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支那の水害情報と黄河決壊事件・蒋介石が日本軍の進軍を阻止するため黄河と揚子江の堤防を破壊・死者数は89万人~100万人(河南省だけの犯人の報告で32万人)・支那事変で支那住民を殺しまくった支那軍と、懸命に救助した日本軍の代表的事件
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0622_010写真は福建省南平市内の将口鎮で撮影。多くの民家が濁流につかった。.
写真は福建省南平市内の将口鎮で撮影。多くの民家が濁流につかった。

支那の水害による被害人口2900万人、死者は211人
http://japanese.cri.cn/881/2010/06/23/181s160274.htm

中国南部の水害による被害人口、2900万人
2010-06-23 19:33:26 cri

 中国民政省によりますと、23日午後4時まで、洪水に見舞われた浙江、福建、江西、湖南、広西など10の省と自治区では被災者が2939万人、死者は211人となり、80万軒の家屋が倒壊しました。

 関係部門は240万人を緊急避難させました。

 22日までに、中央財政機関は被災地域に2億5300万元の緊急救済資金を拠出し、民政省も、被災地区に作業グループを派遣し、テントなどの救済物資を調達しています。




支那では南部の広い地域で、大雨による被害が続いている。

大雨の影響で江西省では主要河川のひとつ、撫河が22日未明までに同省撫州市内で決壊。午前7時ごろまでに堤防が約400メートルにわたり崩れた。

支那では1998年、全国規模で大水害が発生したが、江西省などでは、被害は1998年以上に拡大しつつあるという。

6月22日付サーチナは、次に示すように、『中国では1998年、全国規模で「史上最悪」とされた大水害が発生したが、…』と述べているが、これは真っ赤な嘘だ!

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100622-00000024-scn-cn
中国南部の「雨魔」依然として猛威、水につかる民家=福建
6月22日11時30分配信 サーチナ
(一部抜粋)
 大雨の影響で江西省では主要河川のひとつ、撫河が22日未明までに同省撫州市内で決壊。午前7時ごろまでに堤防が約400メートルにわたり崩れた。中国では1998年、全国規模で「史上最悪」とされた大水害が発生したが、江西省などでは、被害は1998年以上に拡大しつつあるという。




今から、72年前の6月にも、支那で大水害があったことをご存知だろうか。

1998年に全国規模の発生した所謂「史上最悪」の大水害による死者は約3000人、今回の水害による死者は現在のところ211人だが、72年前1938年の水害では、死者は河南省だけの少ない見積もりでも32万人、記録によれば89万人とも100万人とも言われている。

しかも、驚くことに、72年前の大水害は自然災害ではなく、支那軍が人為的に行った人的災害だった。

72年前の1938年といえば支那事変の真っ最中だが、当時、支那大陸では、支那軍が様々なことをして支那民衆を大量に殺しまくっており、日本軍はそんな支那民衆の救助に追われていた。


その1938年の大水害は「黄河決壊事件」と呼ばれ、当時、支那民衆を大量に殺しまくっていた支那軍と、そんな支那民衆を救助しまくっていた日本軍の代表的な出来事として、支那事変について勉強している人なら知っている大事件だ。

どうして、この「黄河決壊事件」のことが歴史教科書に記述されないのか不思議でならない!

まだ知らない方は、これを機会に支那事変では、支那軍が支那民衆を殺しまくり、日本軍が支那民衆を救出しまくっていた実態を是非とも知って頂きたい。






黄河決壊事件
黄河決壊

1938年6月6日に、日本は河南省の中心地である開封市を占領、鄭州市も攻略できる様相となった。

早急な対策が求められた国民党軍側では劉峠第一戦区副司令官の「黄河の堤防破壊により洪水を起すことによって日本軍の進撃を阻止」する案が程潜司令官に示され、蒋介石の承認を得た。

蒋介石は、商震将軍に日本軍前衛部隊の背後を突くように堤防爆破を命じたが、国民党軍の撤退が終わるまで爆破は延ばされた。

この間、蒋介石は何度もその爆破が行われたかの問い合わせを行っている。

おそらく蒋介石は、日本軍の進撃を阻止するために、味方諸共水攻めにしようとしたのだろう。

6月7日には中牟近くで爆破が行われたが、これは結果として失敗し、その後、場所を花園口に変更して作業が進められた。

6月9日午前9時に作業が終了、堤防が破壊されると黄河の水は堤防の外に流れ出し、河南省・安徽省・江蘇省の3省の土地54,000平方kmを水浸しにした。

この結果、黄河の流れはその後9年間、南側へ変わり黄海に注ぐようになった。

水没した範囲は11都市と4,000の村におよび、3省の農地は農作物ごと破壊され、水死者は100万人、被害者は600万人と言われるが被害の程度については諸説ある。

6月11日夜、支那軍は、隴海線中牟の西方20Kmの地点で黄河の堤防3箇所を破壊した。

二、三日前の雨で増水した黄河の水は堰を切って奔流しつつあった。

6月12日午後5時に日本軍の2部隊が堤防修理に出動し、開封治安維持会からも50名以上が自発的に応援に出た。

洪水は中牟を中心として幅約20Kmにわたり、5m弱の高さを持った中牟城壁は30cm程度を残すだけとなった。

幸い線路が高い所に位置していたため、住民は線路伝いに徒歩で東方に避難した。

日本軍は筏船百数十艘を出して住民とともに救助活動を行い、同時に氾濫した水を中牟付近から別の地域に誘導するために堤防と河道を築いた。

日本軍に救助された避難民は開封方面1万人、朱仙鎮、通許方面5万人、尉氏方面2万人、その他数万人だった。

国民党軍は現場に近づく日本軍に攻撃を加えたほか、日本軍が住民と共同で行っていた防水作業を妨害した。

日本軍の地上部隊は住民とともに土嚢による防水作業を行い、日本軍の航空機も氾濫した地区において麻袋をパラシュートにより投下してこれを支援したが、決壊地点の対岸にいた支那軍遊撃隊が麻袋の投下開始直後からその航空機と地上で防水作業中の住民に激しい射撃を加えたこともあった。

6月11日午前、支那国民党の通信社であった中央社は「日本の空爆で黄河決壊」という偽情報を発信した。

6月13日、さらに支那国民党は、支那全土の各メディアに虚偽報道の上「日本軍の暴挙」と逆喧伝させた。

当然、日本側は、支那の発表を否定するコメントを出した。

支那側からは、最初は黄河の堤防破壊は堤防の影に避難している支那軍を日本軍が砲撃及び爆撃した時になされたものであるとの説明がなされ、後には事件は日本軍によって意図して行われたことであり、中牟と鄭州地区にある支那軍陣地への水攻めとし、かつ後方連絡を脅かすゲリラに対する戦略であり、広東への絶え間ない無差別爆撃と同様に支那民衆を威嚇する日本軍の作戦の一部とされた。

さらに報告では日本軍機による中牟北部の堤防への爆撃が続けられ、これが洪水を悪化させ、かつ日本軍は洪水の被害を受けた地区からの避難民を機関銃で銃撃していること、が説明された。

支那国民党は、自分たちが行っていた住民への銃撃まで日本軍の仕業だと嘘を吐いて逆宣伝を行っていた。

日本側は、開封の堤防破壊は支那軍に強制された農民によるものと声明を出した(国民党軍は1個師団の兵に加えて付近の農民を強制して作業を行っていた)。

また、日本軍は自軍の前進を妨げる洪水を引き起こす黄河の堤防破壊をすることはなく、さらに堤防の大きさを考慮すれば爆撃と砲撃によって堤防を破壊することは不可能だと主張した。






以下は、この大水害に関する文献や資料だ。

――――――
『抗日戦回想録』郭沫若自伝より

敵の最初の計画は、伝えられるところでは、大きく迂回した包囲戦略をとり、隴海線に沿って西進し、さらに平漢線南半を奪って大武漢の背をつこうというものだったという。しかしこの戦略は、6月11日の黄河堤防の決壊で、河南省東部が沼沢地帯になったため、水の泡と化した。
あの時、黄河の堤防は開封の西北の五荘、京水鎮、許家堤等で同時に決壊した。わが方の対外宣伝では敵の無差別爆撃による、といっていたが、実はわが軍の前線の将軍が命令によって掘りくずしたのだった。
わが伝統兵法――「水、六軍を淹(ひた)す」だった。
しかし敵が水浸しになった程度はたかの知れたもので、むしろわが方の民間の生命財産が想像もつかぬ犠牲をこうむった。

敵の迂回戦略は挫折したが、逆に正面攻撃戦術をとり、五方面の大軍で長江下流から水陸を並進し、直接武漢を攻撃した。かくてしばしの安逸を貪っていた当局も「大武漢を守れ」の呼びかけを出さざるを得なかった。
私たちが活躍すべき機会到来であった。
――――――




1938年年6月、開封が日本軍に占領されると、支那軍は日本軍の追撃を断ち、日本軍を水攻めにするため黄河の堤防を破壊した。

ところが、支那は、この犯行を「日本軍がやった」と嘘報道した。

支那軍は自ら堤防を破壊しながら、それを日本軍がしたと逆宣伝したのだ。

1938年6月16日

16日付東京朝日新聞夕刊
【上海特電十五日発】
上海軍当局談
「支那側は目下しきりに黄河堤防決壊は日本軍の所為なりと宣伝に努めつつあるが、決壊地点と称される京水鎮には、まだ、日本軍は進出しておらず…」



事実は、この時、日本軍は濁流に飲まれる支那住民を救っていた。

6月23日同盟ニュースには、ボートで救助作業をしている日本軍の写真があった。

國史図書刊行会編『支那事変』にその時の写真が掲載されている。

泥流渦巻く黄河の洪水被災地で、支那人に対する日本軍の必死の救助作業が続く。
泥流渦巻く黄河の洪水被災地で、支那人に対する日本軍の必死の救助作業が続く。
同盟ニュース、昭和13年6月23日




その後、支那軍は揚子江の堤防も決壊した。
1938年6月26日

6月26日同盟ニュース
『悪逆、暴虐、その極に達す 敵、揚子江堤防を決壊』
悪逆の限り、黄河決壊の暴挙を敢えてなし、無辜の民幾十万かを絶望の淵にたたき込んだ蒋介石は、なんたる無謀か、皇軍を怖るあまり、又しても進撃を阻まんとして、太湖南方揚子江両岸の馬華堤を破壊し、付近一帯の住民は濁流渦巻く大水害に見舞われんとし、怨嗟憤怒は地に満ちている





わが軍の慈愛の手に救はれた黄河氾濫の被害民の群れ
わが軍の慈愛の手に救はれた黄河氾濫の被害民の群れ
支那事変画報 第33号(毎日新聞 1938年7月11日)




更に支那軍は9月23日にも武穴鎮の下流で揚子江を決壊させた。

支那軍は、自分たちが安全に逃げる、ただそれだけのために、夥しい数の支那人民の生命と財産を犠牲にし、お人好しの日本軍に支那住民を救助させた。




黄河決壊事件の被害状況についての第一報は、6月21日に日本軍の占領下にある開封の治安維持会と商務会が発表している。
それによると、罹災者約100万人、うち行方不明者約12万人、浸水部落約3500、うち水底に没したもの約2000、倒壊浸水家屋約30万戸、被害面積約200平方キロという(大阪朝日6月21日)。
死者数については、終戦後の1945年12月に国民政府が河南省で行った「河南省戦時損失調査報告」がある。
それによると、1944年末の段階で、洪水による死者約32万人、離郷者数約63万人という数値を提示している。
死者・離郷者の数値は、韓・南「黄泛区的損害与善後救済」,梁262頁所収、冠水地域は北支那方面軍史料より作図
死者・離郷者の数値は、韓・南「黄泛区的損害与善後救済」,梁262頁所収、冠水地域は北支那方面軍史料より作図


犯人である国民政府が終戦直後、河南省だけで約32万人とした死者数は、その後『中国革命史辞典』などで89万人とされている。




●その他資料
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一般住民に対して、徴発と略奪があまりしばしば行われたので、農民は日本軍よりも彼等自身の軍隊をさらに一層憎んだ。
穀物を略奪されまいとして抵抗する農民を飢えた中国兵が殺したり、日本軍の進撃を免れるために逃亡兵が村民を殺し、その衣類を自分が着こんで変装するということも起こった。
日本軍の進撃を鈍らせて鄭州の町を守るために、政府は1938年に黄河の堰を開いた。
すると、黄河は1世紀近く前から打ち捨てられたままになっていた古い河道を再び流れた。
「思い切った」決定であったが、このために、河南省東部の数十万の農民が命を失った。
彼等は水に溺れ、或は飢えて死んだのである。
『中国革命の起源』ルシアン・ビアンコ著
―――――――



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南京虐殺は嘘84(最終回)
支那の「極悪暴虐・大虐殺」と「卑怯な逆宣伝」のまとめ
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/12704324.html

黄河決壊事件と揚子江堤防決壊で死者数は32万人とも89万人とも
1938年6月、支那軍の悪逆、暴虐、その極に達す!
日本軍は被災地で必死の救助作業
ウィキペディア、同盟ニュース、『抗日戦回想録』郭沫若
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/40872628.html





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