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「1927年の南京事件への道」?・群雄割拠の長い戦乱の後1927年に残ったのは国民党と奉天軍閥の2つのみだった・『世界政治と東亜』G・F・ハドソン著9

 孫逸仙の死後、蒋介石並びに黄埔軍官学校生徒の試みた第1撃は、孫が前に輸入した雲南傭兵団の広東からの放逐であった。
広東人は憎むべき「夷狄」に激しい復讐を加えた。
広東は今や革命的討伐を熱望する真の国民軍の手にあった。
そして1926年の春、蒋は、広東省から揚子江流域への、彼の有名な北伐の途に上った。
討伐は着々と成功を収め、1省また1省と国民軍の手に帰した。
宣伝と策謀によって土台がすっかり出来上がっていたので、真の戦闘と称すべきものは殆どないくらいであった。
多年軍閥の強欲に悩まされていた一般民衆は、改革案を携行する侵略者を到る所に歓迎した。

そして軍閥ないし準軍閥は、その度し難い嫉妬排擠心のために統一戦線が作れないので、政治的に訓練された国民軍に対抗することができなかった。
揚子江地方の大軍閥たる呉佩孚と孫伝芳は、部下の将校たち――彼らは国民軍に寝返った――に見捨てられ、「クリスチャン将軍」馮玉祥も国民軍権力に来り投じた。
長沙は7月12日に、漢口は9月7日に、福州は12月3日に、杭州は1927年2月18日に、それぞれ国民軍の手に帰した。


 1927年初頭には、支那にはただ2つの大きな党派が残っただけであった。
1つは国民党、1つは満州を根拠にして北京に傀儡政府を有する張作霖の奉天軍閥であった。

爾余の諸党派はその何れかの側に合流していた。
奉天軍は揚子江下流の孫伝芳の遺領を占有していたが、国民軍はこれを撃退し、3月22日には上海(外国居留地を除き)を、その2日後には南京を占領した。

P182
『世界政治と東亜』G・F・ハドソン著(1939年)









今回から3回に亘って、「1927年の南京事件への道」と題して本当にあった南京事件の背景、経緯、様子などを述べる。

それまでの長い群雄割拠の戦乱を経て1927年頃になると、北京を実効支配していた満州の張作霖の奉天軍閥と、広東の蒋介石の国民党の2つに集約されていった。

1926年、蒋介石は北伐を開始した。
北伐軍は、長沙、漢口、福州、杭州・・・と次々と侵略に成功していった。
1927年3月、北伐軍は、北京など北支を目指し更に上海、南京と立て続けに占領していった。


次回に続く。











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