漢代をイメージしたテーマレストラン、大盛況―北京市
3月26日16時28分配信 Record China
(略)
レストラン経営者に話を聞くと、店内で開催される自慢の「文化活動スケジュール」を見せてくれた。そのスケジュールによると、月曜日から土曜日の午前には儒教経典の読書会が行われ、また儒者の講義も定期的に予定しているという。午後からは、琴・将棋・絵画や古代の礼儀作法レッスンが行われるとのことだ。また、昼と夜の食事時間には、衣装の展示もある。これら文化活動は、全て無料で開催するそうで、「食事に来なくても、みなさん気軽に参加してください」と経営者は呼びかけていた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070326-00000022-rcdc-cn
昨日80頁を引用して掲載した『世界政治と東亜』G・F・ハドソン著だが、80頁よりも前に「儒教」に関する興味深い記述があったので順番は前後するが、紹介しておきたい。
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19世紀の最後の30年間の支那と日本とに見られる驚くべき対照に関する説明は、西洋諸国の強力的侵入以前の両国に存在した相異なる社会的政治的制度物に求めなくてはらなない。
極簡単に言えば次のように言えるであろう。
第1には、日本における武家階級の社会的優越は、改革を行うために有利なる1要因であった。というのは、軍事的敗北に関する議論は、保守的思想の駁撃としてこの階級の人達を得心せしめた。
しかるに一方、その議論は、支那社会において最優位を占めた「儒者」の階級を得心せしめなかった。
第2に、日本の異常なる政治の2重体制は、朝廷と革命的諸力との、双方とも大なる利益を受ける1結合に結びつき易かった。
しかるに一方、支那においては、宮廷は反動的な規制特権階級と不可分に結ばれていた。
(略)
この儒者階級は…(略)…そしてその宗教は、支那の固有の文化的伝統と同一のもので、それが学究的に仕上げられて1つの厳密な教義の形態をとったものだった。
この宗教は外国人には Confuciansm と言われているが、支那においてはもっと俗世的に、単に Fu chiao 即ち sholars' teaching と言われているのであって、それは sholar とConfucian とが同意語となってしまったからである(1)。
官吏登用試験は、或る種の古典のテキストの習得、公認の文範に準拠する論文起草の熟達、及び宋朝の儒者達により規定された儒教哲学の正統的解釈の信奉を要求した。
この試験制度はいかにも堂々たる而も効果ある文化的=政治的創造物ではあったが、しかし思想の独立には致命的なものだった。
そして、あの支那の天才たちの精妙を極めた文学的及び芸術的達成は、この制度がその最終的なステロ版的な形式に固定した時より以前の諸時期に属するものであることも注目されてよい。
19世紀に至るまでの間にこの制度は、支配的官僚の視野における極端な偏狭さと保守主義とをつくり出していた。
C・P・フィッチジェラルドが言っているように、『儒教以外の哲学を全然問題にしないところの、古典の伝統によって訓練され、儒教哲学の最も因襲的な解釈を土台とする競争試験で選抜されて官界に入って来たこの人達の頭脳の型は、あらゆる進歩の観念の前に閉ざされ、殆ど変化の可能性を――ましてその必要の如きは尚更――理解する力を持たないものだった。
このような教育に叛逆した者、ないしはかかる伝統に不満を感じた者は、これらの専門的諸試験に合格しなかったが、或は偶々官吏に登用されたとしても到底その雰囲気に馴染むことができず、自ら退職するか又は何の精力も揮えない閑職に左遷されるかした。
この制度は、自己永続化的なものであって、外見上は不変不易に見えた(2)』。
1)これは基督教がヨーロッパにおいて clergy's teaching と呼ばれてきたようなものである。この点、イギリスの慣習としても普通には the churches といい、 the clergy といえばキリスト教の教会や牧師を意味するものとしている。その限りでは似通ったところがある。尤もこれらの英語は時にはキリスト教以外の諸宗教の団体や職業的牧師に対して使用されることもある。
2)「支那―文化小史」(クレセット歴史叢書543頁)。
斯くの如き教育と視野を持った支那の儒者的管理、即ちマンダリンは、自分たちは本来宗教的及び文化的伝統を完全に維持することを職務とするもので、ただ第2義的にのみ俗事に関する行政に携わるのだと考えている人々であった。
これは即ち、彼等から見れば、戦争の敗北は、また外国による征服すらもが、新しい外国の習慣や思想を支那の文化的体制に持ち込むことに比すれば小なる災禍であるということを意味した。
(略)
一方、文治行政的支配は依然、明朝時代に試験制度で選抜された支那人の手に握られたし、満人の諸王侯や廷臣達は『支那人そのものよりもっと支那人になってしまった』。
満人制覇の結果は、ただに支那の儒者階級を前より更に一層本質的に文官的なもの、非武官的なものたらしめたばかりでなく、唯一の必要事は正当儒教の保存でその他の一切事は第2義的だという思想を助長するに至った。
そういうわけで、西欧の侵入者達が1839-42年の戦争でその軍事技術の優越を実証して、新たな貿易港の開港を余儀なくせしめた時も、「中国」の古い諸制度の改革が必要だということ、そしてかつての馬来人や日本人の海賊に代わって、支那南岸の厄介物となった船乗渡世の夷狄どもの新しい一群と対抗すべき任務に適合した制度に作り直す必要があるということは、支那の役人達の頭には一向に明らかではなかった。
夷狄撃退の手段を講ぜねばならないことは認められたが、しかし軍事的強化を勝ち得るために、孔子の教えの清浄な言葉を西洋の学問で汚すとか、西洋の経済的政治的組織の諸様式をやたらに移入して国民の良習を変えるとか、そういう考慮は払わなかった。
当時の儒者的官吏のあいだに一般的に見られた考え方の実例は、阿片戦争中及びその直後に生じた海上防備に関する論争の中に明らかにされている。
道光帝は、英軍に対する支那軍の相次ぐ敗北を甚だ憂慮し、幾つかの布告を出しているが、それは改革を容れんとする意思が現れている。
1842年7月の勅令に帝は言っている。
『惟うに乱逆の夷狄等は、吾国の戦船が海上に進出して彼等を撃破し得ざるが故に優勢を誇っている。
それ故に彼等は怖るるとことなく意のままに行動する。福建、浙江、広東がおのおの大砲を備える大型戦船を建造し得るならば、乱逆の夷狄を海上において撃破し得るであろう』。
南京条約締結後間もなく出された皇帝の1布告に於いては、海上防備の再組織を命じてこう云っている。
『戦船の規模、構造、装備は、旧来の方法及び因襲的慣行に限定すべきではない』。
けれども、浙江省の総督は、すでに広東で着手していた外国型船舶の建造に反対して、次のように報告した。
『吾国には堅固な用材甚だ少なく、適当な熟練を有する造船工が得られない。もし吾々が旧に外国船の模倣を企てんか、それは外国船の如く強力なるを得ざるべく、もしまた吾々が等しく強力に建造し得たにせよ、何人もその使用法を知らざるが故に無益であろう』。
この型の議論が勝利を得た。
そして海軍改善の企画は放棄された。
従って支那は、1856年の戦争に際しても、1839年の時以上の有効な抵抗をなす準備は1つもできていなかった。
障害物は技術的教育の問題であったし、それは外人のみから得られるのであったが、それこそはまた各種の外国の風俗や思想を支那に入り込ませる導管であったであろう。
P29-32
『世界政治と東亜』G・F・ハドソン著(1939年)
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つまり、支那で最優位だった儒者階級は、戦争で負けようが何しようが、汚らわしい外国の習慣や思想、また、経済や政治の制度を採り入れようとはしなかったということ。
日本(武家社会)は、外国に対する軍事的な敗北は何としてでも避けようと考えたので、明治維新を起こして西洋の諸制度や文明を採り入れ、殖産興業、文明開化、アジア最初の近代憲法の発布(立憲君主制)などを実現した。
ところが、一方の支那は、儒者の腐った頭のために、日本のような試みはなされなかった。
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