1931年には張学良は、長城南方の戦勝に勇気を得、「国権回復」に手柄を樹てて国民党に対する彼の威勢を高めんとする一念から南満州における日本の権益を蹂躙し始めた。
一方、それと時を同じうして日本は、世界経済に継起した諸事件のために尖鋭な国内的危機に陥り、ひいて軍主的=強硬一派(それは1920年以来鳴りを鎮めていた)の急速な再起を見るに至った。
南満州における支那国民党一派のやり口は、南満州鉄道体制を絞殺すること、そして渤海湾の胡蘆島の新港を基点とする競争線を敷設することによって、また満鉄の活動の拠って立つ各種の条約上の規定を逸脱阻害することによって、満鉄を経営難に陥れんとすることにあった。
新しい抗日的鉄道網の建設資金は、大部分満鉄の出資にかかる諸鉄道のために支那が負う負債の償還を履行しないで捻出する肝であった。
これらの鉄道借款の支那の不履行は支那側の常套手段の1部であって、日本側はいつも迷惑しながらも自ら資本を補給していかなければならなかった。
度重なる外交的抗議も無駄であった。
そして満鉄の絞殺を意図する支那側は、それに関係ある一切の条約上の義務を無視逸脱した。
張学良は日本の鉄道地帯や鉄道守備隊を攻撃して戦争を始めるつもりは少しもなかったのだが、彼は自領内で日本の報復を受ける心配は少しもないと考え、また幣原男爵の「協調外交」は如何なる高圧もこらえてゆくものと考えていたらしい。
張学良は自分のしていることが当時の日本に将に爆発せんとしていた軍部強硬派を如何に勢いづけていたかを覚らなかった。
日本は1929年末に始まった世界経済恐慌の最大の打撃を受けたといってもよいだろう。
戦争景気時代に膨張して基礎も薄弱で均衡もとれていなかった日本の経済体制は、東京、横浜を焦土と化した1923年の大地震で深甚な打撃を受け、爾後の6年間をその回復のために費やしていたのであった。
そして、漸く好況の曙光が見えてきたときに世界恐慌が来襲し、斯かる希望は悉く水泡に帰し、国を挙げて激甚な経済危機に巻き込まれたのであった。
経済的崩壊がどの程度のものであったかは、日本の輸出貿易が2,100百万円(1929年)から1,430百万円(1930年)に、さらに1,118百万円(1931年)へと転落したことによっても知ることができよう。
日本の主要な輸出原料品たる生糸は、奢侈(シャシ)品工業が逸早く恐慌の重圧を受けたので、特に深刻な打撃を蒙った。
社会的にも政治的にも、生糸価格の破局的暴落は最も重大な影響を齎した。
というのは、日本全国の農民達が地代と租税を払ってどうにか生計のつじつまを合わせていたのは養蚕の副業収入の御蔭であったからである。
生糸市場の崩壊と共に、人口過剰の農村は尖鋭な経済危機に襲われ、農民も地主も共に巻き込まれた。
P198-200
『世界政治と東亜』G・F・ハドソン著(1939年)
1923年の関東大震災の後、ようやく日本経済が回復しようとしていた頃の1929年に世界恐慌が始まった。
世界恐慌によって日本経済は世界最大の打撃を受けていた頃、満州では張学良が日本の満州権益を蹂躙していた。
幣原喜重郎の国際協調外交は、支那に対して特に宥和な政策をとっていたため張学良は日本を舐めきっていたのだ。
平気で恩を仇で返す支那人に対する融和的・強調的な外交政策は、「百害あって一利なし」だという歴史の教訓とするべきである。
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幣原宥和外交の恩を仇で返す支那人
『暗黒大陸中国の真実』ラルフ・タウンゼント著(1933年)18
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/11801177.html
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