11月9日放送TBS「報道特集」で、元TBSアナウンサーでJNN北京支局長やJNNソウル支局長などを歴任した日下部正樹は、所謂「中国人強制連行」に係る偏向報道をした。
http://www.tbs.co.jp/houtoku/onair/20131109_2_1.html#
報道特集(JNN / TBSテレビ)
関係打開をめざして!日中民間交流の底力 (2013/11/9 放送)
(一部抜粋)
一方、第二次大戦末期、発電所建設のために中国から広島へ強制連行されたかつての加害者側と被害者側が和解事業に着手した。
和解事業のモデルともなり得る貴重な事例を追った。
>一方、第二次大戦末期、発電所建設のために中国から広島へ強制連行されたかつての加害者側と被害者側が和解事業に着手した。
戦中の内地(日本)における支那人の労働については、TBSだけではなく、反日マスコミの殆ど全てが「中国人強制連行」とか「中国人強制労働」などと称して報道しているが、これは「朝鮮人強制連行」と同様に戦後の反日プロパガンダ造語であり、実際には支那人強制連行なんて無かった。
「中国人強制連行」が戦後の反日プロパガンダ造語であり、実際には支那人強制連行が無かったことについては、後で詳しく説明する。
まずは、11月9日放送のTBS「報道特集」、【「中国人強制連行」に係る加害者の西松建設と被害者の支那人との和解事業】について動画と画像と文字起こしで再現する。
■動画
prpgnd
http://www.youtube.com/watch?v=Hb1o2hCVYXs
prpgnd2
http://www.youtube.com/watch?v=kOVwh9BblRA
prpgnd3
http://www.youtube.com/watch?v=hpMjoeN0TiQ
hmthghuan
http://www.youtube.com/watch?v=kSVDBFyCuMc
以下、画像等は、「メイド・イン・ジャパン!」より
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日下部正樹
「歴史問題を通じて出会うまで、お互いを知る事もなかった地方レベルの草の根交流です」
ナレ
広島県安芸太田町、山間のこの小さな町で草の根の日中交流が営まれていました長い線香を高々と掲げ死者を弔う人々
第二次大戦末期、中国からこの地へ強制連行された被害者の遺族達です
日下部
「広島市内から車で1時間程の所にあります安野発電所です
この発電所はですね、戦時中強制連行された360人の中国人の方々がこの建設に従事させられたわけです
そしてこの発電所はですね、今も!こう、発電を続けている
電力を送り続けているんですね」
ナレ
工事を請け負った西松建設や外務省は終戦の翌年
中国人労働者に関する報告書を作成しました
安野発電所の工事に従事したのは360人
全国的に見ると強制連行された中国人は、135の事業所およそ4万人に上ったと記されています
田中宏
「日本人の男は鉄砲を持って戦争に行ってるので石炭を掘ったり、或いは重要な土木工事をやる、そういう労働力が足りなくなってきて」
ナレ
戦後、戦犯の追及が相次ぐ中、外務省は報告書の焼却を指示しましたが、関係者が一部を保管していたといいます
田中
「兎に角外務省は全部燃やしてありません!という事を国会答弁してたけれども実はそれが密かに、あの保存されて今日。
だからこれがなかったら、中国人強制連行の戦後補償裁判ってのは、全く違ったものになったかもしんないですね」
ナレ
安野発電所には川の上流の水を引く全長8㎞の導水トンネルがあります
こっから水が流れ落ちる力で電気を起こしているのです
このトンネルを掘る難工事に中国人が宛がわれました
発破をかけて崩した岩石をずぶ濡れになって運びだしました
1944年7月から終戦のわずか1年で29人が死亡しました
その劣悪な労働条件を地元の住民が目撃していました
―1食饅頭 この位の握り拳で1個
非常に食糧がない、住む所も寒い、それから着る物もない―
―トロッコを押してねずい道入って砂やバラスを運んでおりました
お腹空いてるだろうと思ってねお芋を蒸したりね
おむすびしたりしたのをあげました―
支那語
ご高齢なのに有難うございます
ご長寿とご健康をお祈りします
ナレ
住民と気さくに話す被害者の遺族達
こうした関係になるまでには紆余曲折がありました
強制連行の実態は日中両国の支援者によって20年前から徐々に明らかになりました
労災で後遺症が残る被害者や家族を亡くした遺族達が見つかりました
しかし彼らは日本への渡航も叶わず、泣き寝入りの状態でした
(号泣シーン)
調査をきっかけに西松建設に謝罪と補償を要求しました
これに対し西松建設は強制連行は当時の国策であり、企業に責任はない
被害についての賠償請求権は日中共同声明で放棄されていると主張しました
交渉は決裂し、裁判で争う事になったのです
山東省の曲啓傑さんも原告の一人です
叔父の曲福先さんは18歳で連行され死亡しました
―病気で働ける状態ではないのに現場監督が駄目だ働けと暴行されまもなく死亡しました
非常に腹が立ちました
日本という文言を聞きたくもなかった―
提訴から9年後、最高裁の判決が出ました
被害者の苦痛は極めて大きかったと認めたものの、日中共同声明に基づく請求権放棄の対象だとし、原告側の敗訴が確定しました
しかし2年後急転直下で和解が成立します
西松建設は謝罪を表明し2億5000万円の和解金も支払ったのです
なぜ和解が実現したのでしょうか
理由の一つは最高裁の判決が被害の救済に向けた努力を促していたからです
その背景には2審の広島高裁の判決がありました
原告勝訴とした当時の裁判長はこう指摘します
鈴木
「どこから考えても中国人個人が日本の事件当事者等に対する
請求権を放棄したという条項はない
強制連行による強制労働の実態ね、これやっぱり一番大きいですよね
もう奴隷に変わらないような」
ナレ
被告側の事情も大きな要因となりました
西松建設は最高裁の判決後、裏金や巨額献金が発覚し、社会的な立場を問われていたのです
いちにーさん
イーアールサン
ナレ
かつての加害者と被害者が前例のない和解事業に着手しました
3年前には強制連行された360人全員の名前を刻んだ碑が加害者被害者の連盟で建立されました
中国人強制連行の裁判では安野以外に秋田県の花岡など3箇所で和解が成立していますが、こうした碑は類を見ません
和解事業のもう一つの特徴は被害者や遺族を探し出し、日本の招いて交流する事です
日本嫌いだった曲さんもボランティアで遺族達を探しあててきました
―住所が分かりません
地名も当時とは違いますから
1人を探すのにも時間がかかりました―
ナレ
碑が建立された後、合わせて6回の追悼式典に173人の被害者や遺族が参列しました
そしてこの人達を含む246人が補償金を受け取っています
1人当たり60万円で裁判で要求した額の10分の1程度ですが、異論はあまり出ていないといいます
内田弁護士
「やっぱり顔と顔を合わして話してければ本当に理解できる
歴史問題の解決にはですね、被害者の寛容とそれから加害者の節度という事が必要だと思うんですよね」
高野
「西松建設は歴史的責任を認識し、安野における360名の被害者及びそのご遺族に対してここに改めて深甚なる謝罪の意を表明致します」
日下部
「えっとー二胡の演奏が流れる中、丁度中国からやってきた遺族の方とか関係者がですね
この碑に向かって献花している所です
こう、日本と中国の人達が顔を見せ合いながらね
交流を続けていると本当に小さな交流なんですけど、日中関係がですね
厳しい時だけに見ていて何か非常に感じるものがあります」
支那人
―とても感動しました この王子清は私の叔父です―
―厳かな式典でした 私の父は候兆吉の息子です
今日の事を伝えたいと思います―
ナレ
この3年間で追悼式典への参列を希望した人は全員参列し、和解事業は一応の区切りを迎えました
日下部
「最悪とまで言われてる今、関係にあるんですけれども、曲さんとかね、日本の方々がこう積み重ねてきた体験から何か、これをなんていうのかな?参考になるものはないんでしょうかね」
曲(支那人)
「歴史は変えられません
では歴史問題を解決できるか 必ず解決できます
長期の交流と絶え間ない意思疎通でどんな問題でも解決できると思います」
安野の強制連行は日中の歴史問題のほんの一部に過ぎません
しかしお互いが分かりあえた貴重な事例となりました
女アナ
「日中の政府間というのは厳しい状況ですけれども、歴史的に見ても民間交流が果たしてきた役割というのは大きいですよね?」
日下部
「そうですね、考えてみればですね
1949年に中国共産党が政権を取ってから72年の国交正常化まで中国との関係っていうのは民間がリードしてきたんだし、そして今もですね、中国には15万人もの長期滞在の日本人がいてね
日々中国社会と直面してるわけですね
これはやっぱり日中関係の基礎になってると思うんですね
あともう1つですね、広島取材してて強く感じたのが国家と情報の関係ですよね
中国人労働者の資料を外務省が焼こうとした
しかし関係者がね、これを秘密に持ってた事によって双方が納得する形で、この安野の場合は解決した訳ですね
終戦前後ですね、政府や軍は自分達にとって都合の悪いだろうという資料を片っ端から焼いてしまったと、それがいい事だったかどうなのか
歴史問題がね、ここまでですね感情的に縺れてしまった
冷静な議論ができない原因の一端はですね、やはり事実を示す
情報がね、失われてしまった事にあるんじゃないかなと私は思いますけどね」
金平
「戦時中の強制連行とかね、或いは徴用って事で言いますと、韓国との間でもですね、民事裁判が行われていますけれども、今、日下部さん言ったように西松建設の場合も和解の前提になったのはね
単に賠償だけじゃなくて、お互いがお互いをわかり合えたっていうか、相互理解ってのがあったっていうのが、非常に重いものを感じましたですね」
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以上が11月9日放送TBS「報道特集」で放送した所謂「中国人強制連行」に関する偏向報道だ。
TBSは、支那人強制連行が事実として当然あったかのように報道している。
しかし、実際には、朝鮮人強制連行と同様に、支那人強制連行も無かった。
以下、支那人強制連行が無かったことについて説明する。
まずは、平成19年(2007年)の裁判に勝って補償する(賠償金を払う)必要が全くなかった西松建設が、不要な和解をして支那人にカネを支払うことにしたことを報じる平成21年(2009年)当時の記事を掲載する。
和解手続きのため東京簡裁に入る原告団=2009年10月23日午前10時、東京・霞が関
中国人強制連行で和解=西松建設が基金設立-「歴史的責任に謝罪」・東京簡裁
2009年10月23日10時58分、時事通信
太平洋戦争中に強制連行され過酷な労働を強いられたとして、中国人元労働者らが西松建設(東京都港区)に損害賠償を求め、最高裁で敗訴が確定した訴訟に絡み、同社が歴史的責任を認め謝罪し、被害救済を目的とした基金を設立することで元労働者側と合意、東京簡裁で23日、和解が成立した。
2007年の最高裁判決が「被害救済の努力を期待する」と言及したことを受けた対応で、戦後補償をめぐり、勝訴した企業側が自主的判断で補償に応じるのは異例。
和解条項によると、同社が「歴史的責任を認識し、生存者と遺族に深甚なる謝罪の意を表明する」とした上で、2億5000万円を信託し、基金を設立する。同社が4月、元労働者側に全面解決を申し入れていた。基金は訴訟の原告だけでなく、強制連行された計360人への補償や未判明者の調査、記念碑の建設などに充てられる。
上の時事通信の記事だけ読むと、支那人強制連行・強制労働があったかのような書きぶりだが、朝鮮人強制連行と同様に支那人強制連行もなかった。
日本に来て建設会社で働いた支那人は雇用契約によって働いていたのであり、一部に給料・賃金の未払いはあったが、強制連行や強制労働ではない。
この裁判では、日本と旧連合国が調印した「サンフランシスコ平和条約」などの平和条約は個人の請求権放棄を明記しているし、日支共同声明も「中国政府は日本国に対する戦争賠償の請求を放棄する」としたため、支那人も裁判で賠償を請求することはできなくなったとの結論を出した。
2007年4月27日の最高裁判決は、支那人の請求権を認めず棄却したが、一方で強制連行の事実と、作業現場での同社の安全配慮義務違反を認めた
しかし、本来この問題は、支那人が裁判で個人の賠償を請求できるかどうかの問題ではなく、そもそも強制連行や強制労働の有無を争点にするべきだった。
そうはせずに、支那人に個人の賠償請求権があるかどうかを裁判の争点としたために、平成19年(2007年)4月27日の最高裁判決が「被害救済の努力を期待する」と言及し、平成21年(2009年)のように全く必要のない謝罪や被害者救済基金設立をする羽目になった。
そして、反日マスコミは、真相を報道せず、あたかも強制連行や強制労働が歴史的事実であったかの如く報道している。
日本の建設会社が支那人を強制連行したのではなく、雇用契約の上に雇用していたことは、次の【昭和19年8月「華人労務管理要領」 北京大使館事務所】の一部を見れば概ね分かる。
【昭和19年(1944年)8月「華人労務管理要領」北京大使館事務所】より一部抜粋
一、北支の労働事情
苦力の問題は三ヶ月位前から話題に上って居たが内地に移入する事に就いては尚多少の反対があった、
北支の人口は過剰である、耕作反別は内地に比較して稍々広きも収穫量よりすれば遥かに少なく、従って、他に出稼ぎを為す必要に迫られている。
本年度も満州に出稼ぎする者の数は85万人と云う事になっていて既に80万人近くの者が出稼済である。
出稼先は工場、土建等が主である。
蒙疆にも一万人近く出した、その他中支、北鮮、大同の石炭山等にも出した。
二、移入に関して
○華北労工協会
之は華北政府の補助金及業者の負担金によりて成立しているもので現在数百万円の基金を持っている。
労務者の募集、移送等一切を取り扱っている。
○新民会
之は日本に於ける大政翼賛会の如きものであって内地に供出するに就ては此の新民会と強力を必要とする。
新民会は常に余剰労力の調査とか出稼ぎ労力の確保とかいふ事に力を注いでいる
三、使用条件に就て
3、苦力を内地に供出する目的の中には将来北支に産業勃興するを以て今より内地に送って技術を覚えさせるといふ点を含んでいる。
10、契約の期間
北支側としては差当り一ヵ年と主張するも内地側にて二年若しくは三年の説もあり、二年位に延長を考慮中、支那の習慣としては一ヵ年契約が通例にて、一ヵ年経れば一応国許へ帰る習慣あり。
13、帰還賞与
契約期間満了迄稼動して優良なるものには(一般の苦力に対し)最高100円00銭 80円00銭 60円00銭の如き賞与支給を希望す
14、慰安婦(特殊婦女)
苦力1000人に付き40人乃至50人の慰安婦人を移入、支那人の請負に任ず
15、◎ 賭博
苦力のみの集団部落中に賭博は大目に見て貰ひ度し (内務省と折衝の事)
17、予め採るべき措置
C 予め右把頭をして苦力を収容せんとする事業場、宿舎等を見学せしめ置く方法もあり。
E 使用せんとする業者及統制会にて予め現地の苦力使用状況を視察する必要あり、視察の場合は興亜院華北連絡部と連絡すること
18、送金の件
労工協会が概算払ひとして前渡金を受取り家族に対しては労工協会より渡すこととする。
これを見ると、支那人労働者の内地移入には反対があったと書いてある。
ただ、支那では、人口過剰で出稼ぎに出す必要があった。
そして日本は戦争で労働力が足らなくなっていた。
単なる労働者の需給問題だった。
しかも、労務者の募集、移送等は、日本国や西松建設などの日本企業がやっていたわけではなく、1942年11月27日の閣議決定に基づいて「華北労工協会」(華北政府)が取り仕切っていた。
http://www.ndl.go.jp/horei_jp/kakugi/txt/txt00428.htm
華人労務者内地移入ニ関スル件
昭和17年11月27日 閣議決定
第二 要領
三、移入スル華人労務者ノ募集又ハ斡旋ハ華北労工協会ヲシテ新民会其ノ他現地機関トノ連繁ノ下ニ之ニ当ラシムルコト
八、華人労務者ノ管理ニ関シテハ華人ノ慣習ニ急激ナル変化ヲ来サザル如ク特ニ留意スルコト
九、華人労務者ノ食事ハ米食トセズ華人労務者ノ通常食ヲ給スルモノトシ之ガ食糧ノ手当ニ付テハ内地ニ於テ特別ノ措置ヲ講ズルコト
一〇、労務者ノ所得ハ支那現地ニ於テ通常支払ハルベキ賃金ヲ標準トシ残留家族ニ対スル送金ヲモ考慮シテ之ヲ定ムルコト
実際に、賃金の契約もなされ、支払いもされている。
これが実態なのに、今となるとマスコミを中心に「強制連行」「強制労働」という言葉が平然と罷り通っている。
最初の「華人労務管理要領」の「三、使用条件に就て」にある具体的な条件を見ると、かなり立派な規則だし、支那人労働者を出来るだけ厚遇しようとしている。
問題があったとすれば、内地における食糧不足と生活習慣の違いからの摩擦だろう。
計画書には、そういう注意事項も事細かく書いてあったが、戦争が激しくなり、その通りにできなくなったのかも知れない。
それを「約束違反」というのなら兎も角、「強制連行」というのは明らかな捏造だ。
それから、内地へ移入して来た労働者で、支那人の場合には捕虜のケースもある。
だから、連れて来られた者が捕虜なのか、労働契約を結んで来たけど約束違反(賃金の未払い)だったのか、本当に強制連行だったのか、それぞれに区別して考える必要がある。
捕虜ならば、殆どタダで働かされても致し方ないと考えるべきだろう。
支那大陸には捕虜が沢山いたのに、わざわざ一般市民を強制連行してくる訳がない。
捕虜のケースでも、労務者への賃金未払いのケースでも、「強制連行」は捏造だ。
西松建設は自分だけが良い子になろうとして、支那人どもに謝罪し、和解金を支払うことにした。
しかし、日本全体にとっては、大変な迷惑だ。
強制労働訴訟で和解 一企業が国家の取り決め超える懸念
2009年10月24日、産経新聞
日中の戦後補償をめぐっては、昭和47年の日中共同声明で「日本国に対する戦争賠償の請求を放棄する」と規定された。平成19年の最高裁判決はこの文言から中国人個人の損害賠償請求権が放棄されたと判示、訴えを退けている。
今回の和解は、解決に向けた努力を求める最高裁の付言に基づいたものだが、あくまでも付言であって、法的拘束力はない。にもかかわらず西松建設が自発的に和解を進めた背景には、政治資金規正法違反事件などの不祥事によるダーティーなイメージを払拭(ふっしよく)したいとの思惑がある。
そのような企業姿勢に、藤岡信勝・拓殖大学教授は「国と国との間では賠償責任がないとされ、最高裁も同様の判断をしている。国と国の合意を超えて、一企業が自分たちのイメージ戦略の一環として和解を利用するのはおかしい」と疑問を投げ掛ける。
今回の和解を機に、同様の動きが活発化することも予想される。確かに被害者への補償は重要かもしれない。その一方で、一企業、一個人の思惑で、国家間の取り決めがないがしろにされる事態も避けなければならず、冷静な対応が求められる。
似たような問題には、鹿島建設の「花岡事件」がある。
この花岡事件の鹿島側の暴行・虐待に対する責任は、戦後の横浜のB・C級戦犯裁判で裁かれ、当時の鹿島組花岡出張所長ら6人に対して絞首刑を含む有罪判決が下された。
だがその後、絞首刑は無期に減刑され、全員が釈放された。
本当に支那人を強制連行した上に何百人も殺したら、絞首刑が無期に減刑されるなどということは有り得ないし、横浜軍事法廷の前に国内法で死刑にされていたはずだ。
だから、鹿島建設は一貫して一切の「法的責任」を認めていない。
●関連記事
<強制連行訴訟>中国国民の請求権認めず
最高裁が初判断
支那人強制連行は本当にあったのか?
「花岡事件」検証・民事訴訟でのウソの事実認定
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-2859.html
(一部抜粋)
●和解条項の骨子
2000年11月29日に正式に和解が成立した。概要は以下のとおりである(資料・「和解条項」)。
1)1990年の「共同発表」を再確認する。ただし、鹿島建設は、法的責任を否定し、中国人受難者側(以下、受難者)は、これを「了解」するとした。
2)鹿島建設は、受難者に対する慰霊の念の表明として、中国紅十字会に5億円を信託する。
(以下略)
■「花岡事件」検証
日本人は、社会の秩序を乱し、犯罪を犯す彼等の強制送還を求めた。
強制送還を嫌った彼等は、外地にある工場で働く韓・漢民族の者達と策応し、日本が1万人の労働者を受け入れなければ、ストを起こして、外地にある工場をストップさせるという脅しをしてきたのである。
これは、その後の経過を見れば、中国共産党の策略であった。
外地からの報告によると、「最近の彼等は、相変わらず嘘を言い、盗みもするが、性的犯罪は犯さないようになったようだ」というのがある。
兎に角、外地の工場をストップされたのではたまらないので、最終的には、労働者を受け入れるようにしたが、訓練をして、渡航の意志を確かめ、かつ、日本に着いた途端に行方をくらます者が多くいたので、行方をくらまさないように、目的地に着くまで、足枷をしても良い者だけを受け入れることにした。
日本に着いてから行方をくらまさないように足枷をつけようとすると騒いで暴動を起こしたからである。
反日連中はその時の写真を見て、強制連行と勝手に言い出したのである。
(略)
花岡炭鉱に新参の鹿島が入って来た。鹿島は炭鉱の伝統ある秩序ある組織を知らなかった。
鹿島の従業員にはアカとか外国人が多くいた。
炭鉱が一番嫌っていたアカとインテリ、そして子供たちに性犯罪を起こす中・朝の労働者である。
花岡炭鉱は忽ち秩序が乱れていく。
「花岡炭鉱」で、約50人の日本人が、漢民族の労働者に、坑道を爆破され、生き埋めにされ殺された。
炭鉱では役に立たない彼等を、近くの水路の整備をさせたのであるが、彼等は、水路に細工をして、花岡炭鉱を水没させ、閉山に追い込んだのである。
花岡炭鉱に中国の密航ゲリラが紛れ込み、暴動を起こし、日本人を殺し、閉山に追い込んだのは彼等である。
戦争がもう少し早く終わると思い、炭鉱を手に入れるつもりであったが、終戦が長引き、またアメリカの協力を得られず、そして、強制送還を嫌い、彼等は炭鉱から逃げ出したのである。
鎮圧して捕らえたが、約500人ほどの彼等の行方が分からなくなったということである。
首謀者は、北海道にあるアジトに逃げたということだ。
炭鉱を奪うため、日本人を殺し日本に協力する者を殺し、炭坑を水没させ、暴動を起こし、逃げ廻ったけれども、結局は、鎮圧されて、逮捕されて、一カ所に集められた。
逃げ回ったその時のその犯罪者のやつれたゲリラたちの様子が、後に、日本の劣悪な条件で働かされ、暴動を起こして逃げまわり、その後捕まった・ ・ ・ ・ という風に何故か変わるのである。
しかも当時の事情を知る人が亡くなった30年後に ・ ・ ・?
(略)
当時を知る大人で、漢・韓民族の人の言うことを信じる人は、皆無である。
また、花岡炭鉱で実際に働いた人で、今一般に言われている「花岡事件」を信じる人も皆無である。
嘘をつき、盗みをし、子供相手に性犯罪を犯す彼等を日本の先輩達は心から嫌っていたのである。
日本が「強制連行」したのではなく、日本が、逆に「強制送還」したのである。
(略)当時の新聞を調べれば分かる。
そもそも彼らは、日本が良くて密航までして日本に来た連中である。
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と__)__)