9月5日(日)の昼前に放送されたテレビ朝日「サンデー・フロントライン 」を見た。
民主党の代表選の話題の後、大谷昭宏が沖縄の普天間飛行場について特集をやっていた。
サンデー・フロントライン
■特集フロントライン
クリアゾーンに住む人々
~“沖縄基地”解決への大谷提言~
8月31日にまとめられた普天間基地専門家協議の報告書は、
いわゆる現行案の「V字案」と、新たに日本側が主張した「I字案」を併記する
“玉虫色”のものだった。
辺野古への移設を既成事実化することへの地元・沖縄の反発は強く、
決着のメドは全く立たないのが実情だ。
事故の約75%(※1)を占める滑走路周辺地域“クリアゾーン”には、
小学校や病院などがあり、3600人余りの市民が暮らしており、
街のど真ん中にある普天間基地は、「世界一危険」と言われている。
沖縄入りしたジャーナリストの大谷昭宏さんはいう。
「クリアゾーンに住む人たちに国が移転補償をし、
まずこの危険な状況を取り除くべきだ。そして普天間基地をはじめとする
沖縄の基地問題をアメリカと粘り強く交渉していくべきではないか」。
一方、地元・宜野湾市の伊波市長は
「危険除去はアメリカと日本政府がすべきことで、
普天間飛行場の滑走路を短くすればいいだけの話だ」と主張する。
「迷走する普天間基地問題」の解決への道はあるのか。
これまで論議されたことのないクリアゾーン問題。基地問題の本質を問う。
(出演)
伊波 洋一 (沖縄・宜野湾市長)
(取材)
大谷 昭宏(ジャーナリスト)
~“沖縄基地”解決への大谷提言~というのは、要するに、普天間飛行場がいつ移転するかの問題は別にして、まずは隣接する「普天間第二小学校」を国の補償で安全な場所に移転させるべきであり、政府は「普天間第二小学校」の移転のために金を出せ!ということだった。
このコーナーの重要部分の流れをざっと紹介すると次のとおり。
――――――――――――
沖縄国際大学へのヘリコプター墜落事件があった。
それ以前にも宜野湾市立普天間第二小学校の近くでヘリ墜落があった。
1980年代に普天間第二小学校の移転が検討された。
ところが、革新系の団体などから小学校移転に反対の声があがった。
「絶対移転には反対だ。」
「小学校移転を認めると基地の固定化に繋がる。」
「どこに行っても危険と騒音からは逃れられない。それよりは学校に相応しい十分な面積を米軍は開放すべきだ。」
「“普天間第二小学校の跡地を米に提供する。”と書いていた。」
1992年にPTAは移転決議を取り下げる。
最大の理由は、小学校移転反対派ではなく、実は日本政府の対応にあった。
PTAや宜野湾市などは小学校の移転費用を防衛庁などに求めていたが、基地の危険性を補償対象にする法律はないと門前払いされたという。
移転用地の購入や造成などにかかる費用はおよそ50億円。
市単独ではとてもねん出できない金額で断念せざるをなかったのだ。
「国から見れば30億円、50億円は大したお金じゃないのに。」
国は、嘉手納の移転補償は、「危険」のためではなく「騒音」のためだから補償した。(不公平だ)
国の補償があれば普天間基地周辺の学校なども移転したい。
住民も国なり県なりの補償があれば移転したい。
しかし、中には移転そのものに強い抵抗もある。
「もともと普天間飛行場なんてのは、『来て下さい!』と呼んだわけではない。」
「勝手に米軍が接収をして住んでいる人達を追い出して、『あんた方よそへ行け!』と言われた」
1945年アメリカ軍は本土への爆撃のため、民有地を接収し、普天間基地を建設した。
1945年
土地を奪われた人々、終戦後、やむなく基地の周辺に居住。
その後、基地の周りは人口増加に伴い、自然に市街地化していった。
1973年
宜野湾市の3割以上は基地が占め、住める場所が限られていたためだ。
――――――――――――
しかし、この番組は、酷い嘘だらけだ。
戦前、飛行場が建設される前のこの地域にはいくつかの泉が存在し、それらを水源に畑作が営まれる丘陵地だった。
普天間飛行場が出来たのは、1945年だ。
1953年には滑走路が延長されたが、その頃にも普天間飛行場の周辺には殆ど何もなかった。
普天間飛行場の周辺に人口が増え始めたのは、宜野湾村が市になった1962年頃からであり、有名な普天間第二小学校が建設・開校したのも1969年だ。
それでも、翌1970年の写真を見ても判るように、普天間飛行場の周辺には、まだ殆ど家などはなかった。
現在、普天間飛行場の周辺にある住宅や学校や会社などの殆どは、最初に普天間飛行場が出来てから25年以上経った後につくられたのであり、テロ朝の「サンデー・フロントライン」が放送したように「普天間飛行場の場所に住んでいた多くの人々が追い出され、土地を奪われた人々が終戦後やむなく基地の周辺に居住した。」ではない。
それなのに、この番組は、あたかも現在普天間飛行場周辺に住んでいる人々が米軍に追い出されたために基地の周辺に居住しているかの如く放送していた。
また、そのことを、1945年と1973年の普天間飛行場周辺の航空写真を放映して演出していた。
しかし、1973年は、1945年に基地が出来た後に約30年も経ってようやく市街地化した頃なのだ。
酷いインチキ番組なので、テロ朝(03-6406-5555)に電凸した。
――――――――――
俺
「サンデー・フロントライン 」について意見を述べたいです。
テロ朝(男)
はい、どうぞ。
俺
沖縄の普天間飛行場のことをやっていたのですが、宜野湾市の自治会の人が出てきて、「もともと普天間飛行場なんてのは、『来て下さい!』と呼んだわけではない。」、「勝手に米軍が接収をして住んでいる人達を追い出して、『あんた方よそへ行け!』と言われた」などと言っていました。
普天間飛行場のある場所には、戦前はいくつかの泉と畑のあった丘陵地で人は殆ど住んでいませんでした。
もしかしたら誰も住んでいなかったかもしれませんし、もし住んでいた人が居たとしてもごく少人数でした。
テロ朝
そうなんですか。
俺
そうです。
番組では、1945年の写真を何枚か放映し、その中に普天間飛行場周辺の航空写真もありました。
その後番組は、住宅などが出来て市街地化し始めた頃の1973年の航空写真を放映しました。
そして、ナレーションで、「1945年アメリカ軍は本土への爆撃のため、民有地を接収し、普天間基地を建設した。 土地を奪われた人々、終戦後、やむなく基地の周辺に居住。その後、基地の周りは人口増加に伴い、自然に市街地化していった。宜野湾市の3割以上は基地が占め、住める場所が限られていたためだ。」と言っていました。
しかし、事実に反します。
いったい、戦前、1945年以前に、今の普天間飛行場のある場所に住んでいた人は何人いたのですか?
テロ朝
はい・・・
俺
番組であんな放送をするなら、1945年以前に、今の普天間飛行場のある場所に住んでいた人達の人数くらい調べて言わなければなりません。
番組では1973年の写真を放映していたましたが、1970年の写真があってそれを見ると1970年から1973年にかけても建物が増加していることが分かります。
さらに、最近の写真を見ると、1973年以降もかなり建物が増えたことが分かります。
このような写真が意味することは、現在、普天間飛行場の周辺に密集している建物は、戦後何十年もたってから、住民の方から普天間飛行場の周辺に移り住んで来たという事実です。
番組では、宜野湾市立普天間第二小学校のことを中心に取り上げていましたが、普天間第二小学校が建設・開校したのも1969年だったのですから、普天間第二小学校もやはり宜野湾市が普天間基地が出来た24年後に普天間基地に隣接する場所にわざわざ作ったのです。
番組では、1980年代に普天間第二小学校を移転させようとした時に、防衛庁が50億円の補助金を出さなかったと批判していましたが、そんなものに補助金を出したら、それこそ税金の無駄使いです。
テロ朝
そうですか。
分かりました。
俺
沖縄国際大学も普天間第二小学校も、普天間基地が出来た何十年も後になって、わざわざ普天間基地のすぐ近くに建てたこと。
その他の住民なども同じであること。
その後に危険だと思ったからといって、何でもかんでも国に補償させようというのは大間違い。
「サンデー・フロントライン 」の内容は本当に酷かったです。
もう、こんなふざけた番組は作らないでください。
テロ朝
はい。
伝えます。
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「テロ朝は出鱈目な番組をつくるな!」
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