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これで分かる東京裁判(4ー2)2005/08/01, 産経新聞■ナチスドイツより厳しく裁かれた日本■検閲…許されない批判■昭和天皇「戦犯」に深い同情/天皇誕生日に刑執行の"演出"

戦後60年 「正義」か「報復」か これで分かる東京裁判(4ー2)
2005/08/01, 産経新聞


 ■ナチスドイツより厳しく裁かれた日本

 東京裁判が開廷する半年前の一九四五年(昭和二十年)十一月から翌年十月にかけ、ドイツのニュルンベルクでナチスの戦争犯罪を裁く国際軍事裁判(ニュルンベルク裁判)が開廷した。この裁判では、初めて「平和に対する罪」や「人道に対する罪」が訴因として採用され、東京裁判はニュルンベルク裁判の法的枠組みをほぼ踏襲した。
 ただ、訴因についてはニュルンベルク裁判が四つだったのに対し、東京裁判では「タイ王国に対する戦争の計画準備」など不可解なものを含めて個別事案が対象とされたため、訴因は五十五にも膨れ上がった。
 また、東京裁判や千人以上が処刑された世界各地でのBC級戦犯裁判など、日本に対する裁判の方がより厳しく刑罰が科せられたといえる。
 ニュルンベルク裁判では二十四人が被告とされ、自殺などで審理から外れた二人を除く二十二人に対し、絞首刑十二人、終身刑三人、有期刑四人、無罪三人の判決が出された。一方、東京裁判では二十八人が被告となり、審理から外れた三人を除く二十五人が全員有罪となり、絞首刑七、終身刑十六、有期刑二の判決が下された。
 ユダヤ人に対するホロコースト(大虐殺)などドイツの残虐性はより高く、死刑はニュルンベルク裁判の方が多いが、有罪の人数は東京裁判の方が多い。また、ニュルンベルク裁判で死刑判決を受けた十二人はいずれも「人道に対する罪」が問われたのに対し、東京裁判では誰も同罪では有罪とならなかった。
 オーストラリア代表のウェッブ裁判長は「ドイツと異なる基準を用いない限り、日本人は死刑にならない」「起訴されたドイツ人の罪は、日本被告人の罪に比べてはるかに凶悪であり、多様であり、範囲も広かった」と率直に認めている。



 ■検閲…許されない批判

 日本が受諾したポツダム宣言には、「言論、宗教、思想の自由、そして基本的人権が確立されねばならない」とあるにもかかわらず、GHQのマッカーサー総司令官は昭和二十年九月十日、「報道・思想の自由」に関する指令を発し、新聞、ラジオその他メディアの検閲に乗り出した。
 GHQは東京裁判に対する「一切の一般的批判」について、厳しく削除または掲載・発行禁止処分を行った。
 また、これを恐れるあまり、日本側メディアも報道内容の自主規制を行い、必要以上に東京裁判批判を抑制したのも事実のようだ。
 自身もA級戦犯容疑者とされて獄中生活を送った岸信介元首相は、二十一年十一月十四日、パール判事の全員無罪の意見書を日本タイムスの報道で知り、同紙以外が一部しかこれを報じなかったことについて、次のような感想を記している。
 「之れは各新聞社の卑屈か非国民的意図に出づるものである。之等の腰抜共は宜しくパール判事の前に愧死(きし)すべきである」(獄中日記)



 ■昭和天皇「戦犯」に深い同情/天皇誕生日に刑執行の"演出"

 昭和五十三年に靖国神社がA級戦犯を合祀(ごうし)したため、昭和天皇が靖国参拝を以後とりやめたとの見方がある。しかし、昭和天皇の東京裁判をめぐる発言をみると、昭和天皇は東条英機元首相をはじめとするA級戦犯に深い同情を寄せており、「戦争犯罪人」という認識は持っていなかった。
 東京裁判で証拠資料として採用された昭和天皇の側近、木戸幸一内相の「日記」によると、終戦直後の昭和二十年八月二十九日、昭和天皇は次のように話している。「戦争責任者を連合国に引渡すは真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分が一人引受けて退位でもして納める訳にはいかないだろうか」
 九月十二日には、「敵側の所謂戦争犯罪人、殊に所謂責任者は何れも嘗(かつ)ては只管忠誠を尽したる人々」と述べている。
 また、木戸が戦犯容疑者とされた後の十二月十日の項には、昭和天皇は「今回は誠に気の毒ではあるが、どうか身体に気を付けて」と木戸をねぎらい、自らが政務室で使用していたすずりを贈ったとある。
 現代史家の秦郁彦氏の研究によると、昭和天皇は東京裁判の判決直前にも退位の意思を示したが、GHQの慰留により思いとどまったという。
 東京裁判では、昭和天皇と現天皇陛下のそれぞれの誕生日と、裁判の節目となる行事を意図的に重ね合わせ、「日本の『聖なる日』に十字架を負わせようとした」(大原康男国学院大教授)とみられている。
 GHQが東京裁判の起訴状を交付し、A級戦犯の被告二十八人の名前を発表したのは昭和二十一年四月二十九日、昭和天皇誕生日のこと。また、絞首刑が宣告されたA級戦犯七人への刑執行は二十三年十二月二十三日、皇太子さま(現天皇陛下)の誕生日に合わせて実行された。
 このほか、開戦時のフィリピン攻略軍の司令官で、B級戦犯として起訴された本間雅晴中将の銃殺刑が宣告されたのは、二十一年二月十一日の紀元節(現建国記念の日)。処刑が実行されたのは同年四月三日の神武天皇祭で、GHQの日本の祝日に対する執拗(しつよう)なこだわりがうかがえる。

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