海で行った故意にホテルやデパートを狙った爆撃や、米軍が行った東京などの住宅地への焼夷弾による絨毯爆撃や、広島・長崎への原爆投下などと同列にするのが間違いで、それは5年間で1万人強という重慶爆撃の犠牲者の少なさが証明している。



南京戦の前にも後にも提出した日本政府の和平案を蹴って重慶に逃げ込み、その重慶の市街地から対空砲火で日本軍機を攻撃したのだから仕方がないのだ。

最初から民間人密集地を狙った支那軍による上海爆撃やアメリカ軍による原爆投下や東京大空襲とはまったく異なる。




重慶爆撃のまとめ

1.支那軍が対空砲台を市街地に設置していた。
2.1938年から始まり、当初は飛行場や軍事施設のみを攻撃していたが、相手の被害が少なく味方の被害が増大していった。
3.1940年後半からは、蒋介石政権の軍事政治経済の中枢機関、重要資源、主要交通線等を爆撃するようになった。(決して住民狙いではない)
4.したがって、証言には絨毯爆撃という言葉が使用されたりしているが、東京大空襲のような住宅地への焼夷弾のばら撒きとは違うので犠牲者は少なかった。
5.戦争の早期終結への願望も要因としてあっただろう。










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