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Nスペ「日本人はなぜ戦争へと向かったのか」第1回“外交敗戦”孤立への道・なぜ関東軍は満州事変を起こし、日本は満州国の独立を承認したのか説明なし・「熱河作戦」や所謂「北支分離」の背景も説明なし
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2011.1.9Nスペ\110109_a日本人はなぜ戦争へと向かったのか 第1回“外交敗戦”孤立への道
NHKスペシャル「日本人はなぜ戦争へと向かったのか」

http://www.nhk.or.jp/special/onair/110109.html

NHKスペシャル
日本人はなぜ戦争へと向かったのか
第1回“外交敗戦”孤立への道

1月9日(日) 午後9時30分~10時19分




サッカーAFCアジアカップとも一部重なってしまったが、私は使命だと思って最初からこっちの番組を見た。

ツッコミ所は幾つかあった。

しかし、一昨年のNHKスペシャル「シリーズ・JAPANデビュー」や、昨年のNHKスペシャル シリーズ「日本と朝鮮半島」と比べると、NHKの反日度がパワーダウンしているように感じた。

昨年までのような露骨な捏造や偽造は少なかったと思うが、それでも番組に対して問題点を指摘しておく。



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支那の反日集会の映像を流しながら、ナレーション(松平)
9NHKスペシャル日本人はなぜ戦争へと向かったのか 第1回“外交敗戦”孤立への道
2010年9月18日、瀋陽で行われた反日集会

ナレーション
今なお日本に突き付けられる憎悪と不信。

満州事変は、世界と日本の関係を決定的に変えた大事件でした。


9NHKスペシャル日本人はなぜ戦争へと向かったのか 第1回“外交敗戦”孤立への道 満州事変

1931年9月18日、瀋陽郊外の柳条湖で日本の経営する南満州鉄道の線路が爆破されました。

これを中国側の仕業として関東軍は武力による攻撃を開始。

5か月でほぼ満州全域を制圧し、翌年には傀儡国家の満州国を独立させました。


NHKスペシャル日本人はなぜ戦争へと向かったのか 第1回“外交敗戦”孤立への道 満州事変
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上の映像とナレーションだけだと、全て日本が悪かったように思える。

NHKは、満州事変に至る過程や背景などを全く説明しなかった。

日本は、日露戦争の結果、1905年にロシアと締結したポーツマス条約や清国と締結した北京条約などにより、満州において関東州の租借地(遼東半島)と南満州鉄道などの権益を獲得していたが、それを張学良らによって侵害されていた背景を全く説明しなかった。

また、張作霖、張学良親子は、武装盗賊の頭領として、強盗殺人をやりたい放題し、特に朝鮮人(当時は日本臣民)を虐待した。


清国衰弱と共に満州には多くの中国人が流入し、日本の後援を受けた張作霖が独立国とした(張作霖、張学良が満州の民衆を搾取していた実態や、張作霖の度重なる危機を関東軍が救った話は古野直也氏著の近著「張家三代の興亡」が好著である)。
 張作霖父子は中国征服に乗り出し、20年先の税金まで一般人から取り、日本や朝鮮人にも法外な税金を徴収したり、土地、会社などを没収したりしたので日本に対する忘恩行為と言われたが、特に朝鮮人は虐待された。
(略)
 当時、朝鮮人は日本人だったが、(張作霖父子は、朝鮮人の)日本人としての権益を認めず、朝鮮語、朝鮮服の使用を禁止したり、朝鮮学校の没収を行い、帰化を強制し、あげくには帰化朝鮮人まで追放し、殺害、略奪の対象になった。

『ノモンハン事件の真相と戦果――ソ連軍撃破の記録』小田洋太郎・田端元著



このような背景があったからこそ、関東軍(1万人の警察)は張学良率いる武装盗賊(30万人)の追放に動いたのだ。

にもかかわらず、NHKはこのような背景を全く説明することなく、冒頭から

―――――
1931年9月18日、瀋陽郊外の柳条湖で日本の経営する南満州鉄道の線路が爆破されました。
これを中国側の仕業として関東軍は武力による攻撃を開始。
5か月でほぼ満州全域を制圧し、翌年には傀儡国家の満州国を独立させました。
―――――

とナレーションで述べた。

これでは一般の視聴者は、「日本は満州で悪い事をしたんだなー」と思うしかない。







また、その後番組は、
―――――――
リットン調査団の報告は、満州国を認めず、日本に厳しい内容だったと思われているが、満州の国際管理を提案し、日本に配慮していた。
しかし、日本政府は、国内世論によって満州の国際管理とイギリスの提案すら受け入れなかった。
―――――――

と主張していた。

NHKスペシャル日本人はなぜ戦争へと向かったのか 第1回“外交敗戦”孤立への道 満州の国際管理


ここでも、NHKには大きな手落ちがある。

番組では、満州国民(満州人やモンゴル人など)の独立の意思を全く説明していない。

満州とモンゴルでは、辛亥革命以後20年間に亘り、満州人やモンゴル人たちによって独立運動が行われていた。

さらに、満州やモンゴルに居た満州人やモンゴル人だけではなく、満州に居た支那人やロシア人なども、張学良の支配ではなく日本による支配を望んでいた。


当時の満州住民が日本の武力による張学良(武装盗賊)追放を歓迎し、日本による支配を望んでいたことは、ニューヨークタイムズの報道やリットン報告書など多数の資料がある。

●関連記事
満州住民は、支那人も蒙古人も朝鮮人もロシア人もその他外国人も、日本の支配を希望・歓迎・支持!
【満州事変】(新聞記事はから満州事変における日本の行動が支持されていたことが判る)
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/7093534.html



日本は以上のことも承知していたから満州国を承認したのであり、長年に亘る満州人やモンゴル人たちの独立運動や当時の満州住民らの要望を無視して独立国家を認めず国際管理にすることは困難だった。

―――――――――――
【年表】
満蒙独立運動、復辟運動、張作霖の独立宣言、満州事変、満州国建国

●1911年、辛亥革命が起こる

●1912年
1月、支那独立(中華民国成立)宣言
モンゴルやチベットなど諸民族も独立宣言
2月2日、清朝の皇族・粛親王、川島浪速らの手で北京を脱出、旅順に保護【第一次満蒙独立運動】

●1916年、モンゴル馬賊の巴布札布(パプチャップ)が日本軍部や旧清朝の粛親王の後押しを得て軍事行動【第二次満蒙独立運動】

●1917年
4月30日、張作霖が国民政府から独立を宣言
7月1日、張勲が北京で宣統帝の復辟を宣言。康有為らが参加

●1922年5月12日、張作霖が東三省の独立を宣言

●1924年11月29日、溥儀が日本公使館に移る

●1925年2月23日、溥儀が北京の日本公使館を出て天津の日本租界に移る。復辟をめざす鄭孝胥や羅振玉らが側近となる

●1927年
3月24日、南京暴動(第一次南京事件)
7月25日、張作霖が満鉄併行線敷設禁止協定を無視して満鉄併行線を建設。米国は張作霖に資本提供

●1928年
5月3日、済南事件。北伐軍が山東省済南市に入城、邦人経営商店での略奪行為をきっかけに日本軍と衝突。日本の被害は、戦死9名、負傷32名、居留民の惨殺14名、暴行侮辱30名余、奪被害戸数136戸、被害人員約400
6月4日、張作霖が爆殺される
7月、支那兵たちの一団により東陵(清朝代々の皇帝の墳墓)が爆破・盗掘される。溥儀は国民政府に抗議

●1931年
6月27日、満州で中村大尉殺害事件。満州を地理調査中の中村大尉が行方不明になり、やがて支那人部隊に殺害されたと判明
7月2日、万宝山事件。満州の長春の北にある万宝山で朝鮮人農民(日本国籍)が支那人農民に襲撃されたため、朝鮮の各都市で朝鮮人が支那人を大虐殺。
排日運動がさらに激化
米国は張学良に兵器工場建設を援助

★9月18日、柳条湖事件(満州事変勃発)
関東軍が張学良軍を追放
遼寧省、吉林省、黒龍江省、コロンバイル等は独立を宣言
満州各地の代表が溥儀に出馬要請
11月10日、溥儀、天津を出発

●1932年3月1日、満州国建国宣言。首都:新京(長春を改称)
溥儀、満州国の執政(国家元首)に就任
9月15日、日本が満州国を承認

●1933年5月31日、「塘沽協定」締結。蒋介石の国民党政権が満州事変の終結と満州国の成立を認めた

●1934年3月、溥儀、満州国の皇帝に即位
―――――――――――







次に、番組は、満州事変後に日本が行った「熱河作戦」や「華北分離」を非難した。

NHKスペシャル日本人はなぜ戦争へと向かったのか 第1回“外交敗戦”孤立への道 熱河作戦

NHKスペシャル日本人はなぜ戦争へと向かったのか 第1回“外交敗戦”孤立への道 北支分離


しかし、ここでもNHKは、支那の満州再侵略については全く説明しなかった。

とにかくNHKは、支那が行った条約違反や権益侵害や満州再侵略などについては全く説明しなかった

「熱河作戦」やいわゆる「北支分離」(梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定、冀東防共自治政府設立等)に関しては、以前のブログ記事があるので再掲しておく。


――――――――――――――
中国の満州侵犯と熱河作戦
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/26788294.html

(一部抜粋)


 遼寧省、吉林省、黒龍江省、コロンバイルなどは独立宣言をしましたが、その他の地域は手つかずで残っています。
 最初、日本は中国東北辺防軍のいる錦州は攻撃しませんでした。それは、政府が中国と全面戦争になることを恐れていたからです。

 関東軍は馬賊の討伐もやっていますので、これを追撃すると錦州に逃げ込みます。関東軍が手を出せないので、錦州が馬賊の聖域となっていました。そしてこの馬賊は中国東北辺防軍の別働隊でもあったのです。

 また錦州政権の存在は関東軍占領下の小軍閥の動きにも影響を与えていました。そこで、関東軍は錦州を何とかしなければと考え、錦州を爆撃する事にしたのです。といっても爆撃機ではなく偵察機で、しかも人が手でもって落とすだけですけど。

 従って、たかが知れています。では何でそんな事をしたのかというと、目的は軍事効果ではなく、それによって、お目出度い政治家の頭を吹き飛ばす事にあったのです。

 後に日本は交渉で張学良軍を山海関の外に移動させます。しかし、これで、満州国が安定したわけではありません。

 昭和7年7月17日午後1時ごろ、満州熱河省の北票から遼寧省の錦州に向かう列車が両省の境に近い南領~朝陽寺間にさしかかった所、一隊の武装兵が停車を命じ、乗っていた関東軍嘱託の石本権四郎を拉致しました。

 犯人は匪賊的に行動している抗日義勇軍の一部です。
 熱河省は満州の一部ですが、まだ関東軍の手はついていません。

 満州を追われた張学良は、4万の義勇軍を熱河に送り込み反満抗日の拠点にしていたのです。
 そのため関東軍はこれをも一掃せざるを得なくなりました。

 結局、熱河省も制圧しない事にはどうしようもないと判ったからです。関東軍は昭和8年熱河作戦を行い、結果、本来、満州の領域である熱河省の回収にも成功することになります。

 この作戦では、最初、関東軍の武藤司令官は長城越えを禁じていました。ところが、中国軍が南から熱河奪還作戦を行うものですから、結局、長城の南にも行かざるを得なくなったのです。

 その時、関東軍は、天津・北平(北京)に迫る勢いを見せました。これは不都合ですからやめさせなければなりません。長城の北だけなら満州国の防衛と主張できますが、南に行くとその理屈が通らなくなります。

 外国から見ると侵略に見えます。だから止めなければなりません。ところが現場がなかなか止まりません。というのは中国兵を南に追いやっても、関東軍が引っ込むと、また戻って来るからです。だから"もっと遠くへ"とやっている内に、こうなったのです。しかしこれでは際限がありません。

 そこで"中国軍が二度と満州を侵略できないようにと《北京北方から密雲以東、長城線から約五~六十キロの深さの河北省》を非武装地帯にする"という 塘沽停戦協定を中国と結んで、関東軍は長城の北に引き揚げました。

 これにて、満州事変は終了します。

 しかし中国側は納まりません。つねに満州再侵略を試み、また中国国内での排日運動を激化させます。


――――――――――――――
塘沽協定から冀察委員会まで
「梅津・何応欽協定」→「土肥原・秦徳純協定」→冀東防共自治政府設立
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/26821643.html


 停戦協定が結ばれたからといって、ハイそうですか、と引き下がる中国ではありません。

執拗に満州再侵略と非武装地帯侵犯をくりかえします。

 1934年(昭和9年)11月 宋哲元の部下の馮治安の部隊が突如、熱河省を侵犯し、大灘西方20キロの断木梁という部落に進出して来ました。

そこで怒った関東軍が、どこまでも追撃し宋哲元の本拠地近くまで迫ったのです。

 困った宋哲元は、天津軍司令官梅津少将の所に泣きつき、天津軍のとりなしでやっと関東軍は追撃を止め引き返しました。

 1935年5月3日、天津の日本租界で、国権報の社長胡恩傳と振報社の社長白逾桓の二人の親日分子が白昼何者かに襲撃され、命を落とす事件がありました。

これについては、米公使ジョンソンは北京憲兵の関与と言っています。

 また塘沽協定で設けられた緩衝地帯には、いつのまにか匪賊がはびこり、彼らは「抗日義勇軍」を名乗って、5月24日、長城を越え熱河を侵犯しました。

これもどうやら河北省主席である第51軍長于学忠が後で糸を引いていたようです。

 便衣隊の侵入、共産党の策動などで、河北は物情騒然となって来ました。

 天津軍の任務は本来《北京・山海関間の鉄道の保全、並びにこの間に居住する居留民の保護》だったのですが、現状ではこの任務も危うくなります。

 そこで「こんな事では困る!」と短気な酒井参謀長は、華北粛清対策案を起案紙に一気呵成なぐり書きしました。

    通告

一、最近華北に頻発しつつある排日・侮日の諸現象は、方(ひと)しく塘沽協定の破壊行為たると共に、また北清議定書の精神を蹂躪するものなり、我が方はこれを明確なる対日挑戦行動と認め、条約上の権限に基づき、今後自衛上必要と信ずる行動に出るある事を通告す。

二、これを未然に解決せんが為、左記各項の即時実行を要求す。

 イ、軍事委員会北京分会、憲兵第3団、国民党本部、政治訓練所、藍衣社等の一律撤去。

 ロ、黄杰の第2師、関麟徴の第25師等、中央直系諸軍の華北撤退。

 ハ、河北省政府主席于学忠、憲兵第3団長蒋孝先、藍衣社主任劉一飛等の罷免ないし処罰。

 ニ、排日侮日行為徹底取締りの確約 

 以上

というものです。

そして、これを北京の何応欽の所に持って行き、談判して呑ましたのが、梅津・何応欽協定です。


 その次に、中国軍の熱河侵犯があまりにも執拗なため、6月28日、土肥原少将は断木梁侵犯なんか絶対に出来ない様にと、新たに《京綏鉄道以北の察哈爾省内に非武装地帯を設定する》という協定を秦徳純に結ばせました。

これが、いわゆる土肥原・秦徳純協定です。


 中国は屈辱的な協定を耐えて飲みますが、それで大人しくしているわけではありません。
 次の手段として、幣制改革を打ち出しました。

 これは中国の通貨を英国の通貨にリンクさせ、英国の経済と一体化させて、日本の影響力を排除しようというものです。

これが成功し北支が経済的に国民政府のコントロール下に入れば、北支に交易の基礎を置く満州国は、重大な経済的脅威にさらされます。

 危機を感得した、関東軍と支那駐屯軍は、「北支を南京より経済的に分離するしかない」と考え分離工作を始めました。
 そこで11月25日、土肥原少将は殷汝耕を長官とする冀東防共自治政府を成立させたのです。

 また土肥原少将は、宋哲元に独立政権を樹立させようと、日夜腐心していましたが、南京行政院は、そうはさせじと先手を打って12月11日に冀察政務委員会設置法案を満場一致で可決し、その委員長に宋哲元を任命しました。

 (幣制改革を除く大部分 寺平忠輔著『盧溝橋事件』読売新聞社刊 昭和45年発行より引用)

 (幣制改革の部分は児島襄著『日中戦争』より引用)


 梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定、冀東防共自治政府設立等、これらの一連の行為を日本の華北侵略と言う人もいます。

が、そうせざるを得ない様に仕向けたのは中国です。

 別に日本は侵略したくてそうしたわけではありません。

 中国が執拗に満州を再侵略し、テロで北支の治安を乱し、意図的に日本が困るようなことを企むものだから日本が自衛策をとっただけです。

中国が最初から友好的な態度をとっていれば起こらなかった事です。

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