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1945年8月9日ソ連が参戦・日ソ中立条約を一方的に破棄し満州や樺太で略奪、強姦、殺戮・満州引き揚げ苦難の歴史・樺太の真岡に散った9人の乙女

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070805-00000009-cnc-l23


旧満州引き揚げ苦難の歴史を知って 豊橋で資料展示
8月5日11時34分配信 中日新聞

 【愛知県】1945(昭和20)年8月の日本敗戦後、中国東北部の旧満州から引き揚げた人々の足跡をたどる豊橋市中央図書館の資料展「平和を求めて」が4日、同市羽根井町の同館で始まった。31日まで。旧満州からの引き揚げ者は120万人を超え、大部分は民間人だった。旧ソ連軍の略奪や人狩りの恐怖におびえ、感染症も流行。空き缶を便器や食器として使い、ボウフラがわく水を飲んだ、という。
(以下略)
―――――






 1945年8月9日、ソ連は日本から日米の終戦交渉を依頼されていたにもかかわらず、日ソ中立条約を一方的に破棄し、原爆によって虫の息ほどになった日本に対し、宣戦を布告した。

その頃手薄になっていた満州や樺太にはソ連軍が上陸し、略奪・強姦・殺戮の限りを尽くした。








[読者手記 53編] 文藝春秋・特別号 '83・9掲載

 昭和20年8月20日頃であったろうと思う。・・・(中略)・・・ぶきみという程静かな日が続いていたので、新京の街で何が起こっていたのか解らなかった。
 そんな日病院の玄関で大声で騒ぐ声にびっくりして、私は板でくくりつけた足をひきずりながら玄関に出て見て驚いた。12、3の少女から20ぐらいの娘が10名程タンカに乗せられて運ばれていた。それは、まともに上から見ることの出来る姿ではなかった。その全員が裸で、まだ恥毛もそろわない幼い子供の恥部は紫に腫れ上がって、その原形はなかった。大腿部は血がいっぱいついている。顔をゆがめつつ声を出しているようだが、聞き取れない。
 次の女性はモンペだけをはぎとられて下(しも)の部分は前者と同じだが、下腹部を刺されて腸が切口から血と一緒にはみ出していた。次の少女は乳房を切られて、片眼を開けたままであったから死んでいるのかも知れない。次もその次も、ほとんど同じ姿である。
「ああ女とはこんな姿でいじめられるのか・・・」。次々に病室に運ばれて行く少女を眼のあたりに見て、その非情なソ連兵の動物的行動に憤りを感じると同時に、道徳も、教養も平和な中にのみあるのであって一つ歯車が狂ってしまったら、そんなものは何の役にもたたないのだ。
・・・(中略)・・・1週間私はこの病院にいて毎日毎日この光景を見て、その無残、残酷さに敗戦のみじめさを知った。
 銃でうたれて死ぬのは苦痛が一瞬であるが、自分の体重の3倍以上もある毛むくじゃら男数名になぶられた少女や娘等はどんな苦しみであったろうか。
 ・・・(中略)・・・また女医さんに聞いたことだが、「10名に2、3名は舌を噛んで死んでいるんです。また何名かの方は胸を圧縮されて息絶えている人がありました」と語られたことを想い出す。








ベール脱ぐ引き上げ史

福岡の旧二日市保養所、看護婦が体験を証言

 終戦直後、中国大陸から引き揚げ途中に旧ソ連軍兵士らから暴行を受け妊娠した女性の堕胎処置が行われた福岡県筑紫野市武蔵の「旧二日市保養所」跡地で十二日、供養が行われた。当時、看護婦として同保養所で働いた村石正子さん(71)が初めて参列し、自らの体験を涙ながらに語り、隠れた引き揚げ史を証言した。
 「博多引揚援護局史」などによると、旧二日市保養所は一九四六年三月に開設。患者総数は三百八十人、閉鎖までの治療日数は延べ七千九百八十一日を数えた。堕胎は、当時非合法だったこともあり、保養所の歴史はあまり語られず、引き揚げ史の中でも実態は詳しく分かっていない。
 日赤看護婦だった村石さんは、四六年、同保養所で約三カ月勤務。「堕胎は違法と知っていたが、心ならず妊娠した女性は故郷にも帰れなかった。ただ救いたい、という一心だった」と当時の様子を証言した。

 処置後、「悔しい」という言葉を残して亡くなった十七歳の師範学校女生徒のことなどを思いだすにつけ、村石さんは自分の過去に苦しめられたが、五十年余りがたち「歴史の一ページとして証言しなければならない」と思ったという。
 現在特別養護老人ホームがある同保養所跡には八一年、福岡市の医師が石碑を建立。以来、ホーム側が毎年、供養を続けている。証言を聞いた住民グループ「戦後五十年筑紫野語ろう会」の田辺幸子代表は「万感迫るものを感じた。ほかの引き揚げ地でも同じことがあったはず」と指摘。
 供養を主催した一人の済生会二日市病院の水田耕二院長らは「悲惨な歴史を明らかにすることが、生まれてこなかった子供たちのためにもなる」として、旧二日市保養所の実態解明を続けることにしている。









【双方向プラザ】看護婦22人眠る「慈蔵尊」参りたい
2003/07/27, 産経新聞

 ■“ソ連軍暴行より死”悲劇忘れてはならぬ

【読者から】
 【読者から】七日付の「談話室」に載った『長春で果てた22人の看護婦』を読みました。こんな悲惨な事件があったことを初めて知りましたが、日本人としては決して忘れてはならないことだと思います。また、看護婦さんたちのために、(青葉慈蔵尊に)お参りを続けている方がいらっしゃることもうれしいことです。私もぜひ、お参りをして昭和史を学びたいと思っています。中野晋而(しんじ)さん(六七)=東京都板橋区


 ≪命日に有志、靖国の提灯供える≫

 「事件」は終戦後の昭和二十一年六月に起きました。その年の春、ソ連軍(当時)の支配下にあった満州・新京(長春)の長春第八病院で、三十四人の従軍看護婦が仕事を続けていました。

 そこへ、数キロ離れたソ連陸軍病院から「三人の看護婦を派遣せよ」という命令が届きます。約一カ月後にはもう三人、そしてさらに三人と、看護婦の派遣命令が続きますが、誰一人として帰ってきません。

 しばらくたって、瀕死(ひんし)の重傷を負った看護婦の一人が長春の病院のドアをたたきました。ソ連軍の病院に派遣された一人が、決死の思いで逃げ帰ってきたのです。

 「わたしたちは看護婦の仕事ではなく、ソ連軍将校の慰みものにされているのです。もう、人を送ってはいけません…」。その看護婦が息もたえだえに語ったのは衝撃的な事実でした。

 そしてその二日後の六月二十一日、悲劇が起きました。長春の病院に残っていた二十二人の看護婦が青酸カリを飲んで自ら命を絶ったのです。遺書には、「ソ連軍に暴行されるよりは死を選びます」という内容のことが書かれていました。看護婦たちは、ソ連軍の非道ぶりに“死の抗議”をしたのでしょう。

 看護婦たちの遺骨は当時の婦長さんの手によって、日本へ帰りました。

 そして昭和三十一年、財団法人「青葉園」の初代理事長、吉田亀治氏らの厚意によって、同園公園墓地に「青葉慈蔵尊」(さいたま市西区三橋五丁目。JR大宮駅から佐知川原行きバスで、青葉園下車)が建てられ、そこに眠っています。

 お地蔵さまは、高さが約一・五メートル。左手に赤十字のマークが入った看護婦の帽子を持っていらっしゃいます。碑には、遺書の文字が刻まれています。

 ところで、看護婦たちは靖国神社本殿には、まつられていません。それは、残されていた資料がほとんどなかったので、身元の確認などが十分にできなかったため、とされています。

 そこで、有志がお金を出し合って、昨年の同神社の「みたままつり」に青葉慈蔵尊名で永代献灯をし、今年六月の命日に、その提灯(ちょうちん)を慈蔵尊に供えました。

 「談話室」に載ったのは有志の一人、千葉県市原市の会社員、小澤英夫さん(七〇)からの投書です。小澤さんは、「(看護婦たちが)靖国神社に入れないのは、しのびない。『あなた方の御霊も毎年、掲げられていますよ』という思いを込めて提灯を供えました」と話し、写真も送っていただきました。

 青葉園によると、慈蔵尊建立に尽力した初代理事長の吉田氏や、遺骨を持ち帰った元婦長さんも、ここ数年の間に亡くなったそうです。

 でも、「読者」の中野さんのいうように「日本人としては決して忘れてはならないこと」に違いありません。われわれも、次代に語り継ぐ努力を続けたいと思っています。









樺太の真岡はもともと人口2万の町であった。
16日夕から本土への引き揚げが開始され、19日夕刻までに6千人が出航していたが、乗船を待つ避難民がまだ1万5千~8千人いた。

真岡への攻撃は20日早朝に始まった。
数隻の大型軍艦が町中に艦砲射撃を行い、その後、上陸したソ連兵は山へ逃がれる人々を背後から機関銃や自動小銃で掃射し、手榴弾を投げつけた。
引き揚げ船へ向かう女子供たちの上にも、容赦なく砲弾が降り注いだ。
厚生省資料ではこの時の民間人犠牲者は約千名としている。


樺太の真岡電話局には電話交換手の9人の若い女性たちが、引揚げの指示を断ってまで、市街の惨状を報告し続けるために現地に残留していたが、そこにもついにソ連軍が侵入。

9人は引き揚げの指示を断って、ソ連軍の砲撃開始後一時間半に渡って、市街の惨状を報告し続けた。

だが、そこにもついにソ連軍が侵入・・・


今も詩吟「氷雪の門」で伝えられる最後の放送は次のようであった。



「内地の皆さん、稚内電話局のお友だちに申し上げます。
只今ソ連軍がわが真岡電話局に侵入いたしました。
これが樺太から日本に送る最後の通話となるでありましょう。
私たち9人は最後まで、この交換台を守りました。
そして間もなく、9人そろってあの世に旅立ちます。

ソ連軍が近づいております。足音が近づいております。
稚内の皆さん、さようなら、これが最後です。
内地の皆さん、さようなら、さようなら」





 9人の乙女は青酸カリを飲んで自決した。戦後建てられた稚内市の「乙女の碑」を昭和43年に訪れられた昭和天皇と香淳皇后は深く頭を垂れて、冥福を祈られ、次の御製、お歌を残された。



樺太に
命をすてし
をたやめの
心を思えば
むねせまりくる


からふとに
露と消えたる
乙女らの
御霊安かれと
ただいのるぬる









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■動画
敦化事件(1945・8・27) 日本人女性集団自決
http://youtu.be/Ai82wkHWHIc



性奴隷にされ自決した23人の日本人女性

1945年8月27日に満洲国吉林省敦化(現吉林省延辺朝鮮族自治州敦化市)でソ連軍によって連日に渡り集団強姦され続けていた日満パルプ製造(王子製紙子会社)敦化工場の女性社員や家族が集団自決した事件。日満パルプ事件とも呼称されます。

事件の現場となった日満パルプ製造敦化工場は、1934年に王子製紙が敦化県城南門外牡丹江左岸(敦化郊外5キロ)に設立した工場である。工場に隣接して設置された社宅地は、高さ4.5mの煉瓦壁でおおわれた2万坪の敷地内に壮麗な造りの社宅と福利厚生のためのクラブなどが設けられており、日本人職員とその家族260人が暮らしていた。

また、敦化市内には2,000人の関東軍守備隊の駐屯地があり、終戦当時には敦化北部の山地に築城しソ連軍の侵攻を食い止めようと備えていた。

1945年8月9日未明に突如としてソビエト連邦が満洲国に侵攻し、敦化に近い東部国境付近では関東軍・満洲国軍がソ連軍と交戦していたが、工場や敦化市内では満人や朝鮮人の態度も変わることなく治安が保たれたままであった。

8月15日に敗戦を迎えた後も工場の満人や朝鮮人従業員は変わることはなかったが、敦化市内では満人や朝鮮人の一部による略奪・放火・日本人女性への暴行が行われるようになった。8月17日、敦化郊外で陣地を築いていた敦化守備隊は工場に資材を取りに来て初めて終戦を知った。

8月19日、ソ連軍が敦化市内に進駐してきたため、敦化守備隊は降伏し武装解除された。



満洲国を占領したソ連軍兵士

8月22日、ソ連軍は日満パルプ製造敦化工場に進駐した。

ソ連軍は社宅に侵入すると1時間以内に社宅の一角を引き渡すよう要求した。ソ連兵はすぐにホテル・レストランを兼ねた壮麗な造りのクラブに惹きつけられていった。

ソ連兵はクラブ従業員の女性2人を引きずり出すとジープで社宅から連れ去った。数時間後に拉致された女性がぼろぼろになって社宅に帰ってきたが、もう一人の若い娘は強姦された後に牡丹江に流され行方不明となった。

8月25日、ソビエト軍は男性全員を集合させると10キロほど離れたところにある飛行場の近くの湿地に連行し、婦女子は独身寮に集められた。

170人ほどの婦女子は15,6人ずつに分けられ監禁されることとなった。夜になると、ソ連兵300人あまりが独身寮に移ってくるとともに、短機関銃を乱射する頻度が夜が更けるにつれて増えていった。女性たちは夜が明けることを祈りながら一晩中恐怖と戦っていた。


集団自決

8月26日夜明け、酒に酔ったソ連兵たちは短機関銃を空に乱射しながら女性たちが監禁されている各部屋に乱入すると、女性たちの顎をつかみ顔を確認しながら、気に入った女性たちを連れて行こうとした。

女性たちは金品を渡したり、許しを懇願したが聞き入れられず、次々に引きずり出されていった。各部屋からは女性たちの悲痛な叫びが溢れたが、ソ連兵は構うことなく短機関銃を乱射し続けていた。

このため、女性たちは頭を丸坊主にしたり、顔に墨を塗るなどしたが、ソ連兵による強姦は朝になっても収まることはなく、部屋に乱入すると女性たちの胸部をまさぐるなどして気に入った女性たちを何度も連行していった。

社宅と塀を隔てた工場に残されていた男性社員たちは、社宅の異変を察知するとソ連兵の監視を掻い潜り塀を乗り越え社宅に潜入したが、厳重な警戒が布かれている独身寮には近づくことができなかった。

ソ連兵たちは狼藉を続けるうちに女性たちの部屋の廊下に監視兵を置くようになったため、御不浄や食事もままならないようになった。女性たちは自身のおかれている状況や絶え間ない銃声から、すでに男性社員たちは皆殺しにあったのではないかと考えるようになった。

ソ連兵による女性たちへの昼夜に渡る暴行は8月27日の深夜になっても収まることはなかった。このため、28人の婦女子が集められていた部屋では自決をするべきか議論がなされるようになった。

議論中にもソ連兵の乱入があり、隣室からも女性たちの悲鳴や「殺して下さい」などの叫び声が聞こえてきたため、自決することに議論が決した。隠し持っていた青酸カリが配られ全員が自決を図り、23人が死亡、5人が死に切れずに生き残った。他の部屋ではソ連兵に引きずり出されるときに剃刀で自殺を図った女性もいた。

8月27日早朝、ソ連兵が集団自決を発見し、将校に報告されると各部屋にはソ連兵の見張りが付けられ、女性たちは外を見ることを禁じられ、遺体はどこかへ運び去られた。責任を問われることを恐れたソ連軍将校によって、これ以上の暴行は中止されることとなった。






なお反日左翼が良くいう「関東軍は自分の家族だけ最初に逃がした」は真実を歪曲している。

「同胞4万救出作戦」
内蒙古在住4万人の同胞をソ連軍から守ろうと、日本軍将兵が立ち上がった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h16/jog357.html

満州の対ソ戦
http://holywar1941.web.fc2.com/sensi2/sensi-taiso2.html

(一部抜粋)

居留民後退の問題
それでも9日には在留邦人の後送に着手し一般邦人を先に送り出そうとしたが、既に生活拠点を有する民間人は直ちに乗車などできない状況にあり、満州は内地よりも安全と考えられていたことも手伝って遅々として進まなかった。
一刻の猶予もない状況下ではやむを得ず、緊急集合が容易な軍人・軍属の家族を主体に一番列車に乗せ、10日 0140には新京駅を出発した。
だがこのことは後に、関東軍は軍人家族を最初に後退させた、として非難されることとなった。
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