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【中国】成都で第11回「日中友好交流会議」を開催
5月24日22時34分配信 サーチナ・中国情報局
四川省成都市で23日と24日、「日中間の戦略的互恵関係と民間交流」をテーマに、第11回「日中友好交流会議」が開催された。
開会式には中日友好協会の宋健会長や四川省の蒋巨峰省長、日本側からは元内閣官房長官で日中友好協会名誉顧問の野中広務氏などが出席した。
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野中広務が出席するような会議だから碌な会議ではない。
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●お奨め本
『「日中友好」は日本を滅ぼす!――歴史が教える「脱・中国」の法則』石平著
支那に近づくと、必ず「国乱れる」日本史の法則
(歴史上、日本は支那と密接な関係に陥ると国が乱れ、疎遠になると繁栄する法則性があることを理路整然と書かれている)
成都という地は、支那事変の前年の1936年8月24日、日本人記者2人が支那の少年少女たちによって無残に惨殺された地である。
この事件については、Yahoo!掲示板に分かり易い投稿があったので紹介しよう。
Yahoo!掲示板
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責任なし15 日本人記者惨殺事件 2003/ 5/17 6:48 [ No.439 / 6851 ]
投稿者 :
rekisisiranai
満州事変以後、中国では反日が激化し、国民党中央常務委員会は、高等中学校以上の学校に「青年義勇軍」、初等中学校以下に「童子義勇軍」を組織させ、各学校の教職員、学生に「不買日貨」を宣誓させました。
そして、これら「義勇軍」には、各自の胸に「団結奮闘雪恥救国」と墨書した白布をぬいつけ、毎朝の朝礼のさい「誓雪中国国恥」、「恢復中国領土」、…等のスローガンを高唱することを義務づけたのです。
こうやって反日で高揚させられた学生達が、成都で日本人記者惨殺事件を起こしました。
以下は児島襄著『日中戦争』の要約引用です。
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1936年5月、日本政府は1931年以来閉鎖していた成都の総領事館を再開しようと岩井英一領事代理を派遣しましたが、中国は上海で「成都駐在」を拒否しました。
川越大使が「ともかく行け」というので、岩井は重慶まで行きましたが、中国側が「護照」(通行証)を発行せず、飛行機の搭乗券も売らないので、結局あきらめました。
一方、岩井領事代理には、上海から四人の同行者がありました。『大阪毎日新聞』上海特派員渡辺洸三郎、『上海毎日新聞』記者深川経二、南満州鉄道上海事務所員田中武夫、漢口の『瀬戸洋行』店主瀬戸尚の四人です。
彼らは、ともかく行く事にしました。瀬戸は商用で、他の3人は取材でです。
総領事館開館には関係ないので、「護照」はすぐに発行されました。
四人が盛都に着くと「日本総領事館開館反対」の民衆大会が開かれ、「岩井領事は即刻四川を去れ」のビラが貼られていました。彼らは『大川旅館』に投宿します。
そうした所、四人の部屋に中学生達が押しかけ、在室していた渡辺洸三郎と瀬戸尚の前でビラの文句を読み上げ、二人をにらみつけて立ち去ったのです。
学生達が護衛の警官と大声で押問答をかさね、次第に市民たちも内庭に集まってくるので、警官は、しっかり鍵をかけて外に出るなと指示しました。
午後五時ごろ、階下からガラスが割れる音、家具を打ち壊す音が響き、その音が一階から二階へと上昇して来、四人は危険を感じたので、室内の机、椅子をドアにあてがって防禦物としました。
そうしたところドアの上半部が破られ、破口から中学生がのぞきこみ叫びました。中学生の叫びを合図に体当たりが加えられ、バリケードを蹴散らして十数人が乱入してきたのです。
四人は「護照」を示し、総領事館と無関係であることを説明し、相手はようやく部屋を出て行きましたが、ものの30分もすると、また群衆が押し寄せ、前にも増して激しく打ち壊しをするようになりました。
中国人警官はこの間に約40人に増員されていますが、丸腰なので静止できません。群衆は、またも四人の部屋に乱入し、今度は「殴れ」「殴れ」と叫びながら四人に殺到してきました。
たちまち、深川経二が異様なうめき声をあげて倒れ、田中武夫は、その後は自分の記憶しかないと言っています。
田中は両手を縛られた後、財布、時計その他身につけたものを略奪され、外に引きずり出されましたが、
旅館の庭、周辺は群衆で埋め尽くされていて、群衆は口々に田中を罵りました。
現場には、警備司令部から派遣された武装兵士約二百人が来ていたのですが、発砲して群衆を解散させるでもなく、傍観していました。
学生が田中を連行してくると、兵士が田中を引継ぎ市中を引き回しました。次々に群衆の殴打を受けながら夜の街を歩かされていましたが、右耳を棍棒で強打され倒れました。
警官は「この男は死んだ」と叫んで、なおも殴ろうとする群衆を制し、人力車でカナダ人経営の『四聖病院』に運ばせたのです。田中は病院で気がつきましたが、群衆はなおも病院内に押しかけ、入れ代り立ち代り懐中電灯で田中の顔を照射しています。
午後11時ごろ、督弁公署に移され、軍医の手当てを受けて、ようやく田中は安堵しました。瀬戸尚も督弁公署に運ばれていて、二人は無事を喜びあいましたが、残る二人の安否が気がかりでした。
翌日、二人の死体が王府街の火神廟前で発見されました。二人とも全裸にされ、さんざん殴られ、顔もぐしゃぐしゃに潰されて、酸鼻をきわめた殺され方でした。
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