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正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現
嘘の歴史に騙されるな!日本最優先政治、日本国民の生命と財産と自由を守る核武装、日韓断交を実現しよう!マスゴミの嘘や洗脳工作を許すな!がんばれ!日本国民党!
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朝日社説「日本が虐殺行為したことは、委員会の議論で一致している。河村氏の発言、政治家としても市長としても不適切である」・朝日新聞は南京大虐殺の「宇和田日記」捏造事件などを謝罪し廃業しろ!
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鉄嶺ニテ銃殺セル馬賊ノ首
「鉄嶺ニテ銃殺セル馬賊ノ首」
「鉄嶺」は満州の都市。
張学良の配下の者が匪賊を銃殺し、見せしめとして首を切ったものと考えられ、当時この写真は満州や朝鮮などで販売されていた。

ところが、1984年8月4日、朝日新聞は、どこかでこの写真を入手し、日本軍による「南京大虐殺」の証拠写真として、とある「日記」と共にスクープ記事に掲載した!


日記と写真もあった南京大虐殺 昭和59(1984)年8月4日、朝日新聞夕刊

昭和59(1984)年8月4日、朝日新聞夕刊「日記と写真もあった南京大虐殺、悲惨さ写した3枚、宮崎の元兵士後悔の念をつづる」
昭和59(1984)年8月4日、朝日新聞夕刊「日記と写真もあった南京大虐殺、悲惨さ写した3枚、宮崎の元兵士後悔の念をつづる」


1984年に朝日新聞が偽写真を使って「南京大虐殺」の証拠写真として報道した事については後述する。

その前にまずは、そんな朝日新聞が満を持して、河村たかし名古屋市長の「南京事件はなかったのではないか」発言を社説で批判したことについて述べる。

http://www.asahi.com/paper/editorial20120308.html
河村市長発言―日中の大局を忘れるな
2012年3月8日付【朝日新聞社説】

 国交が正常化し40周年を今秋に迎えるにもかかわらず、日中関係がぎくしゃくしている。

 原因は、歴史認識と尖閣という国交正常化以後も日中間のトゲとなってきた問題だ。

 名古屋市の河村たかし市長は先月、表敬に訪れた中国南京市の共産党委員会幹部らに「一般的な戦闘行為はあったが、南京事件というのはなかったのではないか」と発言した。

 南京大虐殺については、日中首脳の合意で作った日中歴史共同研究委員会で討議した。

 犠牲者数などで日中間で認識の違いはあるが、日本側が虐殺行為をしたことでは、委員会の議論でも一致している。

 そういう重い経緯のある問題で、姉妹友好都市である南京市の訪問団に対し、河村氏が一方的に自らの考えを示したのは、あまりに配慮が足りない。

 河村発言に対して、南京市民らが強く反発した。上海の日本総領事館は、交流文化行事「南京ジャパンウイーク」の延期を決めざるをえなくなった。日中柔道交流は中止になった。

 だが河村氏は、発言を撤回する気はないようだ。

 国益がぶつかる政府間とは別に、都市や民間の交流は信頼関係醸成に有効だ。それなのに河村氏の発言は、政治家としても市長としても不適切である。

 中国側も、市民や青少年交流が「相互信頼を絶えず深化させる」(楊潔チー〈ヤン・チエチー、チーは竹かんむりに褫のつくり〉外相)と評価するのなら、交流を狭くするような動きは避けてほしい。

 河村発言問題が収まらないなか、日本政府は2日、沖縄県の尖閣諸島の四つの無人島に新たな名前を付けた。すると、中国政府は翌日、独自の名称を発表して自国領と主張した。

 日本だけでなく、中国でも世論が政治に影響を及ぼす。列強の侵略の記憶が根強く残る一方で、大国意識の強い国民は「弱腰外交」に敏感だ。

 このため外交当局はしばしば世論の攻撃の的となる。命名でただちに反応したのは、世論を沸騰させないためでもあろう。

 尖閣沖漁船衝突事件などで日本の対中世論も厳しいが、日本政府は命名で記者会見や報道発表をせず、ホームページでの掲載にとどめた。藤村修官房長官は「事務的に淡々とやってきたことだ」と語った。こうした冷静さを両国は保つべきだ。

 歴史認識や尖閣といった問題で、日中双方がともに満足できる魔法の杖を見つけるのは至難のことだ。

 そうであるならば、日中の両国は友好と安定の大局を選ぶしかあるまい。



>南京大虐殺については、日中首脳の合意で作った日中歴史共同研究委員会で討議した。
>犠牲者数などで日中間で認識の違いはあるが、日本側が虐殺行為をしたことでは、委員会の議論でも一致している。



だから、中日新聞(東京新聞)や琉球新報もそうだったが、どうして「日中歴史共同研究委員会」を金科玉条として扱うのか?

確かに「日中歴史共同研究」では、支那側も日本側も南京虐殺事件を認めていた。

しかし、それは政治的配慮によって報告書に記載されただけであって、南京虐殺事件の根拠は示されなかった。

「日中歴史共同研究」の支那側主席委員の歩平が「単に被害者数の問題だけでなく、最も重要なのは大規模な残虐行為という認識を持つことである」と発言したように、論点とすべき歴史的資料がないまま支那側の政治的主張を言い張っただけだった。

一方の日本側も、犠牲者数について「20万人を上限として、4万人、2万人などさまざまな推計がなされている」と示したように、飽くまで「推計がなされている」という話であって、何らかの証拠や具体的資料を根拠に南京虐殺事件を証明したわけではなかった

おまけに、「日中歴史共同研究」では支那への政治的配慮から天安門事件(1989年)の事は記載されなかった。

こんな「日中歴史共同研究委員会」の報告を根拠に「南京大虐殺」を事実と決めつける朝日新聞はジャーナリストとは言えない。

何の根拠もなく「南京大虐殺」を認めた「日中歴史共同研究」を「南京大虐殺」の根拠とする琉球新報や中日新聞(東京新聞)や朝日新聞は、自主廃業する方が良い。


「日中歴史共同研究」については、早々と産経新聞が2月24日付「主張」(社説)で「研究に参加した日中の一部の学者の意見が一致したにすぎない」、「政治的妥協の中で生み出された日中歴史共同研究などにとらわれない、実証的な学問研究の積み重ねが必要である。」と当たり前の批判を述べている。

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120224/lcl12022403050000-n2.htm
河村氏の南京発言 これで問題視されるとは
2012.2.24[主張]産経新聞

(一部抜粋)

 メディアの中には、「南京事件については、日中共同の歴史研究がある。市長としての発言にはもっと慎重であるべきだ」「配慮が足りなすぎる」などと、まるで河村氏が重大な失言をしたかのような社説もあった。

 2年前に発表された共同研究では「南京虐殺」があったとの認識が示された。
だが、それは研究に参加した日中の一部の学者の意見が一致したにすぎない。

 南京事件は昭和12年暮れから13年にかけ、旧日本軍が南京で多くの中国軍の捕虜や市民を殺害したとされる事件だ。中国は「30万人虐殺」を主張している。

 最近の研究で、「南京虐殺」や「南京大虐殺」は当時の中国国民党の一方的な宣伝だったことが分かってきた。政治的妥協の中で生み出された日中歴史共同研究などにとらわれない、実証的な学問研究の積み重ねが必要である。

河村氏の南京発言 これで問題視されるとは2012.2.24[主張]産経新聞 猫多摩散歩日記 2
河村氏の南京発言 これで問題視されるとは2012.2.24[主張]産経新聞




>そういう重い経緯のある問題で、姉妹友好都市である南京市の訪問団に対し、河村氏が一方的に自らの考えを示したのは、あまりに配慮が足りない。


河村市長が一方的に南京市の訪問団に考えを示したのではない。

河村市長の発言の前には、1年以上前から河村市長と超党派の名古屋市会議員団による支那総領事館や南京市との交渉があった。

そして、今年2月7~9日、名古屋市議の藤沢忠将氏と山本久樹氏がに南京市を訪問し、「友好親善を図るためにもぜひ意見交換したい」と南京事件についての議論を呼び掛ける河村市長の親書を渡した。

南京市側も「議論は大いに結構」と和やかに答えた。

河村市長は長期に亘る交渉とそのやりとりを踏まえた上で、2月20日に南京市の訪問団に「南京事件はなかったのではないか。いっぺん討論会を開きたい」と発言したのだ。

これについては、3月6日夜に開催された【「河村発言」支持「南京虐殺」の虚構を撃つ緊急国民集会】でも、名古屋市議の藤沢忠将氏が改めて説明した。(関連記事

■動画
「河村発言」支持!② 超党派名古屋市議団・藤沢忠将 過去一年の経過
http://www.youtube.com/watch?v=EwglvQ_2tUc

(マスコミがキチンと伝えていない河村たかし市長と超党派の名古屋市会議員団による過去1年以上に亘る中国総領事館や南京市との地道で勢力的に行なって来た交渉の経過について報告)





>だが河村氏は、発言を撤回する気はないようだ。


河村市長は、朝日新聞がこの社説を書いた後の3月8日も、あらためて発言撤回を拒否した!

いいぞ!頑張れ!

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120308/plc12030811060009-n1.htm
【河村市長南京発言】
発言撤回あらためて拒否 南京大虐殺否定で河村市長
2012.3.8 11:05、産経新聞

 河村たかし名古屋市長は8日、「南京大虐殺」を否定した自身の発言について「(真意が)誤解されている。この間、言ったことに尽きる」と述べ、撤回する考えがないことをあらためて示した。名古屋市の事務所前で記者団に語った。

 中国江蘇省南京市の当局者は7日、当面中止となった両市間の交流を復活させるには、発言の撤回と謝罪が条件になるとの認識を示しており、関係修復は難しい状況だ。
(以下略)






>歴史認識や尖閣といった問題で、日中双方がともに満足できる魔法の杖を見つけるのは至難のことだ。
>そうであるならば、日中の両国は友好と安定の大局を選ぶしかあるまい。



朝日新聞は、南京事件に飽き足らず、尖閣諸島まで「日中友好に配慮しろ」と言っている。

本当に屑だ。

日本は、「南京虐殺事件は無かった」「尖閣諸島は日本の領土」と事実を主張し続ければ良いだけのことだ。

嘘を吐いて友好もへったくれもない。



(更新)
▼河村たかし名古屋市長の「南京事件はなかったのではないか」発言に対する見解▼

【支持・肯定・擁護】
産経新聞、石原慎太郎(東京都知事)、青山繁晴、山田宏(大阪市特別顧問)、田母神俊雄(元航空幕僚長)、上田清司(埼玉県知事)、青木直人、稲田朋美(自民党議員)、安倍晋三(衆院議員・自民)、平沼赳夫(衆院議員・たち日)、有村治子(参院議員・自民)、山谷えり子(参院議員・自民)、大江康弘(参院議員)、高市早苗(衆院議員・自民)、向山好一(衆院議員・民主)、笠浩史(衆院議員・民主)、鷲尾英一郎(衆院議員・民主)


【不支持・否定・批判】
藤村修(官房長官)、大村秀章(愛知県知事)、中日新聞(東京新聞)、琉球新報、毎日新聞、日中友好協会、横井裕(外務省報道官)、橋下徹(大阪市長)、共同通信、朝日新聞







さて、今日の「南京大虐殺」を創作(捏造)したのは、他ならぬ朝日新聞だ。

おさらいしよう。


●いつ誰が「南京事件」「南京大虐殺」を創作(捏造)したのか?

①1937年~1938年
■国民党


支那事変当時は国民党がプロパガンダとして日本軍の残虐行為を嘘宣伝していた。
支那が宣伝工作を本格化させたのは1937年11月頃からだった(『南京事件――国民党極秘文書から読み解く』東中野修道著)。
よって、最初に宣伝したのは支那国民党で、具体的には宣伝工作員のベイツが、日本軍による市民殺害の嘘レポートをダーディン等の新聞記者たちに渡したりティンパーリの『戦争とは何か』にそのレポート等を所収させたりした。



②1945年~1948年
■GHQ


プロパガンダを東京裁判で創作し直したGHQ。

南京事件は、東京裁判のネタとして創作された。
戦後、GHQは、「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」(戦争への罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画)に基づき『南京大虐殺』を捏造し、東京裁判や、NHKのラジオ番組『真相はかうだ』や『真相箱』などで宣伝した。
目的は主に2つで、一つは原爆投下など連合軍側の戦争犯罪を誤魔化すこと、もう一つは日本人に贖罪意識を植え付けて二度と戦争を出来ない腑抜け・腰抜け民族にすること。

東京裁判で証拠とされたのは主に3つ。

1.南京など各所の裁判所で裁かれ断罪された無実の者の長い表
2.埋葬記録
3.証言


これらは全てでっち上げの嘘っぱちだったことが判明している。



③1971年~今日
■朝日新聞など


東京裁判から20年以上、「南京虐殺」は忘れられた存在となった。
本当に「大虐殺」があったのなら、このような現象はありえない。

ところが、1970年代、突如『南京大虐殺』の大キャンペーンが始まる。
東京裁判から20年以上殆ど誰も語らなかった「南京虐殺」が、四半世紀も経て、日本人が自ら「東京裁判」をやり直すような行為をし、忘れ去られていた「南京」に強引に光を当て更に膨らませた「大虐殺」として日本中に流布した。
それが今日の問題の根源であり、その張本人は「朝日新聞」だ。
朝日報道の中でも、最大の決定打となったのは1971年8月から連載された本多勝一の『中国の旅』だ。

本多が支那に出かけ、支那共産党が用意した「証人」に聞いた話を「裏付けナシ・検証ナシ」でそのまま掲載。
「裏付けナシ」という、新聞の常識を無視した企画が新聞本紙、週刊朝日、朝日ジャーナル、アサヒグラフなど、あらゆる媒体を使って大々的に展開され、更に翌年には単行本化され、ベストセラーに。
言い様によっては『南京大虐殺』は朝日新聞の創作とも言える。
この頃から他にも大量の南京関連本が出版され、1978年(教育出版は1社のみ1975年)から日本の教科書に「南京事件」が記載され始めた。
そして、1981年(1979年という説も)からは支那の教科書にも「南京大屠殺」が記載され始めた。


■動画
朝日が作った歴史
http://www.youtube.com/watch?v=EoAmItpLGuE





今回は、朝日新聞が1970年代に突如開始した『南京大虐殺』の大キャンペーンの中でも、特に悪質だった事件を紹介する。

冒頭で述べた通り、1984年、朝日新聞は「南京大虐殺の証拠となる日記と写真があった!!」とスクープした!

日記と写真もあった南京大虐殺 昭和59(1984)年8月4日、朝日新聞夕刊

昭和59(1984)年8月4日、朝日新聞夕刊「日記と写真もあった南京大虐殺、悲惨さ写した3枚、宮崎の元兵士後悔の念をつづる」
昭和59(1984)年8月4日、朝日新聞夕刊
「日記と写真もあった南京大虐殺」
「悲惨さ写した3枚、宮崎の元兵士後悔の念をつづる」



しかし、やがて、写真は偽物!!

日記も、朝日新聞による加筆あるいは改竄があったことが判明した。

朝日新聞との闘い・われらの場合都城23連隊の戦史を汚すことは断じて許さぬ吉川正司(元都城歩兵第23連隊・中隊長)「文藝春秋」昭和62(1987)年5月号より転載

http://www.history.gr.jp/~nanking/books_bungeishunju875.html
朝日新聞との闘い・われらの場合

都城23連隊の戦史を汚すことは断じて許さぬ

吉川正司(元都城歩兵第23連隊・中隊長)

「文藝春秋」昭和62(1987)年5月号より転載

 昭和59(1984)年8月4日、朝日新聞夕刊に5段抜きの大見出しが躍った。
 「日記と写真もあった南京大虐殺、悲惨さ写した3枚、宮崎の元兵士後悔の念をつづる」と題されたこの記事は、翌5日朝刊の全国版にも掲載され、一大センセーションを巻き起こす。


 思えばこれが、朝日新聞との2年5ヶ月におよぶ闘いの幕開けだった。
 
(略)

 支局長「抗議の公文書、確かに受け取りました。その事ですが、「お詫び」だけはご勘弁下さいませんか。その事を記事にすれば、私は首になります」
 中山「首になる。仕方ないじゃありませんか。嘘の報道を大見出しの記事として全国版に掲載したんですから。その責任をとって首になるのが当然じゃありませんか」
 支局長「その責任は重々、感じています。しかし首になると私は困ります。私の家族のために助けて下さい。お願いします。この通りです(両手をついて頭をさげる)」
 中山「お詫びがないと、私の方が困ります。亡き戦友の御霊を慰めるのが私ども連隊会の責務ですから」
 支局長「そこのところ何とか」

 2人の間で種々のやりとりがあったすえ、お詫びとか記事取り消しといった言葉は使わないが、全国版・地方版で連隊は南京大虐殺とは無関係との旨を報道することで、両者が合意した。
 事務局長は帰ってから連隊会の安楽秀雄会長とも相談し、やむを得ないとの承諾を得たのである。
 昭和60(1985)年2月24日、朝日地方版は「「南京大虐殺と無関係」元都城23連隊の関係者が表明」として次のように報じた。

(略)

 いささか不本意ではあったが、ともかくもこの記事で、およそ半年におよぶ朝日と連隊会の抗争に終止符が打たれるかに見えた。

 ところが、同年の6月、7月、10月と、大阪・名古屋などに住む戦友から相次いで「連隊は無関係という記事は全国版の何月何日に載ったのか」との問い合わせが事務局に殺到した。
 全国版に載せると言った朝日が約束を破るはずはない。
 この種の記事は紙面の片隅に小さく載せるのが新聞社の常道だから、もう1度よく見て下さい、と照会のたびに事務局は回答していた。
 昭和60(1985)年12月20日、"お詫び"記事から半年たったところで、意外な事実が判明した。
 この日、中山事務局長は、朝日宮崎支局に中村支局長を訪ねた。
 事件の取材で宮崎に来ていた「世界日報」の鴨野守社会部記者を伴ってである。
 中山氏はさっそく、
 「例の無関係の件、全国版の何月何日に載ったのですか」と切り出す。
 ところが支局長は言った。

 「全国版?全国版には載せてありません」
 「載せていない?それじゃ約束が違います」
 「約束した覚えはありません」
 「冗談をおっしゃってはいけません。あの日、固く約束されたじゃないですか。」
 「いや、地方版に載せるとは言いましたが、全国版とは言いません」

 そして中村局長は、「あの記事はすべて正しい。朝日新聞宮崎版に載った記事は訂正記事ではない。連隊会から抗議があった旨を載せたまでだ」と、言い放ったのである。
 中山事務局長は、

 「今からでもよいから、全国版に載せてくれませんか」と食い下がったが、
 支局長は「いや、もうこれ以上の事は朝日としては出来ません」と一蹴した。
 やむなく中山事務局長は、次のように言い残して席を立った。

 「卑怯ですねあなたは。あの時私に、1人で来て下さいと言われた意味が今になってわかりました。約束をした、しないは、当事者だけでは押し問答になりますからね」

朝日は都城23連隊との抗争はこうして再燃したのである。


 それから1週間ほどたった12月28日、朝日にとって極めて衝撃的なスクープが「世界日報」の一面トップを飾った。

 「朝日、こんどは写真悪用 南京大虐殺をねつ造」と題された記事によれば、中国人の首が転がっている例の写真、南京大虐殺の動かしがたい証拠であると朝日が大見得を切った写真は、旧満州の熱河省で撮影されたもの、と指摘されたのだ。(その後の報道で、この写真は昭和6(1931)年、当時の朝鮮で市販されていたもので、満州の凌源で中国軍が馬賊を捕らえて処刑したものと判明する)

(以下略)


1985年12月、朝日新聞が1984年年8月に「宮崎の元兵士の写真と日記」として記事にしたあの写真が捏造だったと判明
1985年12月、朝日新聞が1984年年8月に「宮崎の元兵士の写真と日記」として記事にしたあの写真が偽物だったと判明


関心を持たれた方は是非、全文読んで頂きたい。

朝日新聞の卑劣さが良く分かる。


朝日新聞との闘い・われらの場合
都城23連隊の戦史を汚すことは断じて許さぬ
吉川正司(元都城歩兵第23連隊・中隊長)
http://www.history.gr.jp/~nanking/books_bungeishunju875.html
「文藝春秋」昭和62(1987)年5月号より転載




この朝日新聞による「宇和田日記」捏造事件については、『「宇和田日記」(日記帳)の現物があるから信頼できる』ような頓珍漢のことをいう馬鹿もいる。

しかし、この朝日新聞の日記捏造事件の核心は、本当に存在した宇和田日記に、後日誰かが大幅に加筆、あるいは改竄(書き換え)を行ったことにある。

騙されてはいけない。

当該事件の核心(想定)は以下のとおり。


――――――――――
1973年(昭和48年)、宇和田弥一、死去

1978年(昭和53年)の戦記編纂の以前に、宇和田氏の日記帳に誰かが加筆し、戦記編纂委員会に提出

戦記完成後、この日記は未亡人の宇和田八重子さんに返送される

・その後、さらに、誰かが大幅に加筆、あるいは改竄(書き換え)を行い、日記は朝日新聞に渡る

1984年(昭和59年)年8月、朝日新聞に5段抜きの大見出しが躍る。「日記と写真もあった南京大虐殺、悲惨さ写した3枚、宮崎の元兵士後悔の念をつづる」と題された記事は一大センセーションを巻き起こす

1984年末、吉川正司氏は、日記の【現物】を見せてもらったが、3メートルほど離れたところからで、判読は出来ず

1985年(昭和60年)2月、朝日新聞宮崎支局で2回目の会談。連隊会側5名、朝日新聞側は中村支局長。日記の【現物】は、5メートルほど離れてから広げられたので、日記帳だと判断することさえ出来ず

1985年12月、朝日新聞が1984年年8月に「宮崎の元兵士の写真と日記」として記事にしたあの写真が捏造だったと判明

1986年(昭和61年)1月、朝日新聞宮崎支局会議室において、連隊会と朝日西部本社の会談。出席者は連隊会5人に対して、朝日側3名。「日記も嘘である。・・・日記を白日のもとにさらせば解決する」と迫れば、「そうなったら日記提供者の氏名が判明して、本人に迷惑が掛かる」と取材源の秘匿を楯に応じず

1986年8月、日記の保全が第1だと考えた吉川氏は、弁護士を通じて小倉簡易裁判所に対して日記保全の申し立て

1986年12月、裁判所側はほぼ連隊会側の主張を認め、朝日に日記を見せるよう判決。朝日側が、守秘義務の配慮が万全でないとして、福岡地裁小倉支部に抗告
本裁判となれば10年はかかるため、連隊会員たちの余命がなくなると判断。「うちの連隊は南京事件に無関係である」という記事を朝日の全国版に載せてもらうことで、保全申し立てを取り下げることを朝日に通告

1987年(昭和62年)1月、連隊会にも報告

連隊会は不本意なまま、朝日新聞との闘いを終えた。
――――――――――




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