宮城県南三陸町の避難所の一つとなっている志津川中学校から撮影
4月30日、岩手県陸前高田市、宮城県気仙沼市、宮城県南三陸町などの主に巨大津波による被災地へ行った。
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4月30日時点
陸前高田市
死者 1492人 行方不明者 770人
気仙沼市
死者 886人 行方不明者 1050人
南三陸町
死者 501人 行方不明者 658人
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この日の第一の目的は南三陸町に支援物資を届けることであり、その途中で陸前高田と気仙沼などの津波被災地を視察した。
私は、個人的には、南三陸町よりも、過去に何度も行ったことがある陸前高田や気仙沼などの方が親近感を持っているのだが、ジャーナリストの山際澄夫さんがホームページで「GWを利用して自分の車で(南三陸町に)支援物資を運びたいという方もご連絡ください」と呼びかけていたので連絡して避難所の担当者などを教えてもらい、今回は南三陸町に支援物資を届けることにした。
山際澄夫のホームページ
(一部抜粋)
支援物資は全く足りていません!
ただ、これまでどこの被災者がどんなものを必要としているかが分からず、物資を届ける手段もなかっただけです。南三陸町のように個人の支援物資の受付を断っているところもあります。私もおっかなびっくりで呼びかけを始めましたが、届け先もどんどん出てきています。責任を持って支援物資が被災者に届くよう手配します。
GWを利用して自分の車で支援物資を運びたいという方もご連絡ください。
今不足しているのは以下のようなものです。
☆たばこ、お酒(お酒は本当に歓迎されます。たばこは送ってくれる人がいません)
(以下省略)
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ボランティア報告記
仙台市在住の薬剤師、K様からのメールです。(4月26日)
(一部抜粋)
しかし、自宅避難などの方々には全く行き届いておらない状況からみると、足りているのは、物資倉庫に配っていない物が溢れているからそう見えるだけで、必要な人に届けるという工夫と努力が全くなされていないのではないかと推察します。
個人の支援が求められているのが何よりの証拠です。
マスメディアや役所の言うことだけで状況判断していたら、本当に餓死する方が出てきてもおかしくないと思います。
4月30日朝9時、仙台の温泉旅館を出発し、午前中に一関市の実家に立ち寄り、馴染みの酒屋で日本酒「関山」(上撰)を購入した。
支援物資。岩手県で購入した日本酒、千葉県産落花生など。
宮城県内や岩手県内では、高速道路でも一般道でも、地震によって出来た段差や亀裂が何カ所にも有った。
気仙沼市に入り、気仙沼の市街地に入る手前で東北屈指の観光ルートである国道45号線を北上し、陸前高田市へ向かった。
間もなく、自分の肉眼で初めて生の津波被害の惨状を目撃した。
気仙沼市唐桑町だった。
気仙沼市唐桑町
国道沿いの住宅地だったことはすぐに判ったが、山のふもとまで全滅だ。
宮城県気仙沼市から岩手県陸前高田市に入るとすぐに、国道45号沿いに神社の駐車場兼見晴らし処があったので、車を停めた。
魚介類の腐ったような悪臭が漂い、うるさい程カモメが鳴いていた。
下を眺めると、広田湾の奥の方にある食品加工場のような大きな建物が2つあった。
陸前高田市気仙町
そこで自衛隊員も車を停めて居たので聞いてみると、下の建物が津波に襲われ、サンマやイワシなどが山の方まで流されて腐り始めているそうだ。
カモメの群れは、以前は来ていなかったが、つい最近になってから来るようになったそうだ。
陸前高田の市街地だった所に近付いたが、殆どの建物が津波で消滅しており、風景だけでは何も分からないし、使用できる道路も限定されているのでカーナビゲーションも役に立たず、臨時の看板や標識を頼りに車を走らせるしかなかった。
陸前高田市の市街地少し手前
私は、建物がないなら昔何度も海水浴に訪れた「高田松原」に行ってみるしかないと思った。
「高田松原」の少し手前では渋滞となっていたが、何とか「高田松原」に到着した。
道の駅「高田松原」
私が車を停めて周囲を歩いていると、タクシーから凄いカメラを3つくらいぶら下げた男が降りて来て、私に話しかけて来た。
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男
この辺の出身の方ですか?
俺
いえ、違います。
私は隣の一関市出身の者です。
男
そうですか。
私は朝日新聞の者ですが、此処の地元の人でゴールデンウイークに帰省している人を探しているんです。
車のナンバーが東京だったので地元出身の方か帰省しているのかと思いまして。
俺
残念ながら、この辺は昔よく海水浴に来ていただけの余所者です。
朝日
今回、震災後に此処に来たのは初めてですか?
俺
はい、震災後は初めてです。
一関の実家にも用事が有って帰省したので、津波で被災地に少し支援物資を届けたり視察したりしようと思って来ました。
朝日新聞って、東京から来たんですか?
朝日
はい、東京から盛岡に来て、盛岡からいろいろ回っています。
俺
じゃー、タクシーは盛岡から乗ってきたですか?
朝日
はい、もちろん料金はメーターで払うのではなく、一日貸切ですけどね。
私は1か月くらい前にもここに来たんですけど、これでも1か月前に比べれば大分瓦礫は片付いた方です。
この辺の道路も少しは通れる道路が増えたと思います。
殆どの橋が流されてしまって、ここに来る途中、橋の所で渋滞していたと思いますが、あそこの橋だけでも残ったから良かったみたいです。
今は自衛隊が他にも橋を造ったりしているそうで、道路も少しは良くなっていますね。
俺
はー、橋って沢山有ったのが殆ど流されたんですか?
朝日
そうなんです。
やっぱり津波は特に川沿いを遡ったので、大半の橋が流されて交通の便が悪くなっているんです。
川沿いでは「まさかこんな所まで」と思うような上流の山奥の方まで津波が行っていました。
津波を全然想定していなかったような所も大分やられたようです。
俺
石巻の大川小学校などもそうだったようですが、この辺も同じようなことがあったんでしょうね。
朝日
今日、東京から来たのですか?
俺
いえ、昨日は福島の原発の近くの飯舘村とか浪江町に行って仙台に泊まって、今日こっちに来て今晩は実家に泊まります。
朝日
ほー、福島の原発も今は30kmまでしか近付けなくなっていますが、地元の人だけが知っている道なんかで10kmまで近付けるそうです。
俺
へー、私はたまたま偶然、警察の不手際と私の勘違いが重なって20km地点まで行ってしまって、そこで警察に追い返されました。
逆に30km地点の検問を出る時に警察に長々と質問とか説教をされてしまいました。
まー、今日はこの辺も関東地方のナンバーの車も多く見かけますので、陸前高田の地元出身で帰省して来ている人も少し探せば見つかると思いますよ。
朝日
そうだと思いますけどね。
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朝日新聞記者
その後、私は、海の方に歩いて行ってみたが、高田松原の海水浴場となっていた砂浜は殆ど消滅していた。
陸前高田市は地震によって84センチも地盤沈下したためだ。
地盤沈下したことは報道で知っていたが、あれ程賑わっていた海水浴場の砂浜が殆ど消失し、砂浜の手前まで海水が入り込んでいるのを目の当たりにし、私は地盤沈下で地形が大きく変わったことを実感した。
地盤沈下によって海水浴場だった砂浜が殆ど消滅し、手前に海水が入り込んだ「高田松原」
数万本あった松林も、昔の面影は全く無くなっていた。
4月2日にこの高田松原の海岸を訪れた菅直人首相は、「岩手県の皆さんはここに海水浴に来るのが楽しみだったと聞くが今は見るかげもないねえ」と笑いながら話していたが、私はとても笑えなかった。
高田松原の海岸で「岩手県の皆さんはここに海水浴に来るのが楽しみだったと聞くが今は見るかげもない」と笑いながら話す菅首相
陸前高田市の避難所で被災者に満面の笑みで声をかける菅直人首相=4月2日
また、4月2日に菅首相は、目の前に1本だけ残された松の木を見つけ、笑顔を見せながら「復興しようよ」と同行した戸羽太市長ら地元関係者に声をかけた。
私も、その松の木を見つけ、写真を撮ったが、笑顔で「復興しようよ」と言う気分にはなれなかった。
津波で壊滅的な被害を受けた岩手県陸前高田市で、国の名勝にも指定される「高田松原」の数万本の松が、ほぼすべてなぎ倒される中、奇跡的に1本だけ生き残った。
私には、陸前高田市が、いつ、どのように復興していくのか想像も出来ない。
参考までに以前の高田松原の画像を少し掲載する。
以前の「高田松原」
後日知ったのだが、この日、陸前高田市にはあのアグネスチャン(陳美齡)をはじめとする日本ユニセフ協会の連中が来ていた。
凄いニアミスだった。
http://www.unicef.or.jp/kinkyu/japan/2011_0501.htm
子どもたちの歓声が響きました
アグネス大使岩手県訪問 第3報
アグネスチャン(陳美齡)ら日本ユニセフ協会は、大地震の後「東日本大震災緊急募金」と銘打った募金を大宣伝していたが、但し書きで「なお、当緊急支援に必要な資金を上回るご協力をいただいた場合(被災者の皆さまへの支援が行き届き、ユニセフと日本ユニセフ協会が提供できる内容の支援が被災地では必要ないと判断される場合)ユニセフが実施する他国・地域での紛争・自然災害などによる緊急・復興支援に活用させていただくことがありますので、ご了承願います」とことわっており、実際には外国へ支援しようとしていた。
私も日本ユニセフ協会に電凸したりブログで非難したりしたように、多くの人から批判が殺到したため、日ユニは、3月24日にHP上で「東日本大震災の募金は、通常の募金とは別の口座で管理しています」と掲載し、「全額を被災者に渡す」と釈明した。
我々が抗議しなければ、日ユニは「東日本大震災緊急募金」と称した集めた金を外国に使おうとしていたのだ。
それでも恥も外聞もなく抜け抜けと被災地を訪問し、宣伝に利用するあたりが流石一流の詐欺集団だ。
4月30日、陸前高田市で撮影
陸前高田を後にし、気仙沼を通って、南三陸町に向かった。
気仙沼は日本有数の漁港だけあって水産加工場も多いためか、多くの場所で魚介類が腐ったような異臭がしていた。
気仙沼は殆ど車で通るだけだったが、車からも惨状は良く分かった。
気仙沼市
気仙沼の中心部を過ぎて暫く行くと、大谷海岸があった。
気仙沼市大谷海岸
ここも、主に私が小さい頃に何度か来ていた海水浴場だ。
道の駅の跡があって駐車場があったので、車を停めて歩いてみた。
道の駅は津波で破壊されており、隣のプレハブの建物が食品販売所になっていた。
ここでも、東京新聞の記者が取材に来ていて、販売所の人にいろいろと話を聞いていた。
私も横で少し話を聞いていたが、この連休に入って他所のナンバーの車がやって来て、瓦礫の中から金目の物を探して拾って行っているそうだ。
南三陸町に行くのも主に国道45号線を使って南下したのだが、途中で道路が壊れて通行止めとなっていたため、迂回しなければならなかった。
後で判ったのだが、北の気仙沼方面から南三陸町の志津川に支援物資を運ぶことは珍しいようだ。
北から志津川に、壊れた国道を使わずに行くには、非常に細い道を通って標高360mの貞任山を越えなければならなかった。
貞任山
山越えの道の殆どは車ですれ違うのが無理な道幅であり、困難を極めた。
結局、3台くらいとすれ違ったが、待機所などを使って無事に南三陸町の志津川に到着した。
ここは、陸前高田などと比べても、瓦礫の撤去作業が遅れていると感じた。
南三陸町志津川
ただ、海岸や町の中心部から高台の避難所(中学校)へ行く道でも、陸前高田の海岸近くであったような渋滞は全くなかった。
山と海に挟まれた僅かな平地に志津川の町全体が存在していたので、まさに壊滅状態だ。
南三陸町志津川
この志津川の津波の様子は、走って逃げる人たちを津波が襲いかかる場面など有り、You Tubeで600万回以上再生されている。
■動画
南三陸町志津川高校から見た津波の様子 Tsunami attacking in Minami-Sanriku
http://www.youtube.com/watch?v=8vZR0Rq1Rfw
上の動画は志津川高校から撮影したものだが、この志津川高校の近くで同じ位の高台に避難所の志津川中学校がある。
坂を上って、南三陸町の避難所の一つとなっている志津川中学校に到着した。
校庭は自衛隊の車両の駐車場にもなっていた。
南三陸町の避難所の一つとなっている志津川中学校の校庭に駐車されていた自衛隊の車両
ようやく支援物資を無事に届けることが出来た。
避難所の人と少し話をしたが、ここでは、未だに電気と水道が通っていないそうだ。
また、支援物資はまだまだ足りていないそうだ。
ストレスがたまっている人が多く、酒は有り難いとのこと。
時期的に毛布や冬物衣類などはもう要らないが、それ以外の野菜や調味料などの食料品、洗剤や生活用品、夏物衣類や下着などはまだまた不足しているという。
南三陸町の避難所の一つとなっている志津川中学校に届けた支援物資
避難所に支援物資を届けた後、町の海岸近くで車を停めて津波の傷跡を視察した。
次の写真は「防災対策庁舎」だった所だ。
南三陸町志津川の「防災対策庁舎」。向こうに見えるのは「志津川病院」
大地震の後も防災担当の職員はずっとここに残って仕事をしていたため、多くの人がここで亡くなったそうだ。
どうして津波が来れば一たまりもない海岸近くの平地に「防災対策庁舎」が在ったのか大いに疑問が残る。
この防災対策庁舎の向こうに見えるさらに少し海に近い建物が志津川病院だ。
今度、大きな病院や防災対策庁舎を建てる時には、高校や中学校のような高台に建てるべきだ。
海岸に近付くと、過去の津波の碑や蒸気機関車などが横たわっていた。
どうやら、ここは、「松原公園」という公園があったらしい。
よほど暫く調べないと今居る所が公園だった場所だと分からないことも、津波で町が壊滅した事実を裏付けている。
南三陸町志津川の松原公園にあった「津波災害記念碑」
松原公園には蒸気機関車が展示してあったが、津波で蒸気機関車も横転していた。
南三陸町を後にし、この日は一関の実家に泊まった。
実家の真向かいには自動車解体工場があり、そこの社長は被災後は毎日、被災した自動車などを運んで来るために気仙沼を中心に被災地に行っている。
実家の兄がその社長などから被災地における様々な様子を聞いており、私は兄を通じて生々しい情報を入手した。
岩手県と宮城県では、断然、宮城県の治安が悪いそうだ。
もともと岩手県民より宮城県民の方が気性は荒いのだが、震災後は宮城県の被災地を中心に治安が酷くなったという。
特に酷いのが石巻市だが、仙台市や気仙沼市もかなり酷い。
私が、南三陸町に支援物資を届けた後、時間があれば石巻にも視察に行きたかったと言ったら、行かなくて良かったと言われた。
今、慣れないよそ者が石巻の被災地に行くと、犯罪に遭う可能性が高いという。
上述したように、大谷海岸の道の駅で、東京新聞の取材に対し、食品販売所の人が、この連休は他所のナンバーの車が被災地にやって来て金目の物を拾って行っているそうだが、被害が大きかった石巻にボランティアなどで集団で来ている連中も、かなり窃盗などをしているそうだ。
その話を聞いて私はピンと来た!
辻元清美のピースボートは石巻に集結して活動しているが、連中が石巻に集まっているのは金目の物を拾ったり盗んだりして資金稼ぎをし易いからではないだろうか。
以前、説明したように、ピースボートは当初、いわき市などの支援物資の集積所で、換金し易い金目の救援物資の横流しをして稼いでいたのだが、犯行が判明しそうになったら活動場所を石巻に変えた経緯がある。
ピースボートは、一般からも石巻限定で多くの人数を募集していたが、一般人も大勢石巻に集めておいて、中枢のテロリストたちは金になる犯罪的活動をしていると考えるのが自然だ。
それと、特に印象深かったことは、震災後には死体からも財布や貴金属や宝石や時計などをかっぱらっていた連中が居たそうだ。
指輪などは指がふやけて抜き取れないため、指ごと切断された持って行かれていたことも良くあったという。
また、財布には免許証などの身分証明書も一緒に入れている人が多い。
財布は身分証明書と一緒に丸ごと持って行かれることが多く、バラバラ遺体でもないのに身元が判明していない人の身元確認に支障を来たしているという。
ピースボートのようなボランティア団体の連中は、アルバムや写真などを拾うときちんと届出るが、財布や貴金属や宝石や時計など遺体に身に付けていた物はなぜか免許証などの身分証明書も一緒に丸ごと持って行く傾向があるそうだ。
震災の後、2ちゃんねるで「支那人どもが陸にあがった遺体から平気な顔をして時計や金品をはずして持っていく」というスレが立って、デマだとか言われていたが、もしかしたら事実だったのかもしれない。
こんなことをするのはテロ集団(ピースボート)か支那人位しか考えられない。
http://logsoku.com/thread/kamome.2ch.net/china/1300298519/
東日本大震災の被災地で在日中国人が略奪を実施
1 :名無的発言者 :2011/03/17(木) 03:01:59.71
うちの祖母は女川で被災し家は全部流されたものの命だけは助かりました。
その避難所での中国人の話です。
女川には水産加工屋があるのでたくさんの中国人労働者がいます。
彼らの家は山の上にあり津波の被害を受けていないので寝る場所もあります。
それなのに彼らは避難所に来て我先にと配給の毛布をもらい家に持ち帰る。席をはずした被災者の所から配給のご飯や毛布を盗んで持って帰る。
みんな全然たりていない少ない物資を分けあいながら助け合って生活しているのに…
さらに本当に許せないのは、陸にうちあがったご遺体から平気な顔をして時計や金品をはずして持っていく…
人間としておかしくないですか?
遺族にとっては大切な大切な遺品なんです。
このような話が女川でも、野蒜でも、志津川でも起きているんです!
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