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正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現
嘘の歴史に騙されるな!日本最優先政治、日本国民の生命と財産と自由を守る核武装、日韓断交を実現しよう!マスゴミの嘘や洗脳工作を許すな!がんばれ!日本国民党!
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1929年にソ連が満州で武力行使・他国における自国財産権を保護するための戦争はすべて自衛行為・1928年のパリ不戦条約の正しい解釈・『世界政治と東亜』G・F・ハドソン著15

 一方、東支鉄道と南満州鉄道は、何れもその所属国にとっては死活的な権益であった。
前者はソ連にとって、満州突出部を貫いてウラジオストックに至る直線交通路であったからであり、後者は同鉄道本支線及び付属諸事業に投下された資本が巨額にのぼり、日本の国民経済体制における主要な1要素をなしていたからである。

これらの権益の重大性に加えて、日露両国政府が各自の鉄道の所有及び管理に直接関係していたことを思えば、1929年の満州においては、支那の民族革命過程において従来起こった如何なる衝突よりも遥かに尖鋭な衝突の舞台が設けられたことは想像に難くないだろう。

 最初の攻撃は東支鉄道に加えられた。
この鉄道のロシアの組織が共産主義の宣伝と陰謀に利用されているという口実で、満州の官憲は張学良の指揮により、1926年の高圧手段を更に大規模に繰り返し、同鉄道の電信電話組織を奪取し、ソ連の建造物を占拠し、2百名の露人従業員(その中には総支配人も含まれていた)を逮捕し、事実上同会社のソビエト権益を没収した。

ソ連はこの挑戦に応えてシベリア国境に軍隊を集中し、事件収拾の交渉談判の決裂後に軍を満州内に進め、付近の支那軍を攻撃し――該地域の永久的占領は行わずに――支那官憲を膺懲するの策に出た。
この宣戦しない戦争の戦術は絶大の効果を現し、張学良はその軍隊が1929年11月に大敗を喫して満州里及び海拉爾から駆逐されて後は抗争を放棄し、無条件にロシアの要求を容れ、東支鉄道は旧状に復し、同社の付属諸機関の宣伝活動に対しても苦情を言わないことにした。


 このソ連の勝利は武力行使によって得られ、ただそれのみによって得られたものであった。
他の諸強国による紛争仲介の申入れをソ連政府は断乎として受付けず、この紛争は第三国の干渉を交えずに、ソ支両国の直接交渉によって解決されねばならないと主張した。
ソ連は聯盟加盟国ではなく、従ってこの事件をジュネーブに持ち出しても無駄であった。
但し理論的には支那は連盟規約第17条(聯盟加盟国以外の国家に対する制裁を規定している)によって救済策を与えられてよいわけではあったのだが、
ロシアは僅かその1年前に『国策遂行手段としての戦争を排斥する』ケロッグ条約に調印していたのであって、同条約調印国たる数カ国はその事実に関しロシアの注意を喚起したが、ソ連政府はそのような抗議には耳を貸さず、ソ連軍の支那領土侵入は自衛手段であると主張した。

支那軍はソ連領内に侵入したのではなく、如何に挑発的高圧的であろうとも自国領内で行動したものに過ぎなかったから、ソ連の論法は他国における自国財産権を保護するための戦争はすべて自衛行為だということにならざるを得ず、かくしてケロッグ条約は、調印国全部の批准がすまないうちに早くも空疎な1形式に過ぎないことを露呈した。


P196-198
『世界政治と東亜』G・F・ハドソン著(1939年)










つまり、1928年に調印されたパリ不戦条約(ブリアン=ケロッグ条約)だったが、翌年1929年には意味のない条約だったことが判明したのだ。

パリ不戦条約(ブリアン=ケロッグ条約)締結時の米国務長官ケロッグは、条約の批准の可否を検討する上院外交委員会で、


「自衛権は、関係国の主権のもとにある領土の防衛だけに限られてはいない。そして本条約のもとにおいては、自衛権がどんな行為を含むかについては、各国みずから判断する特権を有する。」

と証言していたのだから、満州におけるソ連の武力行使は正当化されて当然だろう。

秦郁彦など左翼学者は、しばしば、「1931年の満州事変は1928年のパリ不戦条約違反だから日本の侵略だった」と言うが、無知丸出しだ。

他にも、パル判事は東京裁判で、外国で武力行使しても自衛と認めるホールやリビエなどの解釈を紹介している。

実はフランクリン・D・ルーズベルトなどアメリカの歴代大統領も同じ認識だった。


「我国の指導者たちは常に、我国の安全保障問題は我々の国境線に留まるものではないと考えてきた。モンロー大統領とそれ以後すべての大統領は、海を越えてくる侵略者の脅威から、米州諸国の独立を守るために必要ならば、力の行使も止むを得ないと考えてきた。」











(参考)4月12日


【中国】【今日は何の日?】1927年:蒋介石、上海クーデター
4月12日8時40分配信 サーチナ・中国情報局


 1927年4月12日、上海で蒋介石による反共産党クーデターが発生した。

 国民党と共産党は1924年にはじめての協力体制「第一次国共合作」を開始、しかし蒋介石は次第に反共色を強めた。一方、1927年に北伐の過程において国民党左派と共産党は、蒋介石の反対を押し切って武漢政府を樹立。同政府のもとで大衆運動は激化し、3月には共産党指導による労働組織、上海総工会が上海を占領した。

 このため、浙江省の資本家や外国勢力は蒋介石に対し、資金提供と引き換えに大衆運動の鎮静化を要請。蒋介石は反共クーデターに踏み切った。

 4月12日未明、上海の暗黒街を支配する青幇・紅幇などギャング団が総工会を襲ったのをきっかけに、蒋介石配下の軍が総工会関連機関を襲撃。総工会糾察隊を武装解除し、抵抗する者を射殺した。

 翌13日には労働者による大規模な抗議デモが行われたが、軍は機銃掃射などで鎮圧。また、市内の至るところで「共産党員狩り」も行われた。15日までに延べ300人以上が殺害、500人以上が逮捕され、行方不明者は5000人に上ったとされている。

 18日、蒋介石は武漢政府と分裂して南京国民政府を樹立した。その後、武漢政府内でも共産党と国民党左派の対立が深まり、第一次国共合作は破局を迎えた。(編集担当:梅本可奈子・如月隼人)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070412-00000000-scn-cn





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『世界政治と東亜』G・F・ハドソン著12
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/17716518.html








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