正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現
嘘の歴史に騙されるな!日本最優先政治、日本国民の生命と財産と自由を守る核武装、日韓断交を実現しよう!マスゴミの嘘や洗脳工作を許すな!がんばれ!日本国民党!
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TBSに長崎の反日語り部森口貢が登場・支那、記憶遺産に南京事件と従軍慰安婦を申請・黄河決壊事件
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231520NEWS23で『長崎自称「被爆者で語り部」くそじじい暴言事件』【死に損ないのくそじじい!?】
TBS「NEWS23」に長崎の「エセ被爆者」で「反日語り部」の詐欺師・森口貢が登場!

「死に損ない」横浜から来た修学旅行生が被爆者に暴言、来週にも「反省文」送付へ
6月9日、TBS

修学旅行で長崎を訪れていた横浜市の中学生が、被爆者の男性に「死に損ない」などと暴言を浴びせた問題です。
学校の校長は9日、男性に対し、謝罪文を送付、生徒も来週にも、反省文を送ることにしています。
終戦から間もなく69年。
被爆者に心ない言葉が投げつけられました。
「『死に損ない』カチンときた」(長崎の被爆者・語り部 森口 貢さん)
長崎で、語り部として活動している森口貢さん(77)。
先月末、修学旅行で横浜からきた中学3年生を案内していましたが、騒ぐ生徒がいたため、厳しく叱責しました。
その後、グループに分かれて説明を始めたとき、注意を受けた男子生徒ら5人と出くわしたといいます。


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TBS
「ニュース23」

6月9日


画像等は「ば韓国いい加減にしろ速報」より
231520NEWS23で『長崎自称「被爆者で語り部」くそじじい暴言事件』【死に損ないのくそじじい!?】

231520NEWS23で『長崎自称「被爆者で語り部」くそじじい暴言事件』【死に損ないのくそじじい!?】

231520NEWS23で『長崎自称「被爆者で語り部」くそじじい暴言事件』【死に損ないのくそじじい!?】
TBS「NEWS23」に長崎の「エセ被爆者」で「反日語り部」の詐欺師・森口貢が登場!

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TBS「NEWS23」に長崎の「エセ被爆者」で「反日語り部」の詐欺師・森口貢が登場!

TBS「NEWS23」に長崎の「エセ被爆者」で「反日語り部」の詐欺師・森口貢が登場!
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この森口貢が「エセ被爆者」の「反日語り部」であることについては、当ブログ6月8日付記事において、ソース付きで詳しく説明した。

時間をかけてソース付きで詳しい記事を作成した甲斐があり、6月8日付当ブログ記事は他のブログや2ちゃんねるなどでも紹介されたようだ。

当ブログへのアクセスも急増したが、一方で批判的なコメントも少なからず寄せられた。

私は、横浜の中学生たちが長崎の被爆者に対して「クソじじいの死に損ないの話を聞くな」などと叫んで罵ったことを擁護したわけでもないし、ましてや褒めたわけでもない。

実際に、6月8日付当ブログ記事の書きだしでは、【私も、最初は「トンデモナイ糞餓鬼が居たもんだ」と思った。】と述べている。

もしも、横浜の中学生たちが、森口貢のことを「エセ被爆者」「反日語り部」であると見抜いた上で、「クソじじいの死に損ないの話を聞くな」と叫んだのなら、その中学生たちは有能な天才だ。

しかし、おそらくそうではなく、中学生たちは、森口貢から注意されたことへの腹いせでやったのだろう。

だとしたら、中学生たちの言動が酷いことは、当然だ。

しかしながら、ここで大きな問題として残るのは、マスゴミの報道の仕方だ。

新聞やテレビなどのメディア(マスゴミ)が中学生たちを非難するのは良いとして、どうして森口貢が詐欺師であることを一切報じないのか?!

中学生たちはマスゴミに叩かれているから十分に制裁を受けているが、マスゴミがクソ爺の正体を隠蔽して被害者扱いしていることは重大な問題だ。

そもそも、糞ガキどもの暴言などいちいち新聞やテレビニュースで大々的に報道する必要などないのに、なぜ大騒ぎして報道しているのか?

その際に、「エセ被爆者」「反日語り部」である森口貢が詐欺行為を働いていることこそ、絶対に看過できないことなのに、その点については一切報じないことは、偏向報道以外の何ものでもない。

弊ブログに寄せられたコメントの中には、「長崎への原爆投下から11日経過後に長崎に戻れば、被爆者の要件を満たす」との旨の指摘があったが、11日も経ってから長崎に戻った人を被爆者とする医学的根拠など全くない。

そんなものは、被爆者の特権を得るための、単なる「ごね得」だ。


1945年8月6日、広島に原爆が投下された。
しかし、その爆心から500m以内に居て生存した人が78人もいた。
彼らはコンクリートの建物の奥、地下室、満員電車の中などに居た。

彼らの多くは、非常に長生きをした。

例えば、広島県燃料配給統制組合の野村英三さんは爆心から170m離れた同組合の事務所にいて、偶々爆発の時に地下室にいたのが幸いした。
野村氏は被爆後に同僚の救助活動を行っていて急性放射線障害を発症していたが、1982年84歳まで元気に長生きした。

長崎原爆投下後の追跡調査では、1000ミリシーベルト(100ラド)以下の被曝者の死亡率は、全死亡者に対する死亡率より低かった。
つまり、ある程度の被曝は、逆に死亡を防ぎ、寿命を延ばしている。

なお、広島・長崎で二重被爆した人が3人居られたが、3人の死亡年齢は、 93歳、91歳、97歳だった。

森口貢は、被爆もしていないのに「被爆者」と偽称し、反日活動をするトンデモナイ詐欺師=糞爺(くそじじい)であることは、紛れもない事実だ!


当ブログ6月8日付記事より、「まとめ」の部分だけ、再掲載しておく。


▼まとめ▼
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1.当時8歳だった森口貢は、佐賀の田舎に疎開しており、長崎原爆投下の被爆者ではない。

2.森口貢は、元「日教組」所属の反日教師だった。

3.森口貢は、1時間1万円「講話謝礼金」のために、「長崎被爆者」と偽称し、語り部となり、伝聞や妄想や反日イデオロギーを語っている。

4.森口貢は、「在韓被爆者訴訟」で、1審敗訴の長崎市が控訴したことを批判した。

5.森口貢は、首相の靖国神社参拝を批判している。

6.森口貢を含む「語り部」たちは、生徒たちに対して、「イラクヘの自衛隊派遣」「靖国神社」「天皇の戦争責任」「憲法改正」などの政治的問題について、反日左翼としての個人的意見を語り聞かせている。

7.森口貢は、修学旅行の横浜の中3生から「死に損ないのくそじじい」と言われる前に、先にキレて生徒に対して「出ていけ」と暴言を吐いていた。
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さて、支那がユネスコの記憶遺産に「南京事件」と「従軍慰安婦」を申請した。

http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20140611-00000014-jnn-int
中国、記憶遺産に「南京事件」と「従軍慰安婦」を申
TBS系(JNN) 6月11日(水)5時59分配信

 中国外務省は、中国政府がユネスコ=国連教育科学文化機関に対し、第二次世界大戦中に日本が関わったとされる「南京事件」や「従軍慰安婦」について、関連する資料を「世界記憶遺産」に登録するよう申請を行ったと発表しました。

 世界記憶遺産は、ユネスコが進める歴史的に貴重な史料を保護し、後世に伝えることを目的とした事業で、日本からも「慶長遣欧使節に関する資料」などが登録されています。

 「(申請の目的は)歴史を明記し、平和を大事にして人間の尊厳を守り、人道に背き人権を侵害した反人類の罪の再発を防止するためだ」(中国外務省・華春瑩報道官)

 中国外務省の華春瑩報道官は、10日の会見でこのように述べ、第二次世界大戦中に旧日本軍による残虐行為があったとされる「南京事件」と日本政府の関与があったとされる「従軍慰安婦」について、中国政府が関連する資料を「世界記憶遺産」に登録する申請を行ったと発表しました。

 従軍慰安婦をめぐっては韓国も同様に世界記憶遺産への登録申請を目指していて、両国で共闘して国際機関へ働き掛けることで、歴史問題に関する日本への圧力を強めていく狙いがあるとみられます。

 「仮に、中国が政治的意図を持ってこの案件についての申請をしたものと判断されれば、抗議のうえ、取り下げるように政府としては申し入れを行いたい」(菅義偉官房長官)

 一方、菅官房長官はこのように述べて、中国側の意図を確認したうえで抗議する考えを示しました。(10日18:32)



支那が主張している「南京事件」も、韓国が主張している所謂「従軍慰安婦」も、嘘っぱちのでっちあげだ。

折しも、本日6月11日は、支那が76年前に、黄河の堤防を破壊し、支那住民約100万人を大虐殺した「黄河決壊事件」の日だ。



泥流渦巻く黄河の洪水被災地で、支那人に対する日本軍の必死の救助作業が続く。
泥流渦巻く黄河の洪水被災地で、支那人に対する日本軍の必死の救助作業が続く。
同盟ニュース、昭和13年6月23日



2011年3月11日、東日本大震災が発生し、今現在、死者、行方不明者を合わせると2万3千人超となっている。

未曾有の大惨事だ。

ただ、歴史をひも解くと、上には上が有る。

今から73年前の6月11日夜、支那軍は、黄河の堤防を破壊し、大洪水にし、何十万人もの命を奪った。

1938年6月11日夜に始まった支那の大洪水には、天災の要素はなく、人間が意図的に起こした神をも恐れぬ大犯罪だ。


支那は常々1998年に発生した死者約3000人の大水害を「史上最悪の大水害」と報じている。

1998年に全国規模の発生した所謂「史上最悪」の大水害による死者は約3000人、2010年の水害による死者は200人超だが、73年前1938年の水害では、死者は河南省だけの少ない見積もりでも32万人、記録によれば89万人とも100万人とも言われている。

しかも、驚くことに、73年前の大水害は自然災害ではなく、支那軍が人為的に行った人的災害だった。

73年前の1938年といえば支那事変の真っ最中だが、当時、支那大陸では、支那軍が様々なことをして支那民衆を大量に殺しまくっており、日本軍はそんな支那民衆の救助に追われていた。


その1938年の大水害は「黄河決壊事件」と呼ばれ、当時、支那民衆を大量に殺しまくっていた支那軍と、そんな支那民衆を救助しまくっていた日本軍の代表的な出来事として、支那事変について勉強している人なら知っている大事件だ。

どうして、この「黄河決壊事件」のことが歴史教科書に記述されないのか不思議でならない!

まだ知らない方は、これを機会に支那事変では、支那軍が支那民衆を殺しまくり、日本軍が支那民衆を救出しまくっていた実態を是非とも知って頂きたい。




黄河決壊事件
黄河決壊

1938年6月6日に、日本は河南省の中心地である開封市を占領、鄭州市も攻略できる様相となった。

早急な対策が求められた国民党軍側では劉峠第一戦区副司令官の「黄河の堤防破壊により洪水を起すことによって日本軍の進撃を阻止」する案が程潜司令官に示され、蒋介石の承認を得た。

蒋介石は、商震将軍に日本軍前衛部隊の背後を突くように堤防爆破を命じたが、国民党軍の撤退が終わるまで爆破は延ばされた。

この間、蒋介石は何度もその爆破が行われたかの問い合わせを行っている。

おそらく蒋介石は、日本軍の進撃を阻止するために、味方諸共水攻めにしようとしたのだろう。

6月7日には中牟近くで爆破が行われたが、これは結果として失敗し、その後、場所を花園口に変更して作業が進められた。

6月9日午前9時に作業が終了、堤防が破壊されると黄河の水は堤防の外に流れ出し、河南省・安徽省・江蘇省の3省の土地54,000平方kmを水浸しにした。

この結果、黄河の流れはその後9年間、南側へ変わり黄海に注ぐようになった。

水没した範囲は11都市と4,000の村におよび、3省の農地は農作物ごと破壊され、水死者は100万人、被害者は600万人と言われるが被害の程度については諸説ある。

6月11日夜、支那軍は、隴海線中牟の西方20Kmの地点で黄河の堤防3箇所を破壊した。

二、三日前の雨で増水した黄河の水は堰を切って奔流しつつあった。

6月12日午後5時に日本軍の2部隊が堤防修理に出動し、開封治安維持会からも50名以上が自発的に応援に出た。

洪水は中牟を中心として幅約20Kmにわたり、5m弱の高さを持った中牟城壁は30cm程度を残すだけとなった。

幸い線路が高い所に位置していたため、住民は線路伝いに徒歩で東方に避難した。

日本軍は筏船百数十艘を出して住民とともに救助活動を行い、同時に氾濫した水を中牟付近から別の地域に誘導するために堤防と河道を築いた。

日本軍に救助された避難民は開封方面1万人、朱仙鎮、通許方面5万人、尉氏方面2万人、その他数万人だった。

国民党軍は現場に近づく日本軍に攻撃を加えたほか、日本軍が住民と共同で行っていた防水作業を妨害した。

日本軍の地上部隊は住民とともに土嚢による防水作業を行い、日本軍の航空機も氾濫した地区において麻袋をパラシュートにより投下してこれを支援したが、決壊地点の対岸にいた支那軍遊撃隊が麻袋の投下開始直後からその航空機と地上で防水作業中の住民に激しい射撃を加えたこともあった。

6月11日午前、支那国民党の通信社であった中央社は「日本の空爆で黄河決壊」という偽情報を発信した。

6月13日、さらに支那国民党は、支那全土の各メディアに虚偽報道の上「日本軍の暴挙」と逆喧伝させた。

当然、日本側は、支那の発表を否定するコメントを出した。

支那側からは、最初は黄河の堤防破壊は堤防の影に避難している支那軍を日本軍が砲撃及び爆撃した時になされたものであるとの説明がなされ、後には事件は日本軍によって意図して行われたことであり、中牟と鄭州地区にある支那軍陣地への水攻めとし、かつ後方連絡を脅かすゲリラに対する戦略であり、広東への絶え間ない無差別爆撃と同様に支那民衆を威嚇する日本軍の作戦の一部とされた。

さらに報告では日本軍機による中牟北部の堤防への爆撃が続けられ、これが洪水を悪化させ、かつ日本軍は洪水の被害を受けた地区からの避難民を機関銃で銃撃していること、が説明された。

支那国民党は、自分たちが行っていた住民への銃撃まで日本軍の仕業だと嘘を吐いて逆宣伝を行っていた。

日本側は、開封の堤防破壊は支那軍に強制された農民によるものと声明を出した(国民党軍は1個師団の兵に加えて付近の農民を強制して作業を行っていた)。

また、日本軍は自軍の前進を妨げる洪水を引き起こす黄河の堤防破壊をすることはなく、さらに堤防の大きさを考慮すれば爆撃と砲撃によって堤防を破壊することは不可能だと主張した。






以下は、この大水害に関する文献や資料だ。

――――――
『抗日戦回想録』郭沫若自伝より

敵の最初の計画は、伝えられるところでは、大きく迂回した包囲戦略をとり、隴海線に沿って西進し、さらに平漢線南半を奪って大武漢の背をつこうというものだったという。しかしこの戦略は、6月11日の黄河堤防の決壊で、河南省東部が沼沢地帯になったため、水の泡と化した。
あの時、黄河の堤防は開封の西北の五荘、京水鎮、許家堤等で同時に決壊した。わが方の対外宣伝では敵の無差別爆撃による、といっていたが、実はわが軍の前線の将軍が命令によって掘りくずしたのだった。
わが伝統兵法――「水、六軍を淹(ひた)す」だった。
しかし敵が水浸しになった程度はたかの知れたもので、むしろわが方の民間の生命財産が想像もつかぬ犠牲をこうむった。

敵の迂回戦略は挫折したが、逆に正面攻撃戦術をとり、五方面の大軍で長江下流から水陸を並進し、直接武漢を攻撃した。かくてしばしの安逸を貪っていた当局も「大武漢を守れ」の呼びかけを出さざるを得なかった。
私たちが活躍すべき機会到来であった。
――――――




1938年年6月、開封が日本軍に占領されると、支那軍は日本軍の追撃を断ち、日本軍を水攻めにするため黄河の堤防を破壊した。

ところが、支那は、この犯行を「日本軍がやった」と嘘報道した。

支那軍は自ら堤防を破壊しながら、それを日本軍がしたと逆宣伝したのだ。

1938年6月16日

16日付東京朝日新聞夕刊
【上海特電十五日発】
上海軍当局談
「支那側は目下しきりに黄河堤防決壊は日本軍の所為なりと宣伝に努めつつあるが、決壊地点と称される京水鎮には、まだ、日本軍は進出しておらず…」



事実は、この時、日本軍は濁流に飲まれる支那住民を救っていた。

6月23日同盟ニュースには、ボートで救助作業をしている日本軍の写真があった(冒頭に掲載)。

國史図書刊行会編『支那事変』にも、その時の写真が掲載されている。


写真集支那事変国書刊行会\濁流に車馬を渡す須磨部隊(第10師団工兵第10連隊)。中下は洪水によって浸水した農村地帯
濁流に車馬を渡す須磨部隊(第10師団工兵第10連隊)。中下は洪水によって浸水した農村地帯



その後、支那軍は揚子江の堤防も決壊した。
1938年6月26日

6月26日同盟ニュース
『悪逆、暴虐、その極に達す 敵、揚子江堤防を決壊』
悪逆の限り、黄河決壊の暴挙を敢えてなし、無辜の民幾十万かを絶望の淵にたたき込んだ蒋介石は、なんたる無謀か、皇軍を怖るあまり、又しても進撃を阻まんとして、太湖南方揚子江両岸の馬華堤を破壊し、付近一帯の住民は濁流渦巻く大水害に見舞われんとし、怨嗟憤怒は地に満ちている





わが軍の慈愛の手に救はれた黄河氾濫の被害民の群れ
わが軍の慈愛の手に救はれた黄河氾濫の被害民の群れ
支那事変画報 第33号(毎日新聞 1938年7月11日)




更に支那軍は9月23日にも武穴鎮の下流で揚子江を決壊させた。

支那軍は、自分たちが安全に逃げる、ただそれだけのために、夥しい数の支那人民の生命と財産を犠牲にし、お人好しの日本軍に支那住民を救助させた。



黄河決壊事件の被害状況についての第一報は、6月21日に日本軍の占領下にある開封の治安維持会と商務会が発表している。
それによると、罹災者約100万人、うち行方不明者約12万人、浸水部落約3500、うち水底に没したもの約2000、倒壊浸水家屋約30万戸、被害面積約200平方キロという(大阪朝日6月21日)。
死者数については、終戦後の1945年12月に国民政府が河南省で行った「河南省戦時損失調査報告」がある。
それによると、1944年末の段階で、洪水による死者約32万人、離郷者数約63万人という数値を提示している。

徐州会戦経過要図(1938年5月〜6月)
徐州会戦経過要図(1938年5月〜6月)

死者・離郷者の数値は、韓・南「黄泛区的損害与善後救済」,梁262頁所収、冠水地域は北支那方面軍史料より作図
死者・離郷者の数値は、韓・南「黄泛区的損害与善後救済」,梁262頁所収、冠水地域は北支那方面軍史料より作図


犯人である国民政府が終戦直後、河南省だけで約32万人とした死者数は、その後『中国革命史辞典』などで89万人とされている。




●その他資料
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一般住民に対して、徴発と略奪があまりしばしば行われたので、農民は日本軍よりも彼等自身の軍隊をさらに一層憎んだ。
穀物を略奪されまいとして抵抗する農民を飢えた中国兵が殺したり、日本軍の進撃を免れるために逃亡兵が村民を殺し、その衣類を自分が着こんで変装するということも起こった。
日本軍の進撃を鈍らせて鄭州の町を守るために、政府は1938年に黄河の堰を開いた。
すると、黄河は1世紀近く前から打ち捨てられたままになっていた古い河道を再び流れた。
「思い切った」決定であったが、このために、河南省東部の数十万の農民が命を失った。
彼等は水に溺れ、或は飢えて死んだのである。
『中国革命の起源』ルシアン・ビアンコ著
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