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おいなりさん無残な姿!警固神社の4体壊される(福岡)・神功皇后の三韓征伐を勝利に導いた神祀る
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おいなりさん無残な姿!警固神社の4体壊される(福岡)・神功皇后の三韓征伐を勝利に導いた神祀る 首の部分が壊されたキツネの石像=同日午前9時45分
神功皇后による【三韓征伐】を勝利に導いた警固大神を祀った警固神社のお稲荷さん(キツネ)の首が無惨にも壊され落とされた!

警固神社の「おいなりさん」4体破壊 深夜の天神で犯行か

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/f_toshiken/article/165148
おいなりさん無残な姿… 警固神社の4体壊される 福岡・天神 [福岡県]
2015年04月25日(最終更新 2015年04月26日 01時17分)、西日本新聞

倒された警固神社境内のキツネの石像=25日午前10時すぎ、福岡市中央区
倒された警固神社境内のキツネの石像=25日午前10時すぎ、福岡市中央区

首の部分が壊されたキツネの石像=同日午前9時45分
首の部分が壊されたキツネの石像=同日午前9時45分

 25日午前1時ごろ、福岡市中央区天神2丁目の警固神社で、境内にあるキツネの石像4体が壊されていると110番があった。福岡中央署は器物損壊容疑で調べている。石像は土台ごと倒されたり首が折られたりしており、何者かが工具などを使って犯行に及んだ可能性も浮上している。

 警固神社などによると、4体は境内南側の「今益稲荷神社」の拝殿前にあり、高さは約1・2~1・5メートル。いずれも首が折れており、うち1体は土台ごと倒されていた。巡回中の防犯ボランティアの男性が発見した。前日午後10時ごろには異常がなかったという。

 署によると、奈良県や京都府を中心に寺社などに油のような液体がまかれる事件が相次いでいるが、破壊された石像からは油性反応は出ていないという。

 石像は、福岡県篠栗町の石彫師、国広晴峰さん(76)と父親の故石峯さんが作った。健康で仕事ができることへの感謝を込めて奉納したという晴峰さんは「月1回お参りしている大事な、おいなりさん。どうしてこんなひどいことができるのかまったく理解できない」と怒りをあらわにしていた。

=2015/04/26付 西日本新聞朝刊=

おいなりさん無残な姿… 警固神社の4体壊される 福岡・天神


「おいなりさん」キツネ石像4体破壊 福岡・警固神社
「おいなりさん」キツネ石像4体破壊 福岡・警固神社(朝日新聞より)
.「おいなりさん」キツネ石像4体破壊 福岡・警固神社



>健康で仕事ができることへの感謝を込めて奉納したという晴峰さんは「月1回お参りしている大事な、おいなりさん。どうしてこんなひどいことができるのかまったく理解できない」と怒りをあらわにしていた。


そもそも、お稲荷さんの祟りや天罰が恐ろしくて、日本人には到底できない。

神社仏閣へ油をかけたりしている一連の犯行も神仏を恐れぬ民族の仕業で間違いない(99%)だろうが、今回の「お稲荷さんの首落とし」は99.9999%も日本の神を恐れぬ民族の仕業で間違いない。

しかも、この警固神社は、神功皇后による【三韓征伐】を勝利に導いた警固大神を祀った神社だ!

警固神社
社伝では神功皇后による三韓征伐の際、皇后の船団を守護し勝利に導いた警固大神を福崎(現在の福岡城本丸周辺)の地に祀ったのが始まりとされる。


三韓征伐とは、神功皇后(仲哀天皇の后で応神天皇の母)が新羅に出兵し、百済と高句麗をも含む朝鮮半島の広域を服属下に置いた遠征をいう。

三韓征伐については『古事記』『日本書紀』に記載されている他、朝鮮や支那の歴史書にも関連記述がある。


新羅が降伏した後、百済と高句麗も相次いで日本の支配下に入ったために『三韓征伐』と呼ばれる。

朝鮮遠征。1880年月岡芳年
朝鮮遠征。1880年月岡芳年。

神功皇后は、夫の仲哀天皇の急死(西暦200年)後、神功皇后が201年から269年まで政事を執り行なった。

神功皇后は、妊娠したまま(のちの応神天皇)を海を渡って朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。

新羅は、戦わずして降服して朝貢を誓った。

神功皇后のもとに、新羅王を悔い改めさせた
神功皇后率いる堂々たる皇軍を見た新羅王は大いに驚き、一戦も交えずして降参し、『たとえ太陽が西より出て、川の水さかさまに流るるとも叛くまじく、毎年貢物を献上つかまつるべし』と申し出で、皇軍の八十艘に金銀財宝を積み献上したので、皇后はこれをお許しになり、以来毎年貢物されるようになった。

その後、高句麗と百済も朝貢を約したといわれている。

神功皇后は、三韓征伐からの帰国後、筑紫の宇美で応神天皇を出産した。

そして、神功皇后が畿内に帰るとき、神功皇后の皇子(応神天皇)の異母兄たちが畿内にて反乱を起こしたが、神功皇后軍はこれを平定した。

以上が『古事記』及び『日本書紀』に共通している内容だ。

『日本書紀』には、新羅に加えて、高句麗と百済も服属を誓ったことや新羅王が王子を人質にだしたことも記載されている。

以下は、『百済記』より、ほんの一部を抜粋。

――――――――――
神功51年(西暦251年)3月、百済は久氐を派遣し、日本に朝貢した。
神功52年(西暦252年)9月10日、百済王は、百済と倭国の同盟(済倭同盟)を記念して神功皇后へ七子鏡と七枝刀を献上した。
――――――――――



ちなみに、韓国人は、「神功皇后は新羅人だったニダ!神功皇后は新羅の部族長の娘の一人だったがお家騒動で日本に追放され、日王(天皇)と結婚して復讐の軍を率いて新羅に戻って来たニダ!」と主張しているという。

日本の学者にも、「神功皇后は、架空の人物であって、かつて存在したことはない」などと、躍起になって神功皇后の存在を否定する者がいる。

つまり、韓国人や反日左翼にとって、3世紀から日本が朝鮮半島を支配していた事実を物語る神功皇后の『三韓征伐』は不都合な真実であり、消し去りたい悪夢なのだ。

日本の保守・右寄りと言われる人たちの中にも、「実は日本は3世紀には早くも朝鮮半島を侵略していた」などとと言われたりするのが嫌なためか、神功皇后の三韓征伐の話を持ち出さない人が多い。


神功皇后 (1881年~)
1881年から流通した神功皇后が描かれたお札。
1876年に「日朝修好条規」を結んで朝鮮を開国させた2年後の1878年に刷られ、1881年から流通した。
原版はイタリア人技術者エドアルド・キヨッソーネが作成したので、西洋風の美人に描かれている。



いずれにせよ、4世紀になれば、日本が朝鮮半島に進出して、朝鮮を支配していた事実は既に確定している。

4世紀の日本(倭国)の朝鮮半島進出は、広開土王碑や七支刀などの考古物や支那及び朝鮮の文献など、全く別の史料によって実証されている。

有りえないことだが、仮に神功皇后が架空の人物だったり神功皇后が新羅人だったり『三韓征伐』が作り話だとしても、その100年~200年位後には、日本が完全に朝鮮半島を支配していた事実は否定できない。

どんなに韓国人が、日本による7世紀までの朝鮮半島支配という事実を消し去ろうとしても、絶対に無理だ!


百万歩譲ってどんなに遅くても4世紀頃に、朝鮮半島は九州などと同様に日本(倭国)の一部となった。(7世紀「白村江の戦い」まで)。

高句麗の「広開土王碑」には、「391年、日本が海を越えて、百済や新羅を破って服属させてしまった」と記されている。

広開土王碑

広開土王碑

百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以辛卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民。

そもそも新羅・百残(百済)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。
広開土王碑


日本(倭国)が任那(伽耶)や百済や新羅などを属国にして支配していたことは、この高句麗の『広開土王碑文』の他、日本の『日本書紀』や、支那正史の『宋書』や朝鮮の史料である『三国史記』でも述べられているので100%確実だ。

『三国史記』(百済本紀)
397 倭国と国交を結び王子の腆支を人質とする
399 高句麗攻撃のための徴発により人々が新羅に逃げる
402 倭国に使者を送り大珠を求む(大珠の意不明)
403 倭国の使者を特に手厚くねぎらう
405 腆支王即位テンシ(直支、映、枕流王の子)人質となっていたとき枕流王が死去、弟を殺した末弟が王となったために乞うて倭国の護衛により海中の島にて待機してのち王となる
406 晋に朝貢
409 倭国の使者が夜明珠を送る 厚く礼遇する(夜明珠の意不明)



百済の「武寧王」も、その父の「東城王」も、朝鮮半島で生まれたのではなく、日本(九州)で生まれて日本から朝鮮半島に渡って行った人物だ。

ちなみに、日本から朝鮮半島に渡って行った「武寧王」の子「純陀太子」は、日本に人質として来て、その子孫はそのまま日本に住み着いた。


百済の文斤王がなくなり、天皇は昆支王の五人の子の中で、二番目の末多王が、幼くとも聡明なので、内裏へ呼んだ。親しく頭を撫でねんごろに戒めて、その国の王とし、武器を与え、筑紫国の兵五百人を遣わして国に送り届けた。これが東城王である。…
『日本書紀』雄略紀


(廿三年夏四月、百済文斤王薨。天王、以昆支王五子中、第二末多王、幼年聡明、勅喚内裏。親撫頭面、誡勅慇懃、使王其国。仍賜兵器、并遣筑紫国軍士五百人、衛送於国。是為東城王。…)


こうして479年、東城王(末多王)が百済王に即位したが、この即位も日本(天皇)によって決められたことが判る。

『日本書紀』武烈四年条(502年)には、この東城王(末多王)の暴虐が記され、武寧王即位が記されている。


「是歳、百済の末多王、無道して、百姓に暴虐す。国人、遂に除てて、嶋王を立つ。是を武寧王とす。」


こうして、百済王に「武寧王」が即位したのだが、「武寧王」も九州(佐賀県)生れの日本人(倭人)だった。

つまり、百済王は、天皇によって決められ、日本(九州など)生れの「東城王(末多王)」や「武寧王」などが日本(九州など)から朝鮮半島に渡って行って即位していたように、百済というのは昔から日本(倭国)の一地方だった。

663年、日本(倭国)は、「白村江の戦い」で、唐・新羅の連合軍に敗れ、朝鮮半島に有していた勢力圏を失った。

百済王族は日本列島に亡命し、それ以降は大和朝廷の単純な手下となった。

桓武天皇の在位期間(781~806年)、桓武天皇の命令を受けた百済王の子孫たちは、東北地方(陸奥)の征服を何度も試みたが、大惨敗を繰り返した。



左:『21世紀の「脱亜論」――中国・韓国との訣別』 西村幸祐著 2015/4/2
右:『パラオはなぜ「世界一の親日国」なのか~ 天皇の島ペリリューでかくも勇敢に戦った日本軍将兵』井上和彦著 2015/3/12

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