


不当判決(画像は「極右評論」より)
石灯篭で襲撃して来た支那人に警官が発砲したのは違法?!許し難い不当判決
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110428-00000102-mai-soci
<中国人死亡>警官の発砲は違法…栃木県に賠償命令
毎日新聞 4月28日(木)20時31分配信
栃木県警の警察官が職務質問に抵抗した中国人男性(当時38歳)に拳銃を発砲して死亡させたのは違法として、遺族が県に総額約5000万円の損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決で、東京高裁は28日、請求を棄却した1審・宇都宮地裁判決を変更し、県に約1000万円の賠償を命じた。前田順司裁判長は「警棒による制圧や威嚇射撃を試みておらず発砲の要件を満たしていない」と述べた。
判決によると、男性は06年6月、同県西方町で巡査部長(35)に職務質問され逃走。巡査部長は公務執行妨害容疑で逮捕しようとした際、抵抗されたために発砲した。男性は腹部を撃たれ死亡した。
警察官職務執行法は、逮捕や正当防衛などの理由がある場合、必要な限度で武器使用を認めている。前田裁判長は「男性が銃を奪おうとしたり、巡査部長に襲いかかった事実は認められない」と認定。警棒による制圧や威嚇射撃をしなかった巡査部長の行為は警職法違反と判断した。
巡査部長は付審判決定を受けて特別公務員暴行陵虐致死罪に問われている。宇都宮地裁が正当防衛と認めて無罪を言い渡したが、検察官役の指定弁護士が控訴している。
栃木県警監察課は「拳銃使用は適法と考えており、上告については関係部局と協議して判断したい」とのコメントを出した。
私は今、仙台の旅館に居る。
私は今日、福島第一原発の20km地点まで行って来た。
福島のことは後日報告するが、その前に昨日の驚くべき不当判決について述べる。
酷過ぎる不当判決だ!
石灯篭を持って襲撃して来た支那人に発砲した警察官の行為が違法とされた!

石灯籠
支那人は研修ビザの期限が切れて日本に不法滞在していた。
本当に信じられない。
今回の裁判長の前田順司は、以前も支那人による損害賠償請求において支那人への損害賠償の支払いを命じた「前科」がある。
http://plaza.rakuten.co.jp/baromaro/24000
犬と衝突転倒、顔面骨折 飼い主に1900万円賠償命令
体重約30キロの大型犬がぶつかってきたために転倒し、顔の骨を折るなどしたとして、女性(46)が、東京都新宿区の飼い主の男性に約2700万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が15日、東京地裁であった。前田順司裁判長は、犬との衝突が原因で転倒したと認め、飼い主に1900万円余の支払いを命じた。
飼い主は「犬と女性は数メートル離れており、ぶつかっていない」と主張したが、判決は「女性は反り返る形で宙に浮き、顔から落ちた」という目撃証言を重視。犬の衝突以外には転倒の原因がないと判断した。
判決によると、この女性は中国人で、研究者の夫と来日中の00年9月、新宿区の公園を散歩中、飼い主の投げたテニスボールを追って走ってきたゴールデンレトリーバーに衝突され、足元をすくわれる形で転倒。3カ月以上入院し、今も後遺症で固形物を食べられない。(22:55)

支那では裁判の判決が昔から金で買われるのが常識となっているため、今回の判決も裁判長の前田順司が支那の側から金で買収された可能性が高いと思う。
それと、正直言って「前田順司は支那人に石灯篭で殴り殺されれば良い」と思う。
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| ノ \ /ヽ i l ヽ 前田順司
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栃木県には絶対に上告してほしい。
上告し、もしも最高裁判所も不当判決を下したら、日本国民は最高裁判所裁判官国民審査で、それら最高裁判事たちを絶対に罷免しよう!
この事件の経緯を振り返ろう。
2006年6月23日午後4時40分ごろ、栃木県西方町真名子で、栃木県警鹿沼署真名子駐在所の平田学巡査(当時30歳)は、2人の男が農協の現金自動預け払い機周辺で不審な行動をしているのを見つけ、職務質問しようとした。
すると、2人の男は逃走。
平田巡査はパトカーで追いつき、1人ともみ合いになった。
男は平田巡査の腰に体当たりして抱きつき左手で拳銃を奪おうとしたうえ、民家の庭先から石灯籠の宝珠(頭部)を持ち出してきたため、平田巡査は午後5時5分ごろ民家前の路上で警告の上で発砲した。
男が持ってきた石灯籠の頭部は、直径約20センチで重さ約3Kgだった。
もう1人の男は逃走したが、福島県在住の支那籍の男(37)であり、午後9時15分に不法残留の現行犯で逮捕された。
結局、拳銃を奪おうとしたうえ、石灯篭を持ち出して平田巡査に襲いかかり、銃殺された男も支那人だった。
この事件は、当初、近所の住民の目撃証言もあり、平田巡査の正当防衛が認められていた。

ところが、このような支那人窃盗団の事件に、何故かすぐに支那政府が介入してきた。
翌日6月24日の新華社電によると、支那政府は、この事件を重視し、日本外務省と北京の日本大使館に対して、早急な真相究明と「中日関係の大局に基づく妥当な処理」を要求した。
このような支那政府の支援もあり、その後死亡した支那人の妻の張琴など遺族は栃木県を相手取り、約5000万円の損害賠償を求めて宇都宮地裁に提訴したり、2007年8月、平田巡査を特別公務員暴行陵虐致死罪で告訴したりした。
当初地検は平田巡査の正当防衛を認めて不起訴としたが、2009年4月27日に宇都宮地裁の池本寿美子裁判長は、遺族側の付審判請求を認め、平田巡査を特別公務員暴行陵虐致死罪で審判に付す決定をした。
付審判決定は事実上、裁判所の判断による起訴であり、極めて珍しい。
これは宇都宮地裁が支那政府の圧力に屈したか、あるいは日本政府が支那政府の圧力に屈して最高検や宇都宮地裁に圧力をかけた可能性が高い。

2009年4月、平田巡査の正当防衛の判断を取り消し、特別公務員暴行陵虐致死罪で審判に付す決定をした宇都宮地裁の池本寿美子裁判長
3年も経ってから地検の正当防衛の判断を取消し、平田巡査を特別公務員暴行陵虐致死罪で審判に付す決定をした池本寿美子も、支那人に石灯篭の頭部を持って襲われれば良いと思う。
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| ノ \ /ヽ i l ヽ 池本寿美子
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しかも、この死亡した支那人は、人民解放軍の海軍の退役軍人だった!
死亡した支那人の妻は「人に手をあげたことのない夫が、警察官を殺そうとしたとは信じられない」などと意見陳述したが、笑わせるな!
おそらく、支那海軍から退き、対日工作員となり、工作活動をしていたのだろう。
この支那人が元支那海軍で、この裁判も支那政府の支援を受けていることは、先日、月刊「中国」編集長の鳴霞氏が暴露した。
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■動画
5/6【討論!】尖閣・東シナ海、どうなる日本と東アジア[桜H22/10/2]
http://www.youtube.com/watch?v=iu44mkxVW0M#t=19m30s
19:30~
鳴霞(月刊「中国」編集長)の発言
「栃木県警の巡査が銃殺した支那の研究生いるでしょ。この研究生はずっと支那大使館が応援して日本で裁判しているでしょ。この研修生は支那海軍の退役軍人ですよ。それで支那政府が裏で応援して、日本人の弁護士を雇って栃木県警を訴えている。」
「あー、あの射殺しちゃった?」
「そうそう、あの…、海軍ですよ。」
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にもかかわらず、昨日(12月21日)、宇都宮地裁で、懲役4年を求刑した検察官役の弁護士は、売国奴としか言い様がない。
昨年正当防衛の判断を取り消して特別公務員暴行陵虐致死罪で審判に付す決定をした宇都宮地裁の池本寿美子裁判長や、12月21日に懲役4年を求刑した検察官役の弁護士は、凶悪な支那人が、警官の銃を奪おうとした上、石灯篭の頭部を持ち出して襲いかかって来ても、拳銃を使ってはいけないという。
直径20cm重さ3kgの石灯篭の頭部を持っ人民解放軍工作員に対して、警棒で立ち向かっていたら平田巡査が死亡していた可能性が高い。
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| ノ \ /ヽ i l ヽ 拳銃をよこすアルっ!!
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この裁判の判決は2011年2月10日に出る。
もしも宇都宮地裁が平田巡査長を有罪にしたら、我々日本国民は黙っていてはならない!

私達市民は支持!鹿沼署警官の発砲

栃木県警の外国人犯罪取締を支持する
日本の司法は、一貫して支那人を特別優遇している。
ちょうど3年前の今日2007年12月22日、支那人の李志は、JR御茶ノ水駅ホームで電車が進入していることを知りながら、口論になった男性警察官をホームから突き落とした。
被害者は、奇跡的に一命を取り留めたものの、右足切断、頭蓋骨骨折、腰骨粉砕骨折、全治不能という「植物人間」にされた。
当初、警察は殺人未遂罪でこの支那人どもを逮捕したが、起訴するときには何故か「傷害罪」に替わっていた。
弁護側は無罪を主張し、2008年5月28日の裁判で検察側は懲役5年を求刑した。
電車進入を知りながら人間をホームから突き落とした刑罰が、最高で懲役5年って、日本人が犯人なら絶対に有り得ない。
支那人犯罪への悪しき前例!
http://blog.livedoor.jp/samuraiari/archives/51134023.html
(一部抜粋)
支那人による「お茶の水駅事件」で、犯人の李志が既に釈放されるという信じられない司法の判断が下された。
「殺人未遂」の現行犯で外国人が、半身不随にさせた相手に、たった50万円の見舞金と五百万円の保釈金で保釈である。犯人の李志は犯行を否認して争っている身で保釈されたのである!
被害者の奥さんが嗚咽しながら証言台に立った(5月15日)。「私たちには治療費だけで6百万円も請求され、二百万円を既に支払っている」とし、さらに藤本武子(?)弁護士に「あなたは李志が今度の事件で生活が激変し地獄にいるというが、片足を切断され警官としての仕事もできないようにされた私たち家族こそが地獄にいる。勘違いをするな!」と激怒した。

2008年1月に靖国神社で支那人の王班亜が80代の参拝客に暴行した事件もあった。
この支那人は、80代の参拝客が持っていた国旗(日の丸)を奪い足で踏みつけたうえ、さおを折った。
さらに王班亜は、これを止めに入った神奈川県内の40代の男性看護師を殴りつけたり蹴ったりした。
王班亜は動機などについて黙秘していたが、この時も支那大使館などが圧力をかけ、簡単に釈放させられてしまった。

靖国神社で支那人に襲われた80代の関勇さん
2008年4月26日、長野聖火リレーにおいて支那人留学生たちは多くの乱暴狼藉を働いたが、逮捕されたのはなぜか日本人とチベット人だけで、支那人は一人も逮捕されなかった。

2010年9月7日、尖閣諸島沖で支那漁船「ミンシンリョウ」は違法操業をしていた。
10:16頃、支那漁船「ミンシンリョウ」は、日本の海上保安庁の巡視船「よなくに」に体当たりした。
10:56、支那漁船「ミンシンリョウ」は、巡視船「みずき」に体当たりした。
13:00前、約2時間後「みずき」は「ミンシンリョウ」を停船させ、「みずき」から海保職員が「ミンシンリョウ」に乗り込んで行った。
公務執行妨害の容疑で逮捕状が出されたのは何故か9月8日午前0時55分頃であり、漁船の船内で逮捕が執行されたのは9月8日2:00過ぎだった。

9月24日、那覇地検は支那人船長を処分保留のまま釈放を決定した。
支那人船長は事実上の無罪放免となり、支那で英雄となった。

ちなみに、10:56に「みずき」が漁船に体当たりされてから13:00前に「みずき」が漁船を停船させ接舷して海保職員が乗り込むまでの約2時間と、13:00頃に海保職員が漁船に乗り込んでから26:00過ぎに逮捕するまでの約13時間の合計約15時間に、いったい何があったのかは、政府がビデオを隠蔽したままなので未だに不明。
海保は、体当たりシーンだけだがビデオ映像の一部をYou Tubeで公開した海上保安官(sengoku38)を懲戒処分(停職処分)とする方針を固めた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101221-00000036-jij-soci
保安官を停職処分へ=辞職見通し、海保が最終調整―長官も懲戒・尖閣映像流出
時事通信 12月21日(火)11時9分配信
沖縄・尖閣諸島沖の中国漁船衝突の映像流出事件で、海上保安庁は21日までに、映像を流出させたと認めた神戸海上保安部の海上保安官(43)を停職処分とする方針を固め、関係当局の了解を求める方向で最終調整に入った。保安官は辞職届を提出しており、処分を受け辞職する見通し。
鈴木久泰・同庁長官については、監督責任や情報管理不備の責任を問い、馬淵澄夫国土交通相が懲戒処分とする。「減給」や「戒告」で調整されている。
同庁は、映像を海保関係者が閲覧できる状態に誤って放置していた海上保安大学校の職員や、所属長級の上司らも処分する方針。保安官の国家公務員法(守秘義務)違反容疑での書類送検を受け、一斉に処分する。
2010年12月20日には裁判員裁判でも不当判決!
2010年3月2日に同僚のラーメン店店員に暴行を加えて階段から転落死させた支那人の張永赫被告(40)に傷害致死罪の成立を認めず、暴行罪にとどまるとして、たったの罰金15万円(求刑懲役5年)の判決を言い渡した。
http://www.asahi.com/national/jiji/JJT201012200093.html
以上のように、支那人は、いくら日本で凶悪な犯行に及んでも、殆ど罪らしい罪に問われない。
「不当判決だ!」
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本日は「昭和の日」だ。
日本が戦後、奇跡と呼ばれる復興をなしえた1つの要因は、全国ご巡幸で国民を励まされた先帝陛下(昭和天皇)を中心に、日本が結束を保ったことだった。
私たち日本人が語り継いでいかなければならない陛下の行幸などについて紹介する。
まだ読んでいない方は勿論だが、既に読んだことがある方も、「昭和の日」に読んで頂ければ幸いだ。
マッカーサーを感動させた昭和天皇の言葉
「…(終戦時において)陛下に対する占領軍としての料理の仕方は、四つありました。
一つは東京裁判に引き出し、これを絞首刑にする。
一つは共産党をおだてあげ、人民裁判の名においてこれを血祭りにあげる。
三番目は、中国へ亡命させて中国で殺す。そうでなければ、二〇個師団の兵力に相当するかと怯えた彼らです。
また第四番目は、闇から闇へ、一服もることによって陛下を葬り去ることでありました。
いずれにしても、陛下は殺される運命にあったのです。
天皇は馬鹿か、気狂いか、偉大なる聖者か、いつでもつかまえられる。
かつては一万八〇〇〇人の近衛師団に守られたかもしれないが、今や全くの護衛を持たずして、二重橋の向こうにいる。…
陛下の割腹自刃の計画は、三度ありました。
貞明(皇太后)様は、(侍従に、)陛下から目を離さんように命じました。
じつに一番悩まれたのは、陛下でありましたでしょう。
九月二七日、陛下がただ一人の通訳を連れて、マッカーサーの前に立たれたことは、皆様方もよくご承知の通りであります。
ついに天皇をつかまえるべき時が来た。
マッカーサーは、二個師団の兵力の待機を命じました。
マッカーサーは、陛下は命乞いに来られたものと勘違いし、傲慢不遜にもマドロスパイプを口にくわえて、ソファーから立とうともしなかった。
陛下は直立不動のままで、国際儀礼としてのご挨拶を終え、こう言われました。
『日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命においてすべてが行なわれました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されても、いつでも応ずるだけの覚悟はあります』
――弱ったのは通訳でした。その通り訳していいのか
――しかし陛下は続けました。
『しかしながら、罪なき八〇〇〇万の国民が、住むに家なく、着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えんものがあります。温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますように』
天皇は、やれ軍閥が悪い、やれ財界が悪いと言う中で、一切の責任はこの私にあります、絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処せられても…と淡々として申された。
このような態度を見せられたのは、われらが天皇ただ一人であったのです。
陛下は我々を裏切らなかった。
マッカーサーは驚いて、スクッと立ち上がり、今度は陛下を抱くようにして座らせました。
そして部下に、「陛下は興奮しておいでのようだから、おコーヒーをさしあげるように」と。
マッカーサーは今度は一臣下のごとく、直立不動で陛下の前に立ち、
「天皇とはこのようなものでありましたか!天皇とはこのようなものでありましたか!私も、日本人に生まれたかったです。陛下、ご不自由でございましょう。私に出来ますることがあれば、何なりとお申しつけ下さい」
と。
陛下は、再びスクッと立たれ、涙をポロポロと流し、
「命をかけて、閣下のお袖にすがっておりまする。この私に何の望みがありましょうか。重ねて国民の衣食住の点のみにご高配を賜りますように」
と。
そののちマッカーサーは、陛下を玄関(ホール)まで伴い、見送ったのです。
皆様方、日本は八〇〇〇万人と言いました。
どう計算しても八〇〇〇万はおらなかったでしょう。
いかがです?
一億の民から朝鮮半島と台湾、樺太をはじめ、すべてを差し引いて、どうして八千万でしょうか。
じつは六六〇〇万人しかいなかったのです。
それをあえて、マッカーサーは、八〇〇〇万として食糧をごまかして取ってくれました。
つまりマッカーサーは、いわゆる、陛下のご人徳にふれたのです。
米国大統領からは、日本に一〇〇〇万の餓死者を出すべしと、マッカーサーに命令が来ておったのです。
ただ一言、マッカーサーは、
『陛下は磁石だ。私の心を吸いつけた』
と言いました。
彼は陛下のために、食糧放出を八〇〇〇万人の計算で出してくれました。
それが後で、ばれてしまいます。
彼が解任された最大の理由はそれであったというのが、事の真相です。
貞明皇太后の前で泣いた昭和天皇
また、さらにご立派であったのは、貞明皇太后でした。
母君の貞明様は、亡くなるまで防空壕の中で生涯を送り、雨漏りのする、そして皆様方、貞明様は法華経の信者でしたから、戦死者のお名前を一〇人ずつ書きながら、法華経をあげて生涯を送られたのです。
その貞明様が、皇霊殿に陛下をお招きになりました。
皇霊殿は高いので、東京の市中が見えるのであります。
焼けただれ、一日千秋の思いでわが子の復員を待つ年寄りたちの姿も、見えるのであります。
貞明様は陛下にそれをお見せになり、
「陛下、国民は陛下のご不徳によって、このように苦しんでおります。この国を一日も早う復興しようと召されず、お腹をおめしになろう(切腹しよう)などとはご卑怯ではありませんか。退位は絶対になりません!」
陛下は、母君の前で頭を垂れて泣かれたそうです。
どうしたらいいのかと。
陛下の万歳を叫んで死んでいった護国の英霊の労苦を労いなさい、遺族の労苦を労いなさい、産業戦士の労苦を労いなさい――これが、後の陛下の行幸(外出)になったのでした。
最初の地は広島でした。
原爆の地、広島でした。
共産党の腕利きが、今こそ「戦争の元凶である裕仁に対して恨みを報いようではないか」とビラをまき、宣伝カーで叫んでいました。
しかし、陛下は一兵の護衛をも持たず、ツギのあたった背広をお召しになり、中折れ帽をかぶって、広島の駅頭に立たれたことは、われらの記憶に新しいところであります。
むしろ陛下がおいたわしかった。
「万歳、万歳」の歓呼をもって迎えられました。
言えばやはり記録に残りましょうから、その県名と市名はもうしませんが、北陸のある所(福井市)においては共産党が、「朕はたらふく飯を食う。汝臣民飢えて死ね」とプラカードを仕立て、二〇〇〇名のデモ行進をやっていました。
「陛下、お逃げなさい」
しかし陛下は、「私に面会を申し込んでいる限り、私が会いましょう」 と言って、皆の前に頭を下げられました。
「皆様方が私を打擲することによって心が癒えるならば、ごずいにめされたがいい。でも日本の国を一日も早う復興し、次の子孫へこの国を送り得てこそ、はじめて護国の英霊に対し、我々が報いる道ではなかろうか」
と陛下は申されたのでした――はっきり言ったほうが良かったのかも知れませんが、場所を。
陛下に向かっての発砲もありました。
八二歳のある老婆が犠牲になったことも、中国地方の一角でありました(広島で、陛下をねらった弾がはずれて老婆に当たった事件)。
陛下の行幸は、そういう中に続いたのであります。…」
歩一〇四記念講演特集号より
マッカーサーおよび侍従長の証言
以上が、三上教授の講演の言葉である。
この講演にも出てきた一九四五年九月二七日の天皇とマッカーサーの会見については、辻井圭三氏(キリスト伝道会「活水の群」副理事長)も、こう書いている。
「この件については、第二回目の通訳をされた、内閣情報局総裁であり戦後外務次官も務められた奥村勝蔵氏を通じて、私は詳しく伺いました」
そして、三上教授の言っている通りであると述べている。
実際マッカーサー自身が、のちに回顧録の中で次のように書いたのである。
「天皇の話はこうだった。
『私は、戦争を遂行するにあたって日本国民が政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対して、責任を負うべき唯一人の者です。あなたが代表する連合国の裁定に、私自身を委ねるためにここに来ました』
――大きな感動が私をゆさぶった。
死をともなう責任、それも私の知る限り、明らかに天皇に帰すべきでない責任を、進んで引き受けようとする態度に私は激しい感動をおぼえた。私は、すぐ前にいる天皇が、一人の人間としても日本で最高の紳士であると思った」
(マッカーサー回顧録一九六三年)
天皇とマッカーサーの会見は、はじめ一五分の予定だった。
しかし、マッカーサーは天皇の態度に深い感銘を受け、会見は三五分にも及んだのである。
会見がなされると、その会見の要旨は後ほど通訳の手で文書にまとめられ、侍従長に渡される習慣になっていた。
会見の翌日、藤田侍従長は、会見における天皇の発言の要旨を文書にまとめたものを、通訳から受け取った。
藤田氏は、いつものようにそれに目を通したうえで、天皇のもとに提出した。
藤田氏はこのとき、メモをとらなかった。
しかし彼はのちに、その内容について二つの点をはっきり憶えていると言って、次のように著書の中に書いている。
「…陛下は、次の意味のことをマッカーサー元帥に伝えられている。
『敗戦に至った戦争の、いろいろな責任が追求されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命する所だから、彼らには責任がない。
私の一身はどうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい』
一身を捨てて国民に殉ずるお覚悟を披瀝になると、この天真の流露は、マッカーサー元帥を強く感動させたようだ。
『かつて、戦い破れた国の元首で、このような言葉を述べられたことは、世界の歴史にも前例のないことと思う。私は陛下に感謝申したい。占領軍の進駐が事なく終わったのも、日本軍の復員が順調に進行しているのも、これすべて陛下のお力添えである。これからの占領政策の遂行にも、陛下のお力を乞わなければならぬことは多い。どうか、よろしくお願い致したい』」
とマッカーサーは言った(藤田尚徳『侍従長の回想』昭和三六年)。
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