11月12日(木)放送BSフジ「プライムニュース」『「南京事件」とは何か 諸説と“真相”の間に 3論客の見方相互検証』
左から、藤岡信勝(拓殖大学客員教授)、秦郁彦(現代史家)、山田朗(明治大学教授)
http://www.bsfuji.tv/primenews/index.html
11月12日(木)
『「南京事件」とは何か 諸説と“真相”の間に 3論客の見方相互検証』
中国の申請によるユネスコ世界記憶遺産への登録で、日本国内でも議論が再燃している『南京事件』。
“30万人が虐殺された”と主張する中国に対し、日本政府は「人数は諸説あり、断定困難」と反論。
そもそも、昭和12年の南京で『何』が起きたのか?
多くの専門家が史料を分析、国内議論を積み重ねながら、現在まで「諸説」が収斂してこなかったのは何故か?
視点・見解が異なる3人の識者を迎え、『南京事件』の実相と、日本が取るべき対応を検証する。
ゲスト
秦郁彦 現代史家
藤岡信勝 拓殖大学客員教授
山田朗 明治大学教授
■ハイライトムービー(番組HPの動画)
2015/11/12 『「南京事件」とは何か 3論客の見方相互検証』 【前編】
http://www.bsfuji.tv/primenews/movie/day/d151112_0.html
2015/11/12 『「南京事件」とは何か 3論客の見方相互検証』 【後編】
http://www.bsfuji.tv/primenews/movie/day/d151112_1.html
今回、約1時間半に及ぶ討論の中で、最も論点となったのは、南京市民に混じった支那軍の便衣兵を正しく選び出すことができたかどうかだった。
この問題が再三再四に渡って論点となったが、秦郁彦と山田朗の2人は、一般市民と便衣兵との区別がつかないから多くの一般市民が便衣兵として殺されたと主張した。
それに対して、藤岡信勝氏は多少は反論したが、上手く説明ができなかった。
結局、藤岡信勝氏も、「処刑した便衣兵の中に市民も混じっていたかもしれない。日焼けの具合とか体格などで基本的には区別ができるが、ミスは幾つかあったかもしれない。」などとあやふやな発言をしてしまった。
だから、この問題が何度も繰り返し取り上がられたが、結局は一般市民も便衣兵に混じって処刑されてしまったような印象を強く残してしまった。
仮に便衣兵と間違えて一般市民を殺してしまっても、それは日本軍の責任ではなく、完全に軍服を脱いで便衣兵となった支那軍の責任だ!
しかし、実際には、日本軍は、一般市民を便衣兵として間違えて摘出することはなかった。
大半は、下着(兵隊服)の確認だけで、間違えることなくすぐに見分けがついた。
日本軍は便衣兵摘出の際、体つきの他、坊主頭、鉄帽子の日焼け跡、手の銃ダコ、下着(兵隊服)、市民の証言などをも確認したので、便衣兵と間違えて一般市民を処刑したことはなかった。
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▽番組の動画&要点▽
■You Tube動画
プライムニュース「南京事件の真相に迫る激論!写真の真偽を分析、30万人説の検証など」最新2015/11/12
https://www.youtube.com/watch?v=GMV5gHzDXeU
山田朗(明治大学教授)=南京大虐殺肯定派(捏造派)
南京大虐殺は事実!
犠牲者数は、十数万人を下らない!
根拠は、埋葬記録など。
秦郁彦(現代史家)=南京大虐殺肯定派(捏造派)
南京大虐殺は事実!
犠牲者数は、4万人!
捕虜殺害が3万人で、民間人殺害が1万人
根拠は、日本陸軍の戦闘詳報に推計を加えた。
支那共産党軍の機関紙
ベイツの東京裁判での証言
藤岡信勝(拓殖大学客員教授)
虐殺事件はなかった。
犠牲者数は0人。
根拠はいろいろある。
一例として、支那国民党は1937年12月1日から1938年10月24日に300回も外国人記者などに記者会見をして日本の悪事を宣伝したが、1回も南京で虐殺があったとか捕虜の不法殺害があったとは言わなかった。
記者からも、そのような質問は全く出なかった。
15:15~
秦郁彦
難民区の中に便衣兵が隠れているという想定で刈り込みをやったが、区別がつかなかった。
そこで結果的に青壮年で兵隊だったかもしれないという、「疑わしきは」ということで皆引っ張り出して、その場で全部殺してしまった。
それから、残ったのは、揚子江に連れて行って、機関銃で殺した。
これが約7000人です。
ですから、その中にどのくらい一般市民が混じっていたかどうかは分からないが、少なくとも参戦者の感触から言えば1割以上はそうだったろうと。
とにかく取り調べをしなくちゃいけないです。
28:00~
藤岡信勝
上海から南京へ行く途中で殺害や略奪行為があったのは、清野作戦(三光作戦)をやった支那軍の仕業だ。
29:00~
秦郁彦
逃げる支那軍にそんな余裕はない。
日本側の記録に、支那軍が大規模な清野作戦をやったという記録はありません。
33:00~
城内の安全区以外の場所に市民は住んでいたか?
38:00~
秦郁彦
城内の安全区以外の場所にも市民は多数いた。
少し奥には隠れて多数いた。
空っぽなんてことはない。
45:00~
司会
問題は、便衣兵として殺害された人たちは本当に便衣兵だったかどうか?
民間人が混じっていたのではないのか?
区別ができたかどうか?
藤岡信勝
混じっていたかもしれません。
日焼けの具合とか体格などで、基本的には区別ができる。
ミスは幾つかあったかもしれない。
52:00~
司会
そうなると、やっぱり沢山の市民の中から、便衣兵を選び出せるかどうか?
藤岡信勝
便衣兵の中から大人しい者かどうかで区別した。
54:00
ティンパーリはスパイ(支那の国民党の工作員かどうか)
55:00~
司会
山田さん、南京城内に残った人たちの中から、便衣兵を選び出すことが当時可能だったかどうか?
山田朗
それは不可能でしょう。
市民であるか便衣兵であるかといことを何らかの有力な根拠に基づいて分けることはできませんよね、実際。
司会
では、そこには確実に民間人が混ざって、便衣兵という名のもとに、虐殺された可能性があるということですか。
55:45~
捕虜の扱いについての話
主に、幕府山事件について
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>15:15~
>秦郁彦
>難民区の中に便衣兵が隠れているという想定で刈り込みをやったが、区別がつかなかった。
>そこで結果的に青壮年で兵隊だったかもしれないという、「疑わしきは」ということで皆引っ張り出して、その場で全部殺してしまった。
>それから、残ったのは、揚子江に連れて行って、機関銃で殺した。
>これが約7000人です。
>ですから、その中にどのくらい一般市民が混じっていたかどうかは分からないが、少なくとも参戦者の感触から言えば1割以上はそうだったろうと。
>とにかく取り調べをしなくちゃいけないです。
まず、最初に言っておくが、便衣兵(ゲリラ)を発見したら処刑することになっているのは、古今東西の原則(もちろん合法)だ。
戦場においてゲリラ=便衣兵(軍服ではない民間人の服を着た卑怯な兵士)から狙われるほど恐ろしいものはない。
制圧したと思って村や町に入ると、建物の陰から鉄砲の弾が飛んでくる。
敵兵を探しても、いるのは善良そうな顔をした人々だけ…。
あるいは、少年少女だと思って油断していると突然懐から拳銃が出てきて撃ち殺されたりする。
ゲリラ戦・便衣隊戦術は民間人を戦闘に巻き込む。
便衣兵と判明すれば殺すしかない。
便衣兵を殺さなければ、その後も支那軍は癖になって便衣隊戦術をエスカレートさせ、日本軍や一般市民の被害は拡大する一方だ。
安全区内の便衣兵(民間人を装った支那兵)摘出作業は、第十六師団によって慎重かつ正確に行われた。
日本軍は便衣兵摘出の際、体つきの他、坊主頭、鉄帽子の日焼け跡、手の銃ダコ、下着(兵隊服)、市民の証言などをも確認したので、便衣兵と間違えて一般市民を処刑したことはなかった。
兵民分離査問に立会した内田義直氏(陸軍省通訳官・第十六師団警備司令部配属)は、その実態を次のように述べている。
「中国人の言葉には地方訛りがある。南京を守備した中国軍は、広東、広西、湖南の兵隊で南方訛りであって、言葉で兵隊と市民の区別は難しかった。しかし、体つきを見れば兵隊と一般市民とは、直ぐ区別がつく。自治委員会の中国人と一緒に相談しながら分離作業をやったので、一般市民を狩り立てることはなかった。上着だけが民間服で、下着が兵隊服のものが多く、すぐ見分けがついた。」(詳細記事)
ただ、上記のような日本軍による正確な便衣兵摘出作業などについては良く知られておらず、一般男性が処刑されたと勘違いして見ていた人も少なからずいたようだ。
便衣兵摘出作業に参加せずに遠くで見ていただけの日本兵の多くも、便衣兵摘出作業の正確さを知らずに、処刑した男性の中には一般市民も混じっていたと思い込んでしまっていた。
>29:00~
>秦郁彦
>逃げる支那軍にそんな余裕はない。
>日本側の記録に、支那軍が大規模な清野作戦をやったという記録はありません。
秦郁彦は、本当にレベルが低くて、無知丸出しだ!
支那軍の清野作戦(焦土作戦)に関する記録は、日本軍にも英国などの外国にも山ほど存在している。
なぜ、フジテレビ(BSフジ)が秦郁彦のような無理丸出しの南京大虐殺肯定派(捏造派)を出演させるのは、フジテレビ(BSフジ)が南京大虐殺を肯定(捏造)したいからだとしか考えられない。
▼清野作戦に関する記録▼
●清野作戦(焦土作戦)
支那軍は敗走時、日本軍が利用できる物を何も与えないようにするため、民衆から食糧などを奪い、民家などを焼き払う「清野作戦」(焦土戦術)を行った。
上海~南京、また、南京城壁の周囲1~2キロにある居住区全域と南京城から半径16キロ以内にある道路沿いの村落と民家を強制的に焼き払った。
南京戦の前後も、支那軍や盗賊による強奪に伴い殺害も発生した。
――――
ラーベ
11月16日、蘇州では、舞い戻ってきた中国の敗残兵によって、ひどい略奪が行われたという。済南の手前にある鉄橋が中国人の手によって爆破されたという。日本人の進攻を防ぐため。
――――
孫元良
やがて我々は崑山から蘇州に後退し、ここで一休みできる筈だったが、蘇州は既に秩序が乱れ収拾不能な都市になっており、我々に休む間を与えなかった。
――――
第九師団・第36連隊長・脇坂次郎氏
上海から南京に進軍中、我が部隊は常に先頭に立ったが、沿道の部落の家屋が焼却され、毀損され、また家屋内が略奪されていたのが相当認められた。
これは支那軍が退却に際し、方か、破壊した、支那軍民の常習たる戦時の略奪によるものであると、支那人民から聞いた。
――――
第九師団・山砲第九連隊・第七中隊長大内義秀氏
わが部隊は、蘇州へ向けて進撃すべく命をうけ、第一線部隊として進み、蘇州到着までは、ほとんど敵の抵抗を受けなかったが、蘇州に至る間の部落は酷く焼かれ、屋根のある家は少なく、住民もいなかった。
このような破壊は、支那軍が退却に際して行ったものと認める
――――
第三師団・野砲兵第五連隊・第一大隊観測班長大杉浩氏
上海から南京へ行く途中のある部落で、稲の堆積されたものが、焼き棄ててあるのを見た。
部落民にその理由を尋ねたところ、それは支那軍が退却の際、日本軍に渡さない為、焼却したと説明を受けた。
――――
ミニー・ヴォートリン
12月6日
UP特派員のマクダニエルがきょう話してくれたところでは、きのう句容へ行ってみたが、人が住んでいる村はただの一つもなかったそうだ。中国軍は村びとを一人残らず連れ出し、そのあと村を焼き払っているのだ。まったくの「焦土作戦」だ。
12月8日
中国軍に自宅から即時立ち退きを命じられ、これに従わなければ、反逆者とみなされて銃殺される。軍の計画を妨害すれば、家が焼き払われる場合もあるそうだ。
――――
―――――
片山兵二著『郷土部隊と共に歩んだ「わが青春の中国大陸従軍譚」』(昭和52年)
以下は佐藤己三男准尉から聞いた南京陥落から四ヶ月後の湯山の模様
「どうも油断がならなくてね。昨夜も付近烽火を合図に数十名の敗残兵が現れ、良民から金品を強奪して行きました。そのため毎日討伐をやり、警戒を厳重にしていますよ」347頁
大坪鉄三郎准尉と長倉久徳一等兵が語る湯山の南の句容の状況
「この近くの部落へ十五名ばかりの強盗がやってきて、主人(農夫)を竈の上に吊り上げ、火あぶりにしたが、それが丁度、憲兵隊が使っているコックの実家なので、すぐに報告があり、今朝二手に分かれて討伐をやったのです。…奴らの残忍性にはあきれます。
農民を火あぶりにした上、金を奪い取り、憲兵隊へ密告せば命がないぞと脅していくので、農民はブルブル震えて仕事が手につかないのです、そのためわれわれが行くと喜び親しんでイスをすすめ、お茶を出して歓待してくれますよ」349~350頁
『1937南京攻略戦の真実』東中野修道編著
―――――
英国の通信社も、蒋介石が清野作戦(焦土戦術)を命令していたことを報じた。
和13年7月12日 東京朝日
【漢口発特電十一日発(ルーター特約)】
蒋政権当局は支那軍に対し九江退却に先立ち、 日本軍の軍事行動に便宜を与えるごとき財産或いは建造物は、 何物たるを問わずこれを破壊し去るよう命令を発した。
(以下略)
>33:00~
>城内の安全区以外の場所に市民は住んでいたか?
>38:00~
>秦郁彦
>城内の安全区以外の場所にも市民は多数いた。
>少し奥には隠れて多数いた。
>空っぽなんてことはない。
南京の人口は1937年に支那事変が始まる前には約100万だったが、その後南京市民は南京戦が始まるまでに日本軍占領地の上海などに避難したため、1937年12月13日の南京陥落当時の南京の人口は約20万人だった。
そして、その20万人は、全員が安全区(難民区)に避難していた。
支那軍は、日本軍が利用できる物を何も与えないようにするため、民衆から食糧などを奪い、民家などを焼き払う「清野作戦」(焦土戦術)を行った。
南京城壁の周囲1~2キロにある居住区全域と南京城から半径16キロ以内にある道路沿いの村落と民家を強制的に焼き払った。
したがって、まずは、南京城壁の周辺に一般住民は全く居なかった。
次に、南京で戦闘が始まった1937年12月12日の夜、南京に残った約20万人の善良な市民は全て安全区に避難していた。
南京城内の安全区以外は無人だった。
――――――――――
12月1日、南京市長が全市民に安全地区に移るように命令
12月8日、支那軍司令長官唐生智が非戦闘員は全て安全地区に移るように命令
――――――――――
南京市長や支那軍司令長官の命令に逆らって一般市民が危険な場所に残っていた筈がない。
▼裏付け資料▼
12月7日
何千という人々が南門から安全区に入ってきた。彼らの話によれば、5時までに立ち退くよう警察から命令されており、それに従わなければ家は焼き払われ、スパイとみなされる、というのだ。
(南京事件の日々P39)
12月7日
門の近くにある家は城壁の内側であっても焼き払われるという噂が広まり、中華門の近くに住む住民はパニックに陥っている。何百という家族が安全区に押し寄せてはいるが、こんなに暗くてはもう泊まるところがみつからない。
(ラーベの日記P100)
12月8日
南京防衛軍の司令官唐生智は、市が戦闘地区に入ったと宣言し「すべての非戦闘員は国際管理下の安全地帯に集結しなければならない」と、布告した。市内他地区での移動は、黄色の腕章に特別の印で示される特別許可証所有者を除いて禁じられる。
NYタイムズ12/8(アメリカ資料編P390)
12月8日
把江門を通って江岸に出て行くのは今でも容易であるが、 中国人はそこから城内に入る事を許されていない。昨夜警察官が、城壁外部の下関地区の家々を一軒一軒回って、長江を渡って浦口へ行くように警告して歩いた。
米大使館報告(アメリカ資料編P95)
12月8日
中国軍に自宅から即時立ち退きを命じられ、これに従わなければ、反逆者とみなされて銃殺される。軍の計画を妨害すれば、家が焼き払われる場合もあるそうだ。避難民の多くは南門付近や市の南東部の人たちだ。
(南京事件の日々P40)
12月9日
今夜は南京市の南西隅の空全体を火炎が照らしている。(略)AP特派員のマクダニエルは、中国兵が灯油をかけて家に火をつけているところを目撃したと言っている。
(南京事件の日々P41)
12月10日
なにしろ、この街の運命と20万人の命がかかっているのだ。安全区の道路は、避難する人たちでごったがえしている。(略)残念ながら軍人がまだ大勢、安全区に留まっている。
(ラーベの日記P107)
12月11日
警察官が川岸で渡江して避難する準備をしているのを見た。その後、数百人の警察官が同じ目的で下関区へなだれ込むのを目撃したから、もはや市内に警察官はいないのではないかと思われる。
(アメリカ資料編P101~102)
12月12日
今夜の記者会見で聞いたところによれば、防衛司令官の唐生智には、旗下の部隊に対する統率力が不足ために、城内のほとんどの場所で略奪が行われているそうだ。
(南京事件の日々P47)
12月13日
言いかえれば、13日に貴軍が入城したときに我々は安全区内に一般市民のほとんど全体を集めていましたが、同区内には流れ弾による極めてわずかの破壊しかなく、中国兵が全面的退却を行った際にもなんら略奪は見られませんでした。(略)もし市内の日本兵の間でただちに秩序が回復されないならば、20万の中国市民の多数に餓死者が出ることは避けられないでしょう。
(安全委員会公文書T-6)
12月13日
ラーベを委員長とする安全委員会は12月17日の日本大使館宛の文書で、「13日に日本軍が入城した時には一般市民の殆ど全体を安全地区に集めていた」とある。
こうして安全区を別とすれば、南京市は人気(ひとけ)が無くなり、我々委員会のメンバー、わずかのアメリカ人新聞記者、取り残されたヨーロッパ人が2~3人いるだけになりました。中国側によれば、まだ中国人が大勢安全区の外に隠れていると言う話でしたが、これは確かめることができませんでした。
『南京の真実』P344 1938年6月8日付け「ヒットラー宛の上申書」
▼南京城内の安全区以外が無人だったことの裏付け▼
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南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行の嘘
No.8418
安全区内にしか市民がいなかった(市民であって中国兵や負傷兵を看護する従軍看護婦でないことに注意)という説は日本「南京」学会理事の冨澤繁信氏が強く主張しています。
その根拠は冨澤氏の著書『南京事件の核心』(展転社)に詳しく論じられています。
一部抜粋しますと、
・・・蒋介石の宣伝部の顧問であった、ティンパーリという人が「南京事件」を諸外国に宣伝するために、『戦争とは何か』という本を日本軍南京占領の翌年(1938年)に出版した。この本の中には「南京事件」のたくさんの事例が集められている。この事例の実質的編纂者であり、南京大学の教授で、かつ蒋介石の顧問であったベイツという宣教師が、この事例について次のように言っている。「ここに記録された事件は南京安全地帯内で起きたものだけであり、南京のこれ以外の場所は1月末まで事実上の無人地帯となっていたのであって、此の期間中、殆ど外国人の目撃者はなかった。」(『戦争とは何か』103頁)
(『南京事件の核心』冨澤繁信著 展転社)
一部の虐殺派の人々はラーベ日記に一月中旬、安全区外で5万人の難民が発見されたと記述されていることを以って安全区外無人説を否定する向きもありますが、以下の理由により根拠薄弱です。
1.国際委員会の用意した収容所は全部あわせても5万人程度の収容力しかなく、それ以外の市民についてはその住居を掌握できていた訳ではない。
ラーベが発見した5万人が、安全区から自宅へ帰還しようとしていた人々でないと断定する根拠は無い。
日本軍は1月上旬より市民に自宅への帰還を呼びかけている。
2.また、良民証の発行により、身元の確認された南京市民は城外より城内の元の住居へ帰還が可能となっており、ラーベの発見した5万人が城外より帰還した市民ではないという根拠も無い。
『南京安全地帯の記録』第23号 布告
本司令官は12月24日より、全ての難民と市民に対し良民証を発給する。これは居住と就労の便宜だけのためのものである。・・・この調査の後には良民証を持たない者の南京城内居住は許されない。・・・
昭和12年12月22日
日本陸軍 南京憲兵司令官
(『南京安全地帯の記録』完訳と研究 冨澤繁信著 展転社より抜粋)
3.国際委員会の主要業務は難民に対する食糧の配給であり、人数分の食料が供給されるよう、日本に対してたびたび苦情を申し立てている。
この配給人数について、良民証発行による人口調査の結果、国際委員会は1月14日の第41号報告で従来の20万人から25万人に上方修正しているが、これ以降、配給対象人数の上方修正は行われていない。
ラーベにより5万人もの難民が発見されたなら、新たに増加供給の要求が無ければ不合理であり、そもそも5万人発見の記録そのものの信憑性が乏しい。
なお、25万人という数字は1/18、1/19、1/22の記録にも見られるので、ラーベに発見されてから直ちに日本軍に殺されたということはあり得ないw『南京安全地帯の記録』第41号 福田氏への手紙
1938年1月14日
・・・我々は貴軍が、10歳以下の子供、及びいくつかの地区では老人の女性を含めないで、16万人を登録したと理解しております。すると、当市の人口は多分25万人から30万人ということになります。この住民を通常の米の配給で養うには・・・
ジョン・H・D・ラーベ 委員長
『南京安全地帯の記録』第54号 プリドウブリューン氏への手紙
1938年1月28日
・・・南京25万の難民のうち、大部分は市内及び近郊の大規模な火災のために家がありません。・・・
ジョン・H・D・ラーベ 委員長
(『南京安全地帯の記録』完訳と研究 冨澤繁信著 展転社より抜粋)
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>54:00
>ティンパーリはスパイ(支那の国民党の工作員かどうか)
南京虐殺は嘘24 嘘吐きティンパレー(ティンパーリ)1
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-3287.html
南京虐殺は嘘25 嘘吐きティンパレー(ティンパーリ)2
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-3284.html
南京虐殺は嘘26 嘘吐きティンパレー(ティンパーリ)3
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-3282.html
南京虐殺は嘘27 嘘吐きティンパレー(ティンパーリ)4
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-3278.html
南京虐殺は嘘31 ベイツとティンパリー、嘘吐き宣伝工作員同士の音信
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-3266.html
>55:45~
>捕虜の扱いについての話
>主に幕府山事件について
「幕府山事件」は、大量の捕虜を解放しようとした時、暴動が発生したための合法的な処置であり、虐殺の証拠ではない。
なお、支那軍は、支那事変のあった8年間で、投降したり負傷したりして捕まえた日本兵を捕虜として保護したことは全くなかった。
「反戦兵士」にする極めて少数の日本兵を除き1人残らず惨殺した。
まさに「皆殺し」だった。
一方、日本軍は、南京だけでも1万人以上の支那兵を捕虜として保護した。
http://1st.geocities.jp/nmwgip/nanking/Bakufu.html
幕府山事件
まず、幕府山事件とはどのようなものであったのかについて、公式の戦史である戦史叢書の見解を引用します。
・・・・第十三師団において多数の捕虜が虐殺したと伝えられているが、これは15日、山田旅団が幕府山砲台付近で1万4千余を捕虜としたが、非戦闘員を釈放し、約8千余を収容した。ところが、その夜、半数が逃亡した。警戒兵力、給養不足のため捕虜の処置に困った旅団長が、十七日夜、揚子江対岸に釈放しようとして江岸に移動させたところ、捕虜の間にパニックが起こり、警戒兵を襲ってきたため、危険にさらされた日本兵はこれに射撃を加えた。これにより捕虜約1,000名が射殺され、他は逃亡し、日本軍も将校以下7名が戦死した。・・・・
(戦史叢書『支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで』)
左:「そうだ難民しよう! はすみとしこの世界」はすみとしこ著(2015/12/17)予約注文
中:『日本の自立 戦後70年、「日米安保体制」に未来はあるのか?』西村幸祐著、ケント・ギルバート著 (2015/8/7)
右:『日之丸街宣女子(ひのまるがいせんおとめ)』富田安紀子著 2015/5/15
左:【国産トマト100%】カゴメ トマトジュースプレミアム 低塩 スマートPET 720ml×15本
中:【国産トマト100%】カゴメ トマトジュースプレミアム 食塩無添加 スマートPET 720ml×15本
右:Panasonic 32V型 ハイビジョン 液晶テレビ VIERA TH-L32C6
「山田朗と秦郁彦は、無知丸出し!捏造やめろ!」
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