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昭和天皇の全国ご巡幸・行幸最初の地は広島だった・貞明皇太后の前で泣いた昭和天皇・マッカーサーを感動させた昭和天皇の言葉・陛下は我々を裏切らなかった・「昭和の日」を機会に読んでほしい


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本日は「昭和の日」だ。

日本が戦後、奇跡と呼ばれる復興をなしえた1つの要因は、広島から始まった全国ご巡幸で国民を励まされた昭和天皇を中心に、日本が結束を保ったことだった。

私たち日本人が語り継いでいかなければならない陛下の行幸などについて紹介する。

まだ読んでいない方は勿論だが、既に読んだことがある方も、「昭和の日」に読んで頂ければ幸いだ。







マッカーサーを感動させた昭和天皇の言葉


「…(終戦時において)陛下に対する占領軍としての料理の仕方は、四つありました。

一つは東京裁判に引き出し、これを絞首刑にする。
一つは共産党をおだてあげ、人民裁判の名においてこれを血祭りにあげる。
三番目は、中国へ亡命させて中国で殺す。そうでなければ、二〇個師団の兵力に相当するかと怯えた彼らです。
また第四番目は、闇から闇へ、一服もることによって陛下を葬り去ることでありました。


いずれにしても、陛下は殺される運命にあったのです。
天皇は馬鹿か、気狂いか、偉大なる聖者か、いつでもつかまえられる。
かつては一万八〇〇〇人の近衛師団に守られたかもしれないが、今や全くの護衛を持たずして、二重橋の向こうにいる。…


陛下の割腹自刃の計画は、三度ありました。
貞明(皇太后)様は、(侍従に、)陛下から目を離さんように命じました。
じつに一番悩まれたのは、陛下でありましたでしょう。


九月二七日、陛下がただ一人の通訳を連れて、マッカーサーの前に立たれたことは、皆様方もよくご承知の通りであります。
ついに天皇をつかまえるべき時が来た。
マッカーサーは、二個師団の兵力の待機を命じました。
マッカーサーは、陛下は命乞いに来られたものと勘違いし、傲慢不遜にもマドロスパイプを口にくわえて、ソファーから立とうともしなかった。

陛下は直立不動のままで、国際儀礼としてのご挨拶を終え、こう言われました。

『日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命においてすべてが行なわれました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されても、いつでも応ずるだけの覚悟はあります』

――弱ったのは通訳でした。その通り訳していいのか

――しかし陛下は続けました。

『しかしながら、罪なき八〇〇〇万の国民が、住むに家なく、着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えんものがあります。温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますように』


天皇は、やれ軍閥が悪い、やれ財界が悪いと言う中で、一切の責任はこの私にあります、絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処せられても…と淡々として申された。
このような態度を見せられたのは、われらが天皇ただ一人であったのです。
陛下は我々を裏切らなかった。

マッカーサーは驚いて、スクッと立ち上がり、今度は陛下を抱くようにして座らせました。
そして部下に、「陛下は興奮しておいでのようだから、おコーヒーをさしあげるように」と。

マッカーサーは今度は一臣下のごとく、直立不動で陛下の前に立ち、
「天皇とはこのようなものでありましたか!天皇とはこのようなものでありましたか!私も、日本人に生まれたかったです。陛下、ご不自由でございましょう。私に出来ますることがあれば、何なりとお申しつけ下さい」
と。

陛下は、再びスクッと立たれ、涙をポロポロと流し、
「命をかけて、閣下のお袖にすがっておりまする。この私に何の望みがありましょうか。重ねて国民の衣食住の点のみにご高配を賜りますように」
と。

そののちマッカーサーは、陛下を玄関(ホール)まで伴い、見送ったのです。


皆様方、日本は八〇〇〇万人と言いました。
どう計算しても八〇〇〇万はおらなかったでしょう。
いかがです?
一億の民から朝鮮半島と台湾、樺太をはじめ、すべてを差し引いて、どうして八千万でしょうか。
じつは六六〇〇万人しかいなかったのです。
それをあえて、マッカーサーは、八〇〇〇万として食糧をごまかして取ってくれました。
つまりマッカーサーは、いわゆる、陛下のご人徳にふれたのです。
米国大統領からは、日本に一〇〇〇万の餓死者を出すべしと、マッカーサーに命令が来ておったのです。

ただ一言、マッカーサーは、
『陛下は磁石だ。私の心を吸いつけた』
と言いました。

彼は陛下のために、食糧放出を八〇〇〇万人の計算で出してくれました。
それが後で、ばれてしまいます。
彼が解任された最大の理由はそれであったというのが、事の真相です。








貞明皇太后の前で泣いた昭和天皇


また、さらにご立派であったのは、貞明皇太后でした。

母君の貞明様は、亡くなるまで防空壕の中で生涯を送り、雨漏りのする、そして皆様方、貞明様は法華経の信者でしたから、戦死者のお名前を一〇人ずつ書きながら、法華経をあげて生涯を送られたのです。

その貞明様が、皇霊殿に陛下をお招きになりました。
皇霊殿は高いので、東京の市中が見えるのであります。
焼けただれ、一日千秋の思いでわが子の復員を待つ年寄りたちの姿も、見えるのであります。

貞明様は陛下にそれをお見せになり、
「陛下、国民は陛下のご不徳によって、このように苦しんでおります。この国を一日も早う復興しようと召されず、お腹をおめしになろう(切腹しよう)などとはご卑怯ではありませんか。退位は絶対になりません!」

陛下は、母君の前で頭を垂れて泣かれたそうです。
どうしたらいいのかと。

陛下の万歳を叫んで死んでいった護国の英霊の労苦を労いなさい、遺族の労苦を労いなさい、産業戦士の労苦を労いなさい――これが、後の陛下の行幸(外出)になったのでした。

最初の地は広島でした。
原爆の地、広島でした。
共産党の腕利きが、今こそ「戦争の元凶である裕仁に対して恨みを報いようではないか」とビラをまき、宣伝カーで叫んでいました。
しかし、陛下は一兵の護衛をも持たず、ツギのあたった背広をお召しになり、中折れ帽をかぶって、広島の駅頭に立たれたことは、われらの記憶に新しいところであります。
むしろ陛下がおいたわしかった。
「万歳、万歳」の歓呼をもって迎えられました。

言えばやはり記録に残りましょうから、その県名と市名はもうしませんが、北陸のある所(福井市)においては共産党が、「朕はたらふく飯を食う。汝臣民飢えて死ね」とプラカードを仕立て、二〇〇〇名のデモ行進をやっていました。
「陛下、お逃げなさい」
しかし陛下は、「私に面会を申し込んでいる限り、私が会いましょう」 と言って、皆の前に頭を下げられました。
「皆様方が私を打擲することによって心が癒えるならば、ごずいにめされたがいい。でも日本の国を一日も早う復興し、次の子孫へこの国を送り得てこそ、はじめて護国の英霊に対し、我々が報いる道ではなかろうか」
と陛下は申されたのでした――はっきり言ったほうが良かったのかも知れませんが、場所を。

陛下に向かっての発砲もありました。
八二歳のある老婆が犠牲になったことも、中国地方の一角でありました(広島で、陛下をねらった弾がはずれて老婆に当たった事件)。
陛下の行幸は、そういう中に続いたのであります。…」

歩一〇四記念講演特集号より








マッカーサーおよび侍従長の証言


以上が、三上教授の講演の言葉である。
この講演にも出てきた一九四五年九月二七日の天皇とマッカーサーの会見については、辻井圭三氏(キリスト伝道会「活水の群」副理事長)も、こう書いている。
「この件については、第二回目の通訳をされた、内閣情報局総裁であり戦後外務次官も務められた奥村勝蔵氏を通じて、私は詳しく伺いました」
そして、三上教授の言っている通りであると述べている。
実際マッカーサー自身が、のちに回顧録の中で次のように書いたのである。

「天皇の話はこうだった。
 『私は、戦争を遂行するにあたって日本国民が政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対して、責任を負うべき唯一人の者です。あなたが代表する連合国の裁定に、私自身を委ねるためにここに来ました』
――大きな感動が私をゆさぶった。
死をともなう責任、それも私の知る限り、明らかに天皇に帰すべきでない責任を、進んで引き受けようとする態度に私は激しい感動をおぼえた。私は、すぐ前にいる天皇が、一人の人間としても日本で最高の紳士であると思った」
(マッカーサー回顧録一九六三年)

天皇とマッカーサーの会見は、はじめ一五分の予定だった。
しかし、マッカーサーは天皇の態度に深い感銘を受け、会見は三五分にも及んだのである。
会見がなされると、その会見の要旨は後ほど通訳の手で文書にまとめられ、侍従長に渡される習慣になっていた。
会見の翌日、藤田侍従長は、会見における天皇の発言の要旨を文書にまとめたものを、通訳から受け取った。
藤田氏は、いつものようにそれに目を通したうえで、天皇のもとに提出した。
藤田氏はこのとき、メモをとらなかった。

しかし彼はのちに、その内容について二つの点をはっきり憶えていると言って、次のように著書の中に書いている。

「…陛下は、次の意味のことをマッカーサー元帥に伝えられている。
『敗戦に至った戦争の、いろいろな責任が追求されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命する所だから、彼らには責任がない。
私の一身はどうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい』
一身を捨てて国民に殉ずるお覚悟を披瀝になると、この天真の流露は、マッカーサー元帥を強く感動させたようだ。
『かつて、戦い破れた国の元首で、このような言葉を述べられたことは、世界の歴史にも前例のないことと思う。私は陛下に感謝申したい。占領軍の進駐が事なく終わったのも、日本軍の復員が順調に進行しているのも、これすべて陛下のお力添えである。これからの占領政策の遂行にも、陛下のお力を乞わなければならぬことは多い。どうか、よろしくお願い致したい』」
とマッカーサーは言った(藤田尚徳『侍従長の回想』昭和三六年)。


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