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正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現
嘘の歴史に騙されるな!日本最優先政治、日本国民の生命と財産と自由を守る核武装、日韓断交を実現しよう!マスゴミの嘘や洗脳工作を許すな!がんばれ!日本国民党!
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河野洋平「軍事力背景に韓国の独立奪い、価値観強要。明確な反省を」ソウルの国際フォーラムで講演
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講演を行う河野洋平氏=14日、ソウル(聯合ニュース)
講演を行う河野洋平=2月14日、ソウル

【国際】河野洋平氏「日本は軍事力を背景に韓国の独立を奪った。明確な反省を」 ソウルで開催の国際フォーラムで講演

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130214-00000041-yonh-kr
河野氏「日韓基本条約に請求権に基づく賠償規定ない」
聯合ニュース 2月14日(木)19時12分配信

【ソウル聯合ニュース】河野洋平元衆院議長は14日、ソウルで開催された国際フォーラムで講演し、「日韓基本条約には請求権に基づく賠償が規定されていない」と説明した。日本政府は韓国側の植民地時代の賠償要求に対し、1965年に締結された同条約により賠償請求権は消滅したと主張している。

 ただ、同条約は1998年に当時の金大中(キム・デジュン)大統領と小渕恵三首相が結んだ韓日パートナーシップ宣言と共に両国の信頼構築の基礎になったと評価した。河野氏は朴正煕(パク・チョンヒ)大統領が当時の韓国内の強い反発を抑え、条約を締結したと指摘。「日本から経済協力を引き出したことが経済発展の基礎の一部をつくったことは間違いないと認識している。戦略的な大きな決断をした」と述べた。

 韓日パートナーシップ宣言については、「それまで日本側から明確な文書による謝罪がなかったのは理不尽なことだった」として、「仁義」の上に信頼関係を構築する礎ができたと評価した。

 また、日本が韓国と信頼関係を構築するためには、「軍事力を背景に韓国の独立を奪い、自国の価値観を強要した歴史的事実に真摯に向き合い、明確な反省をすることなしに、なにも始まらないことを肝に銘じる必要がある」と述べ、拍手を受けた。

 河野氏は12年前の外相在職時、「決して忘れられない事件」として、東京・JR新大久保駅のホームから落ちた男性を助けようとして亡くなった韓国人留学生、李秀賢(イ・スヒョン)さんの事件に言及し、感謝の気持ちを伝えた。  

 河野氏は官房長官を務めた1993年、旧日本軍の従軍慰安婦の強制性を認めて謝罪した「河野談話」をまとめた。



>また、日本が韓国と信頼関係を構築するためには、「軍事力を背景に韓国の独立を奪い、自国の価値観を強要した歴史的事実に真摯に向き合い、明確な反省をすることなしに、なにも始まらないことを肝に銘じる必要がある」と述べ、拍手を受けた。


「日本が軍事力を背景に韓国の独立を奪い、自国の価値観を強要した歴史的事実」などというものは、全く存在しない。

保守や愛国者の中にも、「1910年の日韓併合条約は、日本が韓国に軍事力を背景に締結させた」とか「少なくとも1905年の第二次日韓協約は、日本が軍事力を背景に締結して韓国の外交権などを奪った」などと思い込んでいる人は少なくないようだ。

しかし、そのような歴史認識も、【GHQによるWar Guilt Information Program(戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画)】、【日教組による反日洗脳教育】及び【韓国や反日マスコミによるプロパガンダ】などの歴史偽造に基づく間違った認識だ。


反対洗脳教育


今も頻繁に反日左翼や韓国人は、1905年行われた第二次日韓協約の交渉の際に、伊藤博文が日本軍にソウルの宮殿を包囲させていたことを非難するが、日本軍による宮殿包囲には正当な理由があった。

日露戦争の最中から、韓国では儒者等による騒擾(テロ)が非常に盛んで、日本側を悩ませていた。

同様のテロを1905年11月の第二次日韓協約交渉中に、高宗(韓国皇帝)らが画策し儒者等を扇動していた。

伊藤博文は、韓国側のテロ画策を察知し、1905年11月15日の高宗との内謁見で、「昨今儒生輩を扇動して上疏献白を為し秘密に反対運動を為さしめつつありとの事は、疾く我軍隊の探知したる所なり」と述べたが、高宗は反論できなかった。

それでも伊藤博文ら日本側は韓国が納得するまで交渉し、最後は高宗(韓国皇帝)も大満足して締結した。

河野洋平が言った「日本が軍事力を背景に韓国の独立を奪い、自国の価値観を強要した歴史的事実」は、事実無根の出鱈目だ。



史料などを基に、更に詳しく説明すると以下のとおり。


河野洋平は「日本が軍事力を背景に韓国の独立を奪った」と言ったが、そもそも朝鮮は1895年まで清の属藩だったものを日本によって独立させられた事実を完全に無視している。

朝鮮は、663年の「白村江の戦い」で唐の力によって日本の勢力圏から外れた時点から、1895年の日清戦争後の下関条約が締結されるまで、1200年以上に亘り歴代支那大陸帝国(唐や元や明や清)の属藩だった。

証拠は笑える程たくさんある。


明の属国朝鮮 朝貢属国!1602 日本海(Sea of Japan)「坤輿萬國全図」、制作Matteo Ricci、北京。
朝鮮が明の属国だった証拠!
「朝鮮」…「朝貢属国」

1602 日本海(Sea of Japan)
「坤輿萬國全図」、制作Matteo Ricci、北京。




大清国属 高麗国旗
朝鮮が清の属国だった証拠!
大清国属高麗国旗

(大清国に属する高麗の国旗)




土下座碑 ホンタイジに土下座する仁祖(銅版)
「土下座碑」
ホンタイジに土下座する仁祖(銅版)




迎恩門 清皇帝から受けた恩に、感謝して迎えるために作った門。ここで朝鮮王は、9回頭を地面に叩きつけて、ひれ伏し、清の使者を迎えた。
「迎恩門」
清皇帝から受けた恩に、感謝して迎えるために作った門
ここで朝鮮王は、9回頭を地面に叩きつけて、ひれ伏し、清の使者を迎えた。




日清戦争後に清から独立したために建てられた「独立門」。その前に「迎恩門」の石柱が残っている。
「独立門」
日清戦争後に清から独立したために大韓帝国が建てた。
その前に「迎恩門」の石柱が残っている。




★下関条約で、【清國ハ朝鮮國ノ完全無缺ナル獨立自主ノ國タルコトヲ確認ス】という文言になった理由

1200年以上に亘り、朝鮮は支那の属藩・属領だった。
しかし、当時、日本は、朝鮮がこのまま沈みかけている清朝の属領のままでは日本にとっても危険だと考えたために清朝の支配から切り離そうとした。
だから、日朝修好条規で、日本は朝鮮の自主独立を承認し、清朝の宗主権を否認した。

―――――――
日朝修好条規

1876年(明治9年)に日本・李氏朝鮮間に締結された条約。
日本は条規中に、「朝鮮国は自主の邦にして日本と平等の権を保有せり」と表現し、李氏朝鮮を諸外国に先駆けて「独立国」として承認、清朝の宗主権を否認した。
―――――――


ところが、清朝はそんなことはお構いなしにいつまで経っても朝鮮を属領・属藩にし続けた。
日本がせっかく朝鮮を「独立国」として認めたのに、清と朝鮮の関係に変化はなかった。

1894年6月6日、清国公使、陸奥宗光外相に、朝鮮国王の要請に応じ属邦保護のため出兵する旨を通告
陸奥外相、朝鮮を清国の属邦とみとめずと抗議

朝鮮の内部にも、儒者などを中心に「小中華」を自負し、「独立なんてとんでもない、いつまでも小中華として支那の属領・属藩であり続けるべき」という連中が大勢いた。

だから、日清戦争後の下関条約では、「獨立自主ノ國タルコトヲ確認」という文言になったのだ。

―――――
下関条約
1、清國ハ朝鮮國ノ完全無缺ナル獨立自主ノ國タルコトヲ確認ス
(清朝の朝鮮に対する「宗主権」放棄=朝鮮独立の承認)
―――――




以上のように、朝鮮は、日本のお陰で、支那(大清帝国)から独立できた。

しかし、朝鮮には「支那の属藩(小中華)であることこそが良いことだ」という観念が根強く存在し、朝鮮を支那から独立させた日本を逆恨みする儒者等の連中が多く存在し続けた。

そして、そのような連中は、日本に対する暴力テロを頻繁に起こした。

日露戦争の最中1904年(明治37年)から、儒者等による騒擾(テロ)は、非常に盛んで、日本側を悩ませていた。


証拠資料の一つを次に示す。

―――――――
「第五四九号電報の儒生派の内容を探くりたるに、檄文を十三道に発せんとする外、同意味の通告文を当地駐在各国公使に送付する準備中にあり、且つ鉄道電線の破壊を企んとする等頗る不穏の意味を含み居れるに付、本官は本日韓帝に謁見の序を以て右儒生等の行動に対し厳重の取締方を奏請する心得なり。
玄界灘に於ける我輸送船の撃沈せられたる悲報は、宮中に出入りする雑輩にして我勢力の増加の為め失意の境遇に陥り居れる一派の利用する所となり、昨今宮中に於て諸般の政事改善に関する日本の忠告は内密に仏国公使に協議する必要を唱へ居れりとの報道あり。」
『日本外交文書』、電信第551号、儒生派の排日行動に関する件、明治37年6月20日
―――――――


日露戦争中、日本軍は、これら破壊活動に対しては軍律でもって厳しく対処している。

特に電線は軍の死命を制しえるものだった。

同様のテロを1905年11月の第二次日韓協約交渉中に、大韓帝国の皇帝だった高宗らが画策し儒者等を扇動していた。

伊藤博文は、韓国側のテロ画策を察知したから、第二次日韓協約の交渉の際に、日本軍にソウルの宮殿を包囲させていたのだ。

だから、伊藤博文は、1905年11月15日の高宗との内謁見で、「昨今儒生輩を扇動して上疏献白を為し秘密に反対運動を為さしめつつありとの事は、疾く我軍隊の探知したる所なり」と述べたが、高宗は反論できなかった。

それでも、第二次日韓協約締結の時には、高宗は納得どころか大変満足していた。


その証拠資料は次のとおり。

―――――――
暫くあつて李内相、李宮相出来り、陛下は該修正案を満足に思召し裁可を与えらるるへきの処、今一箇条陛下の御希望として、韓国か富強を致し其独立を維持するに足るの実力を蓄ふるに至らは此条約を撤回する旨の字句を挿入せんことを特に大使に懇望せらるるとの御沙汰に基き、大使は聖意を満足ならしむる為め自ら執つて協約書の前文中に『韓国の富強の実を認むる時に至る迄』の文字を加へ、再ひ李内相、李宮相をして聖覧に供せしめたるに、陛下は特に満足の旨仰せあり。
「伊藤特派大使日韓新協約調印始末」(日本外交文書)
―――――――


このように、大韓帝国の皇帝だった高宗は、第二次日韓協約締結時には大いに満足していた。

高宗はその後に協約を一方的に破棄しようとして様々なことをしたが、第二次日韓協約を締結した1905年11月18日当時は満足していたのだ。

河野洋平が言った「日本が軍事力を背景に韓国の独立を奪い、自国の価値観を強要した歴史的事実」は、事実無根の出鱈目だ。

日本が悪いと勘違いさせた、罪深い首相たち!
日本が悪いと勘違いさせた、罪深い首相たち!




次に、日韓併合は日本と韓国の双方が合意の上で条約によって締結された。

日韓併合前の韓国は1200年以上に亘り歴代支那帝国の属国であり、李氏朝鮮では両斑と呼ばれる権力者たちが朝鮮民衆を暴力で支配する地獄だった。

日韓併合論は、ずっと以前から日韓双方で議論されていたことだった。

日本側にも賛成派と反対派がいたし、同じように韓国側にも賛成派と反対派がいた。

日本側においては、陸奥宗光、曾禰荒助、竹越興三郎などは明確に反対していたし、伊藤博文もかなり消極的だったことは有名だし、井上馨や原敬も伊藤と同じだったようだ。


一方、長州閥の桂太郎、山縣有朋、寺内正毅などは、併合推進派だった。

対する韓国側においても、賛成派と反対派は割れていた。

李容九や宋秉畯などが率いる文明開化派の最大政治組織「一進会」が強く併合を推進したし、総理大臣の李完用を始めとする閣僚の約半数が「推進~容認」派だった。

一方、それまで朝鮮民衆に塗炭の苦しみを与え、私利私欲を貪っていた皇帝高宗や両班や儒者たちは反対していた。

1907年のハーグ密使事件後、日本国内に「我が国上下與論(よろん)沸然として鼎(かなえ)の湧くが如く、或いは新聞に、演説に併合を論じ、合邦を説くこと盛(さかん)なり」といった日韓併合・合邦論が急速に台頭してきた。

また、樽井藤吉(1849-1922)の『大東合邦論』の「日韓併合によって新合邦国家『大東国』を建設し、次に大東国と清国が合邦して南方植民地(東南アジア地域)を解放し、『大東亜連邦』を実現する」と言った構想が内外に影響を及ぼし、遂には韓国国内にも「日韓併合」論が公然と主張されだした。

1909年に日本で併合が閣議決定したものの、併合の時期について、曾禰荒助は「就任時伊藤、桂と三者会談にて、5、6年様子を見て」と合意していた。

ところが、その1年以内に韓国側のほうで大きな変化があった。

本音を隠したままの日本側に対し、まず合邦を打診したのは朝鮮側だった。総理大臣の李完用(イ・ワンヨン)の側近である、新小説『血の涙』で知られる李人稙(イ・インジック) が密使として動いたのだ。
2001.08.27 中央日報


「合邦」を望む、朝鮮半島からの熱意あふれる電報の数々。
「合邦」を望む、朝鮮半島からの熱意あふれる電報の数々

また、一進会は1909年12月4日、「韓日合邦を要求する声明書」を作成し、上奏文と請願書をそれぞれ李完用総理、皇帝純宗、曾禰荒助統監に提出した。

しかし、日本側の併合反対派であった曾禰荒助統監は、この合邦案を時期尚早との理由で却下すると共に、新聞社、通信社に働きかけ、反対の論調をとらせた。

それでも、韓国側の併合推進派である一進会は上奏書を却下されてもまた提出し、これを繰り返すこと4回目に桂首相の指示により遂に受け取られた。


ただし、明治天皇の意向もあり、曾禰荒助の更迭はならず、従って併合の正式決定はならなかった。

その間韓国では次第に併合に賛成する者が増え、西北学会も賛成に転じ、大韓協会も賛成派と反対派に分裂する事となった。

1910年3月末に至るも曾禰に辞職の意思無く、このまま放置もままならないので、遂に寺内を後任に内定し、寺内を病気見舞いに行かせ、因果を含め辞表を出させることになった。

曾禰が辞表を出したのは5月30日で、直ちに後任には寺内が任命された。

寺内は、日本国内での意見調整、列強各国に併合についての合意を取り、7月15日ようやく東京を発ち、7月23日ソウル入りした。

ソウルに入ったものの寺内は黙ったまま何ら方針を示さず、半月余りたった。

8月16日、李完用首相は日本の水害見舞いと称し、趙農相を伴い、寺内の居る統監邸を訪れた。

ここで山県副統監を交えた会談3時間に及び、若干の修正にて日韓併合は合意に達した。

この結果にもとづき李完用首相は8月18日に閣議を開いたがまとまらず、8月21日李完用が皇帝に内奏し、皇帝の了承を取り付けた。

これにより1910年8月22日の韓国の御前会議で韓国は正式に日韓併合を決定した。


日韓併合により、日本は、階級による身分差別を撤廃し、両班による搾取・虐待から農民を救い、移住の自由を認めさせ、残酷な拷問や刑罰や一族の罪人連座法などを廃止し、女性再婚の自由を保障し、人権尊重などの法治国家の基礎をつくり、学校教育制度を導入し、読み書きを教え、ハングル文字を復活・普及させ、台湾では運動が起きても1~2%にしか許可しなかった改姓名だが、85%の朝鮮人には創氏改名を許可し、鉄道網、道路網を整備し、港の開設工事をし、水力発電所を建設し、重化学工業を興し、緑化政策によって山野を甦らせ、不毛の地を開拓し、河川大事業で洪水を減少させ、水田を倍増させ、世界中から世界一不潔と言われた町々を清潔にし、近代医療制度を導入し、平均寿命を24歳から45歳にのばし、人口を2倍にし、内地(日本)への渡航規制を犯して来る密航者にも寛容に対処した。
(上)日本統治前、(下)日本統治中
(上)日本統治前、(下)日本統治中

河野洋平が言った「日本が軍事力を背景に韓国の独立を奪い、自国の価値観を強要した歴史的事実」は、事実無根の出鱈目だ。


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朴正熙
我が五千年の歴史はひと言でいって退嬰と粗雑と沈滞の連鎖史であった。
いつの時代に辺境を超え他を支配したことがあり、どこに海外の文物を広く求めて民族社会の改革を試みたことがあり、統一天下の威勢でもって民族国家の威勢を誇示したことがあり、特有の産業と文化で独自の自主性を発揮したことがあっただろうか。
いつも強大国に押され、盲目的に外来文化に同化したり、原始的な産業のわくからただの一寸も出られなかった。
「われわれのもの」はハングルのほかにはっきりとしたものは何があるか。
我々はただ座してわらを編んでいただけではなかったか。
自らを弱者とみなし、他を強大国視する卑怯で事大的な思想、この宿弊、この悪い遺産を拒否し抜本せずには自主や発展は期待することは出来ないであろう。
以上のように我が民族史を考察してみると情けないというほかない。全体的に顧みるとただ唖然とするだけで真っ暗になるばかりである。
このあらゆる悪の倉庫のような我が歴史はむしろ燃やして然るべきである。

「朴正熙選集」-我々は今何をいかになすべきか-  
朴正熙 韓国大統領
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2月25日に就任予定の韓国の朴槿恵(パククネ)次期大統領は、この朴正熙の娘だ。
2013年2月25日に就任予定の韓国の朴槿恵(パククネ)次期大統領は、この朴正熙の娘だ。
朴槿恵(パククネ)


最高国賊【河野洋平】
売国奴の像を建て、強制連行をきっぱり否定する!
売国奴の像を建て、強制連行をきっぱり否定する!

2006/04/02, 産経新聞
(抜粋)
日中関係筋によると、中国の対日政策責任者が「七人のサムライ」と呼んで頼りにしている現役の自民党議員がいる。

七人は
(1)河野洋平
(2)福田康夫
(3)野田毅
(4)二階俊博
(5)加藤紘一
(6)山崎拓
(7)高村正彦


で、順位は「親中」の度合いと期待度なのだという。


――――――――――
③中国様へゴマをする為、親日的な台湾の李登輝氏が訪日したいと望んでいるのに拒絶

   (※李登輝訪日への反対)

2001年(平成13年)の台湾の李登輝訪日問題での対応。
中華人民共和国からの強い抗議をうけて、自らの外務大臣辞任をほのめかしてまで入国ビザ発行に反対した。
――――――――――

④日本軍を貶める為に、わざわざ戦没者追悼式という黙祷の場において、日本軍を戦犯扱い

   (※戦没者追悼式における発言)

2006年(平成18年)8月15日全国戦没者追悼式の衆議院議長追悼の辞で「戦争を主導した当時の指導者たちの責任をあいまいにしてはならない」と戦争責任論に言及した。

また、2007年(平成19年)8月15日全国戦没者追悼式の衆議院議長追悼の辞においては、「日本軍の一部による非人道的な行為によって人権を侵害され、心身に深い傷を負い、今もなお苦しんでおられる方々に、心からなる謝罪とお見舞いの気持ちを申し上げたいと思います 」と述べた。

2013/02/15(金) 14:39:05 | URL | お笑いお花畑 #- [ 編集 ]
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