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日本がパラオに緊急援助!大干ばつで完全断水の危機に日本と台湾に支援要請・支那や韓国ではない理由
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「名指しの支援要請!?」島国パラオ…干ばつ続き完全断水の危機迫る
画像

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160404-00000044-jij_afp-env
太平洋の島国パラオ、完全断水の危機 日本と台湾に支援要請
AFP=時事 4月4日(月)22時25分配信
パラオ、完全断水の危機 日本と台湾に支援要請

【AFP=時事】太平洋の島国パラオでは4月、完全な断水状態に陥る事態が予想され、同国政府は4日、日本と台湾に緊急支援を要請していることを明らかにした。

 太平洋島しょ諸国ではエルニーニョ現象(El Nino)による過去最悪の干ばつの被害がさらに拡大しており、各国政府が非常事態宣言を発令している。人口約1万8000人の小国パラオも先月、非常事態宣言を発令した。

 国家非常事態委員会は報告書で「現在の水位と使用率に基づき、こうした状況が続くと仮定すれば、今後2~3週間以内に完全な断水に陥る可能性がある」と警告した。水道水の供給はすでに1日3時間に制限されており、最大都市コロール(Koror)ではさらに少ない。学校は生徒に飲ませる水が足りないため、半日しか開校していない状態だ。

 非常事態委員会は、物資および設備の援助の他、必要な量の水の直接輸送も含め、日本と台湾に支援を要請中だと述べている。【翻訳編集】 AFPBB News



>太平洋の島国パラオでは4月、完全な断水状態に陥る事態が予想され、同国政府は4日、日本と台湾に緊急支援を要請していることを明らかにした。


昨年、天皇皇后両陛下が慰霊のためにご訪問されたパラオで大干ばつによる完全断水の危機を迎え、日本と台湾に緊急支援を要請した!

なぜ、日本台湾の2か国なのか?!

なぜ、他の東アジアの【大国】支那韓国には支援を要請しないのか?

実は、パラオ共和国は、台湾(中華民国)を国家として認め、支那(中華人民共和国)を国家として認めていないのだ!

平成24年(2012年)、軍隊すら保有しない小国のパラオの警察艇は、近海で違法操業をしていた支那漁船に対して警告射撃をした。

ところが、支那漁船が警告を無視して違法操業を継続し、漁船から小型艇2隻を降ろして操業を続けたため、パラオ警察艇は支那の小型艇のエンジンを狙って発砲!

結局、パラオ警察艇は、支那人1人を死亡させ、違法操業をした支那人25人全員を逮捕し、起訴した!


パラオ共和国は、平成22年(2010年)に海保巡視船に体当たりした支那人船長を逮捕したにもかかわらず、支那の言いなりに釈放したり、赤サンゴの違法操業を散々野放しにしたりした日本政府や、逮捕した支那人に無罪判決を下したりした福岡地裁などとは大違いだ!


平成22年(2010年)秋
●尖閣諸島沖で起きた支那漁船による海保巡視船体当たり事件で、公務執行妨害の容疑で逮捕した支那人船長を釈放
2010年9月7日に尖閣諸島沖で起きた支那漁船による海保巡視船体当たり事件で、公務執行妨害の容疑で逮捕した支那人船長を9月24日に釈放したのも、実は那覇地検の判断ではなく、菅直人首相と仙谷由人官房長官と前原誠司外相の3人による判断だったことが判明している。
福建省の福州空港に到着した支那人船長は両手でVサイン
●関連記事
仙谷が支那に釈放を事前通報!
9月20日菅「一刻も早く対応してくれ」
23日深夜仙谷は首相と前原と電話協議
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-4068.html



平成26年(2014年)
●日本政府は、支那漁船による赤サンゴの密漁を散々野放しにした!
珍しく逮捕したサンゴ密漁の支那人に対しても、福岡地裁が無罪判決!

支那人どもの密漁船は、小笠原諸島周辺などの日本の領海へ入り、海底を網で根こそぎさらう乱暴な密漁を行った。
中国漁船は日本の領海へ入り、資源の保護は眼中になく、違法な乱獲を行っている。
中国漁船は日本の領海へ入り、資源の保護は眼中になく、違法な乱獲を行っている。

ところが、日本政府は、支那の密漁船を本気で取り締まらず、見せしめに逮捕した赤サンゴ密漁支那人についても、平成26年(2014年)10月に福岡地裁が無罪放免にした!

その後、支那人密漁者が激増!

さらに驚くべきことに、翌月11月3日の記者会見で、支那外務省報道官の華春瑩は、「日本側に対し、取締りは丁寧に、理性的、抑制的に行い、事態を適切に処理するよう望む」と厚かましい要求を突き付けた!

11月3日の記者会見で、支那外務省報道官の華春瑩は、「日本側に対し、取締りは丁寧に、理性的、抑制的に行い、事態を適切に処理するよう望む」と厚かましい要求を突き付けた!




話が横道に逸れたが、とにかくパラオ共和国は、台湾(中華民国)を国家として認め、支那(中華人民共和国)を国家として認めていない!

だから、パラオは、困った時も、国交のない支那ではなく、国交のある日本と台湾に支援を要請してきたのだ。

また、パラオは、韓国とは国交があるものの、韓国に期待してはいけないことを良く分かっている!

パラオは、韓国がパラオにつくった橋が崩落した上に韓国が無責任な態度を取ったことがあり、もう韓国には懲り懲りしている。

■動画
ウリナラの建築技術は世界一(パラオ編)
http://www.youtube.com/watch?v=XxWyulKJiJk

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あの国のあの法則」(Kの法則)
パラオでの悲劇


パラオ本島とコロール島の間に約200メートルの橋が架かっています。これがKBブリッジです。実はこの橋は1996年に一度崩落しているのです。
KBブリッジは、「Koror-Babeldaob Bridge」 の名前のとおり首都コロール島と空港のあるバベルドアブ島を繋ぐ橋で、島国パラオの交通の要衝として1977年に開通しました。
建設するにあたり日本の鹿島建設も見積りを出したのですが、韓国の下請け会社が日本の半額で落札し、工事を行いました。
ところがこれがひどい手抜き工事だったようです。
コンクリートの固め方でさえでたらめだった。と言いますから恐ろしい限りです。

その様子をつぶさに見ていた現地住民は当初からこの橋に不安を抱いていたようで、車で橋を渡るときは、もし海に落ちてもすぐ逃げられるようにと必ず窓を開けていたそうです。
また、竣工直後から橋の中央部がたわみはじめ、15tだった通過制限重量がすぐに10tにまで減らされました。
このたわみはやがて、通過する時おかしな揺れを体感できるほどに大きくなり、崩落事故の起きる頃には、徐行運転で渡るほかないという状態に陥っていたのです。
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▼1996年9月 韓国企業が施工したパラオのKB橋が崩壊▼
韓国企業が海外で晒した悪徳手抜き工事としては、パラオのKBブリッジも有名だ。
この事件については、次の動画で良く説明されている。

■動画
ウリナラの建築技術は世界一(パラオ編)
http://www.youtube.com/watch?v=XxWyulKJiJk


韓国企業の「KBブリッジ崩落」→日本企業の「Japan-Palau friendship bridge」(日本-パラオ親善の橋)
韓国企業が工事した崩落前のKBブリッジ
韓国企業が工事した崩落前のKBブリッジ
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崩落後のKBブリッジ
崩落後のKBブリッジ

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日本政府の援助で鹿島建設が新たに架けた「Japan-Palau friendship bridge」(日本-パラオ親善の橋)
日本政府の援助で鹿島建設が新たに架けた「Japan-Palau friendship bridge」(日本-パラオ親善の橋)



以上のことから、パラオ共和国が困った時に支援を要請する東アジアの国は、支那韓国ではなく、日本台湾となっているのだ。

そして、今回、日本政府・外務省は、そのパラオの期待に応える決定をした!

http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/press4_003183.html
外務省
【報道発表】
パラオ共和国における干ばつ被害に対する緊急援助

平成28年4月4日

1 4月1日,我が国政府は,パラオ共和国において発生している干ばつ被害に対し,同国政府からの要請を受け,国際協力機構(JICA)を通じ,緊急援助物資(ポリタンク,簡易水槽及び浄水器)を供与することを決定しました。

2 パラオでは,一般的に11月から4月にかけて乾期にあたり,例年,降雨量が少ないものの,特に本年は昨年からのエルニーニョの強い影響により極端な水不足が発生する厳しい干ばつ状態が続いています。これを受けて,3月22日,レメンゲサウ大統領は干ばつによる非常事態宣言を発出しました。

3 我が国としては,我が国とパラオとの長年の友好関係に鑑み,干ばつ被害に対する人道支援のため緊急援助を行うこととしました。








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パラオ

【日本とパラオの物語】
ペリリュー島の桜花


1855年(明治18年)、パラオは、スペインの植民地となった。

スペイン人らによって天然痘などが持ち込まれたことや、植民地支配での略奪、殺戮などの結果、パラオの人口は当時90%も減少したといわれている。

1899年、国力が衰退の一途を辿っていたスペインは、グアムを除くスペイン領ミクロネシアを450万ドルでドイツに売却したが、その中に、パラオも含まれていた。

ドイツの植民地となったパラオでは、他のドイツの植民地と同様に、道路や水道などのインフラ整備や、パラオの先住民への教育はほとんど行われなかった。

1914年(大正3年)、第一次世界大戦が始まるると、ドイツに対して宣戦を布告した日本は海軍を派遣して、ドイツ守備隊を降伏させ、パラオを解放した。

1919年、第一次世界大戦の戦後処理をする「パリ講和会議」において、パラオは日本の委任統治領となった。

日本国政府は、当時の首都である「コロール」に南洋庁及び南洋庁西部支庁(パラオ支庁)を置き、パラオは日本の南洋周辺諸島を統治する中核的な島となった。

日本委任統治時代のパラオには、多くの日本人が移住して、最盛期の1943年(昭和18年)には約2万5千人の日本人と、当時は日本国民だった朝鮮人も約2千人が居住していた。

1920年代のパラオの町並みの写真には、右側の方にハングルの看板の店舗があるのがわかる。
1920年代のパラオの町並みの写真を見ると、右側の店舗には、韓国・朝鮮人が1910年の日韓併合により奪われたと歴史を捏造している、ハングル文字の看板があります。
ハングルの看板

ただ、今ではこの写真も、韓国人どもによって「パラオは1910年の日韓併合によってチョッパリに奪われたニダ!」と捏造宣伝に悪用されている。

日本の統治時代には、パラオで、ドイツの植民地時代にはほとんど行われなかった、学校、病院、道路などのインフラの整備も重点的に行われ、首都のコロールは近代的な都市へと変貌していった。
コロール
コロール

日本は、パラオの住民に、疾病に係る予防接種を受けさせ、また、パラオの言語を顕すための文字を持たないパラオ住民のために、学校を建てて日本語の教科書を用いた日本語教育も行った。
パラオの言語を顕すための文字をもたないパラオの住民のために、学校を立てて日本語の教科書を用いた日本語教育もしました。

日本統治後のパラオでは、それまでの白人による植民地時代とは異なり、日本人の礼儀正しさや、節度、道徳心、他民族を思いやる心などが認められ、日本人はパラオの現地住民から愛された。

パラオには、太平洋上のパラオ諸島の中に「ペリリュー島」と言う南北9キロ・東西3キロ・高さ80メートル・全体で20平方キロの珊瑚礁からできた小島がある。
このペリリュー島では、大東亜戦争の末期に、日米両軍によって実に73日間にも亘る死闘が繰り返されました

このペリリュー島では、大東亜戦争の末期に、日米両軍によって実に73日間にも亘る死闘が繰り広げられた。

1941年(昭和16年)に大東亜戦争が始まると、日本軍は「ペリリュー島」に東洋最大といわれる飛行場(1200m滑走路2本)をつくっていた。

パラオは、日本軍にとってグアムやサイパンの後方支援基地として、日本の防衛上も重要な拠点だった。
パラオは、日本軍にとってグアムやサイパンの後方支援基地として、日本の防衛上も重要な拠点だった。

大東亜戦争で日本軍が劣勢となる中、ペリリュー島は日本軍にとってフィリピン防衛の防波堤だったが、フィリピン奪還に総力をあげる米軍にとってもペリリュー島の攻略が必要となった。

1944年、米陸軍を指揮するマッカーサーは、フィリピン攻略を有利に進めるため、「ペリリュー島」を奪取しなければならなかった。

米太平洋艦隊を指揮するニミッツ提督は、マッカーサーの作戦を助けるために、第一海兵師団にペリリュー島の占領を命令し、ハルゼー大将が指揮する第三艦隊約800隻の艦艇を海兵隊支援のために差し向けた。

これら米軍は、日本軍の兵力の約4倍、航空機200倍、戦車10倍、重火砲100倍以上の軍事力であり、航空機による爆撃、軍艦からの艦砲射撃なども考慮すると、米軍が数百倍の火力で日本軍を圧倒していた。

ペリリュー島を守備する日本軍は、関東軍最強と呼ばれた第十四師団、その座下の水戸歩兵第2連隊、高崎歩兵第15連隊を主力とした地区隊、約1万2000人だった。

すでに、数百倍の軍事力に加え、制海権も制空権も握っていた米軍は、2~3日の攻撃でペリリュー島を攻略できると予測をしていた。

9月12日に米軍は、ペリリュー島に艦砲射撃と高性能焼夷弾の集中砲火を浴びせた。

ペリリュー島には「オレンジビーチ」と呼ばれる海岸があるが、ここで多くの米軍兵が戦死して、海岸が血の色に染まったことから、こう呼ばれるようになったとも言われている。
ペリリュー島には「オレンジビーチ」と呼ばれる海岸がありますが、ここで多くの米軍兵が戦死して、海岸が血の色に染まった事から、こう呼ばれるようになったとも言われています。

9月15日早朝、米軍第一海兵師団28,400名が、オレンジビーチよりペリリュー島上陸作戦を開始した。

圧倒的勢力を持つ米軍は、この上陸作戦は短期間で終結すると考え、昼食をオレンジビーチで取る予定でいた。

ところが、日本軍守備隊は激しく抵抗して持久戦に持ち込み、米軍第一海兵師団は全体の50%もの損失を出したので一旦撤退し上陸戦は長期化した。

11月24日、生き残った日本軍将兵はわずか60人足らずとなり、司令部陣地の弾薬もほとんど底をついたところで、司令部はついに玉砕の決断を下した。

守備隊長の中川州男大佐、師団派遣参謀の村井権治郎少将、飯田義栄中佐の割腹自決の後、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文が送られて、翌朝にかけて根本甲子郎大尉を中心とした55名の残存兵による万歳突撃が行われた。

結局、米軍が上陸完了をしたのは11月27日だった。

日本軍は、実に73日間にわたって、ペリリュー島を死守したのだった!

日本本土に送られた「サクラサクラ」、この六文字の電文は、ペリリュー島守備隊全員が「桜花のごとく散った」ということを伝えるためのものだった。
日本本土に送られた「サクラサクラ」、この六文字の電文は、ペリリュー島守備隊全員が「桜花のごとく散った」、という事を伝えるためのものでした

ペリリュー島には現住民が住んでいたが、壮絶で長い戦闘が繰り広げられたにもかかわらず、ペリリュー島の民間人には、ただの1人の犠牲者もでなかった。

ペリリュー島民は、日本人を尊敬していたので大人も子供も日本軍と一緒に戦う決意をしていたが、日本軍が島民を戦火に巻き込んではならないとしたからだ。

戦局を予期していた日本軍司令部の命令により、ペリリュー島民のパラオ本島への移住をほぼ完了させ、一部残った島民も疎開させるために戦火の中をパラオ本島へと送り出していた。

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「ペリリュー島の戦い」

日本軍
戦死者 10,695名
捕虜   202名
※戦闘終結後も生き残りの日本兵34人が洞窟を転々として生き延び、戦後も2年戦い続け、昭和22年に投降。

米軍
戦死者 2,336名
戦傷者 8,450名
※この他に精神に異常をきたした者が数千名。

住人
死者 0名
負傷者 0名

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この当時の様子を知る、ペリリュー島民の老人のコラム(毎日新聞)が残っている。

遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。

「あそこでみんな死んでいったんだ・・・」

沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。

太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。老人は村の若者達と共にその作業に参加した。日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。

やがて戦況は日本に不利となり、いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。仲間達と話し合った彼は代表数人と共に日本の守備隊長のもとを訪れた。「自分達も一緒に戦わせて欲しい」と。

それを聞くなり隊長は激高し叫んだという。「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」

日本人は仲間だと思っていたのに・・・。みせかけだったのか。裏切られた想いで、みな悔し涙を流した・・・。

船に乗って島を去る日、日本兵は誰一人見送りに来ない。村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。

しかし、船が島を離れた瞬間に日本兵全員が浜に走り出てきた。そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。

その瞬間、彼は悟ったという。あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだと・・・。


守備隊長、中川州男大佐(11月24日戦死後、2階級特進し陸軍中将)
守備隊長、中川州男大佐(11月24日戦死後、2階級特進し陸軍中将)



ペリリュー島の戦いが終り、島に戻った住民たちは、多くの日本兵の遺体を見て泣いた。

「アメリカ人は日本人の遺体には見向きもせず、自国兵の遺体だけを整理した。ここに征服民族の本性を見る」と。

ペリリュー島の住民は日本軍将兵の遺体を葬り、そして日本の人たちがいつ来ても良いように、その後も墓地の清掃を心掛けた。

敵将のニミッツ提督は、その著「太平洋海戦史」の中でペリリュー島の戦闘に相当のページをさき、次のように結んでいる。

ペリリューの複雑極まる防備に打ち克つには、米国の歴史における他のどんな上陸作戦にも見られなかった最高の戦闘損害比率(約40パーセント)を甘受しなければならなかった。既に制海権制空権を持っていた米軍が、死傷者あわせて一万人を超える犠牲者を出して、この島を占領したことは今もって疑問である


昭和57年(1982年)に「ペリリュー神社」が再建された。

「ペリリュー神社」の御祭神は「天照大神」「戦死者一万余名の護国の英霊」だ。
昭和57年に「ペリリュー神社」が再建されて、御祭神は「天照大神」と「戦死者一万余名の護国の英霊」です。

そして、敵将の「ニミッツの詩」が、以下の日英2か国語の文で掲示されている。
そして、敵将の「ニミッツの詩」が建立され、以下の日英2か国の文が記されている。

「諸国から訪れる旅人たちよ。この島を守るために日本軍人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い、そして玉砕したかを伝えられよ」
米大平洋艦隊司令長官 C.W.ニミッツ
「Tourists from every country who visit this island should be told how courageous and patriotic were the Japanese soldiers who all died defending this island.」


この詩には、戦終ればかつて敵であった日本軍の愛国心とその勇戦ぶりをこの島を訪れる旅人に伝えてくれとの願いが込められている。

大東亜戦争終結後、パラオなど南洋の島々は米国の統治領となった。

パラオから日本が去った後、パラオの公用語は英語となり、アメリカによる目に余る反日教育が行われた。

歴史の授業では米国で作られた教科書が使われ、日本人による「パラオ人虐殺事件」などが掲載された反日捏造歴史教科書もあった。

ところが、パラオの年長者が、「そんな話はない」と否定したために、この作り話はパラオには浸透しなかった。

パラオとマーシャル諸島の切手
パラオとマーシャル諸島の切手

米国から独立した後の1997年、パラオで初の「パラオ史」の国定教科書が作られた。

国定教科書では、全462ページのうち36ページもが日本統治時代にあてられ、章には「日の丸の旗のもとに」というタイトルが付けられている。

その教科書には、日本がパラオを統治するようになった経緯だけではなく、日本が行った学校教育、産業、経済活動などについても詳しく述べられている。

学校教育については「日本人は、当時の日本式の教育方針をそのままパラオにも持ち込み、体罰を伴う非常に厳格な躾(しつけ)を行った。」としながらも、「一年生ですらかけ算の九九を暗記することができた」などと教育水準の高さについても述べられている。

また、「当時の生徒は学年末、とりわけ権威のある年間賞をもらう儀式で認められたくて、とてもよく働き勉強したものだった。その儀式は特別で、村の人たち全員が出席し、子供が成し遂げた誇りを分かち合った」という記述もある。

そして、身分を問わず、努力次第で公平に認められる社会を構築した成果についても記述されており、日本式教育を受けたパラオ人の「学校の厳しい躾が人生に役立った」というコメントも載っている。

産業についても「日本統治のもとで、パラオの島々の経済発展は産業の強化をもたらした」と記述されており、農業、漁業、鉱山業の発展について公平公正な評価がなされている。

さらに、「1年半働くと、7日間の一時帰休と永久就職の保証が与えられた。15歳以下の者は雇用されなかった」などと、福利厚生や労働基準が定められていたことについても記述されている。

日本統治時代について、公平公正に評価をし、不当な批判もなく、事実のみが淡々と教科書に記述されているのが、パラオの国定教科書だ。

パラオ共和国は1981年に、憲法を制定して、日系人のハルオ・レメイク氏が初代大統領に就任し、1993年にクニオ・ナカムラ氏が大統領に就任した翌年の1994年に米国から独立して国連に加盟した。

アメリカから独立してパラオ共和国が誕生した時、ペリリュー島出身の人らによってペリリュー島における日本軍の勇戦を讃える「ペ島の桜を讃える歌」(作詞:同島出身のジョージ・シゲオとオキヤマ・トヨミ、作曲:同島小学校副校長ウィンティ)がつくられ、今に歌い継がれている。

作詞者の沖山トヨミ庄子シゲオの2人の名前について不思議に思うかもしれないが、実は今でもパラオでは日本を慕って止まない心情もあってパラオ国民の半数以上が姓名のいずれか(あるいは両方)に日本名が付けられている。

国のために尊い命を捧げて、命に代えてパラオのペリリュー島民を守り抜いた日本兵を桜にたとえ、その日本兵への感謝の心をつづった歌だ。

1、激しく弾雨(たま)が降り注ぎ オレンジ浜を血で染めた、強兵たちはみな散って ペ島(じま)は総て墓地(はか)となる

2、小さな異国のこの島を 死んでも守ると誓いつつ、山なす敵を迎え撃ち 弾(たま)射(う)ち尽くし食糧(しょく)もない

3、将兵(ヘいし)は”桜”を叫ぴつつ これが最期の伝えごと、父母よ祖国よ妻や子よ 別れの”桜"に意味深し

4、日本の”桜"は春いちど 見事に咲いて明日(あす)は散る、ペ島(じま)の”桜"は散り散りに 玉砕(ち)れども勲功(いさお)は永久(とこしえ)に

5、今 守備勇士(もののふ)の姿なく 残りし洞窟(じんち)の夢の跡、古いペ島(じま)の習慣で 我等勇士の霊魂(たま)守る

6、平和と自由の尊さを 身を鴻(こな)にしてこの島に、教えて散りし"桜花" 今では平和が甦る

7、どうぞ再びペリリューヘ 時なし桜花(さくら)の花びらは、椰子の木陰で待ち佗(わび)し あつい涙がこみあげる

8、戦友遺族の皆さまに 永遠(いついつ)までもかわりなく、必ず我等は待ち望む 桜とともに皆さまを


南洋に住むパラオの人々は、実際には桜を見ていないかもしれないが、桜を日本人の心だと感じていたのだ。
靖国神社の桜花
靖国神社の桜花

パラオがアメリカから独立した際に定められた「国旗」は、一般国民から公募した70数点の中から青い太平洋に浮かぶ、黄色い月」が一番の人気となって選ばれた。
パラオ国旗は日の丸を模している

「太陽(日本)」があってこそ「月(パラオ)の輝きがある」という意味が込められており、月が中心から微妙にずれているのは、「日本に敬意を表し、同じでは日本に失礼だから」と、わざと中心からずらしたといわれている。

パラオの人々は、「日本軍は命を捨てて私たちの命を守ってくれた」という感謝の気持ち、そして、強大な米軍と戦った日本人の勇敢さと純粋さに敬意を抱いている。

今でもパラオ国民は、「日本兵は勇気と国を想う心があれば、アメリカよりも強くなれることを教えて死んだのだ」と考え、日本を敬っている。

1995年10月1日、パラオでは独立一周年を祝う式典が催された。

世界の国家元首がパラオに祝電を贈ったが、当時の日本国首相だった反日極左の村山富市だけは、パラオが親日国家であるために祝電を贈らなかった!
世界の国家元首が祝電を贈ったが、当時の日本国首相だった反日極左の村山富市だけは、パラオが親日国家であるために祝電を贈らなかった!

村山富市は、パラオ共和国が台湾(中華民国)を国家として認め、支那(中華人民共和国)を国家として認めていないことも問題視したようだ。

パラオの独立一周年を祝う式典で、世界各国の国旗の中に「日の丸」はなく、クニオ・ナカムラ大統領は深い悲しみに包まれた。

近野滋之Blog『民族主義者の警鐘』より、一部を修正し、概ね転載。
http://blogs.yahoo.co.jp/x1konno/36412914.html
http://blogs.yahoo.co.jp/x1konno/36440484.html
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そんなパラオを歓喜に包んだのが、昨年の天皇皇后両陛下のパラオご訪問だった。

▽パラオの国際空港の様子▽
パラオ国際空港に到着し、地元の子どもたちの出迎えに手を振って応えられる天皇、皇后両陛下=8日午後4時52分(代表撮影)
パラオ国際空港に到着し、地元の子どもたちの出迎えに手を振って応えられる天皇、皇后両陛下=8日午後4時52分(代表撮影)
パラオ国際空港に到着し、地元の子どもたちの出迎えに手を振って応えられる天皇、皇后両陛下=8日午後4時52分
パラオの少女の満面の笑みが印象的だ!
パラオ国際空港に到着し、地元の子どもたちの出迎えに手を振って応えられる天皇、皇后両陛下=8日午後4時52分



左:「そうだ難民しよう! はすみとしこの世界」はすみとしこ著(2015/12/19)
中:「余命三年時事日記」余命プロジェクトチーム著 (2015/12/17)
右:「三島由紀夫が生きた時代 楯の会と森田必勝」村田春樹著(2015/10/20)


左:カゴメ ふくしま産トマトジュース食塩無添加 スマートPET 720ml×15本
中:Panasonic 32V型 ハイビジョン 液晶テレビ VIERA TH-L32C6
右:『日本の自立 戦後70年、「日米安保体制」に未来はあるのか?』西村幸祐著、ケント・ギルバート著 (2015/8/7)


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